チェイン/原作前


手紙の行方を追いかける。
投函したのは彼女ではない。
住所に不備があったから、と差出人を装って電話口で修正を依頼した彼女は、ざるから入手した番地と建物を前にメモ用紙を畳んでバッグに収めた。こうも簡単にいくとは予想外だった。勤務する知り合いに対応を頼んだというのもあるが、コネを使ったとしても甘い管理体制はいかがなものか。彼女は金輪際この窓口を利用すまい。
階数を確かめ、躊躇いなく階段を上ってゆく。
禁忌に踏み入る背徳的な興奮は腹の底でくすぶったままだ。
ミス・はドアベルに指を当て、鳴らした。
扉の向こうで物がこすれる音を聞き、返事を待たず取っ手に手をかける。隔たりの向こうと動きが重なり、部屋の主は扉を開けようとして空振りした。無用な力をつんのめって殺す。
生まれた隙間から、見覚えのある、柔らかい微笑みが覗いた。
「こんにちはあ、皇ちゃん。遊びに来たよ」
ぞっ、と全身に鳥肌が立つ。
「ミス・……」
「まあ大変、顔色が悪いわ。熱があるんじゃない?」
「どうしてここが」
「皇ちゃんの家だとわかったか、って?そんなこたァどうだっていい。具合が悪いって風の噂で聞いたもんでね、色々と買ってきて差し上げたよ」
「いえ、そういうのは……困ります」
「貸しにはしないよ。もう『住所』を貰ってるからね」
心の底から嫌悪感がこみ上げた。勝手に行われた取り引きで自分の個人情報が使用されたとなれば、チェインの心情は誰にでも察せよう。
「入れてくださらない?こうして玄関先で問答を繰り返したってつらいだけだ」
「どんな目的があるんです」
「目的?強いて言うなら、清く正しいオトモダチの同僚が苦しんでいるのを見過ごせないから看病しちゃおっかなぁってトコだよ。ああ、なんて心優しいミス・!さあ入れてちょうだい。部屋が汚かろうが綺麗だろうが隠し子がいようが気にしないよ」
ミス・の発言は、多くの人間に警戒を抱かせる。何もかも見透かしたような顔で真実に掠める話ばかりするものだから、向ける眼差しは鋭くなる一方だ。本人は何ひとつ気にせず微笑んだ。温和な顔立ちに、嫌悪を感じさせる表情が浮かぶ。ひどく不釣り合いで、目にするだけで心の中をかき乱された。
やり取りで体力が削られるよりは、と重い頭で判断したチェインは、玄関の扉を大きく開いて突然の訪問者を招き入れた。風邪をひいた不備だらけの体調だ。思考をフル回転させて突っぱねようとしても、万全なミス・の屁理屈と気分の悪くなる言葉遊びに立ち向かえるかは謎だった。
どうぞ、と言われて初めて玄関に踏み込んだミス・は、靴の泥を丁寧に落としながら、聖母のように優しい瞳にチェインを映した。熱で体温の上がった手に手を重ねられ、そこからおぞ気と鳥肌が全身に走る錯覚に襲われる。
「ありがとう、皇ちゃん。実は私は悲しいことに、許可がないと他人の家に入れない体質なのさ」
「おかしな体質、で……」
途中で言葉に詰まった。
伝記は飽きるほど読み込んだ。諳んじろと命じられても応えられる。
手に力が籠もり、閉めた鍵からは乾いた咳をかき消す大きな音が立った。
「冗談だよ。流れる水は渡れるから安心しておくれ。何事も『許可』を得ずに無理強いするのは宜しくない。わたくしは真面目で品行方正な人間だから、無体は働きたくないのさ。ただそれだけの話だ。わかってるのにまだ疑うんだものね。我が愛しきの人々とミスター・ラインヘルツくらいだよ、私に何の疑いも持たないのは」
十割の責任は本人にある。
上がっても?と中に視線を遣られ、渋々頷く。部屋の清潔さについては本当に何の感想も口にせず、ミス・は足の踏み場を器用に探して歩いた。ゴミを含め、チェインの私物には一切触れないようにする。
とはいえ勝手を知らない他人の家であるから、完璧にとはいかなかった。
足が当たって空き缶の群れを崩してしまう。からんからんと音を立てた酒の缶は、ミス・のつま先を一滴、濡らした。
熱で朦朧とするチェインは気づかない。
ミス・は足を見下ろし、ふん、と鼻の奥から息を抜いた。どうでもいいこととして数えよう。そろそろ替えようと考えていたところだ。デザインを気に入ってはいたが執着はないし、ヘルサレムズ・ロットで面白い靴を探すのも貴重な体験だろうと前向きに見る。
彼女の機嫌をここまで持ち上げるほどに、チェイン・皇の住所は大いなる価値を持つ。
もてなすつもりか、病人は体温の上がった手でテーブルと椅子を整えて冷蔵庫を開けた。これは訪問者が組織の支援者であるからというより、誰に対しても行われる善意だろう。今は買い置きのペットボトルを手渡すのが精々だが、普段は表面的には淡くとも、ずっと丁寧に来客をもてなす。ただ、もてなしたいゲストがどうかは別だ。無警戒に扉を開けてしまった自分を恨もう。
ペットボトルを受け取ったミス・は、持参した袋からレトルト食品をいくつかと、新鮮な野菜と卵を取り出した。
「おかゆでも作ってあげよう。食べ切っちまっても安心だよ、レトルトでも持ってきてるかんね」
「え」
何か持っているなとは気づいていたが、ミス・にクッキングは似合わない。どのような顔をしていかなる手つきで包丁を握るのか、想像もつかなかった。刃物は野菜ではなく人に向けるものであると真顔で言われても違和感のない人物だ。
「『料理なんかできるのか』って?できるとも。こう見えて得意なタイプでね。具材はオーソドックスに、卵をメインにしよう。構わない?」
「作らなく、ても。寝ていれば治ります」
「じゃあどうして私はここに来た?看病の為だよ皇ちゃん。まさか本当に遊びに来ただなんて信じちゃいなかろうね?」
むしろそのほうが信ぴょう性が高い。
チェインは苦いものを噛み潰したような気持ちで唇を引き結んだ。
貸し借りは考えていないそうだが、どこでスイッチが入るかはわかったものではない。ミス・は悪意ある気分屋だ。至る所でポイントを切り替えて他人を弄ぶ。彼女の言をどこまで信じてよいものか、知るのは彼女本人だけだ、とチェインは熱でぼうっとする頭を叱咤した。
ミス・はどこまでも優しくチェインに触れた。希釈する余力も湧かず、追い詰められるようにベッドまで連れてゆかれる。
ゆっくり押し倒され、頭が枕に沈み、肩までかけられた毛布の重みが眠気を誘う。チェインは朦朧とし、身体に石が詰まったように平衡感覚を失う感覚にたゆたった。
「完成したら声をかけるから。キッチンを勝手に使っちまうけどどうか許し給えよ。そこまでの蛮行じゃあない。……でしょ?」
遠くから声が聞こえる。
「ああ、もう返事ができないかな。おやすみ、皇ちゃん」
何か言おうとしたが、ぬるついた眠りの波に抗えなかった。

チェインを寝かせつけると、ミス・は晴れやかな表情でテーブルにとって返し、置いたバッグからスマートフォンを取り出した。足元に細心の注意を払ってそっと戻り、アプリを立ち上げて寝顔をカメラに収める。盗撮だ。どこからどう見ても盗撮だった。
ただ、アプリの『診断機能』で遊び終わると、彼女は飽きたように写真を消した。
マナーモードに設定してしまい、キッチンを探して首をめぐらせる。
はたして見つけたそこに辿り着くと、「さて」と丁寧に袖をまくった。
勝手知ったる人の家、とはいかない。この空間は魔窟と言っても過言ではないほど散らかっていて、どこから手を付けるべきか、どこに何があるのかもわからない状態だ。とりあえず、キッチン用品はキッチン周りにあるだろうと推理して棚を開けては閉じる。
ようやく包丁とレードルを見つけ、ミス・はわかりやすく置いてあった鍋に持参の水を注いで準備を整えた。
トントンと野菜を切る音が響く。
チェイン・皇が風邪をひいていなければ、上手く入り込むことはできなかっただろう。
ミス・は幸運を得た自分を褒めた。日頃の行いに神が報いたと気軽に考える。彼女は神を大して信じていなかったが、都合の良い時にだけ引っ張り出して口実にする。迷惑極まりない話だ。
卵を割って、鍋に落とす。
部屋のあちらこちらにゴミが散らばって、回収日に捨てるのを忘れたと思われる紙束が隅っこで眠っている。頻繁に窓を開けられないため空気がこもり、どことなく閉鎖的な雰囲気を醸し出した。
――片づけをしたら、彼女はどう反応するだろう。
非常に好奇心が疼くが、行動には移さない。ミス・にとって、それは決してしてはならない行為の一つだった。
他人の領域には手を出さない。
かなり出している気もするが、指摘できる者は睡眠中だ。
楽しいことだけを追求する。
たとえばここで善意を発揮して掃除に勤しみ、チェイン・皇が目覚めると目の前にぴかぴかな自室が広がるとして。一時の面白さは得られるだろう。
しかし刹那的だ。どこにも繋がらない。まったく面白くない冗談である。デキる女の部屋が実は汚い、という矛盾に似た正反対の属性が備わるからイイのだ。綺麗になってしまったらそれはただの『デキる女の部屋』へとなり下がる。
それなら、この雑然としてまとまりがなく整理整頓にまで気がまわらず誰かの助けか何か強力な切っ掛けがなければ掃除が進まないような部屋を放置し、先を見物するほうがよっぽどいい。
鍋を弱火にかけたまま、寝室で泥のように眠るチェインを見下ろす。ベッドに腰掛けると、重心がずれてスプリングが軋んだ。
まるで苦しむ妹を慰めるような眼差しで眺める。
「大丈夫だよ、皇ちゃん。食事は上手くできた。簡単なものだがね。あとはもう五分ほど煮込むだけだ。起きたら食べるといい。聞こえていないだろうけど、私は確かに伝えたからね。ああ、毒なんざ入っちゃあいないから安心して。そんなことをしたって楽しくない」
敵対するのもされるのも、今のミス・には必要のないいざこざだ。チェインに危害を加えた瞬間、すべてが敵に回るだろう。チェインらのイメージする『ミス・』は風邪で弱った人間に愉悦の毒の一つや二つは仕込みそうだが、実際は想像よりも現実的である。勝てるはずがないのだから、敵にならないのが一番だ。
では勝算があれば彼らを翻弄するのかといえば、それもそうとは限らないのだけれど。
命を懸けて切った張ったと立ち回りたがるなど馬鹿らしい。彼女は自分の命を惜しむ。健康を惜しむ。惜しまないのは自分本位な言動だけだ。
チェインの髪を指で優しくかき分け、露わになった綺麗な形の耳に触れる。チェインの身体がぴくりと動く。ミス・は手を離した。
「ではまた会おう。お大事に」
キスを落としたりはしなかったが、何よりおぞましい、ぬかるみ生暖かい声音が注がれた。
火が消える。
鍵をどうしようか考えてから、管理者に連絡を取った。
「出かけたいのだけど、鍵を失くしてしまって施錠できないんです」
「わかりました」
ミス・の目的はこれにて完了。
ははっ、と誰もいない場所で吐息を洩らす。
とても充実した時間だった。




目を覚ましたチェインは、家に誰もいないと気づいて慌てて身を起こした。
何かされてはいないかと自分の身体を確かめる。異常は見当たらなかった。
テーブルにはレトルト食品とペットボトルの飲料水が並べてある。
キッチンのコンロに置かれた鍋は、触れるとまだ温かかった。ミス・が立ち去ったのは、何時間も前のことではなさそうだ。
蓋を開けると、いい匂いが湯気と共に立ちのぼる。食欲はなかったが、付きまとっていた空腹感を刺激されて、ごくりと唾を飲んだ。
ほんの少し、器にとって舐めてみる。
塩気は薄く、野菜の甘みが口の中に広がった。
(普通においしい……)
驚くべき『普通』さだ。毒が混入している様子もない。
チェインはもう一度、スープを飲んだ。
やっぱり普通においしかった。



復帰して、チェインはまず訊いた。相手はミス・の旧友として今もなお不本意な関係を保ち続ける、この組織の副官的存在である。
「ミス・は料理ができるんですか?」
「一通りのことはできるだろうね。なにせあのぶっ飛んだ性格だ。自分にできないことがあるとイライラしてしょうがないんじゃないかな」
ミス・の話が出た瞬間、スティーブンの眉根が寄った。なぜチェインからあの女の話題が飛び出すのか、わかっていない様子だ。ミス・は、チェインの家の住所をどこからか調べ上げて病人の部屋へ押し入ったことをこの『友人』に報告していないようだった。それもそうか、と思う。お互いに、何もかもを打ち明ける仲でも、性格でもないだろう。
「急にどうしたんだい?」
「この間、ミス・の手料理を食べたので気になって」
「作ったのか!?『あれ』が君に!?他には何もされてないな?」
おそらく住所の対価だ。軽すぎるとも思えるし、重すぎるとも思える。
真剣な目で見つめられ、どきりとしつつ一つ頷く。私物に手はつけられていなかったし、スープもまともなものだった。
スティーブンはホッと息を吐いた。
あの頭痛の種が誰かに無償の善意をふるうわけがない。チェインも何かを犠牲にさせられたに違いない。あるいは『スープを作って食べさせた』ことを貸しにしようとしているのか?邪推が頭の中を駆け巡る。
とにかくこの仲間を早急にミス・の魔手から遠ざけねばならないが、どうしたものか。
「あの……、平気です。そこまで悪い状況ではないように思えるので」
「と言うと?」
「メールでお礼を伝えましたが、何も要求されていません。むしろ他に要求はないかと訊ねられました。おそらく……、私の自宅の住所と風邪をひいた姿を見たことでかなり満足したのではないでしょうか」
「……待て。住所?チェイン、今、あの女に自宅の住所を掴まれたって言わなかったか?」
「教えたわけでは。独自のルートで手に入れたようです」
「とことん最低なやつだな……」
スティーブンの声は平坦で、どれだけ呆れているかがチェインにはよくわかった。
「どういう返信だったか、差支えがなければ教えてもらえるかな」
「はい」
端末から文面を呼び出して、スティーブンに手渡す。彼はざっとそれに目を通した。
――気にしないで、皇ちゃん。私の手料理は貴重だが、おたくの住所も異様に貴重だ。なにせおたくは皇ちゃんだからね。何か助けが欲しい時があったら声をかけてくださって構わないから覚えておいてね。なんだって叶えてあげるよ。できることなら、だけどさあ。できないことが何なのかは質問してもらわないと『これ』と列挙することはできないんだが、ああ、たとえば君が求めても得られるかわからない、抵抗のある情報を流す程度なら簡単にできる。欲しいかどうかは別として、願いが思いつかないようならそいつを押しつけちまうからご注意を。ね、私たちは友達にはならないが、楽しい話はできるんじゃあないかな。それではグッナイ。お大事に。
「……目が滑る」
「はい」
顔文字一つないのになぜか読みにくい文章だ。
「『もう我々に関わるな』と願っても無駄なんだろうな」
「『等価じゃない』と言われそうですね」
「スポンサーだからなあ……」
「ええ……」
「……切りたいなあ」
スティーブンは頭が痛そうに首を振った。
チェインも、『自分が求めても得られず、得ようとすることに抵抗を覚える情報』がなんなのか、熱の下がった頭でじっと考えた。
思いつかず、肩を竦める。
期せずして、二人のため息が同時に落ちた。



2016 0525
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