02
チョコレートとココナッツフレークがたっぷりで、外はさくさく、中はふわふわ。
さまが本日のご朝食としてお選びになったものは、ドーナッツでありました。
嗚呼、ここがお屋敷の庭園で、ドーナッツ入りのバスケットを腕にかけ、エプロンドレスの裾を翻して大木の樫の根に腰掛けて、さえずる小鳥と分け合うお姿が見られれば。慈愛に微笑み鈴の音のごとき笑い声を立てるさまはさぞや可憐で愛らしいことでしょう。
外つ国の景色はまるで繁忙時の厨房のようで、さまの優雅な朝に相応しいとはとても思えないのです。
早朝から駅へ向かう社会人は焦り気味。店の前を掃き清める店員は仏頂面だ。
ベンチに腰掛け、くあ、とこっそりあくびしたには誰も注意を払わない。
甘いものの次にベーグルサンドの袋をはがし、大きく口を開けてかじりつく。は自分が俗世に染まるのが嬉しかった。彼女にとって、大口で物を食べることは、回転寿司の『回転』具合を想像するほど難題だったのだ。
異界の屋敷で出されるものと同じ魚の切り身がベーグルの横から下からはみ出して、手がひどく汚れてしまうのには参ってしまったけれど。
気持ち悪いべたつきに、少女は少しだけ顔をしかめる。
包み紙に残ったソースと野菜くずをどうすればいいのか、初めて食べたときは近くで似た食べ方をしていた人に問いかけた。その甲斐あって、今の彼女は自分でゴミの処理ができる。
汚れひとつ残らないよう注意を払って身だしなみを整え、畳んだ紙袋を隣に置き、の白い手は懐中時計を取り出した。
蓋の中央部分はガラス張りで、繊細な意匠はの為だけに施されたものである。時計の文字盤を取り囲むように刻まれるのは、代々伝わる祝福の詞だ。
待ち合わせの時間まで、あと1時間弱。
公園で緩く遊ぶ人影はまだない。空気も冷たい。朝の散策に出かけるのも素敵な考えだ。
しかし、はキャリーバッグから1冊の本を引っ張り出した。屋敷で暮らしていては、絶対に手に入れられなかったであろうものだ。背の高くない少女が純粋な瞳でこれを購入しようとしたときの店員の慌てふためきようは察するに余りあった。
倫理的には売るべきではなさそうだが売り上げは増える。
店員は売った。
は色付き眼鏡越しに、いかがわしい本の目次に目を通した。
物語は頁を追うごとに過激になってゆき、空想だけは一人前だが致命的に知識の足りなかったお嬢さまは、興味津々で読みふける。時おり周囲を見まわすところに、不思議な後ろめたさと伴う快感にたゆたう箱庭娘の心理が窺える。
上から影を落とした手にそれが奪い取られたのは、物語が最終段階を迎えたころだった。は耳元で風船を割られて夢から覚めたような顔をした。目の前には、いつの間にか待ち合わせの相手が到着している。
「おはようございます、ザップ。時間が来たって気づいていなかったの。ごめんなさい」
おざなりな挨拶を返したザップは、取り上げた本を勝手に斜め読みした。も、それが他人に知られるのは好ましくない作品だとわかっていたから、礼儀の上で色付き眼鏡を外しながらも、恥ずかしくなって俯いた。
「お前、自分でこれ買ったのか?」
「ええ」
「すげーな。そのビジュアルで男向け亡国の姫騎士凌辱完堕ち本かよ」
「『完堕ち』?」
見えやすいように、青年は片手でひしゃげるほどページを開いて少女に突きつけた。
「ここで様子を見に来た大臣が『……堕ちたな』っつってんだろ。これだよ」
「まだそこは読んでないの。だけど、これを完堕ちというのね?」
「どこまで読んでんだ?」
「ええと、触手が出てきて、アリッサが嫌がっていたわ。嫌なものなのね」
姫騎士の名前である。
嫌がるのは当たり前だろーが、とザップは白けた顔で本を返してやる。生家では触手が身近にあったのやもしれないが、この本の中では展開的にも生理的にもキツイ存在だ。
言い聞かせるザップの目は真面目ぶったものだった。
「オメーも気をつけろよ。どっかに引っ張り込まれて堕ちちまわねえように」
声音こそ真剣を装っているが、要はが完堕ちして使いものにならなくなられると俺が困りますと言いたいだけだ。ザップのことを知っていてもいなくても、滲み出る軽い身勝手っぷりは呆れと不信を呼ぶものなのだが。
「とっ捕まって『メシ』になられると俺の計画が台無しだかんな」
掛け値も誇張もなしの本音だったにも関わらず、本を受け取ったは、そのままザップの手を両手で握りしめた。
「ええ、ちゃんと気をつけるわ」
やけにきらきらと憧れじみた視線を向けられ、このザップ・レンフロが一瞬ひるんだ。
「心配してくれてありがとう、ザップ!」
「いや、お前な」
「昨日出会ったばかりなのに、ザップは優しいのね」
「お前マジで言ってんの?」
「どうして私がそんな嘘を言うの?」
ここ最近は、というよりかなり久しく馴染みのない反応に、思わず確かめてしまったが、きょとんとされては彼も言葉が続かない。何を言っても無駄な気がする。
物珍しい異界の能力は、使い方によっては金になるし弱みも握れる。使い手の、隙だらけで付け込みやすそうなお嬢さま具合もちょうどいい。じゃじゃ馬でもなく、生まれつき『食事内容』を見抜けてきたためか、下品な話にも耐性がある。基本的には純粋培養で、知識に乏しいのも逆に利用しやすい。
鴨葱。まさに鴨葱である。無知が可愛らしい野暮をのせてやって来た。
お嬢さまは花が咲くように微笑んだ。自分の中のナニか、あるようなないような、なけなしのナニかがぞわりとして、青年自身を気味悪がらせた。
「ザップに迷惑をかけたりしないように頑張るから、安心してね」
彼は思考を放棄した。
「久しぶりに話が通じねえヤツにぶつかっちまったぞ……」
がザップから手を離し、不安そうに胸の前で指を組んだ。
「ザップ、私、うまく共通語を使えていないの?」
「リアルにマジでそういうガチなテンプレやめろ」
気を取り直したザップは、時間を確認して空を振り仰いだ。心的ハプニングはあったものの、絶好の機会は何度も訪れるわけではない。
標的が外出する予定を公表したのは一週間前で、今日はその当日だった。詳細は明かされなかったが、どことなく面倒くさそうにしていた様子からすると楽しいお出かけではないのだろう。
ザップは標的の出掛けを狙うつもりでを配置した。
作戦はこうだ。
ザップは本部の定位置にわかりやすく忘れ物をしておく。
標的が外出するタイミングに合わせて、忘れたものがどうしても必要だから、受け取りに行くのでルートを教えてくれないか、と彼に電話をかける。
やって来た標的をの視界に入れ、『食事内容』を把握させてミッションコンプリート。
これを何度か、そう、3回か5回も繰り返せば、どの方面から攻めればいいかの見当はつくだろう。人間関係で攻めるか、そちらはきっぱり諦めるかである。
他にも標的は数名いるが、今日のターゲットに関しては、最大限注意して隠し通した一本の破城槌で一点から瓦解させるのが得策だ。欲張って様々な角度からちょっかいを出すと気づかれる確率が高まるからである。ザップはひとつずつ、攻め方の取捨選択をしていかなければならないのだ。
絶対にしくじるんじゃねえぞ、と強く言われたは、初めての任務に胸を高鳴らせた。
特徴は教わっている。視線を悟られる可能性があるため、時間勝負だ。幸いは、遠くの文字を読もうと目の焦点を合わせる――その程度の時間で『食事内容』を読み取れた。
道路を挟んだ通りの向こうで、ザップが誰かに手を振った。集中するの視界にある青年の、最後に『食事』した女性の名前は昨日のものとは違う。彼は見抜かれるためにわざと変えてきたのである。
ザップはのほうを見ないようにしながら、チッ、と短く舌を打った。
嫌な予感は当たる。
車だ。
に鋼鉄やアルミニウムの透視は望めず、どこぞの少年のようにザップの視界と自分の眼をリンクさせることもできない。ザップは標的を車から引きずり出す必要があった。
(ああああめんどくせえええ……)
へらっと笑う顔の裏で壁を殴る。
だが、標的であるスティーブンは車を停めるとドアを開けて外へ出た。荷物とは別に、取りたいものがあったらしい。
ザップは口元が緩まないように気を引き締めて礼を言った。
「いやー、すんません。ありがとうございます」
花柄のパスケースをザップに渡したスティーブンは背が高い。の目に入らぬわけがなく、彼女は作戦を成功させたはずだ。
「やけに可愛らしいが、貰い物か?」
「借りてんですよ」
簡単なやり取りをして、何の疑問も抱かせずに別れる。終わった今は、相手が車を使っていて良かったと感じた。そうでなければ、彼は疑惑を持たれないようスティーブンの姿が見えなくなるまで辺り障りのない無駄な行動を取らなければならなかっただろう。
ザップはひょいと道を渡って、色付き眼鏡をかけたお嬢さまに近寄った。お嬢さまも興奮を抑えきれず、ザップに駆け寄った。
「まるでスパイみたいだわ!」
実に楽しそうだ。
「あの人、ナニ食ってた?」
遮らなければ永遠に興奮し続けそうなの色付き眼鏡を、ザップは無理やり額に押し上げた。
驚いたは色彩が鮮やかになったことで本題を思い出して、まずは食べものから言った。
「ローストビーフ丼」
「朝から重いモン食ってんなー、あの人。それとも昨日の夜メシか?」
「それから、ジャスミン・ハンゲイト」
ザップは舌の上で名前を転がしたが、聞き覚えはなかった。
「いつ食ったかはわかるのか?」
「それは……わからないわ。見えるのは最後の食事の内容だけなの」
外見も、見ることはできない。初めて会ったとき、はレオナルドが食べた『チキンエッグパスタ』がどんな料理なのか強く知りたがっていた。
さて、どう接近したものか。
とりあえず1週間、いや、できれば2週間はに様子を見させたい。
(食ってるってこたあ、何かしらはあるってことだ)
火のない所に煙は立たず、食わないものは目に映らない。
どうしたものかとザップが色付き眼鏡を摘まんだまま悩み始めたので、は離してくれるよう彼に2回頼まなくてはならなかった。
視界を一色で染め続けるのは目に良くなさそうだと思い、彼女は離されたそれを外してたたんで、バッグの中の眼鏡ケースにおさめる。
細身を反らして、青年は何度も頷いた。
「おーしおしおし。んじゃあまた連絡する」
「今日はお別れ?」
「他にお前とやることがねーだろ。俺はジャスミン・ハンゲイトの素性をチコッと探りてえし」
「私もやりたいわ!」
「余計な素人がくっついてちゃあ、上手く行くモンも上手く……行くか?」
成人した男がひとりで女の素性を探るより、育ちのよい無垢な顔をした少女を連れているほうが他人に警戒を与えないかもしれない。
そう考えたザップは、もったいぶってに問うた。
「俺の指示に従えるか?」
「もちろん、従うわ!」
「なんでもするか?」
「ええ、なんでもする!」
「俺が『食い逃げしろ』って命令したらやるか?」
「……ザップに見つからないようにお代をお支払してから逃げるのではいけない?」
「この女、舌の根の乾かねえうちに逆らいやがったぞ……」
このあたりの常識はあった。
自分を見上げる瞳が人類のものとは異なると気づいて、ザップは眉を動かした。顔をうんと近づけて覗き込んでみる。 色や形ではなく、もっと根源に違いがある。
容姿は楚々。面白い瞳。箱入り娘。3点セットの、えんどう豆の上に眠るお嬢さま。
異質なモノに群がる人種もいることだ。ヘルサレムズ・ロットでの人捜し、それもザップ・レンフロに同行して、危険に見舞われないとは断言できない。
盛大に非情になってぶっちゃけると、ついて来たがるの自己責任だと思うのだが。
規約事項でも読み上げるつもりで、抜け目なく念を押しておく。了承したなら、ザップは何が起きても何も負わない。
「ジャスミン・ハンゲイトがクソヤバい女で、痴情のもつれがもつれにもつれて祭った挙句、お前が殺されかけたりするっつう可能性もある」
がにっこりした。
「平気よ。ザップが助けてくれるもの」
「、お前ホントはシャブやってやがんの?じゃなかったらガチでぶっ飛んでんのか?」
頭の部品とかが。
純白の信頼を向けられ、ぞぞぞと鳥肌を立てたザップは後ずさる身振りで拒絶を示した。お屋敷の広大な敷地内でささやかな危機に直面しては誰かに助けられてきたには、ザップの気持ちはまったく伝わらなかった。
「大丈夫よ!」
「めちゃくちゃ親切に言ってやっけど、お前、そのままだといつか絶望しながら死ぬから成長しとけよ」
かくして、ザップとは即席の探偵コンビを結成した。
レオナルドの監視が行き届かない、早番バイト中の出来事である。
悪夢のインスタント探偵から間諜を命じられた少年は全力で抗議したが、ザップは自分の協力者であるはずのを人質にとって彼を脅しつけた。
レオナルドは最大限譲歩して、中立の立場をもぎ取った。
「……でも、手は貸しませんからね?」
ザップがに、レオナルドの『最後の食事』をばらすよう命じたからでは、決してない。