ドキドキスケルツォ
18
どうでもよいと思う。日本人の少女が一人異国に投げ出されたとしても、言葉が通じず苦労していたとしても、自分には関係がない。何度か会話をしたおぼえがあったが、珍奇な人生を送ることになったのだなと同情だけを残して立ち去った。それからはあまり顔も合わせていないし、相手も自分には用がないだろうと思っていた。初めて会った時の彼女は、そういう目をしていた。
突然呼び止められ、イルーゾォは思い切り首を傾げた。
「何だよ、俺に用か?ホルマジオならいねえぞ。今日は『あっち』に戻る準備をしてっから」
どこへかといえば、彼らの所属する組織にである。
長期派遣の終了日は迫っている。
少女はそれを聞き、顔見知りの男たちを探して財団を歩き回っていた。見つけた後姿を呼び止め駆け寄ると、相手は怪訝そうな顔をする。当然だろうなと思った。少女と彼の間には、それほど繋がりがない。
「ホルマジオさんとプロシュートさんを探していたんですが……お仕事なんですね。教えてくださってありがとうございました」
「そこまでのことはしてねえけど……。お前、英語うまくなったな」
イルーゾォはただ感じたままに伝えただけだったが、これは思いがけず少女を喜ばすことになった。自然と口角が持ち上がっている。
イルーゾォも、そこまで英語を話せる方ではない。周囲の人間はイタリア人ばかりだし、組織もイタリアの一角を陣取り動かない。財団にやって来ても、彼はやむを得ない仕事以外はチームの輪から出ようとしなかった。コミュニケーション能力は成長しない。
狭いコミュニティの中で生きている彼から見れば、少女のステップは大きかった。
「ありがとうございます。イルーゾォさんがそんなことを言うなんて思ってなかったです」
それにしても正直だ。元からこうなのか、それとも、とイルーゾォは大きな口を引き結んでため息を堪えた。言葉遣いはそれなりでも、なまじ英語を操れるようになってしまったがために率直さに磨きがかかってしまったのではないか。物おじしない度胸があると褒めるべきか、立ち位置をわきまえていないと呆れるべきか。
青年はどちらもしなかった。
「俺だって感想くらい言うよ。まったく知らない顔じゃあねえんだし」
「あ、そうですよね、すみません……」
「謝んなくていい」
突然殊勝になられるとぎょっとしてしまう。イルーゾォの周りには、こんなふうなタイプはいない。今の言葉を取り上げるならば、ほとんど全員が「それもそうだな」とだけ言って話を終わらせるだろう。
不遜かと思えば気が弱くも見える。
少女のアンバランスな態度に不安を抱いたイルーゾォは、女性を放っておけない国柄であることも手伝って、気のいい提案をした。
「何か用があるなら俺からあいつに伝えようか」
逡巡し、少女は頷いた。少し待って欲しいと慌てた彼女は、トートバッグからメモ帳とペンを取り出して記憶を辿る。台のない不安定な場所で不器用に文字を書くと、きつい折り目を付けてできるだけ綺麗に切り取った。それからハッとして、紙を握りつぶした。
「すみません、待ってもらったのに。やっぱり、ひと言だけお願いします。ありがとうございました、と。私は日本に行くんです。直接伝えられたらいいんですけど、会えるかわからないから」
そういえばホルマジオとプロシュートは、この少女をよく気にかけていた。なるほど礼を言いたかったのか。イルーゾォは簡単な英文を頭の片隅に置いた。
「それ、何書いたんだよ?」
チームのうちで数えても、イルーゾォは他者との接触が少ない。だから少女の手から紙切れを取り上げたりはしなかった。
「メールアドレスを書いたんですけど、こんなの要らないだろうなって気がついてしまって」
「要る要らねえを決めるのはお前じゃないだろ。渡しとくよ。メールが来なかったら捨てられたって思えばいい」
「それはそれで……」
しかし少女は書きなおすと言ってペンを手に取り直した。二度手間を制して、イルーゾォは皺くちゃになった紙切れを示す。「それでいい」と強く言われた彼女は拒否する内心を殺してそっとメールアドレスを差し出した。
「お願いします」
頷いたイルーゾォは踵を返した。別れ際に手も振らなかった。
この数時間後、彼女の携帯電話は三度震えることになる。
正しく伝言を受け取ったホルマジオからの祝いの連絡と、プロシュートからの直接の電話。それからなぜか件名に名前だけが入力されたイルーゾォからの空メールだった。
ホルマジオが携帯電話に黙々とアドレスを打ち込んでいる間、彼の背中越しにひょいと覗き込み、黒髪の彼もまたモバイルのボタンを押した。
「オメー、『許可』もなくンなことして良いのかよ?」
「悪用してるわけじゃねえし」
「自分がされたら一生口利かねーくせにな」
そんな会話があったとしても、少女はもちろん、知る由もない。