ギアッチョ
春風も爽やかなある日のことだった。賑々しく人の行き交う通りを歩く青年の背中を呼び止める声がある。
「こんにちは!」
自分が呼ばれているとは思いもしなかったので、青年はポケットに手を突っ込んだまま足を止めなかった。すると一人の少女が彼に駆け寄り、その背中をぽんと叩く。ようやく少し曲げていた背を伸ばし、眼鏡をかけた彼は怪訝に眉根を寄せたのだ。彼の名前はギアッチョと言った。
「あ?」
「今何してるんですか?」
唐突な質問の真意が読めない。
ギアッチョは物言いたげな口を閉ざし、それから無難な選択肢を取る。
「……歩いてる」
「それだけですか!?歩いてるだけ?つまらなくないですか?」
「うるせェよ、なんなんだテメー」
意味の解らない事象は嫌いだ。目の前の少女も、ギアッチョにとっては不可解な要素でしかない。
少女は見るからに観光者だった。薄手のジャケットのポケットからは街の地図が覗いている。ポシェットを斜めにかけ、片手でそのストラップを軽く握る仕草が緊張を表していた。
青年の背を叩いた方の手が、イタリア語の正しい表現を探す為にふらふらと二人の間を行き来する。
「もっと楽しいことしましょう!ちょっと私とお茶しませんか?あなたはとっても、きれいなお顔、してるので。私はつい見惚れてしましました!」
「イタリア語へたくそだなお前」
相手の美醜よりも、言葉の内容よりも、まず発音が耳につく。聞きなじみのある母国語のはずが、まったく違う言語に思えるから不思議だ。たどたどしさは彼女の滞在歴の浅さを語る。渡海して何日になるのかは知らないが、文法的な基本は呑み込めていても、まだ喋るのには慣れていない。よくぞ、イタリア人の自分にイタリア語で話しかけ、こうして突拍子もない相談を持ち掛けられたものだと、彼女の蛮勇ともとれる勇気に感心した。
少女はまったくめげた様子がない。こげ茶色の瞳が一心にギアッチョを見上げる。相手に自分の意思を伝える為、そして相手の返事を逃さず理解する為、少女は真剣だった。
「じゃあお兄さんが私にイタリア語教えてください!さあ、一緒にお茶しましょう!私がおごります!」
「ふざけんな。べたべた近寄ってくんな。茶なんか飲むかよ」
「お腹いっぱいですか?」
「いや、べつにそういうわけじゃねェけど」
少女はやはりめげなかった。
「だったら、この近くに私の見つけたおいしいバルがあるんです!……ねっ?行きましょう!」
多少の強硬手段に出るしかないと踏み、彼女はギアッチョの腕を軽く引いた。バルのある方向を指さされ、思わずそちらに目を向けたが、行くつもりなど毛頭ない。
女性の頼みは断りづらいし、何かやってやりたい気持ちはある。
バルまで送ってやるくらいならば、してもいいかもしれない。
しかし、それとこれとはやはり話が別なのだ。おそらく、そんな気まぐれな優しさを起こせば、少女はギアッチョが誘いに乗ったと思い顔を輝かせるだろう。その後の落胆を想像すると迂闊な行動はとれなかった。
さらに言うならば、腕を引かれたことによる反射的な苛立ちが湧いて出た。
手近に蹴り飛ばせるものがなかったので、ギアッチョは足の疼きを押し殺した。
「テメエは暇なのか?!いくつだ!あァ!?俺は忙しいんだよッ!クソッ!」
「あっ、名乗ってない、でしたね。私はといいます!イライラは甘いものが足りない、……きっとです!だからバルでラッテをおごります!ラッテはミルクも入ってる、甘いのもあるし、万能、グッド、ベネ!ね!5分だけ!ちょっとだけ!」
「いいかげんにしやがれッ!」
一喝すると、少女はぽつりと置いてけぼりにされた子犬のような顔をした。どう反応すればいいのかわからず、困惑している。
「う……ッ、な、なんなんだよその目は……」
狼狽えたのはギアッチョの方だ。先ほどまで明るく意味不明な理論を組み立てていた少女が、へたくそなイタリア語を封印して、ひどく落ち込んでいる。本人はちょっと驚いただけだったのだが、小柄な日本人の若い少女が眉尻を下げる様子は、情けなく、頼りなく見えていた。
泣いてしまいそうに見えた。
(な、泣くのか!?メンドクセェ―ッ!!クソッ……ハンカチ……)
ギアッチョはポケットに突っこんだままの手でハンカチを探した。指には小銭入れしか当たらず、そういえば、汚したのでそのままチェスティーノに捨ててしまったと思い出す。
少女はもちろん、泣かなかった。
しょんぼりと表情をしおれさせたまま、残念です、と舌足らずなイタリア語で言う。
「また、が、あったら。今度はぜひ一緒に、来てください」
息せき切って走り、ギアッチョを呼び止めた少女は、ありがとうございましたとそれだけは流暢に述べて頭を下げた。びくりとしてしまったのは、そのお辞儀の勢いがあまりにも激しかったからだ。唐突にかくりと倒れるようにお辞儀をしたものだから、ポケットから両手を出してしまった。ギアッチョはやり場のない手を腰に当てて誤魔化した。
あんなに軽やかだったのに、今はぺたんこの靴すら重そうだ。ギアッチョの錯覚なのだが、どうにもこのまま黙って見送ってしまうのはよろしくない気もした。ギアッチョの反応に懲りればいいのだが、たちの悪い男に絡んで、イタリアでの一瞬の楽しさを台無しにするのではないかと、心のどこかでハラハラする。彼女の人生などギアッチョにとってはどうでも良いことだったが、一度気になってしまっては無視もできない。
いつの間にか注目を集めていたギアッチョは、生ぬるい好奇の視線を振り払って二歩踏み出した。
少女の腕を掴むと、きょとんと見上げられる。
「1杯だけだからな」
早口を聞き取れなかった少女の為に、ギアッチョはこの気恥ずかしい台詞をもう一度繰り返さなくてはならなかった。
名前も覚えてもらえてない日本人の少女は、元気のよい笑顔を浮かべ、「はい!」と大きく首を振った。
「じゃあ、あなたに出会えた幸せを私なりにあらわします!」
そして別れ際に飛び出すのは、突拍子のないこの発言である。
「は?」
大きく手を差し出した少女はその指先をぱちんと鳴らした。するとこぼれるように青色の花びらが舞い、ふわりとした花があらわれる。
「はっ!?」
「今はこれが精いっぱい!なんちゃって。はいどうぞ!」
みずみずしい花。つくりものなどとは比べものにならない生命のエネルギーに満ちていて、ギアッチョの鼻先には甘くさわやかな匂いすら届いていた。
スタンド使い、と咄嗟に警戒したギアッチョは正しかった。
だが目の前の少女はあまりにも無邪気な表情で彼を見上げ、策略なんて空の向こうの出来事です、って感じだ。ただ単に、どうしてギアッチョがお花を受け取らないのかわかりません、としかうったえかけてこない。
「……お前……どうやってソレを出しやがった」
「愛の力ですよ!」
「……バカか?」
「えっと、あなたさんに似合う花を出したつもりです。どうぞ!」
がくの色すら鮮やかな花。
ギアッチョは草花事典に詳しくないから、花の種類はわからなかったが、とても素敵なものに見えた。
「……?あ!あの、アレを心配していますか!?お金取ったりしません!私は素敵な人に出会えた喜びを伝えたいだけです!」
的外れに慌て始める姿は、ぴりぴりした空気を白けさせた。
(こんなマヌケなスタンド使いもいねーよな……)
頭のてっぺんからつまさきまでをざっと眺めて、ギアッチョは小さく鼻を鳴らした。
「……オメー。名前、なんつった?」
「え?……!です!」
「……グラッツェ。貰っておくぜ」
「わー!去り際まですてきですね!」
きびすを返したギアッチョのことはもう追わず、少女は彼の背中に笑顔で大きく手を振った。
「さようなら!」
▼お花を受け取ってもらえました。
----