あたらしい日常




花瓶に挿す花はが生み出したものだ。買わなくていいし、枯れることもない。安上がりなインテリアだった。減価償却費を計算して、一か月でとんとんになるよう、デザインと値段とのバランスを考え購入した花瓶も、なかなかかわいらしくて部屋に彩を与える。
に与えられた部屋は、三部屋×二階の古いアパートの一室だった。物置も同然になっていた殺風景な部屋に家具を入れたのは、つい先週のことだった。といっても、安いアパートなりに必要最低限の家具は備え付けられていたため、カーテンなどを選ぶだけだった。
引っ越し作業をすると、居所を変える意味がなくなってしまうというので、が使っていたアパートの家具はほとんど持ち込むことができなかった。最低限の書物とキッチン用具、調味料などだけを旅行鞄に詰めて、不愛想な管理人に旅行へ行ってくると嘘をついて、そのまま帰らなかった。ひと月も音沙汰がなければ、人情に薄そうな彼は部屋の家具などを売り払って新たな住人を待つだろう。

まどろみから彼女を呼び起こすのは、こんこんと断続的に叩かれる壁の音だった。モールス信号を模したリズムで、「ごはんごはん」と打電される。壁の薄さを利用して、三日前からメローネが始めた遊びだった。
起きたことをノックで伝えると音は止む。
が水に濡れた顔を上げると、鏡の中に見知らぬ影を見つける。振り返っても何もおらず、戸惑いは抜けないが、それが敵ではないことはじゅうぶんに知っていた。
「おはよう」
声をかけると影はうなずき、ふらりと手を振って消えていった。鏡の中を移動するのは構わないが、寝起きの洗顔を直撃するのはやめてほしいなあと、は顔を拭きながら考える。
食費削減のためは朝食を摂っていなかったが、そのことを伝えた瞬間、チームの数人が目を剥いたため今ではその形相に圧されるようにシリアルに牛乳を注いでいる。日本で売っているシュガーコーティングのされたフレークではなく、ドライフルーツの甘みが活かされたものだ。無心で噛みつぶしていると、ひと口で満腹感すら得られるボリュームだった。
どうやらイタリアではきちんと服を着替えてから食事する人が多いらしい。あのメローネですら、と一緒に朝食を摂った時はきちんとパジャマを脱いでいた。もちろんシャツも羽織っていた。
歯を磨いて着替えると、は机の上に置いていた書類と辞書とノートをトートバッグに入れると、ポケットに飴を突っ込んで部屋を出た。一階の角部屋は日当たりが悪く、晴天でも日差しが届かない。そのぶん夏は涼しくてよいのだろう。
鍵を閉めて階段を上れば、ちょうど部屋から出てきたホルマジオとかち合った。
「おはよう」
「おう、おはよう。もう提出すんのか?もっと締切ぎりぎりまで焦らせばいいのに」
トートバッグからはみ出したクリップを見止めて、ホルマジオが言った。
一度だけ、期限ギリギリで書類を提出したことを思い出しては苦笑する。
体調を崩して寝込んでいたよりも顔色の悪かったリゾットの無表情はもう見たくない。
「そんな訳にはいかないでしょ……待たせると悪いし……」
「ジャッポネーゼは真面目だなー」
「ホルマジオはこれから……出かけるの?」
「あぁ、ちょっとな」
いってらっしゃいとが言うと、ホルマジオは片手を挙げて応えた。

戸を叩いて、何の気なしにノブをひねると、抵抗なく扉は開いた。自分から手をかけたにもかかわらず、開いてしまったことにぎょっとすると、はそっと中の様子を窺った。
「あの……おはようございます……」
ナンパを仕掛けた時のはつらつさはどこへやら、震える声で扉の中を覗き込んだの背後からするりと手が伸びた。
強く扉を押し開けられ、は思わずつんのめる。
その襟首を容赦なく掴まれた。
「何やってんだ、入ればいいじゃねぇか」
「あ……おはようございます」
プロシュートだった。開けた扉を軽くたたいて、それからがつがつと玄関に立ち入ってしまう。さすがの土足に、は毎回唾をのんだ。
(ムリムリムリ)
いくらそれが当然だと言っても、なかなか慣れない。はバッグから折り畳みのスリッパを取り出すと、玄関の外に靴を脱いでそっと並べた。
廊下を進むと、プロシュートの後ろ姿がある。キッチンに立った彼は、ポットに湯を沸かしてコーヒーメーカーをセットしていた。
どういう籤の引き方だったのか、リゾットとプロシュートは二階の一室に同居している。どうせ一人部屋二つできるのなら、リーダーを個室にすればよかったのに、とは思わずにはいられない。ソルベとジェラートの同室はしっくりきすぎてむしろそれ以外が考えられないが、リゾットとプロシュートのコンビは違和がありすぎて首をひねってしまう。
「そこに置いとけ。すぐに出てくるだろうよ」
「あ、シャワーですか」
ローテーブルにクリップで留めた書類を置くと、キッチンのものとは違う水音に耳を傾ける。
なるほど、朝シャン。
大人の男という感じである。
「夜もお風呂に入って朝もシャワーを浴びるんですか?」
「汗をかきゃあ流してえだろ」
「へえ」
は夜にたっぷりと時間をかけて入浴し、朝は放っておいてしまうタイプだ。
がたりと立てつけの悪いドアが開いて、廊下に湯気が逃げた。
「おはようございます」
「……あぁ、おはよう」
リゾットはテーブルの書類を見て、それからを見た。が挨拶すると、ゆるりと視線が動いて、口が開く。
立ちながらカップに口をつけるプロシュートと目線で何か言い交して、リゾットは無言のまま甘いパンをトースターにかけた。

「あのさあ……」
ペンを置いて、がうなる。
「ん?」
メローネは短く応じると、すぐに手元に目をやってしまう。
不安定な膝の上にポルノギリギリの雑誌を置いて、ぺらぺらと気ままにめくっている。
それだけならも自分の読書に集中できた。その膝がのものでさえなければ。
「人の膝でポルノ雑誌読むのやめてほしい……」
「これはポルノじゃないよ。芸術だよ、。それにその本のわからない文章とか読んであげてるでしょ?」
「う、うん、まあそれは……」
「ほら、これ見て。この太もものラインとかもうカンッペキだよね!いや、世の中に完璧なものなんてないかもしれないけど、できるならこういう人とベイビィを作りたいなぁ」
「メローネはカッコいいからいけるよきっと。ここなんて読むの?」
「”青天の霹靂”」
「あー」



▼その後、二冊目も出てきました。



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