ドキドキスケルツォ
06
心配されているのだと再び気づいたのは、今までは目も向けていなかった『イケメン』ではない男に話しかけられた時だった。
初めて書いた同性愛の小説に胸を高鳴らせた深夜から一週間が経ち、『パッショーネ』からやって来た人々は自分の組織へと戻って行った。ブチャラティもまたその一人だった。
彼は別れ際、暖かい身体で少女に優しいハグをくれた。ぎこちなく抱きしめ返す傍ら、少女が素早く目を走らせたのは、ブチャラティの背後に立つ長身の男の表情だ。いつもしかめっ面の男はその日も不機嫌そうな顔をしていた。
彼は、少女を邪魔者扱いしている。少女も、今となってはそのことが当然に思えた。自分の身に置き換えてみれば、当然である。恋人との仲に図々しく割り込んできた女狐にも等しい。
そのことを覚った当時は、少女の心に耐え切れないほどの不可がかかった。ショックで、不安で、どうしようもなかった。自分の行動が誰かの嫌悪を呼び起こすと知ったのは初めてだった。
しかし別れ際には、なぜかとても穏やかな気持ちになれた。
(この人は今、嫌な気分なんだ)
なぜ嫌な気分になっているのか。それは、恋人であるブチャラティが、女狐とハグをしているからだ。
そう考えると、少女は穏やかに微笑んでしまいすらした。そうだ、アバッキオはブチャラティが好きで仕方がないのだ。そしてブチャラティも、アバッキオのことが好きなのだ。もしかすると少女とハグをしながらも、アバッキオとの違いを感じているのかもしれない。
少女の笑顔を見て、アバッキオは器用に片方の眉を持ち上げ、気持ちが悪そうに口角を歪めた。
不思議なほど凪いだ別れから数日が経った。
もう二か月もすれば、少女がこの世界へやって来てから半年ほどになる。
彼女は徐々に勉強に目を向けるようになっていた。進路の問題からは逃れられないと気づき始めていた。
自室に居ると別のことを考えてしまうので、勉強道具を持って財団併設のコーヒーショップを利用する。少女は何度でも使える割引のチケットを与えられていた。
毎回違うコーヒーを注文し、決まった席で勉強をする。
たまに話しかけてくるのは少女のことを気にかける職員たちだ。例えばそれは異世界からやって来た彼女を最初に保護した数人や、ブチャラティに恋慕する姿を面白がっていた数人だ。
この日、少女のテキストを覗き込んだ『イケメン』ではない男は、名をホルマジオと言った。
ごつごつとした手が勝手に参考書のページをめくる。邪魔をされた少女は俯いたまま舌打ちを殺し、できるだけしとやかな笑顔で男を見上げる。
彼にしてみれば、少女の腹芸などお見通しだ。誰に対しても好印象を抱かれたがる少女だから、いちいちおちょくってやりたくなるのだった。
「よお。今日は何だ?英語じゃねーんだな」
何を言っているのか、少女にはさっぱりである。かろうじて挨拶の言葉だけは馴染みがあったが、それはブチャラティやジョルノがイタリア人だったからだ。英語で話しかけ、言語を統一しようとしてくれてはいたが、彼らも咄嗟の挨拶だけはイタリア語が出ることが多かった。
少女は英語ならほんの少し聞き取れるようになっている。最も身近な通訳の女以外は全員が英語か、それ以外の言葉で会話しているからだ。わかりやすいものなら理解できる。
だが、この男が操る言語はすべてがすべてイタリア語だった。
最初から意思を通じ合わせるつもりなどないのだ。
ホルマジオは自分の名前だけは根気よく教え込んでいたが、少女は「ホルマジオ」とは決して呼ばない。間違えていたら怖いからだ。バカにされるのが怖いからだ。
「なあ、オメーさ」
ホルマジオは自分のコーヒーを持って少女の向かいの席にどっかりと座り込む。
不意に真剣な顔をした男に、少女はドキリとした。叱られるかと思った。
身構える少女に、ホルマジオは英語で話しかけた。
「これからどうするんだ?どっから来たのかは知らねーが、生まれはジャッポーネだろ。戻るのか?」
すべての人間に、少女の事情が知らされているわけではない。スピードワゴン財団に属する超常現象研究部門のごく一部だけが共有する事実だ。『パッショーネ』のブチャラティやホルマジオがこのことを知っているのは、ひとえに彼らがスタンド使いであるがゆえだった。
少女の顔が暗くなった。考えているつもりでも、目をそむけたい。日本語が通じても、そこにいるのは友人ではない。新しく人間関係を築くことは苦手だった。なぜならここは『現実』なのだから。
「私は戻らなくちゃ」
「戻りたくねーなら戻んなくてもいいんじゃねーの?そもそも『戻る』っつうのも正しくねえよなあ?」
何を言っているのかは断片的にしか聞き取れないが、少女は苛々と波立ち始めた感情を抑え込んだ。日本に行きたくないから行かなくていいなんて、今の自分には許されないことだ。
言いたいことはあったが、英語で表現を探すことも面倒だった。うまくまとめられるかもわからないし、発音だって並以下だ。
少女は諦めて、そうですね、と曖昧な相槌を打った。得意ではない言葉で、別段イケメンでもない男に話しかけられている現状は、彼女にとって大層なプレッシャーのかかるものだ。できるならば、テキストをまとめて片付けて逃げてしまいたいくらいだ。
「オメー、日本に知り合いが居んのか?」
「……いません」
「こっちには」
「ちょっとだけ」
「だろ!?」
突然の大声に、取り繕いきれず、表情が引きつった。
「どこの国籍だって捏造する手間は変わんねえんだしよお、好きな所を選んじまえばいいんじゃねえの」
ホルマジオと少女はそれきり黙って見つめ合った。相手は少女の趣味の『イケメン』ではなかったので、彼女は照れたりはしなかった。
しかし一つ、残念なことがあった。どうしようもない壁だった。
少女には、ホルマジオの言葉が八割しか理解できていない。
「まだ決めちゃあいねえんだろ?」
「はあ」
「過ごしやすい方を選べよ」
ぐい、とコーヒーを飲み干して、ホルマジオは席を立った。
少女は座ったまま、「あの」と呼びかける。
「心配してくれたんですか?」
いかつい男は振り返って笑った。
「そりゃそうだろ、まだオメーはガキだしよぉ」
イタリア語だったが、言われた意味はわかった気がした。
すとんと心の中に落ちた感覚をかみ砕いて、「ああ」と少女は呟いた。それから周りを見まわして、休憩をとる事務員たちの視線が自分に集まっていることに気がついた。彼らは目が合うと一様に微笑んだ。剃り込みの入った目立つ男に、日本人が異国の言葉で絡まれているのではと懸念したのかもしれない、と思った。
ここでも彼女は心配されている。
多くの人に心配されているし、少女が外に出ると通訳の女は喜ぶ。彼女の名前は最近知ったが、やはりまだ『間違えているかもしれない』という思いから、呼べずにいた。それでも、話しかけると顔を輝かせて対応をしてくれる。
少女は自分の周りに世界が広がっていると理解した。現実に人がいて、会話をして、誰の好感度も目には見えない。誰も自分を愛しはしない。メロメロにもならない。でも、好意は持つし、気にもかける。
「あ……、ありがとうございます」
もごもごと口の中で言葉を持て余す。
ホルマジオはさっさと行ってしまったし、小さすぎて誰にも届かない声だったけれど、少女は膝の上で手を握りしめてもう一度だけ言った。