拍手お礼 ペルソナ使い



今日はあらゆることがスムーズに回らない。

モハメド・アヴドゥルの短気が顔を出し、彼は眉間にしわを寄せ、長くため息をついた。占いに支障が出るかもしれないので、仕事はたたんでしまおう。幕を下ろし、道具を片づける。
家では、エジプトへ遊びに来ている彼の恋人が陽気に遊んでいることだろう。アヴドゥルの家で好きなことをやっていられるのがあまりにも嬉しいのか、彼女は常にハイテンションを保つ。元々ハイテンションなタイプだが、特に楽しそうだ。事あるごとにバンザーイ!と手を挙げたりクルクルとターンしたり騒がしい。アヴドゥルの時間を邪魔しないように気をつけてはいるのか、彼に不快感はなかった。『またやっているが、そのうち角に頭をぶつけたりはしないだろうな』と思うくらいで終わる。彼女の、対アヴドゥルにおいての目算は一部ただしい。
しかし、今日は疎ましく感じてしまうかもしれない。それは可哀想だ。あの少女に非はなく、この苛立ちはアヴドゥルが今日、あまりにも不運であることに起因しているだけなのだ。もはやその詳細を並べ連ねることも躊躇われるほど、日常のすべてが彼の気持ちを嫌に波立たせた。

このまま帰るわけにもいかず、彼は歩き慣れた道をぶらついた。砂のにおいと踏みしめる感触は変わらず、アヴドゥルは自分が日常へ戻ってゆく気がした。歩くうちは余計な感情を渦巻かせなくて済む。彼女がいればもっと落ち着けたのだろうか、と思い出す顔は、時々幼さすら感じさせる無邪気なものだ。目が自然とやさしくなる。
だが、戻ろうとは思わなかった。いかに好意を持つ『恋人』であっても、好感があっても、彼女はどこまでいっても彼女である。下ネタがえぐい。アヴドゥルの前では怒られるので抑えぎみなものの、国際電話でポルナレフと話すときは声が大きくなり、就学したての子供か何かか?と2人ごと問い詰めたくなる話題がポンポン飛び交った。
なぜアヴドゥルの耳に入るかというと、自室としてアヴドゥルが彼女に分け与えた部屋には電話がないからである。彼女が友人と、仲間と連絡をとるためには居間の近くまで来るしかなく、そして彼女はよく彼らと会話を楽しんでいた。購読する雑誌がエジプトに届かないので、内容が気になって訊ねる目的らしいのだが、方向は盛大にシフトしてえげつない所にダッシュする。ゴールはない。知らず審判を任される、気を長く持とうと努力するもののなんやかんやでキレやすいアヴドゥルが一喝するまでそれは続いた。彼女の前では、大人ぶろうとしてもやりきれないことが多い。彼女の性質が人の本音を引き出すのか、アヴドゥルの『マトモ』な神経をハープの弦にするのが上手すぎるのか。アヴドゥルが、彼女の前では無防備になるあかしである可能性もある。

彼は成熟した大人として振る舞おうとする。実際に、泰然とした態度である。己が己自身の手本であろうとするように自らを律し、感情を落ち着かせて静かでいる。声を荒げるときは少ない。そりゃあ、たまにはあるけれども。主に彼の恋人とポルナレフのせいで。あの2人はなんなのだ、とアヴドゥルはよく額を押さえて考える。気が合うのは良い。仲間であり、親しい友人なのだろう。それはわかる。わかるのだが、あそこまで似通った性格でなくてもいいのではなかろうか。少なくとも、ポルナレフには百歩譲って彼女と『好みの女の子』の話をする程度にとどめてほしいし、彼女にはポルナレフに『骨盤から足首までならどの位置が一番そそるの?』などととんでもない質問をぶつけたりはしないでほしい。そして盛り上がるんじゃあない、とアヴドゥルはどちらに対しても厳しく言い聞かせるのだが、一度たりとも効いたためしがない。わたしは彼らの親か?アヴドゥルはほとほと呆れ果てた。『彼女のアヴドゥルさんへの好意が1.2だとするならば、アヴドゥルさんのそれは0.8くらいですか?』と言った花京院の言葉に、ほんのちょっぴり同意したいところもなくはなかった。せめて1にならせてくれ。アヴドゥルとて、恋人をガミガミ怒りたくはない。好きなのだから。
けれど、なんというか、無邪気な少女は彼の怒りすら喜んでいるようで、いまいち手ごたえを感じられなかった。内心でぺろりと舌を出すだけで反省が見られない。そしてアヴドゥルも、てへへ、と笑う姿に毒気を抜かれてしまう。仕方のないやつだ、と思ってしまう。これが恋なのだろうか。だとするならば、随分とペースを乱されるものである。アヴドゥルの、もうすっかり形成されきった殻を外側からブチ破る。
はあ、とため息をついて腰に手を当て、やれやれだな、と首を振ったとしても、アヴドゥルは彼女が好きだった。0.8かどうかは、自分ではわからないけど。
お互いの好意の大きさが拮抗する奇跡は、きっとこの世のどこにもないのだろう。彼は多くの人間模様を目にする生業だが、必ず、どちらかの好意が相手を上回っていた。等しく相手を愛し、等しく愛されることはある。愛し合う者たちはいる。だが、完ぺきな均衡を、アヴドゥルは見たことがない。
だから、というのはただの正当化に近いが。
好きだ、と口の中でつぶやく。脳裏に浮かび上がる少女の顔が、ニコッとした。心で爆発しそうだったモヤモヤは、いつの間にか消えた。
アヴドゥルは足の向きを変え、家に戻ることにした。

彼の恋人は「アヴドゥルさんだー!」と自分の部屋から走り出し、帰宅の音を立てたアヴドゥルに飛びついた。アヴドゥルも、がっしりした大きな身体でしっかと支えてやる。暴走車両が高速道路のガードに突っ込んでいくのにそっくりだ。
「おかえりなさいアヴドゥルさん!今ちょうど、アヴドゥルさんのことを考えてたとこだったんですよ!」
「そうか」
「ていうか、早かったですね?」
「少し捗らなくてな。何か用事があって出かけるようなら、わたしは自室の片づけでもしようと思うのだが」
「どこにも行かないです!アヴドゥルさんが帰ってきたなら、生半可な理由じゃあ出かけられないですよ」
アヴドゥルは、生半可でない理由については問わなかった。本人も、よく考えずに言ったから訊かれても答えられなかったなあ、と思った。ちぐはぐなのにどこか通じ合うカップルである。これをカップルと呼んで差し支えないのかは、ここにいない遠き日本の花京院に訊くのが一番だ。青年は日本への道のりよりも遠い目をするに違いない。そしてどうでもよさそうに、いいんじゃあないかな、と言う。その裏には『どうでも』が隠れる。
少女から女性へ。変化しつつある恋人の顔つきと、どんなに心が成長しても変わりきらない明るい笑顔に、アヴドゥルは自分の呼吸が整うのを感じた。アヴドゥルさん?と自然となる上目遣いでアヴドゥルを窺う眼も良い。
「どうかしたんですか?街中でめちゃくちゃ可愛い女の人を見つけちゃったんですか!?」
「なぜそうなる。大したことじゃあない」
「何が大したことじゃあないんですか!?目移りはたいへんな問題ですよ!」
「『どうかしたのか』に対する返事だ」
「ですよねー。あっ、そういえばさっき花京院から手紙が届いてたんですけど……」
少女はアヴドゥルの手を引いた。よほど面白い内容だったらしい。

もう、大丈夫だった。