チェイン・皇/原作前


単なる人間であるミス・は限りなく泥水に近い水流だ。滞らないからヘドロと呼ばれないだけで、中身は濁りきった混沌たる沈殿腐敗物の塊。
しかし悪臭はしない。
過信ではなく、チェインたちの調査能力はずば抜けている。その捜査網に引っかからずに不正を働くことは至難の技で、ミス・の身辺に後ろ暗い部分がないことや、限界ギリギリで合法を貫いているのか、糾弾し得る罪もないことはあっさりと判明した。支援金も経歴書も行いも綺麗だ。
クズらしさも見当たらず、これが副官ではなくザップによる評価であったなら、チェインはその正確性をはっきりと疑っただろう。
論より証拠、百聞は一見にしかず。
副官に言われて姿を隠しながら見た女の言動は爽やかな吐き気がこみ上げるものだった。あんなにも探した下劣な本性が、世界に溶けるチェインの目の前で見事に展開される。彼女は思った。
(友達やめればいいのに……)
彼もやりたくてやっているわけではない。立場と腐れ縁と見せかけの口約束と、誠実なリーダーが鎖になっているだけである。ぶっちゃけると『友人』は『友人』を合法的に滅する場面を想像すると心の底からスカッとする。

さて、だがチェインはあくまでも観測者であり、これまで実際にミス・と接したことはなかった。
これを念頭に置いて考える。
チェインの隣に座るのは、指折りのクズと名高いミス・だ。
牙狩りと関係者の全員が全員、確認したことであるが、わかりきっているはずの彼女もまた、目だけを動かし反射物を探した。ガラスに映った彼女の顔を見る。彼女は疑われたと知っても、気を悪くしたふうもなく笑った。
持ち帰りのできるカップを開け、飲み口から泡をすする。
「人間だから大丈夫。ただ最低なだけ」
最低な女はチェインにも同じ飲み物を買ってよこした。貸し借りを作るのは自殺行為だと言い聞かせられていたチェインは固辞したが、何も要求しないと宣誓されて受け取ることにした。宣誓など、容易に裏切るだろうと予想しながらも。出方を見るつもりもあった。
「あなたに借りを作ると食い尽くされる、と聞きました」
「いつもなら、して欲しいことが生まれたら吹っかけたかもしれないが。わたくしは『やらない』と申しましたよ。嘘は言わない」
「いくつか嘘をついて騙し討ちをしたという話もありますが」
本性を隠していたことは『嘘』に当たらないにしても、徒党を組んで利益を求めようとした小組織に介入してお取り潰しの憂き目にあわせたとは聞き及ぶ。内側から崩壊させるに至るまで深く潜り込む為には、虚言の一つや二つは弄したに違いない。
「嘘つき呼ばわりは心外だ。騙し討ちっつーのも野暮な言い方だよ。都会であぶれて一人寂しく飲んでいたらいつしかできた飲み友達が偶然にも汚ねえ商売に手を出そうとしていて、偶然にも私には金があって、酔った勢いでうっかりそんな話をしてしまったら飲み友達から嘘八百の建前で支援を要求されたから友達を助けるつもりでお願い通りに支払っただけでね」
「直後、その援助額が勢力を増しつつあったグループの金庫から消えた数字と一致すると判明したのも偶然ですか?」
「兄貴っぽいやつに打擲されてた可哀想な鉄砲玉みてーな青年が居たもんで、気になって話を聞いてみたら以前からどこぞで噂されていた盗難話が実に涙をそそるじゃないか。そこでそういえば憶えのある金額だと思い出して、最近飲み友達が起業したらしいけれどもそいつの資本金も同じ額だったようなと呟いたら急にそいつらが元気になって駆け出したってわけだ。ちなみに不届きな泥棒はもう逮捕された。善良な市民による情報提供を受けたおたくたちによってね。私は状況を利用しただけなのよ。嘘ついてる?」
「ミス・が援助者だとはバレなかったんですか?」
「正直に言ってたんで、名前はバレたよ。でもわたくしはおめかしが好きなものでね」
頭の中で像を重ねられないくらい装いを変えていた、と。
息を吹きかけられただけで瓦解しそうなジェンガで曲芸を披露する女だ。情報屋にローラーをかけられたらどうするのだろう。莫大な資産を持つ『』は、居なくはなかろうが、いつかは特定される。
逃げ切る自信があるとしか思えない。
「嘘はついてない。皇ちゃんトコの二人も、私が騙したんじゃあなく彼らがクズを見落とした。フフッハヒ、今なら絶対に看破するのになあー。優しすぎるなー。いやあ仲良くなれて幸運だったぜ、私ァ。なんの話だっけ?」
「ミス・は嘘はつかないのかという話です」
ミス・は泡のなくなったコーヒーが少し苦かったようで顔をしかめたが、横並びの席で自分の隣に腰掛けるチェインに砂糖を取って来いとは言わなかった。それはチェインにとってとても意外で、彼女に、もしかするとミス・は自分が想像していたような最低人間ではないのかもしれないと思わせた。えげつない前情報を詰め込まれ、気構えが強固になりすぎたらしい。実物が予想よりもずっと温厚な口調と態度でいるので首を傾げる。争いの火種の押し売り解説ですら、あ、この程度?と気が抜けた。
思えば彼女はチェインが見た限り、『支援者』と『被支援者』の立場をかさにきて高飛車な要求を突きつけるだけで、それ以外では言動こそ遠慮がなく過激なものの、思考はまともだ。貸し借り、営利、身分の差がなければ口出しはして来ない。だからこそ、あの副官もなんとか友人の枠の擦れ擦れにミス・を置いている。
今のチェインはスーツ姿だが、仕事を抜きであなたに興味がある、というような前置きをした。ミス・は目を眇め、コーヒーを彼女に奢った。
「必要がない時にやらないだけですわ。今の話の中では嘘に嘘を重ねるのがかったるかったから止めた。どおおでもいい相手のどおおおでもいい案件にクソみてーな嘘をついて頭を使う必要があっかい」
嘘はつかずに真実を言わないようにする行為こそ面倒だと思わなくもなかった。
「……どうでもいい案件なのに、なぜわざわざ?」
「端的に言うと義弟どのが困っていたんでね。情けねえやつだ。ああ、わたくしったらお優しいお姉さま!こりゃあ慕われるのも当然だわ。な?」
返事を待たず、ミス・は席を外して砂糖を取りに行った。スティックシュガーを三本携えてチェインの隣に戻って来る。彼女の飲み物の残りは少ないはずだが、甘党だろうか。内側にフォームミルクの残りがこびりつくカップにざらざらと砂糖が落とされ、冷めかけたコーヒーは飽和しそうな甘さを溶かしきれず、中心だけがゆっくり沈んだ。
「皆にも優しくしたいんだぜ。してるつもりでもある。金を払ってギブアンドテイクっつうやつ。気持ちよくなりたいんだよ、私はよお。だからきちーんと納めてる。アッハッハッハ!ふるさとじゃあないがお返し目当てのふるさと納税みてえなもんだ!皇ちゃんにも優しーくしたい。初対面でダイレクトクズっていうのも申し訳ないしプライベートで会えて良かった。ああ、嘘ついちったわ。初対面じゃあないんだが、一応はお初にお目もじつかまつりますんでね。アッハッハ!使い方が違うか!」
チェインは眉根を寄せた。
隠れて観察していたことを知られているのか。
こちらの情報をミス・が探った形跡はないはずだ。しかし、勘で物を言ったにしては躊躇がなかった。
「ミス・、あなたは」
「嘘ついてごめんねえ」
「ごめんねって……」
そういう問題ではない。
彼女はのんびりと時計を見て、動きを追ったチェインに愕然とした横顔を晒した。
「っべ!映画!」
「え?」
「映画のチケット予約してんの。あと20分で開場だから行くわ」
慌てふためく姿は普通の街ゆく女性だった。何処ぞの領主にも、垂涎の財産を持つ資産家にも、傲慢で自分勝手な愉快犯にも見えない。
ミス・は椅子の背中に掛けていたカーディガンを取って肩に羽織る。腕を通すと、その先がカップにぶつかった。彼女もチェインもハッとして咄嗟に手を伸ばしたが一歩間に合わず、きちんと閉まっていなかった蓋の隙間から、残っていたカフェラテがテーブルに飛び散った。
飛沫はチェインの白い手とブラウスの袖口にも色をつけた。
「おいおいおい!くそっ、ごめん!ああくそ……、これハンカチ。拭いて……、クリーニング代か!」
いちいち舌打ちと悪態がくっついたのは急いでいたためだ。自分が苛立たれているのではないとわかっても気分は良くないチェインだった。見直しかけていたのに失望した。人としてどうなのだろう。
チェインは呆れてしまい、「構いません」と言った。もっとも、呆れてなくとも言っただろう。
「映画に遅れますから、行ってください」
ミス・は苦虫を噛み潰したような顔で再び時計に目をやった。
「良いってんなら無理強いはしない。本人が良いってんだから」
チェインの中で先ほどから一気に膨れ上がって止まない感情は一つ。この程度の汚れはどうでもいいからやっぱりこれ以上関わりたくない。
そんな一心は華麗にスルー。ミス・は自由に使えるダスターでテーブルを拭き清めて、カップを捨てて言った。
「良いってんだけどォ!」
「な、なんなの?」
狼狽えたチェインは、ミス・に触れられて、咄嗟にそこだけ希釈した。嫌な感じがしたのだ。腕だけでなく、別のものにまで無遠慮に撫でられるような。
スーツと細腕をすり抜けた指先がなにもない空間を掻いた。
ミス・は隠しきれない喜色を唇に浮かべ、見せかけと本心が相反した顔を引きつらせて笑った。
「ありがと。でもいつか吹っかけられたら困るからさあー。金で解決しちまおう。これ、クリーニング代。足りなかったら明日までに請求して。請求しなかったのに後出しで足りなかったとか言われてもノーカンでございますわよ」
いちいち鼻に付く言い方をする。
ミス・はカフェラテ色で濡れた白い手に紙幣を押し付け、無理やり握り込ませた。
「じゃあね、皇ちゃん。わたくしに損がなきゃあ、わたくしは皇ちゃんを応援しておりますからお忘れなく」
「応援?」
似つかわしくない言葉だと、眉根を寄せこそしなかったが不審すぎて警戒心がぴりぴりと尖る。
「ええ、応援。フッアッハッハ、明日は明日の風が吹く!面白くなる予感でいっぱい!諸々の相談はミスター・スターフェイズ経由で頼むよ。私は誰彼構わずアドレスを配り歩いてるワケだあないのでね」
「私があなたの友人になりたいと言っても、教えてはもらえませんか?」
ちっともなりたくなくても、絶対に相談なぞしないとわかっていても、こんなことで副官の手を煩わせる可能性は排除しておきたい。
「ごっめーん、今ケータイ持ってねんだわ!ラインヘルツさまにお訊ねするのは気が引けるだろうから、これも親切なおじさ、アッハッハッハ!おにーさまから教わっておくれ。ところであの劇薬の権化みたいな男に『おじさん』と呼びかけたらどうなるか知ってる?ムカッとするみたいなのよ。『もうおじさんなのにそんなに重そうなものを持ってしまってお腰は大丈夫なのかしら、お手伝いして差し上げようか』っつって親切にしてやっただけなのにね。この私が。タダでよォ!!人の厚意をなんだと思ってんだ。くそっ、誰がオールド・ミスだばかやろう。適齢期を過ぎたって金と土地があればどうにかなりやがるんだぜ、我が愛しきウィドリントンではな!!」
本気で気を遣ったつもりなのか、見せかけのからかいと悪意あるちょっかいだったのか。相当に癇に障る話し方と気分を害する声音と腹の立つ面持ちだったのだろう。そしてこの最低な女人も根拠なき『行き遅れ』呼ばわりにはちょっと敏感。かの人物が女性にかける言葉にしてはドギツイが、根拠なく壮年から中年の狭間をうろつかせた彼女の自業自得だ。
時間がないことを思い出したミス・は、なおも続けそうになった雑言を切り上げた。
「何の話だっけ?とにかく宜しゅうな」
突っ返すチェインを無視して服の裾を翻し、勝手につかつかと出て行ってしまう。後ろ手に振られた彼女の手には、これ見よがしにスマートフォンが握られていた。なんと清々しい最低さなのか。性根が腐っている。
乱暴に押し付けられたせいで皺になった紙幣はチェインの財布にしまわれたが、使う気はなかった。
切り札にしようとしたのか、あの支援者の宜しくない人間性と調和するようでしない行為を記憶に焼き付けておきたかったのか。
ミス・との付き合いの長い『友人』たるかの副官の評価をまるまる疑ってかかるわけではないが、ミス・は最低な人格ではあるけれど、性悪だけれど、腐肉にたかる蠅を見るような不快さがあるけれど、吐瀉物を踏むおぞ気に襲われるけれど、顔を見ると虫唾が走るけれど、言われるほどのクズだろうか。チェインの見込んでいた下劣さとは方向が違った。
「私は、ミス・を悪く考えすぎていたかもしれません」
嫌な感じはしたものの、無償で応援までされた。
感想を聞いたスティーブンが、長く沈黙する。
彼はたっぷり時間をかけてから口を開いた。
「そうかい。でも、付き合わないほうがいいぞ」
「わかってます」
ここはしっかり頷くチェインだった。



20160105
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