あなたの謀反を待っていた




大負けした。
ビギナーズラックを連発し、調子にのれるだけの金額をに与えた。どんどんと金額を膨らませ、ハイ&ローで常にハイを引き当てる。
しかし金券は今やただの紙と化した。
は栄光の残骸をぐしゃりと握り潰した。
普段は温厚なだったが、彼女は意外な悪癖持ちだ。これもその一つ。のめり込むタイプなのである。今回のタネはギャンブルだ。力比べでは必ず勝つ馬が登場したとなるとかきこめるだけかきこみたくなるのが人の性というもので、彼女も場がぶち壊しになるまで荒稼ぎに勤しんだ。ライブラの一員と名がつけば倍率は跳ね上がる。頂点を目指し、誰もが激しい熱を放出する至高の空間。
居合わせるレオナルドは消沈する女性を慰めた。
そんな彼を見て、指先一つの剛力により吹き飛ばされたクラウスも夢から覚めたように目を見開き、慌てての肩に触れる。少年から渡された眼鏡をかければ、彼は元どおり、レオナルドやが知る心優しく純朴なリーダーに戻る。
。君は怪我などはしていないだろうか?」
「ええ。財布に怪我はしましたけどね」
さんの財布はいつも傷だらけじゃないスか」
少年に指摘されたとおり、はだいたいいつも金欠だ。某メンバーのように酒や女やギャンブルにつぎ込みまくっているわけではないのだが、夢中になるものを見つけるとある程度極めなければ気が済まない。だから貯まるときはアホらしいほど貯まるが、無いときは信じられないほどカツカツだ。事務所の仮眠室は不定期に彼女の家となる。
「すまない……」
「とんでもない。クラウスが無事で何よりですよ。さあ、早く帰りましょう。ここも随分静かになりました」
異様な空気に気圧された観客たちは、一人、また一人と姿を消していった。
「ていうか、さんはなんでここにいたんですか」
巨躯がリングに上げられるや否や誰より先に張り上げられた「クラウスに95!」という声は間違いなくのものだった。毎日のように聞く仲間の声だ。わからないはずがない。
クラウスも、それがだとすぐに理解した。素早く首をめぐらせて周囲を見回すと、彼の視界にはまるでスポットライトで照らしたようにはっきりと女性の姿が浮かび上がる。有象無象がひしめき合う群衆に紛れても、彼は彼女を見落とさなかった。見つけられないはずがない。唇が勝手に「」と小さく名を紡ぐ。は気づかず、倍率表記の板を睨みつけていた。
病的に真剣だったあの表情は消え去り、彼女は優しく理知的――に見える――笑みを浮かべた。
「誘われたからですよ。知り合いがいたんです。もう逃げたみたいですけどね。薄情なやつだと思いませんか?」
「いつからここに出入りするように?」
「最近ですけど、クラウスに関係あります?まだ破産してませんよ」
「私は君が心配なのだ、
は首を傾げた。
「私も末席とはいえ秘密結社の採用試験と圧迫面接に合格しているんですよ。多少のことなら大丈夫ですとも」
さん、採用試験とか無いですよね?」
「私のときは無かったですね」
成人した女が真顔で言う台詞にしては狂っている。
真面目に受け止めるクラウスは、「それでも」と女の瞳を正面から見つめた。三角形の角を取るレオナルドは、の小さな身じろぎを見た。恥じらったのだ、と直感する。
「君に何かあれば、きっと私は耐えられない」
は僅かに視線を下げた。
「……では、何もないように気をつけますね」
「ああ」
ちぐはぐなやり取りにも思えるが、これがクラウスとなのだった。
恋人同士だと言われても、誰が信じる話だろうか。

いわく、告白したのはのほうらしい。クラウスは、から恋心を打ち明けられて初めて自分の中にくすぶる感情の名前を掴んだ。
これは恋だ。
自分はに焦がれている。
どうしてだか、ずっと触れていたかった。横顔を見るだけで時間を過ごせそうだった。とても美しい女性だと感じる。名前を呼ばれると、もっと聴きたくなる。
恋をしていたから。求めていたから目で追った。
納得してしまっては逃げようもなく、そもそも『逃げる』などという選択肢が人生に用意されているかわからない男はひたすらまっすぐ彼女と向き合ってこう言った。どうやら私も君と同じ気持ちのようだ。
あまりにも正直すぎる客観的なお言葉には笑みを固めたが、気を取り直して「では私とキスができますか?」と好意の種類を確かめた。本や花やニンジンに並べられる程度の気持ちだと勘違いされてはいないか不安になったのだ。
クラウスは頷きはしなかったが、力強く言い切った。
「君が許可をくれるのならば」
はこめかみを揉んだ。
「許しがなければなさらないと?」
「勿論だ」
無理を強いたくないが故の理性だったが、には上手く伝わらなかった。己に魅力がないから、触れたいと乞い願う衝動が湧き上がらないのだと勘違いした。
なぜならは、のめり込んだものには心血を注ぎ、とことんまで楽しみ、究極を追求するからだ。
全人類がすべからくそうであるとまでは思っていなかったが、ヒトの中には理屈では抑えきれない激情が存在すると知るつもりだ。
クラウスにも当然、あるはずだった。たちはほぼ毎日のように、パソコンの前でそんな彼の姿を目撃しているではないか。
熱中し、すべてをかけて望みを叶えようとする本能を。許しを待たずに行動する、理性を超越した強靭な衝動を。
が色恋沙汰においてクラウスからそれを引き出せていないだけで。
「そうですか。わかりました。では、口づけはまたいつかということで」
「うむ」
と、それから今日まで一、二ヶ月が経つが、二人は口づけどころかまともに手すらつないでいない。
もどかしいことこの上ない事態だ。
恋にも情熱を燃やすにとっては非常に悔しい。
許可を出すタイミングを失したとも言えるだろう。どんな切り出し方をすればいいかわからなかったのだ。ついでに、少々の意地もあった。
初めて手をつなぐなら。
初めて抱擁するのなら。
初めてキスをするのなら。
それは一方的な要求ではなく、自然な流れがいい。
はクラウスから求められたかった。
「……と、いうことで。ザップ」
「目の前で脱ぎゃあ一発っすよ」
「そういう俗な方向ではなく」
アルコールを勧める代わりに助言を求めれば、ザップ・レンフロは意外にも、一度切り捨てられたあとはきちんと受け答えした。
「俗な方向も悪くねえモンですよ。たとえば一枚脱ぐ」
「一枚?」
サンは武装がカタイっしょ。ジャケット脱ぐじゃないですか」
「こうですか」
脱いだ上着を膝に置く。かっちりした印象が和らいだ。
「次はブラウスの色を変えてみるとか。あるいはさっさと私服に変える。私服作戦のが早いんじゃねーかな」
「私服ですか。職場に着て行けるようなものが少ないのですが」
「買えばいいじゃないすか」
財布には支給金が入ったばかりだ。のそれもザップのそれもほのかにあたたかい。両者ともおそらく宵越しにつゆと消えるものの。
は悩む様子を見せたが、「そうですね」とアドバイスを素直に受け入れた。


私服のとレオナルドを連れて事務所に戻ったクラウスは、ザップを叩き伏せてから、ちらりと恋人の姿を見下ろした。
闘技場の人混みで押せや押し返せやとギュウギュウ詰めにされていたせいか、の服装は幾分か乱れている。髪は手ぐしで直していたが、自分からは見えづらい襟元は簡単に据わりを調整されただけだった。
クラウスは背を屈め、そこのリボンを丁寧に結んでやる。慣れた手つきは綺麗な結び目を生み、作業感たっぷりの生真面目な表情はを落胆させた。実はわざと乱しておいたのだ。どんな反応があるか確かめるつもりが、何の効果もなくては笑いも出ない。「どうもありがとうございます」と淡々と礼を言うしかなかった。
入れ知恵があったことは、クラウス以外にはあっさりばれた。服装を変えるなんて、にはとても思いつかない方法だ。では誰の、と見回したときに手を挙げたザップには珍しく努力賞が贈られた。ちなみに「せっかくだし隙も見せたら?」「そうですね、上のボタン二つ外すとか」と指示したのは黒髪の男女である。
だが、上のボタンを二つ外してみても敵は強かった。あまりにも強かった。
「とても似合っている」
そう言ってただ目を細めるのだ。嬉しい反面、違うそうじゃない、と複雑な感情が渦巻く。
「私はダメなんでしょうかね」
「ミスタ・クラウスも無感動ではないと思います」
「私の目を見て言えますか?」
「……明日の会議は十時でしたか?」
そんな会話が懐かしい。
クラウスはに対して、精神的な好意以外は何も感じていないのだろう。誰に対してもそうなのか、自分の魅力が絶望的なのか。
の表情が陰ったと気づき、クラウスがまた彼女の肩を手で支えた。
「大丈夫かね?疲れただろう。少し休むといい」
「いえ、そちらこそお疲れのはずです。私は賭けに負けて全財産の五分の三をスッただけですから、体力は無事です」
さんスりすぎですよ!!」
「ではまたここに泊まることに?」
「お借りできればと」
「それは構わないのだが……、君が望むなら、もっと別の場所もある」
「あなたのお宅とか?」
「ああ」
「ご冗談を。手を出してくださらない方のそばに招かれても今は虚しいだけですよ」
こち、と空気が止まった。レオナルドとクラウスの視線が彼女の顔に集中する。
は失言に気づき一歩後ずさる。
「私がジョークを言うのがそんなに珍しいですか?」
わざと怒ったふうに言えば、素直な少年がまず謝罪した。謂れなき罪を着せてしまった罪悪感はあるが、ここはあとから謝ろう。
クラウスは、「はそういった冗談も言うのか」と純粋に感心したようだった。初めて会ったときからの言葉づかいはいつも硬質だったし、ジョークを言っても、相手はクラウスではない他の誰かだった。二人の関係に名前がついてからも同じだ。がクラウスに軽口を叩くのは稀の中の稀。
「ご配慮ありがとうございます。でも私はここの寝心地が好きなので」
「そんなにかね」
「ええ」
「そうか……」
残念そうな上司から目をそらし、は襟のリボンを指先でいじった。これを乱せば、彼はまた結び直してくれるだろうか。


それから何日経ったか。
「すまない。。私はいつか君の信頼を裏切ってしまう」
そう言われたのは、事務所から全員が捌けたとある夜だった。
はこの日、ストリートシャッフルに巻き込まれたせいで手持ちの現金を紛失し、残高3.8ゼーロの口座に見切りをつけて事務所での素泊まりを決定していた。
窓ガラスの向こうには夜景が広がり、外の暗さと中途半端な明るさがガラスを鏡面に仕立て上げる。
活けられた花の隣で街を眺めていたは、すぐ後ろから声をかけられて、窓に反射する恋人の顔を見た。
即席の鏡は解像度が低く、彼の表情はおぼろげにしか窺えない。声音は静かで、かすかに苦しげだった。
己の不足を悔しむようだった。
どういう意味かわからず、振り返る。
クラウスはの両腕を掴み、このまま引き寄せて腕に閉じ込めてしまいたいと強く思った。
見慣れたとっつきづらい服装を変え、誰にでも気を許すような柔らかい雰囲気を混じらせるようになったは、以前よりも多くの好感を得ている。本人が知るかどうかはわからないが、おそらく気づいていないのだろう。誰にどのような影響を与えているかわかっていたら、はこんな格好で恋人と二人きりになり、彼に背を向けはしないに違いない。
クラウスは、には心の準備が必要なのだと認識していた。あるいは自分たちに大切なものは心の共有であり、求めるところに即物的な感情は入り混じっていないのだと錯覚していた。初めに抱いた恋の感覚は、想いを通じ合わせ、特別な話をし、ともに食事をして同じ車に乗り込み彼女を彼女の自宅に送り届け、おやすみなさい、と言葉を交わすだけで満ち足りるのだ。だからはクラウスに何も言わない。
それならばそれでいい。
そう思っていた。
だが、どうしたことか。クラウスはだんだん、胸の奥に判然としない焼けつくような痛みと吐き出したくなる感情を抱えるようになっていった。
見下ろす先の華奢な鎖骨が、襟ぐりのゆったりした服から覗く。小さな小さな宝石のネックレスが肌を飾って、目を惹かれる。
クラウスとの身長差だと、緩められたリボンとボタンの隙間から薄布の中身すら見えるのではないかと思われた。
「もし、構わなければ。君を抱きしめても良いだろうか」
「ダメと言ったら、……どうするんです?」
試すようなまばたきに、彼は返答せずを抱きしめた。
「クラウス!」
全身にあたたかさが拡がる。どこまでも深く抱いて一つになれたのならと、詮無い恋愛小説に似た表現が脳裏に流れる。
力の差は歴然だ。離れられないように押さえ込まれるとは手も足も出ない。
「……これで、君を裏切ってしまった」
「なんの話です?」
「君の許可がなければ君に触れないと約束をした、あのときの」
を優先したかった。あのときも今もその想いは変わらない。
けれどどうしても堪えきれなかった。
刻一刻と変化してゆくの姿を見て、声を聞いて、物腰に隙が生まれたと感じて、彼女の意識が自分だけに向いているわけではないという事実を再認識して。
当たり前のことだ。
クラウスはの恋人で、はクラウスの恋人だが、どちらも優先すべきものがある。
は拙く、クラウスの背に腕を回そうとした。なだめるようにさする手つきはたどたどしく、クラウスの腕に力を込めさせた。
「『もう二度と裏切らない』とも言えなくなってしまったようなのだ」
「そうですか」
は抱きしめられながらこっそり微笑んだ。苦節数週間。苦労の日々だった。
「私はそれほど魅力的でしょうか?」
愛を告白したときに感じた悔しさと情けなさは、反骨心となっての中にあった。
淡々とするがゆえに卑屈っぽく聞こえるいじけた響きは、年齢にしては幼かったが、クラウスにはとても甘美な音に思えた。
「君ほど魅力的で、君ほど私を夢中にさせる女性はいない」
羞恥に耐え難くなったは、クラウスの服をぎゅうっと掴んだ。
「そうですか」
嬉しさが滲んでいたが、クラウスは素直に言葉どおりの端的な相槌と受け取った。
なので、は付け加える必要があった。
「とても嬉しいです」
一瞬、迷う。
顔を上げ、太い腕に手を滑らせ、理智の瞳に自分を探す。
クラウスもまた、の瞳に己の姿を探した。
「ではあえて許可させていただきます。クラウス、そういう意味なら、何度だって私を裏切ってください。私はあなたに裏切られるのを、ずっと待っていました」
服装を変えたのも化粧を変えたのも、似合うかどうかを毎回問い尋ねたのも、様々な仲間に助けを求めたのも、一喜一憂したのも、すべては今この瞬間の為だった。
クラウスはの言葉を一つ一つしっかりと噛み砕き、呑み込み、胃の腑に落として消化した。ぞわりと肌があわだつ。
何かの枷を外された、不思議な感覚だった。
両手を伸ばし、の顔を手のひらで包む。
背を曲げ、膝を軽く折り、額に額を押し付けると眼鏡の位置がずれた。細いフレームがカチリと鳴る。鼻先が触れるほどの至近距離。
賭けてもいい。
何かある。
は短く息を吸って驚きに備えた。
「……えっ?」
予想に反して、クラウスは姿勢を変え、の額にだけ口づけを落とした。
どうやら今日の幸運は財産ごとそっぽを向いてしまったらしい。『何度だって裏切っていい』とは確かに言ったが、こういう期待の裏切りは嬉しくない。
なぜ額なのか考える。
体格の差が激しいから体勢がつらいのか。
クラウスのほうも照れているのか。
主導権を委ねられたとはいえ、相手が受動的だから気をつかっているのかもしれない。彼はどこまでも優しい男だ。残酷なくらいに純粋で真面目で優しく、色々と常識を超える人なのだ。
だとするならば。
は背のびして距離を近づけると、細い腕をクラウスの首に絡めた。力をかけてさらに引き寄せて、「クラウス」と囁き視線を合わせる。これだけで良かった。
の悩ましい眼差しと薄く開かれた唇に、さしものクラウスもぐらりときたかこなかったか。熱っぽい声が彼女の名を呼ぶ。

大きな影がかぶさり、の待ち望んだ理想的な時間が訪れた。
牙が少し痛かったけれど、彼女はひと言も不満を思い浮かべなかった。発想がなかった。
はぁ、とついた吐息すら操れない。合間に幾度もうわ言のように名を呼ばれ、触れ合いながら流し込まれる低い声に、の羞恥と興奮は掻き立てられるばかりだ。
「クラウス。わかりました。ありがとうございます、裏切ってくださって。わかりました。……嬉しかったです。わかりました」
捕食される気がする、と恐ろしささえ感じたは背を仰け反らせた。するりと腕をほどいて、相手の口を手で押さえる。
クラウスは彼女の手をしっかと握りしめてから姿勢を直立に戻すと、「今夜は」と切り出した。
「どうしてもここで眠らなければならない理由はあるかね?」
「え……、いいえ。ありませんが、なぜです?空調なら切って平気ですよ」
「私の所へ来てもらえないだろうか」
「はっ?」
オクターブの外れた声が宙に飛び出す。ぽってりとして赤く染まる唇から、不明瞭な母音がいくつもこぼれ落ちた。
「君を傷つけるような行為は決してしない。単純に、ともに居たいのだ」
つ、とは目をそらす。
「傷つけられたくはありませんが、初めから『手を出すつもりはない』と宣言なさる紳士のそばでただ眠るだけというのも虚しいものですからお断りします」
お互いに大真面目だ。
「……では一週間後。もしも君が困窮していたら」
クラウスは言った。
「私は君をまねきたい」
どこかで何かの足音がする。ステップが一つ、二つ、進んだ証だった。
「はい、了解いたしました」
は微笑んだ。
「困窮しておきますね」


歩き方を知った彼らは、穏やかな日々を育めるに違いない。
――そう信じよう。

――――そう信じよう。







2016 0630
ask.fmにて、引用したいくらいすごいエネルギッシュなご質問をいただいたので当てられて書いた。
こういうことだったのかはわかりません。たぶん違う。