ドキドキスケルツォ



10



日本へ渡るのか、それともこの国で暮らすのか。学校はどうなるのだろう。進路は、勉強は。
少女には考えるべきことがあった。自分の未来について、何一つ結論を出さないまま生きていくだけの力は、まだ彼女には備わっていない。かと言って、すべてを保護者に委ねるにはあまりにも成長しすぎている。誰かからの的確な助けを求める為に、道を決めなくてはいけない。
一人で考えるだけの時間は、充分に与えられていた。もうすぐ、この地へやって来てから半年になる。一喜一憂し、人と出会い、拙い英語での会話をおぼえた。相手の名前を呼ぶ勇気はいまだに出なかったけれど、少女は自分でも知らないまま、五か月前よりもしっかりした顔つきになっていた。
鏡の中の自分は冴えない表情をしている、と思う。
目を覆っていたフィルターが取り去られた気分だった。世界は桃色に色づいているのではなく、こんなにも鮮烈で眩しい。
改めて街を見れば、人々はそれぞれの人生を持ちそれぞれの生き方をしているし、皆違うことを考えている。少女の知らなかった価値観が存在し、とんでもない悪態も、悪意も、それから信じられないほどの善意も、さまざまな感情が行き交っている。彼女はようやく、この世界が自分を中心に回っているのではないと気がついた。
そう思ってみると、自分という存在はなんと矮小なのだろう。
外へも足が向かず、いつも財団併設のカフェで中庭を眺めるばかりでいる。勉強をしていても、気がそぞろになり、知り合いの顔を見かければすべてを放り出して頼りたくなってしまう。

この日も少女はカフェにいた。
いつもと同じ席を選ぶ。顔見知りの財団職員が、少女の顔を見て微笑んだ。
「今日は顔色が良いね」
顔色が悪い時期があったことに驚く。そして、それを誰かに見つけてもらえていたことに、どうしようもない照れくささをおぼえた。
「ありがとう」
世界は敵ばかりではない。
地球は彼女を中心に回ってなどいなかったけれど、少なくとも、彼らは彼女に優しかった。
サンドイッチの包みをはがしていると、俯く少女の視界に重そうなブーツが入り込む。使い込まれた色合いを見て、ある人の笑顔を思い浮かべる。背筋を伸ばして見上げた先には、予想通り、メローネが立っていた。
「やあ、こんにちは。今日は一人なんだな」
このメローネはひどく人好きのする笑顔を浮かべる。警戒心を解かせるのが上手なのだ。
彼と同じグループに属する気のいいホルマジオや不愛想なイルーゾォは、メローネを『変態』だと言った。仕事に熱中すると周りが見えなくなり、どんな無茶でも平然たる様子で要求する。目的さえ達成できれば、過程など気にしない。そのくせ、まったく必要のない部分で相手の意思を尊重する。ある意味で、自分の身を切り売りした仕事ぶりだと。それを苦とも思わない様子は、まさに奇抜な服装に相応しい奇天烈さを醸し出す。
非日常的な称号に似合わない気安さで、メローネは相席を求めた。少女はわずかに躊躇いを見せる。彼は、少女がイタリア語を理解できないとわかっていながら、彼自身の母国語で話す。当然、お互いの意思疎通は難しい。
しかし、同時に彼女には断るだけの勇気がなかった。相手の気を損ねることを想像すると恐ろしくてたまらない。人間関係を壊してしまう可能性を恐怖する。
彼女は元々、人付き合いの苦手な性格をしていたが、ここは特に知らない世界だ。向けられる優しさがいつ棘に変わるかわからないと気づいてしまえば、より相手の頼みを断りづらい。
渋々頷く少女を、メローネはよくよく観察していた。隠しているようだけれど、嫌がっている内心がわかりやすい。
メローネがわざとイタリア語で話しているのは、あえて英語に切り替えて頭を使うのが面倒だからだ。気まぐれに相手をしているだけなので、彼女の返事はどうでもいい。いつも通り勉強をしてくれと身振りで示し、向かい側から数字の間違いを指で指摘すればいい。ラッテを飲むついでの良い暇つぶしだった。
「ラッテを買ってくる」
少女はメローネの背中を見送り、小さなため息を吐いた。一人で静かに将来について考える時間はなさそうだった。