は具体的に何をされ、ギアッチョは何をしたのか。また、その反対は。
イルーゾォはこの問題を一人で抱え込むことを早々に放棄し、チームの中でも『まとも』な部類に入る酒飲みな男に相談を持ち掛けた。
男はイルーゾォの悩みを聞くなり立ち上がった。そしてその夜、ギアッチョは彼の部屋に呼び出された。
イルーゾォと男に挟まれ居心地の悪そうな顔をする青年は嫌な予感に身を震わせているようだった。気まずい顔でイルーゾォを見るので、彼にはこの青年が自分の失態の露呈を悟っているのだとわかる。言いつけたのはイルーゾォ自身だったが、彼は少しだけギアッチョを哀れに思った。
「まァー、飲めや。ちっと話でもしようぜ」
断罪に似たやり方で酒を勧められるまま、ギアッチョはちびちびと杯をあけていく。チーズの名を持つ男は気の良い笑顔で有無を言わせず、ギアッチョの顔から眼鏡レンズの防御壁をはがしていった。手慣れたやり口に寒気がしたので、イルーゾォはつまみのチーズを遠ざける。穴あきのチーズは特にこのいかつい男を思い起こさせたので、すべてトマトの陰に隠した。
チーズと言えば、この男の名づけられた理由もたいがいひどいものだ。昨夜のテレビでおいしそうなチーズの特集番組が組まれていたから。それだけの理由で呼び名が決まった。かの女はセンスがないのではなく感性が狂っているのではないかと、イルーゾォはチームに所属してから八回思った。
その中でもとび抜けて気に入られているギアッチョは、スタンド能力に合わせた名前を与えられている。あまりにも直接的で名前としては不向きだが、響きがとても好きらしい。くるくるした巻き毛と眼鏡がトレードマークの、まだ尖りきらない青年をひと目見て、は膝を打って言ったのだそうだ。君は最高だ、実に『ギアッチョ』だ、私は君を待っていた。
社会から弾かれ、必要とされることに飢えていたのかもしれない。だからこの青年は道を踏み外してしまったのかも。イルーゾォは三歩ほど引いた白けた目線でギアッチョを見た。正気のままに好意を抱けるとは考えられない。ギアッチョが件の場面で説明された最低な言葉を思い出すと余計にそう感じられる。経験があるからと言って。年下に対する困惑と達観があるからと言って。
("今日の夜は次の予定があるから"は……最悪だろ……)
正直に「見たいテレビがあるから」と言うのも狂っているだろうが、言葉のチョイスがことごとく可笑しい。やはり感性のネジが外れているに違いない。組織に属する人間に対しての希望がより薄れていった。
すっかり俯いてしまったギアッチョの背中を叩いてやったのは、むくむくと同情の念が湧き上がってきたからだ。
「お前、酔ってたわけじゃねえよな?」
「ローズヒップで酔うワケねーだろ」
「んじゃあ、やっぱり色々言われてプッツン来ちまったのか?」
ホルマジオが畳みかけると、ギアッチョは唇を噛んだ。手元の酒を一気に呷る。
ギアッチョがに何と言って煽られたか、ホルマジオはもう知っていた。洗いざらいすべてイルーゾォが説明したのだから当たり前だが、ギアッチョからすると面白くはない。ただ、酔った頭では怒りも持続しなかった。それよりもまだ、自分の中でわだかまり凝る感情の整理をつけたがっている。
ずり落ちた眼鏡を押し上げた青年がぽつりと語ったのは、が奇怪な主観を交えて言ったやりとりの断片だった。ギアッチョの恋愛に踏み込み、土足で歩き回って足跡だけ残していく。デリカシーのかけらもなく、遠慮も見せない。あまりの様子にギアッチョが聖なる勇気を振り絞り『好きな人』としての特徴を挙げても、軽く流されてしまう。年下と侮っているから、対象の一覧から外れているのだと気づいた瞬間にカッと衝動が押し寄せた。
その場は堪えたが、一息で蓄積した想いは、のある言葉で決壊する。
青年が拙い口調でなぞった記憶に、イルーゾォは胃が重くなるのを感じた。つい昼頃まではとギアッチョの今後について多少の懸念を抱えていたものの、今ではのことなどどうでもいい。奴は一度、痛い目に遭うべきだ。
――――ギアッチョなら必ず恋を叶えられるよ。君は好い子だし、魅力的だ。自分で言うのも何だけれど、名前の響きも最高だろう。
は始めた。次いで、今まで誰にも聞かせたことはないと錯覚するほど、まるでそこが褥であると思わせるほどの甘い声でギアッチョを一度呼んだ。
――――うん、やはり呼びやすいね。何度囁いてもすわりが良い。ギアッチョの名前を何度も甘く口にできたら最高だろうな。私もそうしたいよ。
これが悪かった。ギアッチョの堪忍袋の緒が切れる。
ここまで彼が扇情されていても、彼女には何の思惑もない。ギアッチョが自分に恋をしているとは露程も思わないし、一度たりとも想像したことはないだろう。羅列された特徴を自分に当てはめる発想すらないのは、ギアッチョがよりも五つか六つほど年下であるからだ。
まだ年若くあってもギアッチョは鍛えられた男で、は女だった。自分の立ち位置が絶対的に安全な場所ではないのだと印象を刻み込みたくて、青さに突き動かされた。
――――オメー、俺のことをナメてねえか?
唖然としたのちに危機を察知して抵抗されたが、ギアッチョはそれを難なく押さえ込める。非力に見えるイルーゾォでも状況に任せれば力で相手をねじ伏せられるだろう。彼らは多くのシチュエーションに備え、さまざまな方法で自らを研磨していた。ギアッチョはその中でも肉体を使って戦うタイプだ。
そしてやがて諦めた彼女は、泣きも喚きも懇願もせず、理由も訊かず、ため息をついてギアッチョに告げたのだった。
――――わかったよ。今日の夜は次の予定がつかえているから、できればサッと済ませてくれるかい。
瞬間、ギアッチョの脳裏をよぎったのは彼女の悪評だった。あからさまに男を誘うような恰好で歩き回り、深夜の街に出てふらりとさまざまな場所へ行く。戦いもせず、大した仕事も与えられていないのに特殊すぎる場面で重用されている女が裏の社会で何と言われているか、ギアッチョも知らないわけではない。
所詮噂は噂だと自分に言い聞かせていたのは、間違いだったのかもしれない。次の予定が何かはわからなかったが、諦めのため息からは経験の香りがした。所詮、ギアッチョなど無数の内の一つでしかないと言いたげな態度だった。

青年の芯に深々と突き刺さった思い出のページを垣間見、イルーゾォは再びのずれた部分を認識した。
彼女には致命的に想像力が足りない、と思う。相手の気持ちを慮らない。いくばくかの時間で会話をした相手の性格を理解しようとせず、『好きな人』の話をした直後に年下を無自覚にからかい、憤りをあらわにした相手に押し倒されても奇妙極まりない諦念が顔を覗かせる。誰にでもそうするのか、とギアッチョが幻想を打ち砕かれた気持ちになるのも仕方がなさそうだ。
「最後までは……ヤッてねーんだよな?ヤる気も失せるよな?」
そこについても先んじて教えたはずなのに、あえて訊ねて傷口に塩を塗り込むのは可哀想だ。下劣な探りを入れたホルマジオの足を踏むと、テーブルの下で踏み返された。
ギアッチョは複雑な顔をした。最後まで遂げてすべてを終わらせたかった気持ちと、その程度の男だと思われたくないプライドがせめぎ合った。結果として、強くの手首を握りしめるだけで、瞳を見下ろして睨みつけるだけで、彼は何もしなかった。泣きそうな顔で立ち上がり、逃げるようにその場を去った。それから一日経っても、あの時のの感触と抵抗と痛い言葉が身体から逃げてゆかない。こびりついたまま離れず、ずっとギアッチョを苛んでいた。
「若いなァー、オメーも……。忘れちまえよ、どうせ相手は気にしてないぜ」
イルーゾォは、ホルマジオの慰めの言葉には同意できなかった。彼女はひどく気にしている。自分が欠片も視野に入れていなかった青年から直接的で強引な方法でアプローチを受け、意図が読み取れなくて混乱しているのだ。自分の発言の何がまずかったのかも理解できていないが、確かにはギアッチョを強く意識していた。
ただ、それを彼に伝えるのが善なる行いなのか、イルーゾォには判別できない。
未練をきっぱりと断ち切らせる為には、ここでの性格と、根も葉もない噂に真実味を付け加えて説明してやり、時が事態を解決するのを待つのが最適だ。ギアッチョの心から傷が消え、前を向けるようにするべきだ。
しかし一方、自分しか知らない情報をさっさと人に教えて消化したい自己満足も、イルーゾォにはあった。
ホルマジオが連ねるのは前者の考えに即した台詞だ。だからあえて、もう、イルーゾォは自分の思った通りに行動することにした。グラスを傾け、かなり遅い時間までこの組み合わせで飲んでいたなと時計を見てからぼそりと呟く。
は何でお前に押し倒されたのかは全くわかっちゃいなかったが」
下品な話として、あの後バルで"溜まっていたのかな"とおかしな方向からギアッチョを心配していたことは伏せておいた。
そこじゃないだろ。指摘をして、どれほど相手を殴りたかったことか。
「……まあでも、お前にも何か理由があってああいうことをしたんだろうし、その理由についてはちょっと気になるって言ってたぜ」
少なくとも、想いを伝える余裕はある。
イルーゾォには、残酷な糸を垂らした自覚はなかった。