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蛇足終了後
付き合っている



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おめかしをして、ちょっとだけ照れながらロビーで待ち合わせをする。自分の考えた精いっぱいのオシャレで武装したが、その道のプロフェッショナルな女性たちと何度も会っては緩やかにオトナな技術を凝らした時間を過ごしているであろう男と並ぶのには勇気が要った。
来てしまったものは仕方がないし後戻りはできない。私の信条にも反する。振り返らないで前だけを見るのだ。そして私の目の前にはそのパーペキ男が立っている。つまり私は、これから彼だけを見つめていればいい。
待たせてしまったお詫びには、短く「いいんだ」と応えがあった。そこに叱責の音色はまったくなくて、どれくらい待たせてしまったのかはわからないけど、どこまでも優しいからこそ申し訳なくなる。
「ごめんね」
「僕が早く来すぎたんだよ。楽しみでね」
さらりと言える人と言えない人の差が浮き彫りになるひと言だ。

ここは有名なホテルのレストラン。
私たちふたりは、ガイドブックにも載せないという特別なコース料理を楽しんだ。
目に鮮やかで形が綺麗で、味はもちろんのこと、どの角度から評価しても満点をつけたくなるお皿がたくさんあらわれる。
個室だから遠慮はいらないはずだったけど、さすがに気が引けて写真は撮れなかった。スティーブンの前でお行儀の悪い行為は働けないと自制したところがある。幻滅されたくない。とはいえ、逆に彼から「写真はいいのかい?」と促されたので、いい子ぶったことはバレバレだったのかもしれない。
それで理性が緩んだのか、小さな人形のような飴細工と波を表した薄いチョコレート、それから微笑むように苺を添えられたタルトには我慢できず、パシャリと1枚やってしまった。自分が情けない。

ご飯を食べるだけではもったいないから、とホテルの上階へ昇って黒塗りのバーの敷居をまたぐ。この世界に来るまで足を踏み入れたこともなかったそこは、扉の前で尻込みしてしまいそうな、静謐で高級な雰囲気だ。
私の好きなものなどとっくのとうにお見通しな男は、私が選択を丸投げすると、見事にばっちりツボにハマるカクテルを注文してくれた。ちょうど今、甘じょっぱい味が欲しかったところなのだ。気分まで把握しているとは恐ろしい。どこを見て判断するのだろう。私がわかりやすい、というわけではないと思うのだが。
お酒をひと口飲む。ゴクゴクいくようなものではないため、たとえどんなにジュースみたいでおいしくたってお上品にいかねばならないのだ。スティーブンの采配に唯一のミスがあるとしたら、それは私の堪え性のなさの計り損ねだと思う。糖分を欲しがる頭を必死に宥める。
がんばる私の沈黙をどう思ったのか、スティーブンも口を開かず、私の手元をじっと見つめていた。薄ぼんやりした灯りは金属にぶつかって反射する。
このバーが私にとって甘ったるくて愚かな思い出の地であることを、彼は憶えているだろうか。
忘れるはずがない、と思う。忘れられていたらちょっと悲しい。所詮、数あるうちのひとつで、その中でも出来の悪いつまらない時間だったはずだから印象に残らなくて当然といえるけど、のちのインパクトの強烈さを考えると、その、なんか、ちょっとは狙って誘ってくれたのかな、とも期待する。
いわゆる、停戦協定のような?和平の証というやつか。
この場を選んで行動をなぞることで昔の関係と今の関係をつなぎ合わせ、新しくしていく。
もしもそこまで真剣に考えているのなら、私も真面目に挑まなければならない。
だが、こんなアホに真面目さを期待されても大困りだ。
まずは素直に感想を述べた。
「なんかさ、前は何回もデートしてもらったけどさ、なんか、この、この状態でくるのって初めてだからドキドキするね」
言ってから、これじゃあ掘りかえすみたいでよくなかったかな、と気づいたが遅い。
スティーブンは視線を上げて私の顔を見た。
ふ、と唇の端を持ち上げるように笑う。
「君を楽しませられるならいつだって連れてくるよ」
「ははーん。またずるいこと言ってる。私もうなんの情報も持ってないのにー」
「持ってるだろ?僕はまだ君のすべてを知ってるわけじゃない」
「ええ?完璧に把握されてると思うんだけど」
たとえばこのカクテルとか。こちらの好きな味と色と現在の体調を掌握していなければこの完璧なオーダーは成り立たない。
なぜか少しくすぐったくなる。
彼の持つ無数の知識の中に私の存在があって、彼がそれを活用して、私を楽しませようとしている事実が胸をあたたかくした。
こちらの気持ちがふわふわしたのが伝わったのか、スティーブンも気を緩めるように眼差しを和らげた。それは可愛らしいワガママに応えるようで、経験の差がはっきりして悔しいけれど安心が勝つ。
自分がどんな表情で笑っているのかもわからなくなるくらい、この瞬間が楽しかった。
「あのときも今も、スティーブンにだったらなんでも教えちゃいたくなるなあ。ねえ、なんでも訊いていいよ」
「ん? 急に言われると思いつかないもんだな」
唐突に無理難題を突きつけられても対応するのがこの男だ。
「昼は何を食べた?」
「タコス」
「どこでだい?」
「駅の近くに車が来てたの。それがおいしいって評判だったから買ってみた。おいしかったよ!」
「明日の朝は何がいい?」
「ワッフルが食べたいかも」
「ワッフルか」
「うん」
頭の中に思い描く。焼きたてのワッフルにアイスクリームが添えられて、フルーツやホイップクリームが山盛りになっている冒涜的な朝食がいい。たまにはカロリーを気にせずぱあっといく日があってもいいではないか。
自分を擁護しながら、どこで食べようかな、と有名なお店を指折り数える。
「ところで、君が好きそうな、夜景が綺麗でベッドが大きくて風呂が広々としていて絨毯がふかふかな部屋を取ってあるんだ。ワッフルは確か下のカフェで食べられたはずだけど、今晩これから、外せない用事はあるかい?」
混乱してグラスを倒すところだった。
弾かれたようにスティーブンを見る。
大きな手が、透明な壊れ物の細い脚にひっかけたままだったこちらの指を解き、引き寄せ、ゆるく手を握る。
色気、とはまさにこれを指す。
甘い蜜を滴り落とし獲物をおびき寄せる瞳が私に向けられていた。
直視したせいか、ぞくりと、指先から腕を伝って何かが背筋を這い上がる。
魔法にでもかけられたかのようだ。うむ。あながち間違いでもない。整った人々が己の魅力を知ったとき、彼らは手のひらで人を転がす力を手に入れるのだから。
ずっと追いかけ続けた人からあやすように名前を呼ばれ、胸がばくばくと動き高鳴りを超えて地鳴りに似てくる。
「それで。……用事はあるかい?」
答えはひとつ。
口にしたあとに何があるか、何もないのか、わからないけどひとつだけ。
包み込まれている手をぎゅっと握りしめた。
「……ないです……」
スティーブンも、力を込めた。
何度もここで、同じ場所で囁かれた愛を繰り返す。
「好きだよ」
「私は、それよりももっとあなたが好きだよ」
今度は彼は何も答えなかった。こちらが記憶と違う発言をして、場をなぞらなかったことに興ざめしたのかとちょっとだけ焦る。
けれどそうではなかった。
軽くひっぱられ、身体が傾ぐ。ふたりの距離がすっと縮まり、吐息が近づく。
彼は低く、落ち着いた声で、教え込むように「好きなんだ」と囁いた。
触れるだけの口づけは、私の知るものとはだいぶ違った。



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