目指せ、鬼滅漢字検定超一級!
錆兎の『兎』は特にきつい。
永年中堅社員の宿命、それは乗り継ぎの行われない終電との終わらぬ戦いだ。
一瞬でもうたた寝をしてしまえば間に合わず、ぼんやりした頭と足取りで逃したラストランが一体何本あったことやら、彼女はもう覚えていないしこれからも数えない。数字と戦うのはお仕事だけで充分だというのもある。
そんな悲壮な帰宅ルートを辿る彼女の所属は、ちょっとした専門機器を扱うメーカーの経理部だった。
部課長どもが財布の整理ついでに提出してくるよくわからん化石みたいな領収書を笑顔で処理するのがお仕事だ。
疲れる。
とにかく疲れる。
というわけで、無事にうまく乗り継いだ帰りの電車で座席下のエアコンに優しく足元を温めていただいたヒト科ヒト属社畜目経理係の女性はうっかりうっかり、うーっかりと、抗えない眠りに落ちてしまったのであった。
ふと目を覚ます。
電車はするすると夜を裂いて走っている。
いつの間にか乗客は誰もおらず、よく見ると、窓の外に広がるのは少し荒廃した田舎のような不思議な夜景だ。
滑るように停車した電車は異様な雰囲気に包まれて気味が悪い。
アナウンスがないことを不審に思い、彼女は開いた扉の向こうに首を突っ込んで夜の空気を吸い込んだ。どこかに駅名の看板がないか薄眼を凝らすが、どうやら寂れた無人駅らしく、塗装の剥がれかかった文字は読みづらくて仕方がなかった。
おそるおそる駅に降り立ち、ぐうっと身を乗り出した。
すぐに読んですぐに戻ろう。
しかし、普段頼りきりのアナウンスがないだけで感覚は簡単に狂ってしまう。
ぷしゅうと空気の抜ける音に身をすくめると、電車の扉は疲れきった彼女を置いて貝のように合わさってしまった。
「ちょっと、ちょ、待っ、待って待って」
荷物はすべて電車の座席に預けっぱなし。
どん、どん、と何度扉を叩いても声をあげても状況は変わらず、それどころか電車は無情にも走り去ってしまった。
霧深い闇の向こうに『特別快速』の文字が消える。
「……特別すぎやろがい……」
ほとほと困り果てると涙も出ない。
別部署の課長がアホみたいな領収書を出してくるのに苛つきすぎて給湯室でハゲ野郎と罵ったのが悪かったのか。人を呪わば穴二つか。
でもあのハゲ課長は本当にハゲだし、たとえあの課長の頭髪がふさふさであっても迷惑をかけられ非論理的な罵倒を受けた身としては脂ののった男を自称する役職持ちのプライドと自意識に当て擦ってハゲと呼び続けるつもりだ。まあ本当にハゲだし。
ここはどこだろう。
タクシーを捕まえれば明日の仕事には間に合うだろうか。
読みたくて仕方がなかったすべての元凶に数歩、近づく。
「……あ?……きさらぎ駅……?」
彼女は考えるのをやめた。
ばったばったと騒がしい音がする。
何回読んでも駅名は変わらないばかりか街灯も切れかかってあらまあ星明かりがピカピカで綺麗だわぁなんて感じのオシャンティで笑うしかない状況下、どれがデネブアルタイルベガだったか、探したって見つけられない。なぜなら彼女は星座を知らなかった。
手荷物にぶち込みっぱなしの社用携帯電話と社員入館証は紛失扱いになるのだろうか。はいはい、もう面白くなってきたわ。
夜風に吹き消されたみたいに線路も無くなってしまったため、夜通し歩いて他の駅へ向かうこともできなくなった。
また、ばったばったと騒がしい音がする。合いの手のような雄叫びも聞こえた。
こいつは噂の祭囃子でも始まったか。行き帰りの通勤列車で読む暇つぶしのおかげでこういう手合いの話には詳しいぞ。
普通はそちらへ行ってはいけないけれど、こうしていてもどうにもならない。
ハゲ課長による時代錯誤なクレームを受けまくった黒いパンプスで地面を踏みしめ、「あのー!」と声を上げた。
がきん、と金属のぶつかる音がする。
一合、二合と目で追うのも困難な水の如き剣戟は、使い手がハッと顔を上げたそのわずか少し、相手に隙を許した。
鬼の鋭い爪が水柱の肉を抉らなかったのは、彼が隊服の素材を幾重にも巻き付けた小手の代わりを身につけるためだ。
反射的に冨岡義勇を庇った鱗滝錆兎は「おい!」と相棒を叱咤した。
「義勇!気を逸らすな!」
「すまない。だが聞こえた。どうする」
「聞こえた……?」
錆兎も鬼殺隊の一員、それも支柱の一角を担う立場でもある。義勇もまた錆兎に勝るとも劣らない実力の持ち主で、常人とは桁外れの感覚を持つことは、彼らの中では当たり前の話だった。
しかしそんな錆兎にも、義勇の言葉はちょっとよくわからなかった。
「詳しく聞く暇はない。鬼が先決だ」
「わかった」
すう、と深く息を吸う。
錆兎は襲い来た鋭い攻撃を返す刀で切り飛ばす。
膝下を失った鬼の再生が始まる前に、義勇が素早くその頸を落とした。
腐葉土の上に転がった頸の数は十を超える。松ぼっくりみたいだなと義勇は思った。
先ほどの頸が最後の松ぼっくりだ。
「義勇。聞こえたというのは何だ?」
「声だった。『きさらぎ』のほうから女の声がした」
「……『きさらぎ』か」
錆兎は眉根を寄せた。
鬼殺隊の隊服に袖を通した人間は、必ずこの話を耳にする。
『きさらぎ』と名付けられた無人駅には、線路もないのに列車が停まり、時おり誰かが降りてくる。
過去に例があっただのなかっただのと眉唾な噂話も交錯する、編集自由な怪談話のようなものだ。
そんな『きさらぎ』の真実を知るのは、産屋敷と九つの柱だけである。
そもそも義勇にだけ聞こえた声を確かめに行くつもりではあったが、それが『きさらぎ』に関わるとわかると気がすすまなかった。男らしくない態度ですまない義勇。わかっているんだ。
しかしあのお館様が「記録によると、悪いモノではないのだけどね。悪いモノでは……」と生ぬるく微笑む存在と邂逅を果たしてしまう可能性が高いのはちょっとこう、……いややめよう。
果たして辿り着いた『きさらぎ』の入り口で、錆兎は疲れきった女人の顔を見た。
女人は錆兎と義勇を交互に見やり、眉根を寄せたしわに指を当てた。
「どっちが祭囃子の人ですか?」
「……は?」
「宇髄のことか?」
「だれ?」
「義勇、彼女の声が聞こえるのか?」
「聞こえないのか?……俺と錆兎のどちらが祭囃子の担当かを訊かれた」
「口が動いているのはわかるが声は聞こえない。あと、宇髄天元は派手だが祭囃子の担当ではないだろう」
「そうか」
「何が?」
要領を得ないやり取りを尻目に、錆兎は女人の服装と体格を目測で検分した。
座ることが多いのか姿勢が固まりつつある。不安定な靴は足を庇って歩くせいで変に汚れ、露出するふくらはぎは筋肉がつっぱって痛そうだった。
戦いとは縁がない身体つきである。
「ここにはどうやって来た」
錆兎は彼女に質問してから、自分と同じように彼女も錆兎の声を聞き取れないかもしれないと気がついた。ちなみに杞憂だった。
「電車に乗って、寝落ちしたら誰も居なくて、不安になって駅名を確認しようとしたらそのまま締め出されました」
「……すまない、聞こえない。義勇頼む」
「置いて行かれたらしい」
「すごい、急に私が可哀想な人になった!」
絶妙に訂正しづらい。
通訳に向かない人材としてぶっちぎりで頂点を勝ち取る義勇であるが、彼はごくたまに無自覚でとんでもないファインプレーをかます。
星の綺麗なこの夜も、彼は思い出したように目を瞬かせ、『きさらぎ』で保護した女人に言った。
「遅くなったが、俺の名前は冨岡義勇だ」
これには社畜の女もぴしりと背筋を伸ばしてしまう。
「これはご丁寧にありがとうございます」
義勇は錆兎を振り向いた。
「錆兎。錆兎を紹介しても構わないか」
「ああ、いや、声が聞こえるなら自分で言える。俺の名前は錆兎だ。名乗る姓は鱗滝、名を錆兎。……俺と義勇はこれより『きさらぎ』の迷い人を保護して帰投するゆえ、先触れを頼む」
ばさりと翼のしなる音を残し、素早い影が木々の合間を縫って飛び去った。
鎹烏は総本山の館まで最速で駆け抜けるだろう。
錆兎たちが着くころにはもう手隙の者の招集まで済んでいるかもしれない。
「ウロコダキサビト」
呆然とした声が錆兎の耳朶を打った。
聞こえた。聞こえたぞ。いま何か女人の声のようなものが聞こえたぞ。
「トミオカギユーさんとウロコダキサビトさん……」
「どうしたんだ錆兎」
「急に声が聞こえるようになったんだ。義勇、彼女は何かしていたか?」
「していたら見えるはずだ」
自分よりも能力の高い錆兎は彼女が怪しい動きをしていたならば俺よりも早く正確に把握できるから錆兎に見えていないのなら何もしていないのだろうと言いたい冨岡義勇だった。
一方、『手書きこそが誠意』を謳うアナクロなカンパニーでお給料を稼いで生きる経理部の女は、営業課担当にも関わらずいっぺんブチ殺したくなるほど迷惑をかけてくるハゲた課長に付け入る隙を与えいびられるのを防がんとペン字講座に申し込んだことがあった。
意外にもハマってしまい、教材をやり終えたあとも何かとお題を見つけては茶封筒の宛名書きをするつもりで丁寧にお名前をしたためていた。ある種の趣味に昇華されたのだ。
そんな中で見つけたのが、とある一つの漫画であった。
初見殺しの世界観。
読ませる気があるのか不安になる用語の嵐。
書かせる気はもっと無いとはっきりわかる人物名。
なるほど燃えて来た。
この難問を乗り越えれば、私のペン字レベルもいくらか飛び級で成長するに違いない!
ということで経理課所属の彼女は漫画を買い集めた。
そして主要人物の名前を「写経かな?」というほど丁寧に練習した。
見開きいっぱいに同じ名前が書かれる絵面は呪いの一部にそっくりだった。あるいは病んだストーカー。
びびびびびっと彼女の頭の中で『初見殺しのお名前一覧』が開かれる。
トミオカギユー。
ウロコダキとそれからサビト。
難易度Cのお名前だった。
「鱗滝錆兎、字はいけるのに並べて書くと地味にバランスが難しいお名前の人だ!!」
これまでになくはっきりと聞こえた声に、義勇は『確かに』と心の中でちょぴっとだけ同意した。
2019 1101