深刻な顔でバルに引きずり込まれたイルーゾォは、嫌な予感に苛まれていた。この女はいつもテンションの低い声で話すが、今は普段の声に困惑がにじみ出ている。偶然出会ったイルーゾォにこうして助けを求めるほどの何かがあったのだ。イルーゾォは察しの悪い方ではないので、彼女がイルーゾォに関係のないことで自分に相談を持ち掛けるとは思わなかった。そしてイルーゾォ自身にはおぼえがない。この三週間は顔も合わせていなかった。
すると、原因はイルーゾォの所属するチームにある。
とチームの接点は街中で顔を合わせるイルーゾォと、『偶然』にも同じく遠いパン屋にやってくるギアッチョの二人しかない。どちらかがに何かをしたのだ。イルーゾォでないのなら、考えるまでもなかった。
「ギアッチョと何かあったのかよ?」
女は目を見開いた。彼女は若いメイクで誤魔化してはいるが、イルーゾォらよりも年上だ。チームをまとめるリーダーとの方が年齢が近い。
しかしびっくりする顔は、意外なほど年若く見えた。
瞠った目を伏せ、チョコラテのチョコソースを追加する。ささやかなホイップが溶けていくのを見て、は心底から困っているんだとイルーゾォに打ち明けた。
「ギアッチョを家に招いたんだよ」
「まず、その理由から言えよ」
脈絡のない女である。
は事情を初めから話し出した。
行きつけのパン屋で何度目かの会話を繰り広げた二人は、の大荷物を見かねたギアッチョに手をのばされた。荷物を運んでやると説明された時点で、彼にしては破格の行為にイルーゾォはあることを覚った。
推測を飲み込んだまま続きを促す。
「そりゃあ、頼むだろう?」
「俺なら頼まねえけどな。家まで連れて行ったのか?」
「当たり前だ。実際に大荷物だった。タクシーを使っても良いが、白タクの多い界隈で女とナメられては困るからね。用心棒が必要だと思ったのさ。夜は怖い」
「夜かよ!?」
そして彼女の家を知ったギアッチョは上がって行けと微笑まれ、家主により敷居をまたぐことを許された。若い盛りの青年はその時点で何を思っただろう。
女が一人暮らしをする家に、夜中に、どうせだったらハーブティーでも出そうじゃないかと誘われたのだ。彼らしくない行動を何度も取っていたギアッチョが、この女に並ならぬ感情を抱いていることはもはや明白だった。肌をむき出しにした姿でドアを開かれ、招いた本人は自室で無防備な姿に着替えた。ハーブティーを出し、向かい合ってリラックスしたひと時を迎える。
「お前、馬鹿なの?」
「相手は子供じゃないか。いくつかは知らないが、見るからに若い。四つは確実に違うぞ」
正確には六つだ。十九を迎えたギアッチョは、と六年の差がある。
改めて聞き、は先ほどよりも目を丸くした。
「若いな。……だからか?」
呟いた彼女は、とうとう本題を口にした。
「私はソファに座っていたんだが、向かいに居たギアッチョが急に立ち上がってね。きっかけは何だったか……。ギアッチョの恋愛事情に踏み込んだのが良くなかったのかな。根掘り葉掘り訊いてしまったから」
「良くなかったんだろうな」
「なにせ彼が『好きな人がいる』と答えるもので、つい気になってしまったんだよ」
ギアッチョにしては正直じゃないか、とイルーゾォは感心した。ハーブティーに酒でも混ぜられていたとしか思えないが、この女はそんなことはしない。
夜中に一人暮らしの自宅へ招かれ、ゆったりした姿を見せられ、気を許されていないと思うほうがおかしい。
「彼は急に立ち上がってね」
「お前が『ナニ』を言ったら立ち上がったんだ?」
は首を傾げる。本当におぼえがないのか。
「さあ、特に何も言わなかったよ。ギアッチョの名前を褒めたくらいかな。自画自賛だが、なかなかいい響きをつけたと思う」
「あー、どうでもいいわ。続きは?」
ギアッチョの沸点など知りたくもない。おおかた、褒めたついでにこう言ったのだ。ギアッチョの名前を甘く甘く何度も呼べたら幸せだろうな、と。この女はギアッチョを完全に侮っている。自分のつけた名前の響きにしか興味がない。私も呼んでみたいよ、と言ったことはさすがのイルーゾォにもわからなかった。私も呼んでみたいよ、君に愛される人は幸運だ。そう言った彼女に、とうとう青年はハーブティーを放置し、顔をしかめたのだった。
「すると彼は私の方にやって来た。それで、驚いたことに……肩を押された。倒れ込むだろう?」
「倒れ込むよな」
「そのままのしかかられてしまったのさ。本当に驚いたよ」
久しぶりに頭痛を感じた。こめかみを揉むと、カプチーノの泡がほどけているのが見えて慌ててすする。冷めた泡がイルーゾォの口の中をあたためたが、喉は潤されなかった。
ひっかかったエスプレッソを水で流す。
「それで、どうしたんだよ。抵抗したよな?」
「したさ。身の危険を感じたからね。だが、こちらも驚くべきことだが、びくともしなかった。若さゆえかな、男女の差はあるらしい」
「若くなくてもあるだろ。どう考えてもあるだろ」
まともな指摘はには届かなかった。ふぅ、とため息をついて頬に手を当て肘をつく。ため息をつきたいのはイルーゾォの方だ。
「抵抗するのに疲れたのでね。まあ、私も若いが、経験がないわけじゃない」
「お前の事情は知りたくねえけど、嫌な予感がする」
聞きたくないと顔を背けたイルーゾォに向かって、女は、考え得る限り最悪な発言をした。
「実際、その後に見たいテレビがあったんで。『今日の夜は次の予定がつかえているから、できればサッと済ませてくれるかい』と言ったよ。そうしたらひどく傷ついた顔をされてしまって……」
イルーゾォの頭痛は最高潮に達した。この女、言葉が足りないにも程がある。