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本編後 付き合っている


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捨て猫なのか飼い猫なのか、やけに毛並みの整った猫と目が合った。

首輪はしていない。さらさらした毛に隠れているのかなと色々な角度から目を凝らしたけれど見当たらなかった。
あちらこちらに首を伸ばして自分を眺めるニンゲン(……私だ)をどう思ったやら、猫はのそりと立ち上がって、尾を持ち上げたまま危なげない足取りでブロック塀のふちを辿ってこちらの頭上までやってきた。
「なぁーん」
低い鳴き声は猫の中でもイケメンボイスに入るのではないだろうか。猫にイケメンとはこれいかにと言った感じだが、イケメンパワーに理屈はない。
わずかに猫を見上げると、きちんとつくろわれた毛並みの合間に傷痕を見つけた。
「怪我してる」
縄張り争いとかかな。猫の爪は鋭いから、住処を賭けてぶつかり合う本気の戦いでは無傷でいるほうが難しいのだろう。元カレは飼い猫とじゃれるだけで手指に生傷が絶えないと言っていたし。
猫はまるで「怪我?」と訝しむようにきょろきょろした。言葉がわかるとは、なんと賢い猫だろうか。もしかすると異界の生きものなのかもしれない。よそ見をした瞬間にこちらをぱくりとしてしまう類の生きものだったらとっても困る。
でも、異界の言葉もフォローできる私の翻訳機能が働かないということは間違いなく地球産地球生まれの猫ちゃんなはず。ただのめちゃくちゃ賢い猫。人間の言葉を理解しちゃうくらい賢い猫。おんなじ言語で喋っても話が通じない人がいる世の中だから余計に感心してしまった。
「ほっぺのやつ、もう痛くないの?」
「にゃう」
「あっ、可愛い!」
猫は、私が指差したほうの頬を手でくしくしと撫でつけた。
顔を洗うような無邪気な仕草がたまらなく可愛くて、とっさにスマホを取り出しカメラ機能を起動する。
素早くレンズを向けると、猫は何事もありませんよと言わんばかりに両手を揃えて背筋を伸ばした。レンズを厭うようにそっぽまで向かれた。
猫ー、猫ちゃんー、と呼びかける私の声の甘ったるさはキャラメル入りの板チョコレートにも勝る。
胸焼けがしそうな声音でおだてたり宥めたり顔を覗き込んだりしてみたけれど、猫はつれなく無視を決め込んだ。
しつこく手を出して引っ掻かれるのは嫌だ。痛そうだし、そのまま走って逃げられるのも悲しい。
私は構えたスマホを下ろした。
「写真やなの?」
「にゃあ」
「そっかー……。スティーブンにも見せたかったのになー……」
猫の頬に走る傷痕はスティーブンのほっぺのものによく似ている。場所と形が近いから写真に撮ってスティーブンに見せたら笑ってくれるかなと思ったのだけど、こんなあからさまに嫌がる猫に無理強いするのもなんだかなって感じだもんね。こう見えて、私はちゃんと血も涙もある異世界人なのだ。
「あ、スティーブンっていうは私の好きな人なんだけどね、猫ちゃんとおんなじトコを怪我してるんだよ。お仕事が忙しいみたいでここ3日くらい会ってなくてさー。めっちゃくちゃさみしーけど、ほら、余計な連絡してお仕事の邪魔とかしたくない的な感じあるじゃん?」
「にぁん」
猫の世界にはないのかもしれない。なにせ自由気ままな姿が分厚い写真集になっちゃう生きものだ。
「ネイルデコったーとか前髪切ったーとか新しいスカート買ったからご機嫌だよーとかメールしまくっても邪魔になるだけだし……」
言いながら落ち込んだ。ネイルデコったし前髪も切ったし可愛いスカートを買ったからいの一番に見せたかったけど、スティーブンとは3日もまともに連絡を取っていない。
スティーブンにそっくりな猫見つけたよ、なんて写メを送ってこの猫の可愛さをめちゃめちゃ共有したくても、そんなのデコネイルや花柄スカートレベルでどうでも良すぎる話題だし、返事も『ああそう』もしくは『本当だ』の二択で事足りる内容だ。もし私が忙しいときに友だちからそういう写メが送られてきたら絵文字スタンプを一個だけ送り返してあとは無視するもん。いかに社交上手なスティーブンだって反応に困るに違いない。そして私は彼を困らせたくはない。
残念な気持ちでスマホをカバンにしまいつつ、唇をとがらせる。
仕方ないけどさ。仕方ないけど3日は寂しいっていうかさ。だって昨日も一昨日もその前もちゃんとやり取りできてないんだよ。顔だって見てなくて声も聞いてなくて。
3日。
「3日!?そういえば連絡、3日ともレオ経由じゃん!!大丈夫なのスティーブン!?」
「にゃお」
「休めてる……?あ、職場で寝てるか……女の人の所で寝てるのかな……?どう思う……?」
「なぁお……」
「女の人のトコだったらどーしよ……いやどうもできないけどさー……、なんかモヤる。……モヤんない?」
「みゃー……」
って、猫相手に訊いたってわかんないか。
頭が良さそうな猫だから喋っちゃったけど、はたからみたら今の私は猫に喋りかけて一人で会話を繰り広げる危ない人である。
急に恥ずかしくなった。
「……そろそろ帰るね!」
そう言うと、猫がすすすっと私のほうに顔を寄せた。
ちいさくて湿った、ひんやりした鼻先が私の鼻先にぺちりとくっつく。
思わず「つめたっ!」と言うと、猫はゆっくり瞬きをして短く鳴いた。猫的には意味のある鳴き声なのかもしれないけど、猫語に明るくない私には意味不明だった。
「え、いまの何?」
「にゃあ」
「……励ましてくれたりした?」
「にゃあ」
「あ、それとも猫流のナンパ?そんなオトコやめとけよ、みたいな」
濡れたところをハンカチで拭いながら冗談めかして言ってみた。
猫は低く鳴いた。
「みゃお」
「あいたっ!!」
疾風のごとき猫ぱんちが、私のおでこににくきゅうマークを焼きつけた。


その晩、1通の写メが届いた。
スティーブンのメールアドレスだ。
お菓子をつまんでだらだらしていた私は通知が鳴るなり跳ね起きて、ソファの上で正座した。
件名は無題のまま。
本文には『こんな猫を見かけたよ』とだけ書かれている。
首を傾げて開いたファイルには猫が写っていた。あの猫だった。
スティーブンも見かけたんだ。ということは意外と近くでお仕事をしているのかな。それともこの猫の行動範囲が広いのか。
猫界の中でも指折りのやり手な雰囲気を醸し出していたあの猫の縄張りが凄くても驚かないが、近くでお仕事をしているからこの猫の写真が撮れたんだなって思うほうが幸せになれるので、私はそっちを信じることにした。
「あ」
3日ぶりのやりとりを満喫しようと返信ボタンを押す指が、レオからかかってきた通話の着信を拾ってしまう。
「もしもしレオ!今ね、スティーブンからメールがあったの!」
「あっはい、僕も近くにいて見てました!喜んでるって伝えておきます!」
「ありがと!でもいまスティーブンと電話できたりとかしないかな?ちょっと声を聞くとか、そういうのだけでも良いんだけど……」
「それはちょっとまだ無理かなーと……」
変な言い方だ。
いま届いたばかりのメールを送信する場面を見ていたなら、スティーブンはレオのすぐ近くにいるのだろう。
なのに、ワンタッチでスピーカーフォンに切り替えてたった一言『猫ちゃん可愛かったね』と伝えることすら無理なんて、忙しいというよりもはや牢獄に閉じ込められてはいないか。
「……えーと……、でもちょっとまだ忙しくて、……電話やメールがちょっとまだその……できないかなって感じでして」
猫語以上に意味不明だ。
「じゃあ今のメールは特別ってこと?」
「すごい特別です。片付くまで連絡一切取らない方針だったんで、あいたっ!」
「レオ!?」
小さい悲鳴が聞こえた。
「すみません、喋りすぎました!また何かあったら連絡します!!」
電話越しに早口でそう言って、レオはぷつりと通話を切ってしまう。
なんだったんだ。眉根を寄せて画面をにらんでも、斜め横を向いた猫の画像があるだけだ。
とりあえず、保存した。


「でもあれ以来見かけないね、この猫ちゃん」
そんな写真を眺めての何気ない呟きに、スティーブンは長閑な公園のような笑い声を立てた。
数日にわたる不在が丸きりなかったみたいな顔をして「ただいま」と帰ってきたものだからあまりの面の皮の厚さに仰天した記憶は新しい。先週の夜のことだ。
文句のひとつも言ってみようかいややっぱりウザがられるかないやいやでもこれは頬をふくらませる権利ぐらいならあるのではと腕を組んで悩んでいたのに、過剰包装された可愛らしい焼き菓子の詰め合わせを渡されたあげくキャラメル入りの板チョコレートが裸足で逃げ出すほど甘ったるいキスとポタージュよりもとろける至福のお時間をいただいてしまったせいでころりと転んで許した記憶も新しい。思い出すと口元がへらへらする。こんな手口で丸め込まれるとはちょろすぎる。成長が見られない。意志も弱い。対スティーブンにおける防御力が無に等しい。白玉団子のほうがよっぽど頑丈だ。
「家に帰ったんじゃないか?」
「なにが?」
「猫」
「うーん。確かに、野良猫にしては綺麗だったもんね」
ただ、あの猫が誰かに飼われる姿は想像できない。 あの描はいろんな人を手懐けて人脈(……猫脈?)を広げて堅実にカッコよく生きていそうだ。
うん、なんかしっくりくる。
きっとこの地域に飽きて、別の場所へ移動したのだろう。
「次に会えるまで待ち受けにしとこーっと」
ちょちょいと加工してから画面を見せる。
時計の文字盤とも通知表記とも干渉しない、良い具合にジャストフィットな仕上がりだ。
「どう?」
「うーん。……思いのほか画質が良くて驚いた」
それってどういうお墨付き?




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