07


優雅なご旅行をお楽しみになるお嬢さまに、今日も今日とて湿った空気がまとわりつきます。
しかしサラダボウルの退廃的な匂いと雰囲気は、お嬢さまの魅力を損なうものではありません。むしろ引き立てていると表現すべきではあるまいか、と貧しい思考ながらも心底から思う次第でございます。
玉石混交。玉砂利も石ころも宝珠も混じり合う世界の中で、お嬢さまは燦然と輝く太陽のようなお方なのです。明るい微笑みと軽やかな小鳥のような声は人の心を癒し、誰もがお嬢さまに感動することでしょう。
そんなお嬢さまは実に好奇心旺盛なお方。

安いホテルの一室で目を覚ましたはまず、代々生家に伝わる祝福の詞を唱えた。
日課を終えると、ひとりで身だしなみを――嗚呼、お嬢さま。素晴らしいお心掛けでございます――整えながらこれからの計画を立て始める。
――記念を作ろう。
いい考えだ。
無謀にも計画を立てる前に外へ出かけ、街頭の雑音に負けず音を発する大きなテレビを見上げる。
の旅行には日数制限が課されている。彼女を愛しすぎて子離れできず、一人旅を言い出した時にも涙を流した両親が最大限譲歩した結果生まれた3週間と少しが限界だ。
近いうちに帰国する彼女にとって、この街での生活は1秒1秒が貴重で大切なものだった。素敵な人に出会い、楽しい出来事にも参加している。忘れたくない思い出だ。
も有名な画家によって肖像画を描かれた経験がある。時を切り取ったものを見れば、当時の情景をありありとまぶたの裏に映し出せるし、感情すらも蘇ると知っていた。
強く印象に残った『彼』を消え去りかける過去の思い出にしたくない。いつまでも手元に置いて、楽しかった日々をなぞり返せればと願うのだ。
どうすれば記念になるか、頬杖をついてみて考える。頬杖をつくなんてめったにしなかったため違和感を拭えず、育ちの良さそうな少女はすぐに、落ち着かない様子で背筋をのばした。
元は美術館だった場所は、今や遠く離れた位置にあったはずのビルディングと合体してへんてこに穏やかな建物になった。三角錐に似た建物の裾野には、異国情緒あふれる料理が売りの飲食店がちらほらとみられる。
はそのうちのひとつ、エスニック料理の店に突撃をかまし、テラス席で優雅なモーニングサービスを楽しんだ。
食事中にテーブルに肘をつく、などという頭に浮かびもしなかった行動を取った異界人に驚くのも、異文化交流と見聞を広める際の一興だ。
銀のチープなスプーンで目玉焼きの黄身をつつき、丁寧に崩す。割れた膜からトロリと濃厚な紫色の液体が流れた。実家でも食べる馴染みの卵である。
ひき肉の塩気と絡まったそれを少し硬いライスと共に口に運ぶ。幸せそうに目を細めて笑みを浮かべたは、このガパオライスは写真に撮って、お父さまとお母さまに見せて差し上げなくちゃ、と使命感を燃やした。
カメラは、『旅行に出かける』と決めたに母親が贈ったものである。小型だが性能は抜群で、欲しいと思う機能はすべてついている。値段については無粋な詮索だ。
ただ、食事中に写真を撮る気にはなれなかったので、彼女は食後にテーブルで立ち尽くすメニュー表を開いて、そこに掲載されるサンプル画像をメモリに焼きつけた。
ぴんとひらめく。
写真を撮ればいいのだ。
道が見え、目が輝いた。
便利な道具はの手の中で出番を待つ。流転する世界は一瞬たりとも動きを止めず、目で追うのが精いっぱいで、ぱちりぱちりと時たまシャッターを下ろすだけにしか使っていなかったけれど、これはとても素晴らしい機械だと実感できた。

電話に出たは、相手が名乗る前に彼の名前を呼んだ。
「ザップ!おはようございます」
「へいへい、っはよ。朝っぱらからテンションたっけーな」
「そうかしら……。不愉快だったらごめんなさい」
「いいけどよ。今どこだ?ホテルか?」
「いいえ。どこかの建物で朝ご飯を食べていたの」
「は?なんで自分の居る場所があやふやなんだよ」
「歩いていたらいつの間にかついていたから……」
「いつか死ぬぞ」
冷静な忠告はを喜ばせた。
「心配してくれているのね、ザップ。ありがとう!」
ザップは電話をしながら自宅のベッド周辺に放り投げたはずのズボンを探す途中だったが、この発言で集中力を削がれて無言で電話を切った。
がきょとんと携帯電話を見下ろす。
掛け直すと、彼は応答した。本気でぶち切ったわけではないらしい。
「で、場所は?近くに何が見える?」
「そうね……、見上げると、綺麗な看板があるわ。『王国の館』という名前のお店みたい」
「そこか。こっからだと30分はかかるな。お前、こっち来れねえ?」
「道を教えてもらえればきっと行けると思うわ!」
「じゃあやめとくわ。ワクワクしてるお前は信用ならねえ。そっから動くなよ」
「ひどいわ、ザップ……」
ザップだってできればを動かして、自分は悠然と自宅付近のバーガーショップででも時間を潰したい。
だがこの少女はあちらへふらふらこちらへふらふら、とにかく落ち着きがないのである。本来はぴしりとしたご令嬢なのかもしれないが、甘ったるく愛されて育ったせいか危機感はないわ奇妙なところに自信があるわ、なんとかなると無駄に確信しているわで目が離せない。少なくとも今のうちは死なれたり泣かれたりすると困るため、面倒でもザップが世話を焼いてやらなければならない。
ようやく見つけたズボンを履き、青年は必要最低限の必需品をポケットに押し込んで家を出た。


が食後のあたたかい飲み物を1杯飲むうちに、ザップが姿を現した。
青年はポケットに突っ込んだ片手を気だるげに上げてみせ、はしとやかな仕草でそれに応える。
カップの中には緑色のさらさらした液体が3分の1ほど残っていた。電話を終えてから十数分は経ったはずだが、飲むのが遅いのか別のことに気を取られていたのか、の動きは今日もゆっくりだ。6日目ともなると慣れ切ってしまい、ザップはもう文句を言わなかった。言ったところで嚥下のスピードが上がるわけでもない。
「何飲んでんだ?」
「『リョクチャ』よ」
「アレか。ジャパンのキョートで出されると『帰れ』って意味になるっつう……」
「まあ!そうなのね!このお茶にそんな意味があるなんて……」
残念なことに誰もこのやりとりにツッコミを入れなかった。
細身が雑に椅子をつかみ、がたんと後ろに引いて座りやすくスペースをあけた。身体をねじ込むように腰を下ろす。よりもずっとずっと上手くテーブルに肘をつくと、近くに灰皿がないか視線で探す。生家では周囲に喫煙する者がいなかったは――おお、お前の綺麗な肺が煙に侵されるなど言語道断――彼が何を求めて首を廻らせるのかわからず目を瞬かせた。
隣の隣にあるテーブルの上に探し物を見つける。ザップの視力は優秀なのだ。
どうせ使うライターを手に持ち、ぷつりと軽く指を刺す。小さな玉のように滲んだ血をひょいと伸ばし目的を達成する。
は目を丸くして、感嘆の声を上げた。
「すごいわ。ザップ、どうやっているの?」
満を持して煙草に火が灯る。
ザップの息に煙が混じった。彼は風向きが変わったのを良いことに、下手側に座るに向けてフゥと煙を吹きかけた。けほけほと少女がむせる。
「企業秘密だよ。お前にゃできねえのは確かだけどな」
「練習してもできない?」
「できたとしても向いてねえよ。おまえ自分で自分の指に針刺せっか?」
「できないわ、ザップ!そんな恐ろしいことをしているの?今もそうしたの?怪我は大丈夫かしら。私、ハンカチを持っているからこれを使って」
綺麗な四つ折りの布を差し出される。水仕事にも針仕事にも携わったことのなさそうな白くて柔らかい小さな手は、相手がハンカチを受け取るまで決して諦めないと言うように頑なだった。
血が付着しないようにそれを摘み上げる。ハンカチが折り目を残して広がるように何度か振る。開いた布地は白色だ。その四角の辺を、対照的に濃い色が細く二重に縁取っていた。赤い染みは目立つだろう。
「『お母さま』からのプレゼントか?」
さぞやお高い布だろう。
しかしは首を振った。
「いいえ、この街で買ったの。素敵でしょう?これを見た時、色合いがザップのようだと思ったわ。それでいただいて、昨日クリーニングしてもらったの」
少女と青年はこの6日間、否、昨日までの間、ずっと共に居たわけではない。待ち合わせの時間が昼過ぎだったこともあるし、午後には単独行動に移ったこともある。ザップとて任務があり、決して暇人ではない。金策にあくせくするのも享楽にふけるのもタスクのひとつで、上司の粗探しをするだけでは生活が成り立たない。のほうはいつまででも彼と過ごしたそうだったが、振り向いてやる義務はないと彼は考えていた。どこまでもあっさりした放置の仕方だ。『ひとりでは絶対に動くな』と厳命するのだけは忘れなかったけれど。
「だから清潔よ」
はハンカチの信頼性を訴えた。
たたみ直しもせず突っ返されたハンカチに、血の跡は一滴たりとも見られない。
「どうして?」
悲しげな表情は、母性や父性を掻き立てるものだった。
「なんかな。お前な、いっちいち面倒くさいんだよな。どんだけ懐くの早えんだよ。誘拐されてもきょとんとしてんじゃねえの?死ぬっつうの」
疑わしそうにじろじろと見られ、は、どうやら自分は批難されているらしいと気がついた。
「身代金とか、誰かが支払って助けてもらえるって信じてんだろ。もしくは、考えたくねーけど、話し合えばオッケー!とかよ。性善説だっけ?」
「ザップ……」
「1週間も経たねえうちに観光先で男相手にそこまで心開いて、色がそいつっぽかったからってアイスクリームもハンカチも簡単に決めて、正直に暴露して……ってマジで食われても知らねえぞ。っつーか食人植物に食われてガチな『メシ』になる可能性もあるぜ。誰にでもやるんだろ?お前よくわかんねえポジティブオバケだし」
言葉遣いはどうあれ、やけに優しい忠告はザップの趣味ではなかった。もっと端的に『重くて使いたくねえ』と突っぱねるつもりだったのに、口を開いたところこんな言葉たちが飛び出してしまったのだ。
は異彩を放つ人外の瞳でザップを見つめた。食事の名前が浮かび上がったが、振り払って本来の彼に焦点を合わせる。
「心配してくれているのね」
真面目な話なのだと、如何なでも悟っていた。ザップの口調は乱暴だが、声音は真剣だ。
話が右から左に抜けたらしいと判断した青年が盛大に顔を歪める。はそれを見て「違うの」とハンカチを握りしめた。
「ザップは私を心配してくれたんだわ。私が誰にだってついていって、誰の言うことでも聞くと思って、そんなことをしていたらいつか私がひどい目に遭ってしまうのではないかと考えたの。そしてそれは危険だと教えてくれたの。いいえ、ずっと教えてくれていたわ。それは、ザップが私を心配したからよ」
だから、心配したのではないのだと何度言えば。
誰かコイツに頭の歯車売ってやれよ、とザップは残り少ない煙草が先端からじわじわ灰になっていく様を眺めた。頭が痛くなってくる。
「ザップ、私は誰にでも同じようにしたりはしないわ。アイスクリームを選んだのだってハンカチを買ったのだって、全部相手がザップだったからよ。初めて会った次の日に、たくさん忠告をしてくれて、楽しいことを教えてくれて……、きっとレオがお仕事をして忙しい合間を縫ってこのスパイ活動をしているんでしょう?」
「ン、ンン?」
「だって食事が同じだったもの」
待ち合わせ場所で、は何度かザップと別れるレオナルドの背中を見ていた。5日間の中で3度見かけたが、二輪車に跨るレオナルドと見送るザップの頭上に浮かぶ食べ物の名前は同じだった。『もうひとつ』のほうは違ったものの。
奇妙なばれ方をしたなと、ザップは少々気まずく感じた。
「大事なものをちゃんと優先して、ちゃんと考えてくれる、そんなザップがとても好きよ。好きだと思うからこうしているの。ザップが私を見ていてくれるから私もザップをどんどん好きになって、それでこうしてハンカチを見てザップを思い出したのよ。生まれた時から善い人でも悪い人でも、これが本当の対応だとわかるから、私はザップを信頼しているの」
緑茶はすっかり冷めた。煙草の灰も風に散る。
は膝の上に手を置き、最後まで迷いなく言い切った。
それからちょっと不思議そうにする。
「これを『懐く』と言うの?私の家では、『懐く』というのは動物を相手にしたときによく使う言葉だったのだけど、人界では違うのね」
「人界でも変わんねえよ」
「ああ!そうね、本質はみんな動く物体だものね」
「そっちはニュアンスがちげーわ。魂で感じろ。お前の態度が犬猫レベルだっつってんの」
「良いことかしら?」
「オイ、やっぱり俺の話聞いてなかっただろ。どの流れでアレを好意的に解釈できんだ。ハピネスブレインにも程があるぜ」
最後のひと口まで喫い切った煙草を、灰皿の底にぐりぐりと押しつける。鈍い銀色に模様がついた。
2本目を出す前に、メニューの冊子を開いて写真を眺める。ザップの腹はほぼ空だ。元々空きがあったが、意味不明な理屈に付き合ったせいでさらにカロリーを消費した。
「ザップ。傷の手当てをしなくちゃ」
蒸し返された話がなんのことだったか、彼は忘れかけていた。血もとっくのとうに止まっている。針でつついただけの些細すぎる傷だ。たとえ治療を行いたくともどうしろと言うのか。
「メシ食ったら治る」
「本当に?何か食べましょう!ガパオライスがおいしかったわ」
「んじゃあそれと麺」
選ぶのが面倒だったので、勧められた料理を注文する。
はハンカチをたたみ、バッグに戻した。
「つか、普通そうやって相手のイメージカラーでモノ選んだら、本人にプレゼントするモンじゃねえの?」
「まあ!ごめんなさい、気がつかなかったわ。そうね、ザップの言うとおりだわ。私ったら、嬉しくて周りが見えていなかったみたい」
少女は両手で口を覆った。まるく見開かれたまなこが目立つ。
ザップはひと言だけ言った。
「要らねえぞ」
新しいハンカチなど彼には必要ない。しかも自分のイメージカラーと他人から評されたものなどご勘弁願う。
と、言い聞かされたの明るい微笑みはお日さまのようだ。
「わかったわ、ザップ」
お嬢さまは聞き分けよく頷いた。ザップも大きく首を縦に振る。

ガパオライスと一緒に運ばれた麺が当然のようにの前に置かれたので、彼は器を自分のほうへ引き寄せた。他の人が食べるものをひと口わけてもらってみたいと言ったのことは数分無視したが、気を利かせた店員が取り分ける小さな椀を持ってきたおかげで期待を増しに増して輝く眼差しを向けられる。
「……しゃーねーな……」
「ありがとう、ザップ!」
譲歩したザップの取り分は少しだけ減った。



2016 0531
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