03
おお、お嬢さまは本日も麗しい。
気温はお嬢さまの存在を祝福するがごとくあたたまり、羽織る上着の襟のボタンを開ける細く白くすべらかな指先で整えられた爪はつやりと輝くのです。
太陽などなくとも、お嬢さまそのものが内側に光をたくわえ放つ唯一無二の存在であるからに、テイクアウトしたばかりのパンプキンポタージュが冷めることはありません。保温材も入れていないというのに、逞しい湯気が立ち上ります。
お嬢さまは神に愛されし少女がごとき清廉な吐息で水面を揺らし、どんなものを以てしても敵わぬ可愛らしいお口を紙カップにおつけになりました。
「まあ!熱いわ!」
驚くお声も、これぞまさしく鈴が鳴るよう。
「ねえザップ、これってとても熱いのね」
「ホットっつって買ってんだから、冷めてちゃクレームモンだろうが」
楽しくてたまらないと言いたげに微笑むとは対照的に、ザップはどうでも良さそうな顔をして脚を組み、手帳を眺めた。
黒い背表紙に垂れる栞が気になるのか、クルトンを飲み込んだ少女の瞳が色つき眼鏡越しにそれを見つめる。気づいた青年がわざと手を揺らせば、餌に釣られる動物のような視線はあちらへこちらへふらついた。
手帳には地名や人名が書き連ねてある。その内のいくつかは雑な横線で消されており、候補から外れたのだと容易に知れた。地道に足で稼いだ結果、期待はほとんど消えてしまった。
ベンチの背もたれに思いっきり背をぶつけてやると、衝撃に巻き込まれたは手の中でパンプキンポタージュを躍らせた。短く悲鳴をあげ、カップに筋を作った薄オレンジ色を紙で拭き取る。
「もう、ひどいことをするのだから。こぼしてしまうところだったわ」
仕草のひとつひとつから育ちの良さが感じられ、彼女を引き連れて街を歩き回る青年は目を細めた。
「んー……。今日はエバーゲバーで『ハンゲイト』を当たるぜ」
「エバーゲバー?お店の名前かしら?」
「ンなとこだ」
彼らはとうの昔に『ジャスミン』を探すことをやめていた。世の中にはどれだけの『ジャスミン』がいるだろう。も、ザップがそう言うなら、と疑いもせず了承した。反論されるかと警戒した彼は証拠として自分の『食事』を読み取らせたが、一言告げるだけで良かったようだ。
名前よりは姓で当たる。
さっさと立ち上がった彼は、を待たずにすたすたと歩いて行ってしまう。
「ごめんなさい、ザップ。まだ飲む途中なの」
「歩きながら飲め」
は目を輝かせた。歩きながら飲食をするなんてお行儀が悪くて、彼女の心はとても高揚した。急いで荷物をまとめる。
片手にはキャリーバッグ。片手にはスリーブつきの紙カップ。
どこからどう見ても不良な娘だ。――にとっては。
くすくすと忍び笑いをした気配を背中に感じ、一定の速度で歩く青年は吐きそうになった。このガキ、人生楽しそうだな。
「お前、生きててめっちゃくちゃ楽しいだろ」
色つき眼鏡で目元が隠れていても、箱入り娘がきょとんとしたのはよくわかった。
「楽しくない人がいるの?」
「うっわアー……」
えげつないほど無垢な答えだ。しっしと手を振って距離を取らせる。ザップの大股歩きについて行こうと必死だったは、素直に歩幅を小さくした。おかげでポタージュを飲む余裕ができたので、彼女は「ザップは優しいのね」と見当違いなことを言った。
エバーゲバーは明るい店だ。夜になれば看板に明かりが入り、仕事に疲れた男たちを引き寄せる誘蛾灯になる。後ろ暗い商売はしておらず、清潔さが保たれた心のオアシスとして街に溶け込む。
実際は、違う。
高利貸が幅を利かせる店である。
責任者はどす黒い腹を白いシャツで覆い隠し、客に一時の潤いを提供する。裏を知る客も知らない客も満足して帰れるのだから、善良と言えば善良だろう。土足で踏み込み、触れなければいいのだ。
青年は触れた。知り合いに連れて行かれた賭博場で強引に紹介された男がその責任者だった。必要がなかったため金こそ借りなかったが、ザップの態度を気に入ったらしい男は何くれとなく青年の世話を焼いている。
だから今回も頼るつもりで、開店前の店に入り込んだ。
「おお、レンフロくん。どうしたんだ」
自ら店の手入れに勤しむ男は、三つある瞳のうち一つ、額から伸びるそれでザップを見た。チョウチンアンコウのようだ、とザップはいつも思う。
困りごとはないかだの腹は空いていないかだの、田舎の母親じみた台詞を吐く男にさり気なく飲み物を要求する。粉々に砕いた氷がぎっしり詰まるグラスに不透明な液体が注がれ、ザップとの前に出された。少女は首を傾げ、青年は苦い表情を浮かべた。
「お見通しってワケか」
男二人は口角を持ち上げて目を合わせた。
言葉少なな会話の意味がわからず、は会話へか飲み物へか、好奇心のやり場に困ってしまったが、早く理解できそうなほうに取り掛かった。
「これはなに?」
「ジャスミン茶にミルクを混ぜたものだよ、お嬢さん。アルコールは入っていないから安心したまえ」
「そうなのね。ありがとう、いただくわ」
初めて見る液体に純粋な感動を抱く。ザップとオーナーが共謀して自分をどうにかしてしまうつもりだ、などの警戒は一切ない。勧められたとおりに飲み下した。
「おいしい……、のかしら。わからないわ、ごめんなさい。これはなんという名前なの?」
「特に名前はつけていないよ。あえて言うならジャスミンミルクかな。君たちには過激な名前かもしれない」
「ま、わかるよな。数日ずっと訊きまくってんだから」
「昨日聞いたばかりだけれどね、レンフロくんたちが『ジャスミン・ハンゲイト』を追っているという話は」
「まーたそれで『ジャスミンミルク』を出してくる神経が」
はおっとりと首を傾げ、「すごいのね」とオーナーを見上げた。
特異な瞳で見つめると、彼の顔の近くに最新の食事内容が表示される。純粋に『口にしたもの』だけを確認するつもりが、子供じみた下世話な好奇心に突き動かされ、ついつい別の名前も読んでしまう。は、まあ、と言いかけて急いでグラスに集中した。
しかし視線が小刻みにうろつく。品の良い小動物が寝床をひっくり返してしまったような顔をしている。ザップは頭の中でいくつか下品なパズルを組み立て、男だな、と見事に正解を当てた。
「そいつについて知ってることはねえか」
「慈善事業で教えろと言うのかい。わはは、レンフロくんは猛々しいな」
「好きだろ、そういうの」
「好きだねえ」
ミルクを勧められ、ザップは飲むふりをした。嵩の減らない中身に気分を害した様子もなく、オーナーは三つ目すべてに青年を映した。
「ジャスミン・ハンゲイトはハンゲイト家のお嬢さまだ。ハンゲイト家については?」
「ねーな。オメーは?」
「聞いたこともないわ。その方はヒューマー?」
「そうだね、お嬢さん。人界でちょっと株を嗜んでいる小金持ちだよ。大崩落以降、わざわざこっちにやってきて世界経済の中心に関わろうとしている」
人界に疎い世間知らずのお嬢さまは複雑な味がする飲み物と格闘していたが、問いを投げかけられると顔を上げて二人と順番に目を合わせてから首を振った。オーナーは出来のいい孫を見るように三つ目の瞳で大きく瞬きをした。
「大した家じゃないけどね。やり手がついているからかなり成長したほうだ」
その『やり手』というのがジャスミン・ハンゲイトの父親である。
父親は一人娘すらも地位向上への潤滑油にせんと企て手を回し、ジャスミン・ハンゲイトは現在、財界の新進気鋭と婚約を結んでいる。
婚約か、とザップが口の中で呟く。は頭の中で両親を思い浮かべた。
ザップはが大きく反応するかと思ったが、彼女は予想に反して冷静だった。同じ地位ある家の一人娘同士、特に、目に入れても痛くないほど愛されて育ったお嬢さまは我が子を利用するような強引な策略に常識が覆る想いであるかもしれないと。
だが、ザップの気も知らず、 は「そうなのね」とあっさり相槌を打った。
政略結婚は珍しくない。彼女に降りかかる可能性すらある身近な話だ。おお、と努力せずとも思い出せる父が湿った声でを呼び止める。おお、酷いことを言わないでおくれ、お前が誰かのものになるところなどを見てしまったら、この家の者は全員が悲しみに服すだろう。
そんな父と母と執事たちに囲まれるも、立場の歯車が一つ違えば同じ状況に立たされていたのだ。義憤はちらともかすめない。
「財界の有望株ねえ」
ザップは口元に笑みを刻む。
スティーブン・A・スターフェイズはおそらく、財界の有望株ではない。副業としてそんな顔を持つ可能性も否めないものの、違うはずだ。
ハンゲイト家の一人娘を『食った』男は、己の『食事』の出どころを知っているのか。
知ろうが知るまいが現実は嘘をつけないが、どう切り込めば高威力のダメージを与えられるだろうかと舌なめずりする。
年齢を訊くと、オーナーは「確かではないけれど」と前置きしてから、ザップよりも上の数字を挙げた。
青年の舌打ちは大きく響いた。
激しい年の差がありそうならばそこも弱点になったのに、二十も三十も歳の離れた女を選んで大炎上する迂闊さはあの男にはない。たとえあったとしても、その二十やら三十やらの年齢差がある女と心底から愛し合っていたとしても、の特殊能力が関わらなければ煙も立たなかったわけだが。処理能力の高さに驚かされる。
はてさて、こうなると、どうなるか。
オーナーはジャスミン・ハンゲイトの秘せられた男関係を知らないようだった。
あの番頭役からの無理強いがあったとは考えづらい。女が男に入れ込んだか、はたまた男が首ったけになったか。番頭役も、知ってて『食った』としたら恐ろしい。
どれにしても崩すべきはハンゲイトの砦である。男のほうに突撃をかけるにはまだ材料が足りなかった。
「じゃ、また来る」
「うちは情報屋さんじゃないんだけどねえ。……こちらのお嬢さんはまだ飲み終わっていないようだけど、紳士として、置いて行きはしないだろうね?」
「早く飲み干せよ」
は小さく二口飲んだ。喉を鳴らして飲めないのだ。
「ザップはどうしてそんなに早く飲めるの?」
「よく見ろ。飲んでねえから」
グラスには白濁したお茶がたっぷり残る。
「本当ね。でもどうして?出されたものは飲まなければ失礼だわ」
「単純に不味い」
「そう……、これはおいしくないのね。こちらではこういう飲み物が一般的なのかと思ったのだけど、違うということ?本当はこんな飲み物は無いの?」
「在るか無いか、存在するかしないかで言えば、存在するよ。なぜならわたしが作り出したのだから、その瞬間にジャスミンミルクは現実世界に存在することを赦された。生まれたと表現するほうが良いかな」
「流行らせたくて開発したけどミスったって言えよ」
「レンフロくんは俗な言い方をするなあ」
乾いた笑い声が寂しく木霊した。