レオナルド/原作中
ミス・は自分を完璧人間だとは思っていない。万端の準備をしたつもりでも時には失敗する。
彼女は柔らかい羊毛の皮をかぶったまま眉の線を巧みに操り愁いを表した。
このしくじりは悔しい。
小銭が足りなくなるなど、ミス・からは縁遠い失態である。
不可抗力に流され、好む速度で思う通りに進める一日のペースが大幅に狂った結果と言えど、不手際は不手際。
予想外に長引いたやり取りは急を要するもので、疎かにしてはならなかった。会員カードなど作っている暇もなく、「帰り際に」と後回しにして個室に入り小刻みな打鍵音と潜めた声を駆使すること凡そ二時間。投げ出すようにエンターキーを押して音声通話を打ち切ると、無音チャットで何度もHelpと呼びかけられたが、ミス・は義弟からの悲痛な要請にはもう応えなかった。あとは自分で処理できるだろう、と信頼している素振りの文章を打ち込んでお終いにする。実際に、無理難題とは思えない。不可能な仕事ならば家の当主として腰を上げるが、この程度は代理で充分だ。
火急だと泣きつくからパソコンを借りて自宅へのリモートコントロールまで試みたのに、大した問題ではないとはどういうことか。『義姉』かつ『当主』の機嫌を損ねてしまったことへの謝罪へは、無反応を返事とする。
加えて金も足らず、苛立ちは喉の奥を焦がし続けた。仮住まいから出かけたミス・の手持ちは、自由市でがらくたの購入に使われた。今日日カードの使えない店があり、そこに入ってしまうとはなんたる運の良さか。
一度店を出て銀行で金を下ろしてから戻るしか手立てはなさそうだ。
質に何を置いていくか、ふう、と吐き出された細いため息は、長年の癖で、たおやかで守りたくなる妙齢を体現していた。
気の毒に思ったのだろう。
手荷物を店員に預けて銀行へ向かおうとしたミス・の背中に声がかけられた。
「あの、良ければいくらかお手伝いしましょうか?荷物を置いてくって不安ですよね?」
小柄な少年だった。
振り返った女性と、彼女の様子を窺う少年は、どちらからともなく控えめな笑みを浮かべ見つめ合う。
悪意は見当たらない。
他人を信じず、自分も与えられる信頼を無視して誰かを裏切ることがある女はしばし、急な話に驚いたように口元を手で隠して相手の真意を探った。自分に金を貸して、この少年にどんな利益があるのか逡巡する。
単純に考えれば、三倍返しの要求だ。
外見上は優しそうな少年だが、『優しそう』などという曖昧な主観を信用すればミス・だって非常に温厚で心安らかな人物である。
表情が晴れないのを見て、少年は慌てて付け加えた。
「すみません、貸しつけようとかじゃないんです。ただ、困ってるならと思っただけで……。迷惑ですよね!」
「いいえ、迷惑とは思いませんわ。お気持ちはすごくありがたいんです。でもどうして私に?見ず知らずの女にお金を貸すなんて……私の知るヘルサレムズ・ロットでは正気とは思えなくて」
「ですよね。『理由』もちょっと気まずいやつなんですけど、……弟さん、がいるんですよね?通信が混線した時に僕のほうに音声が混じっちゃって」
確かに、一度だけ通話回線が混乱した。そのせいで少女らしき声と少年らしき声の会話が突如としてミス・の耳に飛び込み、直後戻った義弟の声に向けて今のは何かと訊いたのは間違いない。ミス・と彼女の義弟、そしてこの少年とその電話相手は、お互いの会話を取り違えさせられたのだ。
言われて思い出せば、その時の声に似ている。
「僕も妹がいて、親近感が湧いたっていうか」
重要なやり取りの内容、すなわちミス・が義弟に指示をぶつけ、『なあ、お優しい義弟どの。を名乗りたいなら家の家訓を五十億回読み直したまえよ』と言った部分は聞こえていなかった。
ミス・は少年の手を握りしめた。
「どうもありがとう。それじゃあお言葉に甘えてもいいかしら?それから、銀行まで付き合っていただけたら嬉しいわ。もちろん、予定があると仰るなら口座に振り込みますけれど」
「いや、いやいやいや!数ゼーロじゃないですか。おっきい額でもないですから、気にしないでください」
「それは私の主義に反するの。ごめんなさいね。ええと……」
「あ、レオナルドです」
「いつもはレニーって呼ばれているのかしら。ファミリーネームは?」
「ファミリーネームは『ウォッチ』です。普段はだいたい『レオ』呼びが多いですよ」
「そう、『レオ』のほうがあなたに似合うわ。私はあなたをミスター・ウォッチと呼んでも?」
律儀な人だと感心して頷きを返す。レオナルドのほうは彼女を『さん』と呼ぶことにした。
名前を聞いて、僅かに何かが引っかかったのか首を横に傾けた少年の様子を訝りつつも、無垢を装って深追いできる段階はまだ先だと彼女は判断した。問いかけたとしても今ははぐらかされるだろう。だからミス・は何もわからなかったふりをして、すぐさま近くのATMに向かった。
これからの為に念を入れた金額を引き出すと、ちょうどぴったり、借りた分を過不足なく少年に返す。
「ありがとう、ミスター・ウォッチ」
「こっちこそ丁寧にしてもらっちゃってすみません」
これで話は終わりかと思いきや、レオナルドは彼女から意外な誘いを受けた。
「時間があるなら、どうか私とお茶をしてくださらない?妹さんのお話が聞きたいわ」
食事を奢って相手よりも上に立っておこう、という汚れた思惑は知る由もないが、レオナルドは困ったように首を振った。
「すみません。これから……バイト先に行くんです」
彼にしては玉虫色の回答だ。
真実か真実でないか、第六感で察知した少年が逃げる為に吐いた嘘であるかないかはさて置き、断られたミス・は内心で舌打ちしたが、そんな下品な素振りは決して出さなかった。時間ができたら連絡を寄越して欲しいと言って手帳にアドレスを書きつけ、半ば無理やり少年の手に握らせる。残念そうな微笑みも完備だ。
その手帳は、ミス・のふくらむ花のつぼみと満ちてゆく春の陽射しに似た雰囲気とは異なる色と形をしていた。
「そういうデザインが好きなんですか?」
少年はつい問いかけてしまい、ミス・をころころと小さく笑わせた。
「選んだのは私じゃないのよ」
義弟からの贈り物だとの答えはよどみなく、手帳を出すたびに言われているのだろうとよくわかる。問いかけたほうは、急に恥ずかしくなって俯いた。
四つ折りにたたんだ紙片ががさりとひしげる感覚があった。
レオナルドは腰を浮かせてポケットに手を突っ込み、取り出したそれを丁寧にのばす。
「お。少年にもとうとう春が来たか?」
からかわれて、少年は反射的に「違います」と言った。
歳下のきょうだいを持つ者同士の共感があるのか、レオナルドにそういった感覚は皆無である。
断言した彼に余計興味を持ったのは、久々のアフタヌーンティーで体力と気力を回復させたスティーブンだった。
彼は仕事の峠を越え、ギルベルトが用意したティーセットで休憩を取る最中だ。
――八つ当たりをしそうだから、できるだけ話しかけないでくれ。
これは今週の頭に彼が言ったことで、おどろおどろしい気迫に慄いたメンバーはクラウスとギルベルトを除き、可能な限り彼に近寄らなかった。
それから五日。実働時間平均の計算は無意味。
放たれる触れれば切れそうな色は、修羅場を乗り切った彼が突っ伏すと同時に霧散した。
直後に有能な執事から差し出された紅茶の芳醇な香りも、心の回復を存分に助けてくれる。
解放感でいっぱいのスティーブンが気を緩め、少年の反応を面白がって笑うと、 疲れ切っていた上司の役に立てるならと根負けしたレオナルドは唇を尖らせてモゴモゴ説明した。
「さっき貰ったんです。困っているところに居合わせたからお節介しちゃったんですけど、そしたらお礼がしたいって言われて。そんな大それたことじゃなかったので理由をつけて断ったら、これを」
断る理由は嘘ではなかったのだが、真実でもない。後がつかえていたのは本当だ。ただ向かう場所はバイト先ではなく、ライブラへの事務所だった。ギルベルトに誘われ、少年も午後の相伴に預かる予定だったのだ。
言い訳じみた気まずさごと、いれた牛乳をかき混ぜて紅茶の色を変える。
「君のは教えたのか?」
「貰ったのに返さないっていうのも何ですから」
「まあな」
やりたいかやりたくないかの個人差は別として、微量でも親近感を覚えた一般人に対するレオナルド・ウォッチには普通の対応だ。
「どう助けてあげたんだい?」
「お金が足りなかったのを貸しただけです。すぐに返してくれましたし、本当に気ィ遣わなくていいのに……」
レオナルドは通話回線の混乱と、聞いてしまった会話の一端をかいつまんで説明した。
義理の弟を故郷に残し、ヘルサレムズ・ロットで仕事に励む優しそうな女性だったと。
「義理の弟、ねえ」
「はい」
少年は目を伏せてカップの中身を揺らす。
「僕もミシェーラ、……妹がいますから、親近感が湧いて放っておけなくなって声をかけたんです。ほんの数ゼーロですよ」
「それで連絡先とは、律儀な女性だな」
「誰にでもばらまいちゃってるんじゃないかって心配になります」
春の芽吹きにそっくりな女性は、決して無警戒なわけではないのだがどこか付け入られ易そうである。あくどい人間にちょろりと騙されてしまわないか不安になるほど柔らかだ。レオナルドの中で彼女は、しっかり者の義弟に諭されながら歩く心穏やかでおっとりした百合の香りの人のイメージで定着しかけていた。
紙片を眺めるどこかあどけない顔は、思い出を辿る時独特の色を浮かべている。言動の一つ一つには本来の、或いは妹を大切にするゆえか年齢以上に確立された強さが見られるのだが、何気ない瞬間に垣間見える隙は、彼こそが悪事の標的になるのではないかと危惧を抱かせる。
そんなレオナルド・ウォッチは、「ああ」とこびりついていた違和感をようやく掴んで顔を上げた。
彼が気づかなかっただけで、あの女性の名前を聞いた時から頭の中で答えは出ていたのだろう。
「前にスティーブンさんが言ってた人と同じ名前だったからびっくりしたんでした」
「僕が言った人?」
他の人物らからも厭な風評ばかり聞かされたが、同名の彼女からはおかしな気配も不穏な色も吐きそうなオーラも感じられなかった。むしろ清涼で心地よいそれだ。
別人だろうけれど、ここまで口に出したのなら最後まで言い切ろうと口を動かす。
「酷評してたあの『』さんとまったく同じで」
ガチャリと、硬いものが擦れ合う不快な音が立った。顔をこわばらせた男がソーサーにカップを置き損ねたのである。
平時にこんな失敗をする人ではない。過剰とも取れる反応に、レオナルドは肩を跳ねさせる。
男は素早く立ち上がった。大股で書棚に向かい、分厚いファイルを引っ張り出してテーブルに戻ると、迷うことなく繰ったページをレオナルドの目の前に広げて見せる。
「それ、具体的にこんな女性?」
声音も表情も真剣極まりなく、数十秒前までの笑みは欠片も見つからない。どこかであったぞ似た場面。レオナルドは上司の様子に頬を引きつらせた。神秘的な輝きを隠す目が無言で送られるキツい視線とかち合い、可哀想に、こくこくと頭を動かす。
経歴書に貼り付け印刷された写真の人物は、間違いなく、紙片に記されたアドレスの持ち主だ。
「やられた……」
これが、忌々しさを押し殺し切れぬ呟きの優秀な例である。忙殺されて気が立った今週の中で最も苦々しい響きだった。
男は心底後悔する。忙しさにかまけ、警告すべき事案とわかっていながらもまさかこの短期間で遭遇するわけがないと仕事を優先し、顔写真もプロフィールも見せていなかった。スティーブンとて忙殺される真っ只中にミス・の名前など聞きたくなく、掛かって来た電話は「今忙しい」のひと言で後も怖れず面倒がらず、手短に切っている。それきりやけに静かで連絡が途切れたのはあちらの都合が合わなかった為か、面白くなくなって機嫌を損ね、こちら側からの謝罪を待ち望んでいるからか。頭の片隅で改めてレオナルドに忠告すべきだと考えた瞬間もあったが、再三言うとおり、エネルギー不足に陥りかけるてんてこ舞いの中であの劇物について口にするなど、考えるだけでおぞましい。
無情に切った電話の前で、何も知らないレオナルドに愚痴を零してしまったのだったか。本人に知られればわざとらしく嘆かれるであろう評価を下した気もする。
だからレオナルドは名前だけを知っていた。詳細を知りたい興味はあったが、今週の各種手続きを一手に担った一人が生むピリピリした空気と緊張は伝染し、悪名高い女性の話を持ち掛けられる状態ではないと判断したせいだ。顔を知らず年齢を知らず出身地を知らず姉弟関係を知らず、顔を合わせても名前を聞いても想像と実像は結び付かない。そもそもイメージすらできていなかった。
ミス・が狙ってレオナルドと接触を図った可能性は無いに等しい、とスティーブンはファイルの写真を見下ろした。
自分の斜め前で居心地悪そうに手帳の切れ端を指でいじる少年は、特殊どころかライブラの新顔とも思われないだろう。如何に卑怯でずるく手段を選ばず正気かどうかもよくわからないミス・と云えど、超魔術、異界奥義、進化系ジャンクと濃霧で覆われた街で暗躍するライブラが非常に重要視する情報の各種を一支援者が簡単に調べ上げられるようならば、こちらも秘密結社は名乗れない。
特に神々の義眼や能力、日々進化する人類兵器の研磨は一握りにしか明かされず、寄付金の額を積み重ねれば手に入れられると安易に考えるのは全くの見当違いである。
ついでに、レオナルド・ウォッチが事務所に出入りするようになったのはつい最近の話で、決意と覚悟の契約を交わしライブラの一員として迎え入れられたことなど彼女が知る筈もなく、一介の支援者に人事をいちいち報告する義務も当然皆無なわけだから、ミス・が少年に興味を持つ機会はない。
仮にザップ・レンフロとレオナルド・ウォッチが一台のランブレッタにタンデムしている場面を見かけたハゲワシが鋭い眼で彼らを探っても、見抜ける正体は『新入社員』が精々だ。秘密結社は秘密の漏洩を赦さない。
つまりこれは濡れ衣だ。ミス・は悪くない。彼女を取り巻く『偶然』が意図せずスティーブンらに悪意の猛威を振るっただけだ。
理解はできる。理解はできるし、実際に、した。ミス・に他意はなく、本当にネットカフェで金が足りなくなった危機的状況を親切な少年に助けられ、偽りなく礼を言い、連絡先を渡したのである。連絡先を渡した訳も簡単に推理できる。自分のみっともない失態と受けた救済を己の金で上書きして、相手よりも上位に立ちたがった、その一点だ。
だからこそため息の重みが増す。
レオナルドがライブラの一員であることが万が一にも露呈しないよう、細心の注意を払う必要があったと思い出してしまったスティーブンは、さっさと縁を切るか、いっそのこと敵対してもらえれば話が早く済むのだがと涙ぐましい想像をした。
「まあ……、君がここの所属だとか神々の義眼持ちだとか、そういった『おいしい』事実が判明しなければ、非常に良い友人になれるだろうから頑張ってくれ」
正体さえ知らなければ、ミス・は誰にとっても平和な存在だ。
「おいしい事実が判明したらそんなにヤバいですか」
「欲望に忠実なんだよ、アレは」
興味があれば調べ、至極どうでも良ければ損が出ない限り依頼されても一瞥するに終わらせ、標的は如何なる手段を用いようと地の果てまでも追いかける。何が起きても臨機応変に対応し、結果は彼女の一人勝ちだ。たち悪く、ミス・は金と人脈と根性という神が何を置いても彼女に与えてはならない三種の力を兼ね備えているから、普通はやり遂げられない無茶も叶えてしまえる。そして遠慮のない自分本位なエピソードは軒並み誰かの犠牲の上に成り立つ。
たとえば領地か義弟か友人か、どれか一つを選べと言われれば、彼女は迷いなく領地を取るだろう。他の全てを売り飛ばしてでもだ。苦渋の決断をやり遂げた果敢な態度は感動を呼び起こしそうだが、なんの鑑にもならない。財にしても、周囲からの好感度にしても、禍根にしても、それが最も彼女に利する選択なだけだ。
新緑の似合う仔鹿が可愛らしく飛び跳ねて森の奥へ人を誘い、旅の話や美味い菓子を分け合われ喜ぶ無垢さを装う裏で導く先に獣を待たせておく汚らしい狡猾さを持ち合わせるミス・は、スティーブンからすると敷かれた欺瞞のレッドカーペットで同類から歓声を浴びる最低に完璧な人生の謳歌者だったが、敗北を塗りつぶす優越の衣をまといランウェイを練り歩く生きた身勝手と評価されたのを聞き、これもなかなかの表現だと感じざるを得なかった。
マッチポンプを合法的に地でゆく女。
「正直、人間として付き合いたくないだろ?」
このようなことをスティーブンが適当にまとめて教えると、レオナルドは何も言わなくなった。
しばらくお互いに黙ってマカロンを摘まむ。
「でも、話を聞いても……、やっぱりそんな人には見えなかったのでいまいちピンと来ないです」
「擬態は上手いからな。ああ、そうだ。アドバイスが一つある」
「はい」
「バレたとしても、ミス・に『支援者』の権利を振りかざさせるな。あと、決して金を使わせるな。それから、会いたくなったらプライベートで会え。『仕事や立場を抜きにしたい』と一言付け加えそれらしい恰好や態度で挑めば、僕とクラウスとチェインとザップ、……いや、ザップはよくわからん事態になっていたが……、経験上、私的な交流では何があっても『まとも』におさまる。君が見た『ミス・』と同じか、もしくは化けの皮が剥がれていたとしても単なる言動がクズな知人の範疇だ。……これじゃ三つか?」
「い、いえ、何個でも……。わかりました。覚えておきます」
この話を聞いてなお会いたくなるとは思えなかったが、少年は忠告を胸に刻み込んだ。
「そこまで言うのに、よく友人関係が続いてますね」
「まったくだよ」
しみじみ言う。
紅茶のカップを取ろうとしたレオナルドの手からマカロンの欠片が一つ落ち、ファイルの上に散らばった。
慌てて払おうと身を乗り出すと、写真に写るミス・と目が合った気がしてぎくりとする。
どうしてだか、悪いことをした気分だった。