テレンス・T・ダービー夢


殴りはしない。蹴るだけだ。必需品となった湿布を脚に貼ると、自分がみじめになってくる。
スツールに腰掛けて脚を広げ、ふくらはぎに冷たい塊を押し付ける。そんな少女を後ろから見ていて、テレンスは笑いとため息を咳払い一つで殺した。
エジプトにあるにもかかわらず、この館は寒々しい。地下に潜れば灯りなしには前も見えず、要領の悪い少女はテレンスがいなくては先に進めない。一人でどうにかなさいと言っても、まだ成人もしない女の子にはきつい仕事かもしれない。ただでさえ不気味な地下室からは生臭さも漂ってくるし、低い位置を吹き抜ける風が足首を掠めれば、それは汚れた小動物が駆け抜けたような錯覚を与える。
びくびくしながら「無理です」と訴える少女を、館のあるじが面白がっていることは明白だ。
「またですか、あなたも懲りませんね」
「わたしが悪いんですか?」
手早く仕事をこなせない態度が彼を助長するのだ。DIOは人に媚びる者をつまらなそうに見つめるが、圧倒的強者である彼の気を損ねないよう慣れない動きをする独楽鼠のことは気に入っているらしい。
そこまで考えて、テレンスは内心でかぶりを振った。気に入っているのではない。目の前にパン屑を撒いてやった上で、屑を踏みつぶす。靴の下にある餌を取ろうと必死になる小動物をからかって遊んでいるのだ。それに近いのだろうと思い直した。
「一度で良いと言ったでしょう。一度、DIO様のご要求にズバリと応えてごらんなさい」
一度だけで構わない。少女があるじの要求を阿吽の呼吸で呑み込んだ時、昼夜を逆転させて寝起きする吸血鬼は彼女から興味を失うだろう。不格好に走り回っている姿が興味をそそるのだから、テレンスの姿を真似てメイド然としていれば解決する。追い出されてしまう可能性もあったが、執事はあえてその可能性から目を逸らした。
「だけど、DIO様は無茶ばかり言うんです。わたしは暗い所が苦手なのに、蝋燭が勿体ないから夜目を利かせて本を取ってこいだとか、女性の生き血が飲みたいから攫ってこいだとか」
確かにそれは無理難題だ。
片手に持っていたトレイがいい加減邪魔になったので、テレンスは台の上に立てて置いた。縁を指でなぞり、ひび割れがないか確認する。
このトレイも、彼女が持つ時はよく床に投げ出される。彼女だけが悪いのではない。気に入らないと高慢に言い放つ美丈夫がボールでも転がす程度のやり方で少女を蹴り飛ばすから、彼女はバランスを崩して転倒するのだ。テレンスはこのトレイを気に入っているのだが、同時にDIOもこのデザインを好んでいる。どちらの都合を優先するかといえば、それはもちろんDIOだ。
屋敷ではDIOが絶対のルールである。少女のいた国では、集団で行動する際、指針となる者を男女関わらず『姫』と呼ぶ揶揄があるらしいが、合わせて言うならば、この館の姫はDIOになる。
「DIO様はオタサーの姫ならぬ、吸血鬼の女帝ですね」
「DIO様は男性ですが」
「じゃあサークルの帝王だ」
少女のふくらはぎは相当に痛んでいるらしい。わざと指で押してはびくりと肩を揺らしている。湿布を貼った程度で即時回復するわけはない。床に置かれた湿布の箱はもうすっかり見慣れたものだ。テレンスが買い足しては、みるみるうちになくなっていく。
「『姫』はどこへ行ったんです?」
「ヴァニラさんです」
こちらも少女の障害になる男の名前だ。DIOにいじくり回されている少女が気に食わないヴァニラは、事あるごとに難癖をつける。時には居丈高に「必要以上にDIO様に近づくな」と命じる。
彼女からすると、理不尽な命令も、絶対的な権力と力量の差からして受け入れなければいけない。粛々と相槌を打ち、はい、はい、と了承したふりをして、ほとぼりが冷めるまで板挟みになりながら耐えるしかない。『姫』の言いなりになる小間使いと言ったところか。
「ヴァニラ姫をも従えているから、DIO様は女帝なんですよ」
「DIO様は男性ですが」
「じゃあ帝王だ」
繰り返された同じやりとりに、ついテレンスは笑ってしまった。失礼だと理解はしているが、くっくっく、と噛み殺し損ねた笑い声が漏れる。少女は目を丸くして、執事の珍しい姿に見入った。
片手を持ち上げ、非礼を詫びる。少女は首を振った。礼を失した行為を指摘できるほど自分は偉くないし、彼の珍しい行動を見られただけでも儲け物だと思った。
「では私は?あなたの中では私はどの位置に居るんです」
今度は、少し悩んだ様子を見せる。改めて考えると、テレンスと少女の関係は説明しがたい。同僚でも、上司と部下でもない。
ゲームの新しいシステムを見つけた時に似た眼差しを送っていると、少女は気まずそうに正直な感想を述べた。テレンスにとっては意外な形容の仕方だった。
「お姑さん……とか」
言いたいことは山ほどあったが、自分の地盤が揺らぐような気がして何も言えなかった。なぜそう考えたのかを問い詰めたいが、また突拍子もない答えが飛び出るかと思うと躊躇する。よりにもよって、姑とは。
少女は自分の表現にしっくりきたようで、何度も頷いてニコリと微笑みすらしている。テレンスは少しだけ、ほんの少しだけ、彼女がDIOに蹴り飛ばされる理由がわかった気がした。