イルーゾォ夢


言ってしまえば、酒の勢いだった。
イルーゾォはやけにすっきりした気分で目を覚ます。閉め切られたカーテンのわずかな隙間から陽の光が射し、ベッドシーツに一筋の模様をつくっている。太陽に責められている気がして居た堪れなかったので、男は見たくない現実に向き合うことにした。
起き抜けの頭で物を考えるのはあまり好きではないが、隣に寝転ぶ女の姿はいやでも目に入ってきた。毛布から覗く肩はむき出しで、薄暗闇の中でもすべすべとして柔らかそうである。身体の曲線は毛布の上からでもわかる。呼吸はゆっくりしたリズムで、何も怖がっていないし、イルーゾォが起きたことにも気づいていない。
この女との出会いは一年前にさかのぼる。
大した値段でもないバールで一人、あまりうまくない食事を摂っている時、二人は隣同士の席になった。会話をするでもなく黙々と食べていると、ふと女がグラスを倒し、甘ったるい酒をイルーゾォのズボンにこぼした。謝罪とハンカチとクリーニング代。
関わり合いはそれで終わりかと思われたが、女はせめてもの詫びにとイルーゾォを食事に誘った。面倒な誘いだとは感じた。わざわざ出かけるのもバカバカしいし、どうせ詫びとはいえ、女に奢らせるわけにはいかない。
「ディナー券があるの」
用意周到な女だった。ちらりと見せられた二枚の紙切れに負け、イルーゾォは食事の場に向かった。
細々と連絡を取り合い、時に食事をし、街を散歩する。そんな付き合いが半年ほど続いた頃、二人の関係は一転した。
端的に言えば、女は別勢力の間諜だった。イルーゾォが一般人らしくない恰好をしていたので―――ここで同僚が大きく笑った―――近づき、様子を見ていたという。二つの組織の仕事がブッキングし、協力体制をとったことが、二人のかぶっていた仮面を引きはがす切っ掛けとなった。

女は捨てられたのだそうだ。
組織に属する前、働き場からも身内の輪からも放り出され、どうにもならなくなったところで現在所属する集団に拾われたのだという。彼女の瞳には、私利私欲ではなく、忠犬のようにボスを慕う輝きがあった。イルーゾォはどこか冷めた眼差しでそれを見た。苦汁をなめたとはいえ、それは誰しも同じだ。何よりも信じられるものがあるだけで幸福だろう、と一歩下がり、線を引いたつもりだった。
それがまた、どうしてこんなことになっているのか。
言ってしまえば、酒の勢いだった。

記憶はある。前後不覚に陥るほど酔っていたわけではない。待ち合わせをし、バールで数杯の酒をひっかけ、ついのせられて飲みすぎて、女に介抱されながら彼女の部屋に連れて来られた。
「何やってんだか、バカだなあ。自分の限界くらい知っておきなさいよね。ほら、水飲める?」
差し出されたグラスから水を飲む。ただの水だったのは間違いない。何かを盛られたわけでも、スタンド使いの攻撃にあてられたわけでもない。女から無理やりに襲い掛かられたおぼえもない。つまり、この状況はイルーゾォが作り出したのだ。
嫌いではない。ただ、一歩引いて見ていただけだ。くるくると変わる表情は面白かったし、二人の会話はぴたりと嵌り、掛け合いが上手に成り立った。楽しかった。だが、こうして一晩を共にするだけの仲かと言えば、それは、まったく違っていた。
イルーゾォは今や手のひらにじっとりと汗をかいていた。こんな状況は初めてだった。酒の勢いで女を押し倒した。
「(っつーか、お前も抵抗しろよ!!)」
仮にもこの女は裏社会の構成員だ。男を殴らせたら一級品のじゃじゃ馬である。イルーゾォは自慢できる体格もしていないし、彼女が本気で拒めば、ここまですんなり朝を迎えられもしなかっただろう。こんな状況でよくぞ眠っていられるな、と思う。女はみんなそうなのだろうか。
「何してんの、イルーゾォ」
寝返りを打った女が、はた、と気づいてイルーゾォに視線を向けた。いたって普通の口調なのに、彼は激しく動揺した。これから向けられるかもしれない罵詈雑言を受け止める覚悟は、まだ決まっていなかった。
「風邪ひくよ。服、着れば?なんか脱ぎ捨ててあるから」
ベッドの下に散らばる衣服が生々しい。
「ひ、人のこと、言えんのかよ」
「寒くないからあたしはいいの。……菓子の袋に手を突っ込んだら虫が出て来たみたいな顔して、どうしたの?」
そんなにひどい顔をしているだろうか。
イルーゾォは自分の頬に触れ、かぶりを振った。
「悪かった。罵ってくれ」
「どんな趣味?」
「ちげーよ!」
寝そべったままの女に向かい、イルーゾォは居住まいを正して背筋を伸ばした。膝の上で手を握り、それから「悪かった」と言った。
「お前は俺を罵る権利がある。こんなことで許されるとは思わねえけど、本当に悪かった」
時間が何倍にもふくれて、イルーゾォにのしかかった。重みに耐えかね俯いていく男の顔を覗き込み、女はおそるおそる窺うように言う。
「あのさ、合意の上だよ。最初はびっくりしたけど、あるって。こういうこと、あるよ。気にすんなよ、イルーゾォ。あたしは気にしてないし、あんたもあたしもどうせ野良犬だ。野良犬同士が盛ったって、静かにやってりゃあ誰にも迷惑なんてかけないだろ?」
「お前、言い方ってもんを知らねえのかよ」
「そもそも酔った男を家に呼んだ時点で、あたしもちょっと覚悟してたところはあるからさ。でも、放っておけないじゃん。あたしはあんたの家を知らないし、知られたくないでしょ?ハイサヨナラって言うにはちょっと酔いすぎてたし」
真っ直ぐに向けられたものは、優しさだったのかもしれない。イルーゾォは不覚にも、少しだけ、ほんのわずかに心を動かされた。
どう言えばいいのか迷ったが、「悪かった」と口にするのは最後にしようと決めた。ここまで女に言わせて、決意を固められないようでは。
「責任はとる」
「へ?」
女はきょとんと首を傾げた。どうやって、とずれた声を出す。いつの間にか、ベッドに射し込む陽光の角度は変わっていた。
「できる限りのサポートはする。金はねえけど」
彼女はけらけらと笑った。
「あんたそれ、ダメ男の台詞だよ」