あらすじ/原作前
苦い顔だ。
うっすら寄った眉間のしわが、言葉以上に胸中を語る。
嫌悪感は隠し切ったものの、近い感情までは上手くいかず浮かべてしまった、といったところだ。
仲間の前で完璧に隠す必要はない話なのかもしれないが、スマートな態度の人物にしては顕著な反応に、これはこの男の弱点の一つに他ならないと誰もが厄介ごとの気配を感じた。ザップの好奇心が顔を出す。
副官、作戦参謀、番頭さま。彼は椅子に腰掛けたまま、固定電話の受話器を置いた手をゆっくりと額に押し当てた。
「素晴らしい報せだ」
声は非常に低く、平坦である。大きくはないのに、しんとした広い室内によく響く。
順繰りに仲間を見回す視線が通り過ぎ、ザップはまるで自分が責められたような気分になった。
スティーブンはもう一度言った。
「実に素晴らしい報せだよ。ザップ、チェイン、今夜は早くに帰っていい」
「急になんスか?」
語気がやけに強い。
予定が空くのは願っても無い。仕事をしたいわけでもないのに不服そうな声を上げてみたのは探りとポーズの一環だ。
「ミス・ですか」
副官が電話を取り、一拍置いて相手の名前を呼んだ瞬間に合点したチェインはその存在を知っていた。
説明を求めようと開いた口は、クラウスの帰還でタイミングを失った。
「クラウス。急なことで悪いんだが、今夜は……空いてるか?」
曖昧な言い方だ。こういった質問の答えは内容に左右されるとよくわかっているはずの男は、リーダーを相手に、敢えて内容を告げなかった。
告げづらかったのだ。
たとえ自分の自由な時間があったとしても、クラウスはこの話を知れば必ずそれを躊躇いなく消すだろう。組織のリーダーを相手に隠匿できる問題ではないけれど、せめてスティーブンの空想の中だけであっても、できる限り彼を巻き込みたくなかった。
自室で音楽鑑賞に興じられるような、ゆったりした空白の夜を持っていたクラウスは、「空いている」と迷いなく頷いた。スティーブンが理由なくこんな問いかけはしないとわかっているからだ。
重苦しかった。スティーブンの首のあたりに甲高い何かがのしかかる。
「ミス・がお食事をご所望だ」
今夜、彼らのセンスに任せられたレストランで。
二人は旧知かつ大手スポンサーであるミス・と夕食を共にする。
過去、なんてことのないきっかけで、彼らはミス・と出会った。たとえば書店で同じ本に興味を持ち、手が触れ合うような適当な始まりだ。あるいは大学のカフェ・スペースで相席し、思いのほか話に花が咲いて意気投合してしまったような、意識して思い出そうとしてもあやふやな、自然な巡り合わせである。
この頃はまだ、世界はこんなにおかしくはなかった。
血の飛び散る戦いが勃発しても、比較すればマトモと言えなくもない状態。
当たり前だが、クラウスもスティーブンも、今より若い。
初めて目にしたミス・は二十も前半か半ばほどの若さで、柔らかな笑顔は人の警戒を無意識に解かせた。
交流するにつれ、家が外国の小村を保有する一家であり、ミス・は若くして領地を継いだ女領主であるとわかった。身内は義理の弟が一人。とてもではないが村一つを維持できる胆力があるようには思えなかったので、何があろうと納得できる生き方をしていながらも、二人はどこか意外な気持ちを抱いたものだ。
評判の良い家は、ミス・自身の努力もあってつつがなく平和な村を切り盛りできていた。平穏な村である。
――犯罪なんて恐ろしくって、とてもできませんわ。
――隠れて飲酒なんて、どうしてそんなことを……?
ミス・のイメージはこういうものだ。
天性から資産に恵まれる彼女は、領地の営みとは無関係の個人口座に莫大な金額を蓄えていた。それにあぐらをかかない謙虚な姿勢は人の目に好ましく映る。
それが幻想だと知ったのはいつだったか。
スティーブンはふっと、二度と取り戻せないものを懐かしんだ。あの日は確か、葉擦れの音が心地よかった気がする。
意図せず通りかかった場所で見知った姿を見つけた男二人は、挨拶しようか迷ったが、無視をするのも何であるので方向を変えて彼女のほうへ歩いて行ったのだ。
彼女が携帯電話で誰かと通話中だと途中で気づいて引き返そうと思った足は、彼らの接近に気づかず話し続けるミス・の紡ぐ言葉でぴたりと止まった。
一時的に領地を任せた義弟と連絡を取っているらしい。
「そういうのはパッとやってバーッと済ませちまえばいいのだよ。落ち着いて考えてごらん、我が義弟。相手には貸しがあるんだってこたあお忘れでなかろう?更に貸しを作ったのは君じゃん?つまり半分、いや、三分の三なら純情ごとえぐり出して頂いてしまっても良い権利がある。いやもう全部むしっちゃおう!どうせ汚い!あいつの金は汚い!汚物は裏の滝で浄化してミロロさんちの修繕費に当て……え?貸しはそんなにデカくない?世の中には利息ってモンがある!何パーセントが主流だと思ってらっしゃるの義弟どの!!……よし、納得したならやっちまいなさい!」
義弟との仲は悪くないと聞いていたが、これは仲良しか?義弟はその理屈で納得してはいけないのではないか?
人間、誰でも裏の顔はある。スティーブンは人のことをとやかく言えない。
新たな顔を知っても『こういう人物だったのか』と認識を改めるだけで、表面上は聞かなかったことにするべきだが、彼はちらりと隣の巨躯を見上げた。
クラウスは、立ち入ってはならない話を耳にしてしまった現実をただ申し訳なく感じていた。これまでの印象をがらりと変える言葉の数々にも動揺などしない。運営の仕方は十人十色だ。もちろん苛烈さに驚きはしたが、スティーブンとは別の意味で立ち直りが早かった。
現在よりも少し若い二人は、立ち止まったまま次の行動を決めかねる。
その僅かな時間が、何かを分けた。
振り返ったミス・は目を見開いた。
続いて、すべてを理解して柔らかく微笑んだ。
一陣の風が吹き抜け、地に落ちる影が揺れ、葉擦れの音が耳に残る。
「善良な市民どのへ、家の家訓を教えて差し上げちゃおっかな」
スティーブンは深く息を吸い込む。
――犯罪なんて恐ろしくって、とてもできませんわ。
だから犯罪にはしません。
――隠れて飲酒なんて、どうしてそんなことを……?
隠れなくてもできるのです。
細い指がピースサインを作った。
あの言葉は忘れられない。頭痛の種は粘性で、頭蓋骨の裏に貼りついた。
「人のことを信じちゃダメだぜ。特に、クズの見極めは大切にね!」
これが不幸の始まりであった。
森で見つけた綺麗な石を裏返してみて幻滅するようなひと時だ。
クラウスはともかくスティーブンは、ミス・と元通りの真っ白で和やかな付き合いには戻れないと直感して酷く疲労した。心の距離を置きたい。無害なモノにカテゴライズしていただけにキツイ。
お互いに住む世界も違い、顔を合わせる機会はどんどんと少なくなった。ミス・が領地へ帰れば、自然と連絡も途絶える。
だが、二人とミス・は良き友人のままだった。
幾度とない交流で育んだ仲は簡単に切って落とせるものではない。
正確に言うと、クラウスは純粋に。スティーブンは色々な意味でインパクトが強すぎて形の見えない『友情』を切り落とす機会を逃した。
だから組織の中でこの名前が『支援者』として噂された時は非常に驚き、片方は顔を上げ、片方は名前を復唱した。
「ミス・と言ったかね?」
「言いましたよ。どこかの領主らしいですね。来週だったかな……、こっちに来るとか言ってましたから、ここに居れば見られるんじゃないですか?」
「若い女性にしてはマニアックな投資ですよね」
彼女の亡き父の友人がクラウスらの組織を支援しており、そこから伝わったと説明される。
亡き父の友人である前述の資産家に組織の話を聞いた彼女は深刻そうな顔をした。わたくしもお手伝いがしたい、というような発言もした。領地の管理とは関係のない彼女のポケットマネーは彼よりもずっとずっと莫大だったが、彼は金銭感覚が狂っていたので、爽やかな笑顔で受け入れて組織に彼女を紹介した。
「ぜひ会いたいものだが……」
都合が悪い。
クラウスは顔を曇らせた。
二人は、ミス・に仕事も所属も正体も明かしていないのだ。
自分が支援しようとしている組織と友人だった二人の情報は、彼女の中で結び付かないほうが良いだろう。
彼らの事情とミス・の関係など知る由もない男は、写真付きの履歴書をぺらりと手渡した。
クラウスは懐かしさに目を細める。
スティーブンにも紙を見せて小声で何かを言い交わす姿と表情に誰かが寂寥を見る。
スティーブンの背筋が寒くなった。
「彼女は元気にしているだろうか」
「……元気なんじゃないか」
空返事した彼の寒気は正しかった。
翌週、クラウスとスティーブンは粋な計らいによって、とある扉の前へ招かれたのである。
絶対に行きたくないスティーブンを連れて抵抗なく扉を開けてしまったクラウスは、そこで旧友と再会した。
支援者の表に名を連ねた家の当主は、二人を見て破顔する。
挨拶として先に大きく腕を広げたのは彼女だったが、細い身体はクラウスの体躯に包まれて潰されそうだった。
潰すなよ、とスティーブンは胸の中で杞憂をこねくり回した。痛みの一つでも与えたが最後、この女は再び毛皮を脱ぎ捨てるに違いない。
室内にはもう二人、彼女と交渉をしていたらしい人物がいる。
やりたくないハグを済ませたスティーブンの前で、ミス・はその二人に顔を向けた。
「実はミスター・ラインヘルツとミスター・スターフェイズには以前にお世話になったことがあるのですけれど、もしも金額を少々、『少々』重ねましたら、わたくしはこのお二人とお会いしたり、お食事をしたり、お話をしたりできるようになりますか?」
交渉役が顔を見合わせて頷いた。
(売られた……。俺たちは売られた……)
主戦力であるはずの希少な男二人は、こうして金と引き換えにされたのであるが。
ミス・がどのような人物か訊ねたザップに、クラウスは的確な言葉を探した。ひと言では言い表せない友人だ。
小首を傾げて、質のいいレストランの候補を頭の隅へ追いやる。
「私とスティーブンの友人でね。彼女は思いやりがあって思慮深い。物腰柔らかなのだが、一方で驚くほどパワフルな面も持っているから話をしていると様々な発見がある」
「へえ……。それにしちゃ、もうお一方の反応が芳しくないっすけど」
ザップはスティーブンに視線を送った。
彼はクラウス以上に主観にまみれた感想を、端的に、無駄なく、ハッキリ断言した。
「清々しいクズだ」
人前でここまで言い切るのも珍しい。友人への評価とも思えない。迫真の声音にザップも頬を引きつらせた。弱みかと思いきや、地雷を踏んだらしい。
同じ人間を対象にしたとは信じられない正反対の意見だ。
こういう場合、ザップは本来、何事も広く好意的に受け止めるクラウスの視点を疑ってかかる。しかし、普段は冷静に特徴を列挙する男が、この男が容赦なく酷評でぶった切った。クラウスの前であるのに。
限りなく本気としか取れないこの態度と対応は戯れに似たものだと、純朴なリーダーは極めて好意的に解釈してくれているのかもしれないと青年は推理した。
「詳しくは言わないが、彼女は粘菌だ」
「粘菌……?」
「粘性で厄介なら菌じゃなくてもいい」
スティーブンは秘密結社の『支援者』にミス・の名前は欲しくなかったが、それは彼個人の感情である。あの数のゼロを前にしては何も言えず、気疲れだけが溜まっていく。
話すだけなら良い友人だ。クラウスの評価は適切で、同意できる。
ただ、金を絡ませたくない。絡ませてはいけない。
人間関係に貸し借りや利益を混ぜ込んだ途端に軋轢が生まれる例は数多く、自分たちも当たらずとも遠からず、それに近いと彼は考える。
良い友人なのだ、ミス・は。おそらく。クラウスによると。そして自分でもなんとなく感じるところによると。
「褒めて」
再会して間もなく、彼女からランチに誘われてのこのこと出向いた二人は挨拶の前にこう言われた。いくつものネトネトした記憶の中でもよく思い出せるものの一つである。
「は?今か?クラウスと俺が君を?」
呆気にとられ、先に疑問が滑り出た。代わりにクラウスが、他意なく、ミス・の服装を素敵だと言った。
「ありがとう、ミスター・ラインヘルツ。そしてミスター・スターフェイズ。はいどうぞ」
慣れて構築された反射神経が、咄嗟に彼女の機嫌を持ち上げるように語彙をひねり出した。
とても上手かったので、ミス・は肩を揺らしてくすくすと笑う。
「もう一回行っちゃおう」
「……そのマニキュア、似合ってるよ」
「雑だよ。ミスター・ラインヘルツは?」
「ミス・、もしかするとそのネックレスは誰かからの贈り物では?」
ミス・は自分の鎖骨の真ん中を押さえた。眉根が怪訝そうに寄せられる。
「ええ、義弟からの。よくわかるのね」
「おそらく君は選ばないが、その色は君にとても似合う。きっと君をよく見ている人物がプレゼントしたのだろうと思ったのだが、義弟どのなら納得できる」
「ポイント高いわ。ミスター・スターフェイズ、負けてるよ」
「なんの意味がある勝負なんだ?言うのも悪いが、俺たちはもう、出会った時に君のことを褒め尽くしたぞ」
「わー、サラマンダーより紳士的ー!」
やけに明るい声にぴりりと警戒したスティーブンの前で、春風のような笑みが深まる。ネックレスを押さえていた手が、赤く色づけた唇を隠す。
「しかし忘れてもらっては困るんだ、ミスター、……いや、スターフェイズさん。おたくは今、何を着てらっしゃる?ラインヘルツさんは?そう、お仕事の恰好なんですよ!イイね、働く男!ばりばり働いちゃうよねー!我が愚弟もばたばたと色んな場所を走り回ってるけど、モノホンは違うのかなー!おっと逸れた」
二人の答えは必要とされていない。
「『支援者』であるわたくしのお誘いにお仕事のお洋服でいらしたってコトはつまりこれはいわゆる大事なお仕事の一環なのだよ!」
「おいちょっと待ってくれ。常識的に考えて、仕事の合間のランチじゃ着替えないだろう」
「過程や理由はどうだってよくて、お仕事モードだってのが大事なんだぜ。お仕事モード!私は『支援者』!お二人は少々の金額で私に売り渡されてしまいました!お仕事モードのミスターたちは私の友人っていうよりー、わたくしが支援している組織の構成員なのですね!アッハッハ!君たちは支援者を褒めそやして持ち上げて良い気分にさせる立場!私は優雅なランチを楽しむ側!アーッハッハッハッハ!笑いが止まらない!」
「確かに私たちは友人に会うには相応しくない恰好で来てしまっている……、すまない、ミス・」
「いやいや、おかしいだろ」
「おかしくないよ」
「急に冷静にならないでくれ」
初めは他人行儀な服装にいじけているのかとも思ったが、スティーブンの脳裏に蘇るのは昔の光景だった。
「恨む相手は私じゃあないぞ……。額面がどなたでも賄える数字だったとしても、君たちが差し出されたのは事実なんだからなあ……。ハハハ……フフ……。あることないこと吹き込まれたくなかったら……わかってるだろうな……。気持ちよくさせてくれよ……。義弟どのは実にたどたどしくて困るってんだ……」
「すまん、。今後の関係の為にこれだけは聞いていいか?お前はなんなんだ?」
「今はおたくんとこの可愛い可愛い支援者さまだよ!!『お前』じゃないでしょ!」
「よくわかった。ありがとう」
遠目から眺めるぶんには対岸の火事。実際に向けられてみると乾いた笑いしか出て来ず、これに耐える家の長男をスティーブンは尊敬した。
放っておけば一人で盛り上がって大笑いし続けそうなミス・に、クラウスがそっと話しかけた。
「ミス・、君の『友人』に戻る為にはすべて着替えなければならないだろうか?久しぶりのランチで、君の気を悪くしたいわけではなかったのだ」
何を言っても無駄だろうと諦めたスティーブンの予想に反し、彼女はぴたりと止まった。
「こういうやつには優しくしないほうが良いぞ」
スーツの男は自分の口が滑ったかと思ったが、『こういうやつ』自身が発言したのだとわかって胸を撫で下ろした。どの口でのたまっているのだか、友人だった物体からのご丁寧な忠告が無駄にしみる。しみるごとにスティーブンの眼差しは乾いていった。
多額の資金を援助されても、クラウス・V・ラインヘルツはこのような扱いに甘んじずにいられるのである。むしろ甘んじていてはならず、あることないこと言いふらされても立場が悪くなるのは支援者のほうだ。
そう言うスティーブン・A・スターフェイズも拒絶できる。
受け入れたのは、計算した全体の利と、濡らしたマドラーをインスタントコーヒーの粉に突っ込んだ時のように香ばしくて台無しな『友情』なる不確定な残滓が結びついたからであって、彼女が威丈高に叫ぶほど数字への怯えはない。感嘆すべき貯蓄は掴んでおきたいので、過去に縁がなくとも指示があればご機嫌取りはしただろうが、こうなると記憶が美化されていたのか再三の幻滅が果てしない。
友情は紙より脆くて価値がないものだな、とスティーブンは胸にきちんと教訓を刻み込んだ。
ミス・は顎をそらしてクラウスを見上げた。真剣に向き合うクラウスからは尋常でない威圧感が漏れ出ている。
「私は君という素晴らしい友人を失いたくない」
「あ、ほんとに?」
強く頷いたクラウスに同意を求められ、スティーブンは猛烈に否定を命じる心を利点だらけの明確な正答でねじ伏せようと苦心した。
「私を君の友人に戻らせて欲しい、ミス・」
「……僕も、すべては無理だが上着とネクタイならすぐに外せる」
精一杯の譲歩だ。
身勝手をぶつけられた二人は、やり直しを望む態度をちらつかせた。
心がぐらついたのだろうか。女は一歩、前に進み、スティーブンになけなしの期待と穏やかな優しさを取り戻させた。
綺麗な唇がミスター、と二人の名を呼ぶ。
「友情ってなぁ魅力的だね。でもなんで私が折れなきゃいけない?金払ってんだぞ」
「折れてるのは俺たちだよな?」
彼方まで投擲されて二度と戻ってくるな、優しさよ。
「一周回って爽快だ」
「スティーブン。ミス・は間違ってはいない。プライベートな私たちと会えることを望んでいた彼女を裏切ってしまったのは我々なのだから、彼女が気分を害するのは尤もだ。そしてビジネスの延長線だと捉えれば、『支援者』である彼女は我々に対価を求める権利がある」
「可哀想に」
「。誰に向かっての憐愍か、答えによっては縁を切るぞ」
「アッハッハ!金の切れ目は縁の切れ目。だが金があれば縁は切れなあーい!あと言っとくと、君への台詞だよミスター・スターフェイズ。ミスター・ラインヘルツと並んで、君は私の友人に戻りたがったんだ。どんなに嫌でも言っちまったんだから取り消せやしない。……フ、ふはは……、可哀想に……。やりたくなかっただろうにね?金があれば人を動かせる!人生を操れる!きったねえ金を正当な手段でいただいたってのに訴訟を起こしてくるようなバカには通り過ぎざま肩をぶつけて傷害罪をなすりつける!サツと小金くさく仲良しになっておきゃあ私も枕を高くして寝られるって寸法よ」
何もかもが意味不明である。
「お前、……君、自分をなんて呼ぶか知ってるか?猛々しい当たり屋だよ」
「当たってんのは私じゃない。義弟どのだ」
「しかも自分じゃないのか……」
腐った思考を咎めるには、彼だけでは手が足りなかった。
ミス・のやり方には、クラウスが決して選ばないものがある。だが彼は何も言わないのである。
人はそれぞれ多様な生を営んでおり、そこへ外部の人間が土足で踏み込んではならない。彼は問いかけも口出しも、『やめておこう』と判断する前からやめていた。ミス・が築いた人生の城は理由なく外部を傷つける造りではないとわかっているからだ。
そう。理由はある。
己の欲を満たしたいというシンプルな理由が。
力量は文句無しなのだろうが、とスティーブンはミス・の義弟と、彼女に治められる領地の不憫を慮った。
「。『あの時の君』は企みがあって自分を偽っていたのか?」
葉擦れの音は聞こえない。
「企みならいつでもあるとも。無い人間がいるか?いるんだろうね、世の中のどっかには。たとえば私の左前、君の右隣だとかにさあ。だがしかし私は違う。二心あって近づいたよ。偽りだったかもしれない。辺境から大都会へ出てきて寂しかったものだから友人が欲しいと思うのは当たり前だ。良いやつを見つけて頑張ったんだぜ。私はこんなやつだからね。ああ、鳥肌が立ちそうだったったら。でも完璧だった!予定外にバレたのは痛かったけど、遊学は楽しかったさ。ミスター・ラインヘルツ、ミスター・スターフェイズ。あの時はありがとう」
「私も充実した時間を過ごしていた。こちらこそ、礼を言わなければ」
柔らかな笑顔が想起の回路を刺激し、安らいだ休憩時間の匂いを呼び覚ます。
三人で集まって話をした。
道に迷って待ち合わせに間に合わなかったミス・を、クラウスはスティーブンと並んで迎えに行った。
雨は憂鬱だと言っていた。
ミス・は確かに彼らの友人だった。
「まさにあの時のイメージ通りの回答だろ?」
「完璧な再現だよ。葬り去りたい過去のな」
友達やめよう。
スティーブンだけが改めてそう思った。
というわけで、スティーブンはミス・が人として嫌いだ。仕事が絡んだ彼女はもっと返品したい。彼女を受け止めるクラウスとの関係が、噛み合わないなりに良好なのも気に食わない。
ミス・は世がひっくり返っても世界の常識が崩れても尊敬できない人間で、彼女による支援がクラウスをリーダーに据えた秘密結社を対象にますます注がれても、有り難みを激烈に上回る拒否感が湧く。あの女を引き込むなんてお前は正気かクラウス、と言いそうになった彼は堪えて飲み込んだ。高笑いとピースサインが「仲良くしようね!」とリーダーに向けられる光景は彼にとんでもない苦痛をもたらした。
ミス・は精神の安定を蝕む癌。
しかし倦厭しても、不思議と毛嫌いや憎しみや吐きそうな悪感情は湧かないのである。クズだと判じていてもだ。
円滑に付き合っていれば確実に利益になるという打算もあるのだろうが、スティーブンは自分が錯乱している錯覚に陥っては、隣で静かにミス・の話をするクラウスを見て正常を確認した。いっそ気持ちの良い二面性と開き直りっぷりが彼の感覚を麻痺させかけていた。
ちなみに、クラウスが基準にならないことは彼も重々承知の上だ。
電話口でクラウスとスティーブンを呼び出したミス・は、二人を見つけて呟いた。
「プライベートか……」
二人は一旦、自宅に戻り、着替えを済ませて来たのである。彼らの身になれば誰でもそうする。
「ぐったりした声だったから風邪でも引いたのかと心配しちゃったけど、元気そうじゃないですかあ」
「次は風邪をこじらせることにするよ」
「じゃあ、ミスター・ラインヘルツと一緒に看病しに行かなきゃ。いいでしょう?」
彼女は草を食む心優しいいきもののような目をした。クラウスがかすかに微笑み、彼の隣の男は顔をしかめた。ありとあらゆる手段で貸しを押し付けるな。
「演じていて疲れないかい」
いつだってミス・は真綿じみた人畜無害な振る舞いをする。
「ミス・は立場を使い分けているだけで、『演じる』というのは正しくないのではないかね?私の目にはどんな彼女も彼女らしく映るのだが……」
「ここで援護射撃きたー。よろしいか、対アンバランサーデストロイ用ヒューマノイドハイスペックウェポンどの。ベターかつ釈迦に説法も大概だと思うがね、古来より誰かの懐に入って境界線をあやふやにして要求を呑ませるには態度が謙虚で柔和で優しくって従順でちょっとだけ賢くていたいけなほうがお得なのだとパピルスにもロゼッタストーンにも円盤にも記されているのだわ。騙されてる姿を見てるのも面白いし、疲れたり飽きたりしたら切り札でゆするか別のやつをダシにすればいい」
「クラウス、頼む、眼鏡を変えてくれ……」
言葉を交わすたびに彼女への腐り落ちた評価を下方修正するスティーブンとは違い、クラウスは一貫して泰然としている。
不意に、ミス・は冷ややかな半笑いで顔を歪めた。
ミスター・ラインヘルツは最初から真実を見抜いていたのだろうか。すると、自分も道化の一人だったことになる。騙したつもりが見逃されていたと?ミス・は己らに悪意をぶつけないと信じ、自他共に認める吐瀉物のような身勝手と傲慢をフルコースで提供されても、それすら『ミス・』の一面である、と既知の偶像と実像を結びつけただけであったと言うのか?
落ち着いた足取りで口を閉ざしたミス・は清楚な女性そのものだが、中途半端に歪んだ唇がミスマッチだ。
横目で様子を窺ったスティーブンは、彼女が纏う不釣り合いな空気に気がついた。
触れたことのないそれを危惧した時。
「くそっ……プライベートかよ……」
ミス・の口から呪詛に似た低音が吐き出され、何を指しているのかが考えるまでもなく手に取るように理解できた彼はまた、彼女と縁を切りたくなった。
「友人無くすぞ」
「いいんだよ。害なんてありませんってニコニコしてたら何個でも培養できんだから」
「相変わらず清々しいな……」
ミス・は先ほどまでの雰囲気を霧散させた。口出しされないなら、面倒がなくて良い。
「好意を持つとあばたもえくぼに見えるらしいじゃん?私も人間だからさー、いざって時に申し訳なくなっちまうんだわ。ならねえけど。あばたはあばただ」
華奢な両手を前に突き出し、固定された視界を表現する。
「ついでに言うと友人は裏切る!恋人も裏切る!組織も裏切る!身内も裏切る!金も裏切る!努力も裏切る!そうだろ?裏切られないようにするには初めから期待しないかハンドメイドするか調伏するしかない!義弟には期待してないからあいつは私を裏切らない!仮初めフレンドはハンドメイド。あとは制圧」
自棄っぱちにも聞こえ、裏切られた経験があるのかと思わず振り向いたが、二人ぶんの視線は何も引き出さなかった。
「では私たちは、君の初めての『裏切らない友人』となれる」
クラウスは詮索しなかった。飾りのない本心がミス・の動きを見えない力で押さえ付ける。隙がなく、スティーブンは『まさか俺もカウントされてるのか?』と口を挟み損ねた。
悲壮な境遇とはまったく無縁。裏切られる前に裏切る女は裏切られても傷つかず、心が摩耗して性格が変化したわけではない。彼女の胸にこの言葉は響かなかった。
彼らが自分を裏切ろうが裏切らまいが、ミス・にはどうだって構わないのだ。
「私は裏切るけど殺さないでね!」
白い明かりを、彼女によく似合うネックレスが反射した。
最悪の口約束をしたクラウスに苦言を呈そうとした男を無視して、最低な女は重ねた。
「仲良くしましょう、今まで以上に。だって、フハッ、私たちは……フフ……、清く正しいおともだち!そうでしょクラウス!スティーブン!アッハッハッハ、あっ鳥肌」
まともな精神はもうカラカラだ。
一応、彼女は敵に回して勝てる存在と勝てない相手を弁えてはいる。ライブラは勝てない存在だ。故にミス・は、都合が悪くなれば支援は切り上げるだろうけれど、目立って敵対はしない。裏から糸を引くのもリスクが高く、万が一を想定すれば保身が最優先事項。まさか血界の眷属と手を組んでダンスはしないだろう。
しかし。
ミス・は彼と目を合わせた。
「何があっても殺すなよ。わたくしたちはお友だちですもんね。ミスター・スターフェイズはお友達を裏切りませんもんね」
「気をつけるよ」
彼は仕方なくおざなりな了承を伝えたが、個室のガラス窓に映る自分たちの服装が、男の脳裏に過らせる。
それはもしも何かがあった時、ふんぞり返る『友人』に言い返す台詞を手に入れたのだという確信だった。
約束の反故に激昂された彼はこう告げればいいのだ。
――あれは個人的な話だったよな。
彼らがミス・を害するならば、それは仕事絡みに他ならない。
対峙する様子を想像してみた彼は、そんな日が早く訪れないかと気が逸るくらいに胸がすいてしまって危機感を覚えた。
近日稀に見るスカッと具合だった。
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