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本編後 付き合っている
深く考えない
*
細かい事情は省くが結論だけ言おう。
私はひとりぼっちでホテルのソファに座っている。
外は快晴(……なはず)、喧騒も控えめ(……なはず)、アルバイトもお休み。そして何よりここは観光ホテルで、クラスの高い室内に置かれるベッドは2基ある。
ウォークインできそうな備え付けのクローゼットには、女物のカーディガンの隣にもうひとつハンガーが荷物を背負ってぶら下がっている。カーディガンよりひと回りは大きいと見える簡単なジャケットだ。彼は暖かくなったようだからとそれを置いて部屋を出た。
廊下を並んで歩き、夕食のメニューへの期待と、彼の隣でふたりの休日を謳歌できる幸福を噛み締める。
そんな幸せなひと時だった。腕まで絡めちゃおっかなとか大胆すぎる魔がさしたくらいだ。
結果的には、しなくてよかった。
エレベーターを降りた先、ロビーからラウンジへ通じる道をキョロキョロと見回して歩く私の目に突如運命じみた烈しさを持ってこちらへ近づく人影が飛び込む。ブルネットの彼女は女優さんみたいに綺麗な顔立ちで、カラートーンを削り落としたファッションが素晴らしく似合う美女だった。
整いすぎたモノは苛烈な印象を与える。
圧倒された私だったが、ヘルサレムズ・ロットで生活するうちに築かれたささやかなる危機察知能力と自己防衛本能となけなしの気づかいパワーが頭の中でフル回転した。
美女は私の隣に立つ『彼』に向かってまっすぐやって来る。ただ通り過ぎるだけだなんて楽観的すぎる考えはちぎって丸めてゴミ箱へポイだ。
一気に背中に冷や汗をかく要因がまたひとつ増える。それはニコリと微笑んだその女性が口にした名前ゆえだった。
「あら、こんにちはスティーブン。奇遇ね、今日はお休み?」
「やあ。休暇を貰ってね。息抜きでもしようかと思ったんだ」
知り合いだ。明らかに知り合いだ。
私はスティーブンと女性の組み合わせイコール踏み入ってはならない超えげつない領域、と認識している。このふたりがえげつないお付き合いの仲なのかは私ごときには読み取りきれないものの、何にせよお互いを知る者同士ならば余計な人物はいないほうがよさそうだ。……たぶん。
私なりにソッコーで考えたほぼ反射的な反応だったので正しいか間違っているかはわからない。
塵芥程度すら存在しない演技力を掻き集めた。
「こっ、ここまでで結構です!」
「は?」
「え?」
「……案内!道に迷って案内してもらって、すみません、ありがとうございました!じゃあ失礼します!!」
ぺこりと頭を下げて逃げるようにその場を立ち去る。心臓がばくばく言ってうるさい。
乗ったばかりのエレベーターにまた乗り込んで「あ!!こっちから来たのに戻っちゃダメじゃん!!超バカじゃない!?」と大ポカに気づき誰もいないのをいいことに盛大に頭を抱えたが許していただきたい。他にもアホをやらかしていたのだから。
「……うわー……バカすぎ……」
高層階で止まったエレベーターから降り、廊下を曲がり、割り当てられた部屋の扉の前で立ち尽くした。
「カードキーが……ない……!」
もしかすると、この矮小な脳みそにかろうじての機能が残っていれば、暗証番号ならなんとかなったかもしれない。しかしカードは無理だ。電子機器は誤魔化せない。
何があるかわからないロビーにもゴロゴロふて寝できそうなベッドが待つ部屋にも行けず、宙ぶらりんのままエレベーターホールの隅っこにある大きなひとりがけのソファに身体を埋める。はー。
「スティーブン、世界各地でモテてるなあ……」
今日も今日とてイケメンだった横顔を思い出しながら唇をとがらせた。
30分ほど経っただろうか。
高性能なスマホでゲーム(……レオのオススメだ!)をして遊んでいた私に電話がかかってきた。表示されたのは見慣れた名前。写真はない。頭の悪い表現しかできないけど、あの男の顔形を私が持つのはヤバそうだからだ。だって、秘密組織のすごい人だし。
「もしもし」
「僕だよ。今どこにいる?」
「15階のエレベーターホール」
「わかった。さっきの所まで降りて来られるかい?」
「うん。でもあの人は?あの女の人。大丈夫なの?その、部屋の鍵さえ開けてもらえれば私、部屋でゴロゴロしてるし!スティーブンはそっちに行ってくれて全然平気だよ」
スティーブンは電話の向こうで少しだけ沈黙した。
迷っているのかもしれない、とその沈黙を私は計算ととらえた。
けれど秤にかけたとき、優先すべきはお仕事だ。
まあ彼女がスティーブンのホントの二股浮気相手とかだったらさすがに私もブチ切れていいかもだけど、彼に限ってバカバカしい危険な橋は渡らないだろうと無意識のうちに信頼している。
「スティーブン?」
あんまりにも黙り込まれるからおかしな発言をしたかと不安になる。反芻したが思い当たらず、彼の名前を呼ぶ声は訝しむふうのものになった。
「悪い。なんでもないよ。……彼女のことは大丈夫だから、気にしなくていい」
「ホント?」
「ああ。予定どおり、クロワッサンサンドを食べに行こう」
返事をしようとした私より先に、スティーブンの言葉が割り込んだ。なんだか不思議な響きだなと感じた。
「君がよければ、手を繋いで」
意味を理解する前に思考回路が焼き切れた。間抜けに聞き返す。スティーブンは二度は言わなかった。あの男は有能きわまりないから同じことを2回繰り返して話す癖がついていないのかもしれないなとくだらないことを考える。この仮説がアホらしくて論文だったら目の前で縦に切り裂かれるたぐいなのは自分だってわかっていた。
ふらふらと身体が勝手にエレベーターに乗り込み、なにも考えられないまま地上階のボタンを押す。
エレベーターが下る重力の感覚も、浮ついた心の前では無力だった。
おそるおそる覗いたロビーには、何人かの宿泊客と待機するスタッフの姿がある。
そんな中でも、私が彼を見つけられないわけがなかった。すごい能力だ。もっとも、ロマンチックな理由なら自慢できただろうけど、実際は背丈とイケメン指数が私の女子力センサーにビビッとくるためであるので誰にもひけらかしたことはない。そのはずだ。
あの美人さんは立ち去ったようで、スティーブンはひとりだった。
こそこそと近寄り、「お待たせしました」と声をかける。
気づいていたのだろうか。スティーブンはすぐに私のほうを見て、苦笑まじりに私の頬を優しくくすぐった。
「ごめんよ」
「ううん。私こそへたくそでごめん!」
「笑ってたよ」
「う、うん」
険悪なムードにだけはならなかったようで何よりだが釈然としないものがこみ上げた。笑われてたの?悲しくない?今後の為にも演技の練習が必要みたいだ。
「シュラバ?だった?」
「世間話だよ。『あの可愛い女の子は誰だ。なんであんな態度なんだ。おまえ何かしてるのか。脅してるんだったら通報するぞ』とは問い詰められたけどね」
いい人だった。めちゃくちゃいい人だった。勝手に怖がってすみませんと謝りたい。あと脅されてないです。自発的な愚行でスティーブンにさらなる迷惑をかけてしまってますます申し訳ない。
安堵と情けなさが混じったため息をついた私に影が落ちる。上げた視線の先にはスティーブンの顔があって、彼もこちらをじっと見つめて、長い指でわずかに私の前髪を乱した。それから一瞬だけ目を閉じる。
同時に、額にやわらかなものが押しつけられた。
「頑張ってくれてありがとう」
ぽかんとする私に送られたのは、いつもの、低くて深い声だった。
深く考えない
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細かい事情は省くが結論だけ言おう。
私はひとりぼっちでホテルのソファに座っている。
外は快晴(……なはず)、喧騒も控えめ(……なはず)、アルバイトもお休み。そして何よりここは観光ホテルで、クラスの高い室内に置かれるベッドは2基ある。
ウォークインできそうな備え付けのクローゼットには、女物のカーディガンの隣にもうひとつハンガーが荷物を背負ってぶら下がっている。カーディガンよりひと回りは大きいと見える簡単なジャケットだ。彼は暖かくなったようだからとそれを置いて部屋を出た。
廊下を並んで歩き、夕食のメニューへの期待と、彼の隣でふたりの休日を謳歌できる幸福を噛み締める。
そんな幸せなひと時だった。腕まで絡めちゃおっかなとか大胆すぎる魔がさしたくらいだ。
結果的には、しなくてよかった。
エレベーターを降りた先、ロビーからラウンジへ通じる道をキョロキョロと見回して歩く私の目に突如運命じみた烈しさを持ってこちらへ近づく人影が飛び込む。ブルネットの彼女は女優さんみたいに綺麗な顔立ちで、カラートーンを削り落としたファッションが素晴らしく似合う美女だった。
整いすぎたモノは苛烈な印象を与える。
圧倒された私だったが、ヘルサレムズ・ロットで生活するうちに築かれたささやかなる危機察知能力と自己防衛本能となけなしの気づかいパワーが頭の中でフル回転した。
美女は私の隣に立つ『彼』に向かってまっすぐやって来る。ただ通り過ぎるだけだなんて楽観的すぎる考えはちぎって丸めてゴミ箱へポイだ。
一気に背中に冷や汗をかく要因がまたひとつ増える。それはニコリと微笑んだその女性が口にした名前ゆえだった。
「あら、こんにちはスティーブン。奇遇ね、今日はお休み?」
「やあ。休暇を貰ってね。息抜きでもしようかと思ったんだ」
知り合いだ。明らかに知り合いだ。
私はスティーブンと女性の組み合わせイコール踏み入ってはならない超えげつない領域、と認識している。このふたりがえげつないお付き合いの仲なのかは私ごときには読み取りきれないものの、何にせよお互いを知る者同士ならば余計な人物はいないほうがよさそうだ。……たぶん。
私なりにソッコーで考えたほぼ反射的な反応だったので正しいか間違っているかはわからない。
塵芥程度すら存在しない演技力を掻き集めた。
「こっ、ここまでで結構です!」
「は?」
「え?」
「……案内!道に迷って案内してもらって、すみません、ありがとうございました!じゃあ失礼します!!」
ぺこりと頭を下げて逃げるようにその場を立ち去る。心臓がばくばく言ってうるさい。
乗ったばかりのエレベーターにまた乗り込んで「あ!!こっちから来たのに戻っちゃダメじゃん!!超バカじゃない!?」と大ポカに気づき誰もいないのをいいことに盛大に頭を抱えたが許していただきたい。他にもアホをやらかしていたのだから。
「……うわー……バカすぎ……」
高層階で止まったエレベーターから降り、廊下を曲がり、割り当てられた部屋の扉の前で立ち尽くした。
「カードキーが……ない……!」
もしかすると、この矮小な脳みそにかろうじての機能が残っていれば、暗証番号ならなんとかなったかもしれない。しかしカードは無理だ。電子機器は誤魔化せない。
何があるかわからないロビーにもゴロゴロふて寝できそうなベッドが待つ部屋にも行けず、宙ぶらりんのままエレベーターホールの隅っこにある大きなひとりがけのソファに身体を埋める。はー。
「スティーブン、世界各地でモテてるなあ……」
今日も今日とてイケメンだった横顔を思い出しながら唇をとがらせた。
30分ほど経っただろうか。
高性能なスマホでゲーム(……レオのオススメだ!)をして遊んでいた私に電話がかかってきた。表示されたのは見慣れた名前。写真はない。頭の悪い表現しかできないけど、あの男の顔形を私が持つのはヤバそうだからだ。だって、秘密組織のすごい人だし。
「もしもし」
「僕だよ。今どこにいる?」
「15階のエレベーターホール」
「わかった。さっきの所まで降りて来られるかい?」
「うん。でもあの人は?あの女の人。大丈夫なの?その、部屋の鍵さえ開けてもらえれば私、部屋でゴロゴロしてるし!スティーブンはそっちに行ってくれて全然平気だよ」
スティーブンは電話の向こうで少しだけ沈黙した。
迷っているのかもしれない、とその沈黙を私は計算ととらえた。
けれど秤にかけたとき、優先すべきはお仕事だ。
まあ彼女がスティーブンのホントの二股浮気相手とかだったらさすがに私もブチ切れていいかもだけど、彼に限ってバカバカしい危険な橋は渡らないだろうと無意識のうちに信頼している。
「スティーブン?」
あんまりにも黙り込まれるからおかしな発言をしたかと不安になる。反芻したが思い当たらず、彼の名前を呼ぶ声は訝しむふうのものになった。
「悪い。なんでもないよ。……彼女のことは大丈夫だから、気にしなくていい」
「ホント?」
「ああ。予定どおり、クロワッサンサンドを食べに行こう」
返事をしようとした私より先に、スティーブンの言葉が割り込んだ。なんだか不思議な響きだなと感じた。
「君がよければ、手を繋いで」
意味を理解する前に思考回路が焼き切れた。間抜けに聞き返す。スティーブンは二度は言わなかった。あの男は有能きわまりないから同じことを2回繰り返して話す癖がついていないのかもしれないなとくだらないことを考える。この仮説がアホらしくて論文だったら目の前で縦に切り裂かれるたぐいなのは自分だってわかっていた。
ふらふらと身体が勝手にエレベーターに乗り込み、なにも考えられないまま地上階のボタンを押す。
エレベーターが下る重力の感覚も、浮ついた心の前では無力だった。
おそるおそる覗いたロビーには、何人かの宿泊客と待機するスタッフの姿がある。
そんな中でも、私が彼を見つけられないわけがなかった。すごい能力だ。もっとも、ロマンチックな理由なら自慢できただろうけど、実際は背丈とイケメン指数が私の女子力センサーにビビッとくるためであるので誰にもひけらかしたことはない。そのはずだ。
あの美人さんは立ち去ったようで、スティーブンはひとりだった。
こそこそと近寄り、「お待たせしました」と声をかける。
気づいていたのだろうか。スティーブンはすぐに私のほうを見て、苦笑まじりに私の頬を優しくくすぐった。
「ごめんよ」
「ううん。私こそへたくそでごめん!」
「笑ってたよ」
「う、うん」
険悪なムードにだけはならなかったようで何よりだが釈然としないものがこみ上げた。笑われてたの?悲しくない?今後の為にも演技の練習が必要みたいだ。
「シュラバ?だった?」
「世間話だよ。『あの可愛い女の子は誰だ。なんであんな態度なんだ。おまえ何かしてるのか。脅してるんだったら通報するぞ』とは問い詰められたけどね」
いい人だった。めちゃくちゃいい人だった。勝手に怖がってすみませんと謝りたい。あと脅されてないです。自発的な愚行でスティーブンにさらなる迷惑をかけてしまってますます申し訳ない。
安堵と情けなさが混じったため息をついた私に影が落ちる。上げた視線の先にはスティーブンの顔があって、彼もこちらをじっと見つめて、長い指でわずかに私の前髪を乱した。それから一瞬だけ目を閉じる。
同時に、額にやわらかなものが押しつけられた。
「頑張ってくれてありがとう」
ぽかんとする私に送られたのは、いつもの、低くて深い声だった。
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