ドキドキスケルツォ



15



少女はノックの音で目を覚ました。朝に部屋の戸を叩くのは世話係の女くらいだったが、彼女はこんな大きな音の立て方はしない。もっと控えめで、声を伴って少女を起こす。
時計を見ると、いつもの時間よりも早かった。
「すぐに出ます……」
心なしか語尾が弱弱しい。
うがいをして顔を洗い、髪をとかして、パジャマからワンピースに着替える。五分とかからず用意を終えると、少女はドアに駆け寄った。鍵を開けてドアノブを下ろすだけでドアは強く押された。驚き、たたらを踏む。スピードワゴン財団の膝元での強盗だったらどうしよう、と突拍子もない考えが浮かんで消えた。
「おいおい、オメー、日本に行くって本当かよ!?」
「ミスタさん?」
無駄にした時間がもどかしいように足踏みをした青年は、グイード・ミスタだった。

少女は、彼との出会いを思い出していた。目を丸くして名前を呼ぶのは何度目だろうか。彼は少女の好きなタイプの『イケメン』ではなかったので気にせず会話することができていた。ただ、時おりイタリア語が混じる粗っぽい言葉遣いには眉尻を下げる。とにかく『四』が嫌いなことはわかったので、できるだけ刺激しないようにあたりさわりのない相槌を繰り返した。英語の発音が拙い少女は、似た響きの単語にも気を配ったものだ。
そんな思い出が一気に蘇った。自然と朝の挨拶が腰の引けたものになる。
なぜ、彼はここに来たのだろう。
ミスタらはスピードワゴン財団とは違う集団に属する。二つの組織は定期的にお互いの幹部を交換し情報を共有しているが、その派遣期間も過ぎていた。甘く苦い記憶を少女に染み込ませ颯爽と去って行ったブチャラティに率いられ、彼もまたパッショーネへ戻ったはずだった。
少女とミスタの会話には取り立てて面白いこともなかった。ミスタはジョークが得意だったし、ユーモアにも溢れていたが、少女にはそれを理解できるだけのコミュニケーション能力がなかった。言葉が通じないのだから、断片的にしかわからない。後から辞書で調べたり、世話係の女に意味を訊ねたり、その程度のことはしていたが、直接的なやりとりの中で弾けるように笑えたのは数えられる程度の回数だけだった。ミスタがそんな会話を楽しんでいたとは思えない。少なくとも、彼女はそう考えた。気のいい青年は付き合いを切り上げるタイミングを見失っているのだと。
だからこそ、ミスタがこの場にいることが理解できない。次の派遣期間がやって来たとは、誰からも聞いてはいない。
「あの、本当にどうして」
少女の声は困惑でいっぱいだった。ミスタは彼女を見て、だから、と頭を掻きむしった。
「だーかーら、オメーが日本に行くって決めたってジョルノから聞いてよお」
「ジョルノから?」
確かに、馴染みのカフェで金髪の少年と話をした覚えはある。決断した数日後のことだ。父親であるDIOから聞いたと真剣な面持ちで少女にお茶を奢り、一つ一つ悩みの糸を解くように話をした。彼との話は有意義だった。
仲間に話しても構いませんかと、確かに言われた気がする。「ブチャラティはあなたの進路を心配していますし」と続けられ、カッと頬が熱くなったのは恋心を引きずっていたからではない。甘酸っぱく痛々しい気持ちが胸を刺したからでもない。誰かが知らぬ場所で自分を心配していたと教わるのは、存外恥ずかしいものだ。
ミスタはジョルノとブチャラティが話をしていた場面に立ち会っていた。そして少女の衝撃的な選択を聞き、地中海の国からわざわざスピードワゴン財団の本部まで乗り込んだ。
少女は呆れ果てた。なにを馬鹿なことをしているのかと思った。口にも出した。
「なにをやっているんですか……」
青年は動じず、少女の部屋には一歩も踏み入らないまま、唇を尖らせた。
「だってよぉ、俺らはダチじゃねえか」
その言葉で、少女は頭を殴られた気がした。脳を揺さぶられ、目の前が真っ白になった。
「と、ともだち?」
「……まさかオメー、そう思ってなかったんじゃあねーだろーな?」
ミスタは呆然とする少女の額に拳を押し当てた。呆然としたいのはミスタの方だ。あれだけ話をして笑い合ってお茶をしたというのに、友人として見られていなかったとは。
「私の為に、来てくれたんですか」
「……まァ、ジョルノ繋がりでこっちに来る用事があったから、その仕事を俺に回してもらったんで、無理にってワケじゃあねえよ。心配すんな」
「いえ、大丈夫です。していません」
「オメー、そういうところはしっかり言えるのな」
ミスタの肩越しに廊下の窓を見て、少女はようやく外が雨で濡れていることに気がついた。視線を動かして足元を見る。ミスタの靴は濡れており、廊下の向こうから足跡が続いていた。だから、少女の部屋には入ろうとしないのだ。
「オメーが日本に行くと、寂しくなるぜ」
骨ばった武骨な手がうろうろと彷徨った。少女の肩を支えようとしたのか、腕を組もうとしたのか、腰に当てようとしたのか。どこにもゆかずに手は下ろされた。
「一人で暮らすのか?」
「いえ、ジョナサンさんの、弟さんの、お友達が。高校を卒業するまで、面倒を見てくださるそうです。私は一年遅れて進むので」
「この二か月で随分話せるようになったな。次はイタリア語だな」
改めて言われると照れくさい。少女は俯いて小さく頷いた。自分の世界が広がっていく感覚は確かにあった。今ならば、イタリア語の勉強もできそうな気がしている。
「いつ行くんだ?」
「冬にはもう、ここにはいないと思います」
「年明けなら、ブチャラティたちもまたここに来るんだけどな」
残念だと思った。ほがらかで明るく、優しい人たちにもう会えないというのは、とてももったいなく感じる。
改めて、もうこの関係は終わりに近づいているのだなと実感する。ミスタとこうして言葉を交わすのは、これが最後になるかもしれない。
しんみりして再び俯いた少女の頬をぐにりとつまんで、ミスタは彼女と視線を合わせた。
「今生の別れみてえな顔すんなよな。手紙でも寄越せよ。……いや、メール!メールがあるだろ!オメーのアドレス、教えとけ。ケータイくらい持ってんだろ?」
「はい」
「んじゃあー、簡単だ。後でまた来るから。そん時までに寝癖直しとけよ」
やって来た時よりもあわただしく、ミスタは話を無理やりに終わらせて片手を上げた。つられて手を振った少女に背を向け、ばたばたと走って別の棟へ向かう。彼は朝早くの打ち合わせの前にこの部屋を訪ねたので、時間の猶予があまりなかった。言い換えれば、それほど少女のことを心配していたのだった。
寝癖のついた髪を撫でつけ、少女はドアを閉める。メールアドレスを交換する準備を整える為、必要もないのに携帯電話を開いてボタンを押した。こんなことはすごく久しぶりだった。