09
お嬢さま、嗚呼お嬢さま。
おお嬢さまは自ら危険な道へ踏み出そうとなさいます。見る者を惹きつける強い意志はお嬢さまの美点なれど、時に悪く働くこともあるのです。気をつけるようにと強く言い含められていたとしても、お嬢さまの若々しく萌え出る花のような好奇心は止まる所を知らずどこまでも募ってゆくのでございます。
唯一止められるであろう青年はここにはおらず、さまはたったおひとり、どこかしこで物騒な音が立ちもうもうと煙の上がる街を闊歩するのでした。
たったひとつの理由の為に。
誰しもに自慢できる、幸せな観光旅行を楽しむが為に。
お嬢さまは今日も行く。
がヘルサレムズ・ロットでの滞在を許されている期間は3週間だ。多少の誤差はあっても、7を3つ数えたら家に帰らなくてはならない。
今日は2週間目のひとつ前。つまり1週間と6日が経ったところで、ザップ・レンフロと運命の出会いを果たし悪用され始めてから6日が過ぎた。
残りの時間をどう楽しもうか、考え始めなければならない頃だ。
悔いなく観光する為に必要なものは『計画』であるとは思う。
朝食を食べたあと、散歩をしているうちに素敵なパークを見つけた彼女はそこへ立ち寄り、ちょこんとベンチに腰掛けて風景をぐるりと見まわした。浮世離れした公園だ。周りの喧騒が嘘のように静かで、誰もが笑顔を浮かべてじゃれ合うような雰囲気がある。元々、そういった使い方をされていた場所なのだろう。世界が組み換えられても、人に宿る精神は変わらないということか。
も色付き眼鏡を外し、鮮やかな色彩が戻った視界で綺麗な世界を見た。
遠くで走り回る犬――のようなもの――が元気で可愛らしい。リードで逆に引っ張られる飼い主――のような人――も、振り回されているのに嬉しそうだ。その後ろに女性がゆっくりとついて行き、笑い声を立てた姿に母を思い出す。
の母はあれほど溌剌としてはいなかったが、笑う時の表情はみな変わらない。喜びと幸せに溢れ、堪え切れず口元に握り拳を当てるのだ。
ほんの少しホームシックにかかった少女は、ゆるやかに首を振ってそれを振り払った。
ずっと怒涛の羊もかくやという勢いで歩き回っていたから考える暇がなかったが、親元を離れての長期の旅行は初めてだ。多少なりとも寂しくなっても仕方がない。
観光ブックをカバンから取り出す。
付箋をつけなくとも開き癖でわかるし、そうでなくともはページ番号で内容を記憶している。
行ってみたい場所は別の用紙に名称を書きこみ、立ち寄ったら線を引いて消してゆく。この数日間も、機会があっては感動し、ホテルで眠る前にペンを執ったである。何本もの赤い線が黒色の上に重ねられ、彼女は「ふふ」と嬉しそうに微笑んだ。
これはいつかザップにも見せてあげよう、と考える。きっとどうでもいいと言うだろうけれど、彼はこれを引きちぎったりしないし、目だけは通して何かひと言は感想をくれるはずだ。の中のザップ・レンフロとはそういう人物であった。その『ひと言』が「バカじゃねーの?」であっても、感想は感想である。はそれでいいのだ。むしろワクワクしてしまう。なぜなら、そんな言葉をかけられたことなんて彼女にはなかった。初めての体験はいつだって興味深い。
今日は自由時間ができてしまった。さて、どこへ行こうか考える。
朝食を終えてから散歩をするうちに時計の針は9時を回った。ザップは10時から個人的な付き合いがあるという。もちろん今日のザップを探しに出かけるつもりはなく、は観光ブックから見つけた不思議な名前の一角を用紙に書き込んだ。タクシーで行こうか地下鉄で行こうか悩み、地下鉄を選ぶ。
今日も1日、素晴らしい時間を過ごそう。
少女の瞳は明るく輝き、うっかり通行人の食事を読み取ってしまった。チリペッパーチキンサンドだ。
どこかで『見た』ような。
首を傾げた彼女は、やや時間をかけて思い出した。
自分を脅した人物の食事だ。
(同じお店で食べたのかしら……?)
それならよほどおいしいのだろう。
脅されたことはすっかり忘れ、彼女は立ち上がってしずしずとその男性のほうへ近づいた。すると男はサッと踵を返して立ち去ってしまう。車に乗り込まれては追いかけることも叶わず、排出されるガスに巻かれて咳き込むうちに彼はいなくなってしまった。
ザップとの観光で少しは慣れた彼女は、なんとなくではあったが、頭の隅にもやもやした不審を抱えた。
チリペッパーチキンサンドはそれからも時どき、気づけばの周りに現れた。
どうやら全員違う人物らしいのだが、ヒューマーの顔の見分けはつけづらい。衣装も似たり寄ったりで、すぐ物陰に隠れてしまうため自信が持てなかった。
同じ人物なら、これはいわゆる『ストーカー』というものだ。
違う人物なら、チリペッパーチキンサンドはとてもおいしい料理なのだろう。
よくわからない理屈からそう感じたは、チリペッパーチキンサンドへの興味を優先した。
どうしてこの件――おそらくジャスミン・ハンゲイトの――から手を引かなくてはならないのかも問いただしたかった気持ちも多少、ある。
しかしチリペッパーチキンサンドのほうが一枚上手だった。からの接近に気づくと、ひらりと身をかわして逃げてしまうのである。距離は近づかず、少女は何事もなかったかのように取り残された。
ザップに報告すべきだと思い、この話は明日まで保留にしておこうと気を取り直す。
「くっ、なんて手ごわい相手なの……!」
一度言ってみたかった台詞を使えて、はきゃあきゃあとひとりで喜びにもだえた。
料理店を梯子して問いかけ回ってみると、ゲットー・ヘイツ周辺で男に呼び止められる。やけに周りを気にして歩く少女に不審なものを感じたのだろうか。あるいは迷子だと勘違いしたのか。
自分は旅行者で、食べものの店を探しているだけだと説明すると、30歳代であろう彼は呆れた顔で納得した。
髪に隠れる部分はともかく、物おじしないは、見知らぬ男と真正面から視線を合わせる。真面目になりすぎたせいで最新の食事内容を読み取ってしまった。瞳の奥がぎゅっと緊張する感覚に目を瞠る。
「チリペッパーチキンサンド!」
「はっ?」
が突如として声を上げる。男はその大きな声をぶつけられ、少しだけのけぞった。なんだ、いったい。
はまったく気にしなかった。食事を見抜いた瞳は大きく丸く、色付き眼鏡に隠れていても驚きに見開かれているとはっきりわかる。
「チリペッパーチキンサンドを食べたのね?それは朝食?それとも早い昼食?もしかすると昨晩のことかしら」
組み付かれるのではというほど距離を詰められ、見上げられ、ダニエル・ロウは両手での肩を軽く押さえた。
「落ち着けよ、お嬢ちゃん。何がなんだかわからねえが、チリペッパーチキンサンドがどうしたって?俺が食ったかを訊いてるのか?」
「ええ、そうよ。だって食べたでしょう?どこに行けば食べられるのかが知りたいの」
ダニエル・ロウ警部補は、少女の言うとおり、チリペッパーチキンサンドを食べていた。そしてあまりにもくせになる味だったので、暇を見て早々に与えられた休憩時間を利用してまた食べに行こうと道を歩いていたところだ。ただ、ヘルサレムズ・ロットでかろうじて与えられるそんなフリータイムの真っただ中であっても職質という仕事に手を出してしまった。慣れとは恐ろしい。
おかげでよくわからない少女につかまってしまったのだが。
「私は。あなたは?」
「ダニエル・ロウだ」
「なんと呼べばいいの?」
「なんとでも」
男は肩をすくめた。
「警察の人なのだし、役職で呼んだほうがいいのかしら」
「気づかいをありがとよ。だが……」
「警部補と呼ぶわ!一度、人をそう呼んでみたかったの」
「自由だな……」
どうとでも呼べばいいとは言ったが、まさかそこをチョイスされるとは。
警戒心皆無であっけなくダニエル・ロウに気を許したらしいは、本気でチリペッパーチキンサンドの味を知りたいらしい。
ひたすらそれについて問われるため、迷子になられても困ると考えた彼は行く道がてら少女を案内することにした。遠い道のりではない。当てずっぽうでは行き着かないだろうけれど、先導があればすぐ辿り着く。
「なんだったら連れて行っても良いが」
「ありがとう!きっと言ってくれると思っていたわ!」
「本気か?大丈夫かこの嬢ちゃん……」
親を見た雛のようにダニエルについてゆくと即答したの将来に不安を感じた。しかも言い方がかなり上から目線である。揉みに揉まれる社会生活の中では気にしていたって話が進まない点だから、と警部補は気にせず自分の背後に伸びる道を肩越しに示した。
コートの裾を目印にするようにてくてくと歩き始めたは、ふとダニエルが歩幅を自分に合わせてくれていると気がついた。歩いていてもせかせかしないのだ。
「優しいのね」
「ん?」
「一緒に歩こうとしてくれているわ。私は小さいからいつも追いつけないの。警部補は私よりも背が高いし脚も長いけれど、並べるようにしてくれているでしょう?」
「案内してるんだ。普通だろう」
同行者は彼女を置いてけぼりにしがちなのだろうか。ふらふらといなくなってしまいそうな危うい少女を背後に配置して歩くとはかなり勇気が必要な行動だ。
「単身旅行じゃあないんだろ」
「いいえ、1人で来たわ」
「じゃあ『ここ』に元から知り合いでもいるのか」
「いいえ、いなかったわ」
「となると自宅で置いてけぼりにされる、と」
「いいえ、お父さまもお母さまも執事も、私を置いて行ったりしないわ」
「じゃああんたは誰に置いてけぼりにされてんだ?」
「友だちよ!」
薄情なこった、と言いかける。
警部補は口を閉ざし、信号で立ち止まって別のことを考えた。が倣って足を止める。
単身旅行なら、友人はヘルサレムズ・ロットで得たのだろう。言葉の端々から世間知らずの香りが漂うお嬢さまは、ヘルサレムズ・ロットで得た友人に大股で置いてけぼりにされつつあちらこちらを観光させてもらっているらしい。さり気なく探りを入れると、行き先は友人が決めていて、支払いはすべてこの少女が行っているそうだ。
「……それ大丈夫か?」
グレーな雰囲気がある。
「どうしたの?」
違和感を抱いていないなら突っ込む必要も、いや、これは倫理に携わる者として放置してよい問題だろうか。
「悪いやつにゃ、騙されねえようにな」
「ええ、ちゃんと見分けているわ」
「……不安だな……」
チリペッパーチキンサンドを注文して同じテーブルで食べたが、「おいしいわ!」と花びらが喜びにそよぐような声で感謝され、ダニエル・ロウは指摘し損ねた。