テーブルの下でメールを打つなんて、卑怯にも程がある。小器用な男だ。
イルーゾォには呆れしか浮かばない。がここに参加した時点でギアッチョに呼び出しのメールを送っていたのか。それから話を繋ぎ繋ぎ時間を稼いで、何も知らないギアッチョが先輩の指示に渋々従ってやって来た時点で狙い撃ちをする。この場にいる全員がホルマジオの意図を理解できていた。
驚きの直後、は感心した声を上げた。
「君は凄いな」
何度目かになる罵倒の文句を思い浮かべてから、イルーゾォは仕方なくギアッチョを手招きした。自分だけは関係がないという顔をするにはあまりにも状況が悪すぎる。ギアッチョの中の二人の株は今、最低ラインまで下落しているに違いない。
あからさまに機嫌を悪くしたギアッチョは、それでも店の敷地に足を踏み入れた。と目が合って、ひどい顔をする。
四人掛けの席は一気に重苦しい空気をまとった。ホルマジオ以外の誰も口を開かない。そのホルマジオも、弁明にすべてをあてていた。ギアッチョのもとへソーダが運ばれてくるまで、それはずっと続いていた。
の瞳は少しだけ揺らいでいた。イルーゾォが目ざとく変化を見つけられたのは、ギアッチョに配慮し、と距離を取る寸前に横顔を見たからだ。忙しなく全員を見まわした彼女は、ギアッチョに対して申し訳なさそうにしている。
「ギアッチョ、久しぶりだね。急な話で悪いんだが、あの時は実に悪かったと思う。正直に言うと、なぜ君があんな行動をとったのかはわかっていないんだ。突然そういう気分になったのではないというのには気づいているんだが……」
本当の意味で口火を切ったのは彼女だった。彼女の潔さに、初めてイルーゾォは好感を抱いた。言っている内容にはあえて耳をふさいだ。
「私は君の気に障ることをしたのだろう。それについて弁解するつもりはない。まあ、重ね重ね、何が原因だったのかはよくわかっていないんだがね」
だから、この女はひと言余計なのだ。イルーゾォの胃はきりきりと痛み始めた。
ギアッチョは注文の時以外、一切口を開いていない。の隣に座り、手と手が触れ合うような距離にいるのに、テーブルを蹴り倒すのを必死に我慢している顔でグラスを睨みつけている。全員が席を立った途端、この白いテーブルは悲鳴を上げるに違いなかった。
「それで、だ。私は君に謝りたい。だから明確に謝る為、なぜああいうことをしたのかを教えて欲しい。私はギアッチョと以前のように話をしたいし、できれば家でお茶を飲んで、君の名前を何度も呼びたいんだ。響きが好きだからね。一人で囁くのも良いが、本人を前にして口にすると、より気分が盛り上がる」
「もうお前黙ってれば?」
イルーゾォの辛辣な言葉にもはめげなかった。ギアッチョの手に触れ、年上の貫録をもって優しく握る。ギアッチョは振りほどかなかった。ここに未練が垣間見え、イルーゾォは同意を求める為、隣にいるホルマジオの足をテーブルの下で蹴った。軽く蹴り返されたので、この男も同じ気持ちなのだと知れる。
「なあ、ギアッチョ」
再三の呼びかけに、ギアッチョはようやくを見た。
ごくり、唾を飲む。青年が何と答えるのか、なぜだか自分の方が緊張している気がする。イルーゾォの様子を見たホルマジオが、笑いをこらえて口元をひきつらせた。
ギアッチョは女の手を振りほどかないまま、ソーダを一気に飲んだ。
「フツーは、オメーじゃなくて俺が謝る立場だろ。常識的に考えろよ」
「やっと口をきいてくれたね」
「ほっとけ」
鋭く睨みつけられすぎて、ソーダが萎縮している気すらする。小さな炭酸の泡がグラスの底からぽつりぽつりと水面へ上がり弾けていくのが、この場面に不釣合いだった。
「……悪かった」
あまりにも声が小さかったので、目も合わせられていないは二度訊き返した。二度目はギアッチョも許さなかった。
「悪かったっつってんだろ!!耳に穴開いてんのか!?」
「なんだ、元気じゃないか。いつも以上に殊勝にしているから心配だったんだ。私は君の萎えた姿ばかり見ているね。もっと活き活きしておくれ」
大きな声にもひるまないは、まあ座るといい、とギアッチョの手を握ったまま腰を下ろさせる。流れるようにソーダを飲ませたやり方はイルーゾォから見ても自然なものだ。動きによどみがないので何もかも騙されてしまいそうな気がする。これが年上すべての姿だとは断じて思いたくないが、さりげない動作に経験の差を感じた。
「オメーのすっとぼけた頭で憶えていられてるかは知らねえが、あの時俺はオメーに『好きなヤツ』について訊かれた」
「憶えているとも。好きな人はいるんだったね。確か、『年上』で『時代錯誤』で『服装が派手』で『非常識』で『パンが好き』で『センスが悪く』て『発音マニア』で『適当な性格』で『鈍感』で『無神経』で『悪評が多く』て、何より、どんな部分であっても、どんなに些細なことでも、自分を好きでいてくれている人……だったか」
「よく憶えてんじゃねーかよ」
「列挙するたびに苛々していたからね。記憶にも残るさ」
実に、とイルーゾォは言葉を飲み込んだ。実に、意味の解らないやりとりが繰り広げられていたらしい。その時の様子を想像するだけでぞわりと鳥肌が立った。だんだん苛々していくギアッチョと、差し向かいで相槌を打ちながら他人事として処理している女。地獄絵図だ。
「人の趣味はさまざまだなと改めて思ったよ」
「うるせーな。俺だっていまだに意味がわかんねーよ」
イルーゾォにもホルマジオにも理解できない世界だ。二人は決してこの女は選ばない。
「……そいつに……、……そいつの意識の対象外だと思われてて改めてイラついてたのと……たちの悪い冗談でからかわれてカッとしたっつうので……」
非常に気まずそうだったので、イルーゾォはそろそろ後輩に助け舟を出してやりたくなった。口を開きかけたところでホルマジオに止められる。
「……ホントに、悪かった」
真摯にの眼を見たギアッチョは、裁きを待つ覚悟でいる。手を離され、遠のいたぬくもりを惜しんだように見えた。
一方の女は、離した手をこめかみに当てて首を傾げる。
「すまないが、時系列で整理しても構わないだろうか?君は苛々した状態で私の家に来て、面倒にも私が、苛々している君の『苛々の原因』に立ち入ったから怒ってしまった、という。そうしてちょっと黙らせるつもりで……」
「オメーの脳みそはちゃんと動いてんのか!?ちげーよ!!」
ギアッチョは椅子を蹴って立ち上がった。ぽかんと青年を見上げたは行き場のない手で、子供を宥めるかのようにギアッチョの手をもう一度握った。ギアッチョは振りほどいたり、打ち払ったりは決してしなかった。それどころか、自分から握り返した。とても強い力だったが、も気にせずにいる。はらはらしているイルーゾォたちは蚊帳の外で、周囲から向けられる視線に謝罪を送るしかない。
「苛々したのはオメーの家での話だし、俺をイラつかせたのはオメーだし、オメーにナメられてんのがムカついてカッとなったっつってんだろボケが!!挙げた特徴はオメーの印象だし、……時系列で整理しなくてもイッパツで解れよ!!」
は何度も瞬きをした。ギアッチョが喋り終えると、場はとても静かになった。
これからどうなるのか、イルーゾォには先がうまく見えなかった。の返事は予想できないし、勢いでここまで言ってしまったギアッチョの心情も思いやられる。今晩は一緒に飲んでやるかと帰りに買い込む酒の種類を羅列する。現実逃避だ。
はギアッチョを座らせ、真剣な顔で彼の瞳を覗き込んだ。奥で燃える感情を見抜きたがっているように思えて、イルーゾォは急激に現実へ引き戻される。この女にも人と真面目に向き合う意識は存在したのかと、新鮮な発見をした。
「君の気持ちはとてもよくわかった。同時に、私が君に対して気遣いのない発言をしたことも理解できる。すまなかったね、ギアッチョ」
どうやら穏便に話は済みそうだ。ここでが受け入れようが断ろうが、ギアッチョは気持ちを整理しすっきりと立ち直れるに違いない。も、ギアッチョに対する接し方を変えるか、自分の行為に責任を持つようになれるかもしれない。のことはどうでもいいが、イルーゾォは僅かにホルマジオへ感謝を送った。
「ところで、先ほど言っていた私の特徴の話なんだが……」
しかし、ここで素直に終わらないのがという女なのだと、イルーゾォは忘れていた。
全員がに目を向ける。彼女は思わしげにまつげを伏せて俯いていた。自分の中の何か大きなものを痛く突かれた顔をしていた。
「……その……、私はそんなにもセンスが悪いのだろうか?」
もうダメだな。イルーゾォは匙を投げる。最初から掬い上げてやるつもりなどなかったが、ギアッチョには帰ってから懇々と諭してやろう。
(この女だけは、マジでやめとけ)
チームメイトの人生を狂わせない為に、先輩としての義務がある。イルーゾォは今までにない疲労を抱え、おかわりのカプチーノを注文した。苛立ち気味のギアッチョの顔を見るに、まだまだ会話は終わりそうになかった。