Dance Like A Gangster
わたしは何もうまくできなかった。手先が器用なわけでもないし、料理がおいしいわけでもない。これだ、と思って映画を見ても、外れることが多かった。
何事も人並みか、それ以下の成果しか出せなかった。ダンスの授業でペアを組むのもへたくそだった。男の子がとても優秀なやり方で誘いかけてくれても、どう答えていいのか、知っているのにうまく口にできなかった。
勉強も得意ではない。黙々とやっているから真面目に見えるだけで、飛び抜けて良い成績を残したことは数える程度にしかない。
いつも、どうやって生きたらいいのか迷っていた。どうしようもない雨に打たれている気分だったし、世渡りがへたくそだから友達もいなくて、どうしたらいいのかもわからず勉強をしてアルバイトをする。つらく感じるのは気のせいだと思いこむ。一生こうして寂しく、茫洋とした世界に立ち尽くすのだろうなと、もやのかかった未来を見ていた。
優しくされたぶんだけ優しくなれるというのなら、あの時までわたしは、他の誰に対しても優しくなんてなかったのだろう。雲が重く立ちこめ、今にも泣き喚きそうな空の下で傘を忘れた時だって、マーケットで小銭を落とした時だって、助けてくれた他人の優しさに気づいていなかった。自分のことにばかり夢中で、周りが見えていなかった。だからきっと、わたしは優しくなかった。
うまく立ち回れない現実の中、いやな世界に足を踏み入れ、わたしはようやく知った。曇りの日でもサルビアの花が咲き誇ることや、雨が降ったら新しく買った傘をさせることや、恐ろしい世界にも優しいひとたちがいるということを。
真剣な生き様がまぶしい。一瞬一瞬を踏みしめながら歩いているそのひとたちは、今のわたしの隣人だった。
なぜか、わたしがぶらりと町に出かけるときはいつも曇り空が見える。ずっと向こうの空は雲間から光が射しているのに、こちらは雨が降りそうで降らない微妙な天気になってしまう。わたしは雨女ならぬ、曇り女だった。
「洗濯物が気になるからよォ、オメー、俺が服を干してる間は外に出んなよ」
笑いながら言ったのはギャングのひとりだ。いかつい彼は、わたしが雲を呼び寄せると、口角を上げてわたしをからかう。本気ではないとわかっているし、この三ヶ月でずいぶん慣れたから、わたしもこくりと頷ける。
可愛らしい微笑みを浮かべる自信はない。へたくそな笑顔を見せるよりは神妙にしていたほうがずっと良いと考え、わたしは黙って首を振るのだ。いつも愛想がなく見えるだろうに、彼らは構わずわたしに話しかけてくれた。なんてやさしい人たちなんだろう。わたしはいつも感動する。
フィレンツェにいる両親は、男の人とこんなにたくさん会話をしているわたしを見て何を言うだろう。バルに入ったとたん晴れ始めた悪意のある空を見上げ、ふと考える。きっと驚くに違いない。わたしは同性と喋ることすら苦手としていたから。
考えを切り上げて仕事に戻る。わたしはあまり笑えないし声も小さいのに、どうしてか裏方仕事ではなく接客の仕事を割り振られていた。とても困惑したけれど、はつらつとしたオーナーには人と違うものが見えているのかもしれない。それはどんなわたしだろう、といぶかしくならないでもない。
あたたかいカフェラテをカウンター越しに渡すと、金髪の彼は魅力的に表情を変えた。
「今日はまだ仕事か?」
訊ねられて、時計を見る。あと一時間で交代の時間だった。
そう伝えると、今日の用事を終えたらしい彼は店内の空席を確かめた。混雑する時間帯だったので、テーブルはあらかた埋まっていた。
プロシュートは持ち帰り用のカップを軽く掲げた。わたしは彼の仕草を別れの挨拶と受け取り、多大なエネルギーを込めて表情をゆるめた。実際はまったく変わっていなくて、同じアルバイトの青年に小突かれたのだけど。
「それじゃあ、またあとで」
わたしがこう言ったのは、わたしとプロシュートが同じアパートに住んでいるからだ。『あとで』とは、次に会うとき、という意味だった。
だからこそ、黒いエプロンをたたみ、着替えを済ませてバルから出たわたしは驚いてしまう。
あれから一時間と少しが経ち、町は夜にさしかかっていた。トラットリアは明るくなり、帰路につく人が増えてくる。
お酒をメインに出し始めたバルの前に、プロシュートは立っていた。まったくの自然体で、立ち尽くすわたしに気づくと、別れ際にカップを掲げた動きと同じように手を持ち上げた。
「プロシュート、どうして……」
わたしを待っていてくれたのかもしれないとひらめき、わたしはとても動揺した。間違っていたら恥ずかしいので口には出さないよう努めたけれど、瞳は唇以上に雄弁だったらしい。
だけどプロシュートは、それについては何も言わなかった。夕食をどうするかと訊ねられ、わたしが困惑した声を出すと、彼は車道側を歩きながら、歩道側のわたしを見下ろした。肌がきれいだな、と思った。顔の造形についてはプロシュートを思い出すたびに感服しているので、もう感想は必要ない。
「腹が減ってんなら食ってくか?」
「あの、……わたしは夢でも見ているのでしょうか?」
「起きて見えるぜ」
確かに、起きている。
言われてみるとおなかが空いている気がしてきた。しかし自意識過剰でなければ、このまま答えるとプロシュートと一緒に食事をとる流れになりそうである。もちろん一対一で男性と夕食を共にした記憶などないわたしは、慌てて頭を働かせた。プロシュートの部屋のテーブルを挟んでお茶を飲むのは心地よいのに、夕食となると何かが違う気がする。
「おなかは空いていますけど、食べたい物が思いつかないので家に帰って考えるつもりでした」
「ああ」
プロシュートは短く言う。
「オメー、肉と魚ならどっちが好きだ?」
答えてはいけない気がしたが、プロシュートに見つめられると何もかも正直にさらけ出さなければいけない気もする。わたしは本能に白旗を揚げた。
「はあ、あの、魚です」
あまりにもわたしが混乱して見えたからか、プロシュートは少しだけ、失礼とも感じないほどかすかに笑ったようだった。気のせいかもしれない。
「わたしはこういうことはよくわからないのですが、このまま行くと、わたしはプロシュートと魚料理を食べることになるのでしょうか?」
プロシュートは出来の悪い生徒に赤ペンで点数を書き込んだ。
「それ以外にナニすんだよ」
「さあ……」
「今日は都合が悪いか?」
どことなく引っかかる言い方だった。『今日』の都合が悪かったら、どうするのだろう。
曖昧に首を傾げたわたしに呆れたのか、プロシュートが何か言いたそうに口を開いて、すぐに閉じた。彼には珍しい、不断な動きだった。彼の動きがやけに瞼の裏に残り、わたしは眠る時に思い出してしまったほどだ。長いまつげが揺れ、瞳は一瞬だけ迷いを見せた。整った口元はわたしの名前を呼ぼうとしたふうにも見えた。いつも自信に満ちているプロシュートだから、より強く印象づいたに違いない。
「都合は悪くありません。お待たせしてしまったし、びっくりしてうまく返事ができなくて申し訳ないなと思ったんです。わたしはお店に詳しくないのですが、お任せしてもいいのでしょうか」
「こっちこそ急な話で悪かったな。家の近くにあるんで、もう少し歩くぞ」
横断歩道で立ち止まり、たまにひょいと信号を無視して走る人々を眺めていると、プロシュートがいくつか話題をつくってくれた。初めの頃に感じていた気まずさはもうない。わたしはずっと長い間プロシュートと町を散歩したような錯覚に陥って、ワインもあけていないのにふわふわと心が浮き上がっていた。だから何も考えず頷いて、直後に羞恥することとなる。
「そういや、オメーは酒を飲まないんだったな」
「すみません。すぐに酔って、人に迷惑をかけてしまうんです」
「向き不向きは誰にだってある。リゾットも酔うと酷いモンだ」
あのリゾットさんが、と驚く。プロシュートは続けた。
「だからあいつはヤバくなってくるとアランチャロッソばっかり飲み始める。どれぐらい酔ってっかはすぐわかるぜ」
「ああ、アランチャロッソ」
「水みてーに飲まれると複雑な気分になるんだよ」
名前を聞いただけで果物の赤色と新鮮な甘酸っぱさが口によみがえる。わたしは急にジュースが飲みたくなった。
「プロシュートはアランチャロッソはお好きですか?」
「好きだぜ」
「わたしもすごく好きです」
アランチャロッソが、と付け加える前にプロシュートと目が合って、走り抜ける車のライトが彼の瞳をつやりと輝かせたのを見て、わたしは自分が失敗したと気がついた。言い回しを変えれば良かったと後悔しても遅い。だからわたしはへたな会話しかできないのだ。
「……飲みモンが、だろ?これから行く店にもあるぜ」
口下手でどんくさいわたしにも、プロシュートの態度は変わらず優しかった。気遣いのできる大人だと、心から感心してしまう。
そう、飲みものが。同意する前に信号が変わったので、わたしたちは今度は黙って歩き出す。
ふわふわしていた心はすっかり落ち着いて大地を踏みしめていたけれど、意味をなさない言葉が喉の奥をくすぐる感覚は、トラットリアでペスカトーレを食べるまでの間、ずっと落ち着きなくわたしを苛んでいた。