スティーブン/原作中
スティーブンの携帯電話がうなった。プライベート用だったので後回しにしようかと思ったが、嫌な予感に駆られて開く。画面には知己の名があった。
盛大に顔をゆがめた番頭役に、チェインは着信の主を思い浮かべる。
ミス・に違いない。
たがわず、彼は思い浮かべた名を呼んだ。
「僕だ。今忙しいんだが」
「うるせーバカ、唯一無二の友人を気遣う言葉はひとっつも出てこねえのか、くそっ、刺された、くそ、どうなってんだこの地域の治安はよォ!!ミスター・スターフェイズ!おたくだよ、おたく!」
「治安が悪いのは今に始まったことじゃない。文句だけなら切、……、……刺された!?」
数秒おいてセリフに気がついたスティーブンは、思わず素っ頓狂な声を上げて目を丸くした。
最近あいつは血を流すことが多いな、ととりとめのないことを考えながら、どうやら血も涙もあるらしくて実によろしいと洟をすする不快な音を電波越しに聞く。うめくような声は、それでも生命力に満ちていた。何せミス・は、全身を吹き飛ばされようが生きる気力だけにしがみついて一命をとりとめそうな女だ。
貪欲で狡猾で、己を至高とする気高く穢れた精神を持つ存在。
誰だか知らんが定期的に痛い目を見せてやってくれてありがとうと言いたくなる自分もいたが、素直に『友人』の心配をしてしまう無垢な心もあった。
「おい、どこにいる?」
事件の情報は入っていない。大規模で暴力的なストライキやテロリストの侵攻や強盗、連続殺人などの報道不可避な状況に巻き込まれたわけではないらしい。
「どこだろうなァー。私が知りてえよ。っ、てえな……、くそ……」
「どこを刺された?というか、俺に電話をかけてないで早く救急車を呼んだほうがいいんじゃないか」
「呼んだとも。渋滞が起きてなきゃあ今ごろ私は白いシーツの上で安穏におねんねできたってわけだ」
「永遠に、かい?」
「ふは、ふは、はは、うふふ」
「どっかで薬でも拾ってラリってきてるんじゃないだろうな」
「脳内麻薬ってやつだよォ。わかるだろ、おたくも何回も死にかけてんだから。気持ちよォくなっちまうんだよこういうときってのは。ふは、ははは。血が……」
笑いながらも声からハリが失われていく。
救急車の到着はまだなのか、と焦る自分がいることに、スティーブンはひどく驚くと同時に納得した。
友人だ。彼女はまだ、いつだって彼の友人でいるからそう感じるのだ。
手出しができず眉根を寄せた彼は、チェインに服の裾をひかれて、目と目で意見を交わしあった。渋滞が起きている地域を素早く見回れば、どこかでぐったりしている彼女を見つけられるかもしれない。騒ぎにならないということは、裏路地か何かの奥でひっそりと倒れているに違いないから。
スティーブンは首を振った。友人としても、『支援者』としても捨てがたい存在だ。チェインがすっと姿を消した。
見透かすかのように、ミス・は見る者もいないのに口角を持ち上げる。
「万が一のことがあったら、義弟どのに伝えてくれるかい、私の大切な大切なプリティーフレンドさまよ」
「何をだ?」
「おや、突っ込まないんだ、優しいじゃあないか。こないだのアレもそうだが、おたく、実は私のことをめちゃくちゃ友人だと思ってらっしゃるだろ?」
ぜいぜいと荒い呼吸が聞こえる。
「悲しいことに時おり嫌悪されているようだけれどそれはクズの宿命というもの。ダチだろうがそうでなかろうが無関係よ。友人関係。素晴らしいね。だからおたくはわたくしを割り切って捨てきれない。スティーブン・アラン・スターフェイズどのともあろうものが!ああ、でも捨てきれないほど大事なわけじゃあないから言い方としては正しくないね。捨てきる必要がないほどどうでもいい、おたくの精神には何の影響も及ぼさないハリボテのお友だち……ってとこかな。古い思い出のぬいぐるみがあるとするだろ?ふふ、捨てる理由がなければ懐かしむだけで終わる。また段ボールの中に逆戻りさ。捨てるわけじゃあない。よほどの理由がなければ捨てたりしない。そういう関係なんだよ、私と、おたくと、ミスター・ラインヘルツはね」
「どこを刺された?」
「どこだろうな、こりゃ。内臓には詳しくねえんだ。食う以外の趣味はなくてさあ。焼き肉をいただきたいわ。ミスター・スターフェイズはどこの肉が好き?私はやっぱりロースかしら。あーあ、たらふく食いてえなあ。ミスター・ラインヘルツにお願いしておいてくださる?」
語尾が震え始めた友人に、スティーブンはすっぱり切り込んだ。
「ミス・。もし君が死んだら支援は打ち止めか?」
の領地で義姉の帰りを待つ義弟は、彼女の財産を引き継いでこちらへ援助し続けるだろうか。
かの地と義弟におけるすべての手綱を握る女に問いかけると、血の気を失った低い声がくつくつと笑った。それはスティーブンの耳をひどく不快に冒した。
「義弟に任せるさ」
もっともありえないと考えていたカードだった。
正気ではないのかもしれない、と思う。普段の彼女ならば、自分の財産を義弟に譲渡することすら何かと理屈をつけて先延ばしにしているはずだ。だいたい、一番の理由は胎が違うことで、二番の理由は未熟さである。二番目はともかくトップランナーとして走る直近の理由が腹違いゆえという非情な言い分なのにはほとほと呆れかえるし、倫理観が欠如しているとしか感じられない。
それがどうして、また。
「実質打ち止めみたいなモンだよ。なぜならわたくしの可愛い可愛い義弟どのは実にわたくしのことを愛しているからね。わたくしが無残で正視に堪えない屍と化してしまえば、それは『支援者』たるわたくしを守り切れなかった『彼ら』に全責任があるからとつよォく言い含めてある。ふふ、ふ……ふふふ。あんな義弟であってもね。物分かりはいいのさ。大事な大事なおねえさまを傷つけられ、永遠に会えなくされちまった可哀想な青年がどうするかなんて……決まってるだろ?アッハッハ、アハッ、あー……、はは、頭がふわふわしてきやがった」
「君の頭がふわふわしているのはたぶん最初っからだと思うけどな。そもそもなんで刺されたんだ」
恨みでも買ったか。
ミス・が姿勢を変えたらしく、ざらざらと石壁がこすれる音がした。
「一張羅が血まみれだぜ、おい。買ったばっかりだぞ。しぼればトマトジュースが出てくるんじゃあないかねこりゃあよォ」
「僕は君が死なない気がしてきたよ」
「こちとらか弱い乙女だぞ、簡単に死ぬさ。で、なんだっけな」
「刺された理由だ」
「ああ、そうだ」
ミス・がへらへらと、いやらしい笑みを浮かべたのがよくわかった。嫌な感覚に唇を曲げたが、スティーブンの不愉快さは吹き飛ばされる。
「『あたしのスティーブンを誘惑するんじゃないわよこの雌猫!』」
「はっ?」
電話の向こうでまた雑音がした。笑い転げているのだ。血まみれのくせに。
「アハッ、ハッハ。しょうみな話な、笑っちまったよ。私にだって趣味ってもんがある。ふふふ、おたくみたいないっそ狂ったビジネスマンはお断りー、だってのになア!確かに優良物件だとは思うが、毒サボテンに全力でハグをするヤツがいるか?フフッ、出血がひどくなるから笑わせないでくださるかしら」
一瞬、都合のいい作り話ではないかと考えてしまったのは事実だ。
だが、ミス・はこんなつまらない嘘はつかない。必要がないからだ。必要がないことはしない。貸しをふっかけるなら、もっとうまいようにやる。事実無根の言いがかりは、嘘が露呈したときに不利を生む。
だからこれは本当のことなのだろう。
「……すまない」
「すまんで済むお話だと思っていらっしゃるの?恋人の管理くらいちゃんとしておきなさいよねブン吉くん。名探偵ちゃんとしてご忠告申し上げるぜ」
いちいち癇に障る話し方をする女であるが、特に言い返せない。
「その女は名乗ったかい」
「刺す前に名乗りを上げるヤツぁサムライくらいだ。知らんがな。茶髪の女だったよ。ウェーブにして……、ああ、緑の目だったかな。顔はよかった。私の次くらいにだがな」
「ああ、わかった」
チェインが出て行って、事務所には誰もいなくなっている。見計らったかのように、ミス・は笑い声を立てた。
「何番目の恋人でちゅか」
「ざっと六番目だ」
「アーッハッハッハ!アッハッハ!そういうところ大好きだよ。ミスター・ラインヘルツに聞かせて差し上げたいね」
「今度こそ道路に蹴り飛ばしてもいいなら、好きにしてくれ」
「刺された上に蹴られて最終的に轢死か。なかなかいい人生じゃあないかね」
ミス・はそう呟いて、ぼとりと電話の落ちる音がした。
音は通じたまま、渋滞に苛立つクラクションが遠く響く。
「?」
返事はなく、サイレンのうなりも聞こえなかった。