ドキドキスケルツォ



02



少女の立ち直りは遅かった。イケメンは、ブチャラティを切っ掛けにしたように入れ代わり立ち代わりすれ違い、そのたびに気づかわしげな視線を少女に向けたが、少女はしばらくそのことをまるきり無視していた。それほど、ブチャラティへの思い入れは深かったのだ。
アバッキオ。その名前が男の名前だと知っていたからこその衝撃だったのかもしれない。
少女は同性愛には理解がなかった。自分が主人公となる物語こそが至高であり、イケメンはすべからく『主人公』を愛する。つまり、そういうことなのだ。彼女の物語の中では彼女が主人公であり、異世界のイケメンは自分に惚れるのが当然だと。
「アバッキオって……」
言われてみれば、ブチャラティに話しかける時は時たま彼の隣で嫌そうな顔をしている男がいた。いわゆる『ツンデレ』のたぐいか、とストライクゾーンから離れた男を軽くあしらっているつもりだったが、アレは嫉妬の視線だったに違いない。
想いを寄せたブチャラティがホモだったことにもショックを受けたものの、本当はそれ以上に、自分が嫌な目で見られていたことに心が揺さぶられていた。
もしかして、私って『ライバル』だったのか。
やがて新しい男性と会話をするようになった少女は、ふいに彼とよく一緒に歩いている男性が優しげな表情の裏に複雑な色を隠していると気づいた。そこでようやく少女は『相手の立場に立って考える』思考法を身につけた。
ライバルの名ですらおこがましいのかもしれない。
数えきれないほど読んだ小説の中で、ヒロインとヒーローの間柄に割り込む女キャラクターには何度苛立たせられたかわからない。少女はそんなキャラクターのことを『ライバル』とは呼ばなかった。『お邪魔虫』だ。『間男』ならぬ『間女』と表現することもあった。
自分は、それなのだ。
気づいた瞬間、愕然とした。邪魔なのだ。自分の想いは誰かの邪魔になっているのだ。おそらく、結ばれているであろう二人にとっては迷惑なものでしかない。
少女は激しいギャップに眩暈を起こしたが、願い通りには気絶できなかった。ヒロインのようにはいかないのだと、改めて知った。
「私は……」
独り言の癖は抜けなかった。
しかし、かろうじて、恥を思い出した。
(私は、ヒロインじゃないのか)
現実が、彼女の目の前に立ちはだかっていた。

少女は再び、足元を揺らがされたような気がした。
気分転換をしようと、支給されるお小遣いを手に「買い物に行ってくる」と自分の足で外に出れば、世話係の女は目を丸くした。
「大丈夫ですか?外に出られますか?」
「どういう意味?」
「いえ、今まで財団の外には出ようとしなかったので……」
日本語の通じない国を怖がった少女は、この世界にやって来てからこれまで一度も一人で外に出たことはなかった。
そういえばそうだったと思い出し、少女はこれまた初めて、世話係の女にこう訊いた。
「心配してくれてたの?」
少女は元々インドア派だ。学校をわざと休んで家に引きこもっていることもあったし、休日には家族で旅行に行こうと言われても、ネット環境のある自室からなかなか出ようとはしなかった。
知らない世界では、そんな出不精にも拍車がかかる。
妙齢の、いたって普通の顔立ちをした外国の女は頬に手を当てて明るく微笑んだ。
「ええ、少し。だけど、よかった。いつまでもここに居るわけにもいきませんものね。少しずつ慣れるのはいいことですよ」
誰かに気を遣われるのは当然だと、身内からの庇護が染みついていた少女は、『他人』に心を砕かれていたことをようやく自覚した。
それと同時に狼狽える。
(いつまでもここに居ちゃ、ダメなの?)
学校にも行かず、遊び暮らしているのは楽しかった。異世界で、ずっと楽しく生きていけるのだと思っていた。
呆然としたまま地図を片手に街に出たので、見知らぬ世界に怯える暇もない。お洒落な筆記用具を見て何とか気力を湧き立たせ、自分を取り戻すように、お小遣いの限度いっぱいまで欲しいものを買い込んだ。

今までに出会った人の名前を書き連ね、これからどうしようかと、分厚いノートを前に考える。今後のことを考えなくてはいけなくなっていた。
進路選択が嫌で、ずっと逃げていた。受験戦争のさなかに見知らぬ誰かの『スタンド』によって異世界へ連れ出され、偶然にも手厚い対応を受け、こうして悠々自適な生活を送っている。
しかし、いつまでもこうしているわけにはいかないのだそうだ。
そのうち少女は追い出される。
「金銭的な保障は……」
心配はないだろう、と判断した。彼女はあまりきれいではない字で、不安でいっぱいになりながら文章を書いていく。書くことは嫌いではなかった。いつもパソコンで文字を打っていた彼女は、手の力は弱かったが、すらすらと言葉を紡ぐことができた。
お金は。学校は。勉強は。受験は。進路は。生活は。独り立ちとは。言葉は。人間関係は。この後は。
頼れる人はいない。誰に助けを求めても、今更なような気がした。
帰りたい、と強く思った。こんなことなら、家族と一緒に、元の世界で、少ない友達と一緒に「いやだなあ」と言いながら受験をしている方がずっとましな気がした。あの世界では、彼女は一人ぼっちではなかった。
少女は初めて泣いた。
自分の為に泣いた後に、両親が心配しているかもしれない、と思い出して、また泣いた。