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本編後。付き合っていて、寝室にお邪魔できている。



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明かりがついていたから家には居る。
連絡がなかったため僅かに不審は抱いたが、廊下の奥から漏れる光に危険な気配はなかった。空き巣ではない。警戒してじりじりと進む私のほうが不審者だ。
「スティーブン?」
私ではないならスティーブンかヴェデッドさんで、ヴェデッドさんはもう上がった。
それならここにいるのは家主に違いない。
「スティーブンー……、んあっ!」
名前を呼びながら進み、その光景を目にした私は飛び跳ねる勢いで驚いた。カバンが肩からずり落ちるのも構わずソファに駆け寄る。
大きな体躯が力なく倒れていた。
ほぼうつ伏せで、苦しそうな体勢だが何も感じていないらしくぴくりとも動かない。早く声をかけなければいけないのだが、どうしたらいいかわからず、呼吸で肩が動くかどうかしばらく目を凝らしてしまった。ちゃんと息があった。
窮屈そうにソファで脱力する男に声をかける。無理な姿勢は見ているこちらが身体を痛めそうだ。
触れていいのか悪いのか、迷いに迷ってから腕に触った。
彼はスーツ姿のままだ。しわが入ってしまっているだろう。それに、週末だからか、どことなく浮かれた匂いがする。様々な煙草や酒気が香水と混じった匂いは週末独特の賑わしさを想起させた。
秘密組織にも休日という概念はあり、スティーブンのそれは明日だった。何もなければ1日フリーだ。朝から晩まで羽を伸ばせる。週末を乗り越えたら休みがくるとは、至って普通のお仕事場らしい。そこだけ見れば、とてもではないけど日々バタバタと忙しく、怪我をしたり帰宅も難しかったりする怖い組織とは思えない。
気づかれないよう、そっと顔を近づけると、お酒っぽい空気が強く香った。
休みの前日にぱあっと夜遊びをすることはよくあるし、可愛い女の子が接客してくれるお店に行く、なんて方向には飛ばずとも(……この男に必要か?)友人と飲み会に興じるくらいならありそうだ。羽を伸ばす前に羽目を外したとか。だとしてもつぶれるまで飲むなんて、それこそ『この男が?』と疑ってしまうが、場の空気とかなんとかで、そういうこともなくはない、かもしれない。
「大丈夫?」
肩に手を置いてゆさゆさと揺さぶる。
彼は低い低い声でうなった。
「ダメだ」
「そうだよね」
ダメそうに見える。
「お水持ってくる」
「頼んだ……」
「え、い、いえいえ」
ぐったりと気だるそうな声はどこか艶っぽい。聞く私はお酒以外の何かに酔いそうだ。
グラスにたっぷりお水を汲んで、薬箱から胃腸薬を取って効能を読む。パッケージの裏には『飲みすぎ食べすぎ』とあった。よさそうだ。
しかし本当に飲みすぎかは知らない。まずお水だけ差し出す。
スティーブンはゆっくりと起き上がった。そのゆっくりさたるや、急き立てられたかたつむりのほうがずっと早く動くだろうと思えるほどである。見ていてハラハラした。ストローを添えたほうがよかったか。
びしりとキメて出かけて行った朝の様相はどこへやら、酒気帯びで色気が3割り増しのイケメンは服を着崩し髪を乱れさせることで女を惹きつけるオーラを5倍多く放っていた。真正面から直視して目が焼ける。
ネクタイは当然のごとくなく、シャツのボタンは禁断の鎖骨を露わにするまで外される。スーツの上着もぐしゃぐしゃな有様で無防備にも程がある。
加えて、目のやり場に困って視線を上げるとアルコールの余韻で濡れた瞳がこちらをじっと見つめるのだ。私でなくともふらついただろう。手元の水をこぼさなかっただけで表彰されていい事案だと断言できる。
だがここで酔っ払いがふたり集まっても仕方がない。片方は男の色気にあてられるだけでお酒なんて入っていないのだから、ここは耐えて相手を介抱するべきだ。
なるべく冷静にグラスを手渡す。指同士が軽くぶつかった。あたたかい。
「何がどうなってるの?」
「酔った」
「じゃあこれ飲んだほうがいいよ。……もう飲んだ?」
「まだだ」
聞き分けよく薬を含んだスティーブンは、もう1杯お水を欲しがった。
汲みに走って戻ると男はまたしかばねになっていた。揺さぶって起こす。
「スティーブン、着替えて部屋で寝なよ」
「ああ、そうする……」
「……起きる気ある?」
「今はない」
「あ、そう……。お水持ってきたから、お水だけでも飲みなよ」
「起き上がると吐く」
吐かれると困るので揺するのはやめた。
しかし会話が成立するのは助かる。飲みすぎて酔っ払ってゼンゴフカクに陥ると話がかみ合わなくなる人はたくさんいる。スティーブンは理性が残っているのかおかしいところはない。かなり意外な姿にはドキドキだが、なんとかできそうで安心だ。意思疎通は大切である。だって、たとえばこの男を担いで寝室まで連れて行く、なんてことはひっくり返ったって不可能だ。力任せが無理なら、言葉でせっつくかやれる限りの手伝いを試みるしかない。
「なんでこんなに飲んじゃったの?」
「俺にもわからん」
低音はうなり声のようだ。ドキリと心臓が強く打った。普段と違う雰囲気に焦りすら感じる。いつもは私の要望を聞き入れてくれているが、余裕がないのだろう。彼の一人称は二重の意味で私をびくつかせるものに変わっていた。あるいは、戻っていた。気を遣わせてしまってすみませんと謝りたい。ひとつは命の危機を思い出すため。もうひとつは叫んで手で顔を覆いうずくまりたくなる謎の羞恥から逃れるために無理を言っている自覚はある。
「酒が」
「え?」
「酒がグラスに入ってる」
「あ、うん?」
「そこにコインを投げ入れる」
「はあ」
「ミスったやつが全部飲む」
「うえ……」
いろんな意味で嫌なゲームだ。
スティーブンが入れ損ねたのだろうか。この人が。仕組まれてたんじゃないのか。
「地味に緊張するだろ」
「しそう」
「水を飲むよな」
「飲むかも」
「混ぜられてた」
「……何を?」
「酒」
本当に仕組まれていたようだ。
異界のお酒は無味無臭だったが即効性があった。気づいた彼が平穏なほうの友人に『おいおい』と平静を装って理由を訊いたところ、涼しい顔をして笑っているスティーブンの崩れたところを見たかったと笑いながら白状されたらしい。酔い潰れる姿や隙など一切見せず顔色ひとつ変えないまま笑顔と尊厳を保ったスティーブンはいったい頭の中で何を考えただろう。私ならどうするかなぞってみたが、脳内で相手を何発か蹴ったと思う。そして二度と一緒には飲まない。
「タクシーで帰っては来られたんだが」
「部屋まで行けなかったんだ」
彼の視界もぐるぐると回ったのだろうか。不快なような心地よいような、不健康にふわふわした感覚だ。
だいぶ口が動くようになった酔っ払いは、道端に転がっていたら綺麗な女性にでも誘いをかけられて拾われてしまいそうな重たいフェロモンを放っていた。私に度胸と向こう見ずで脇目も振らず突進できる強さと勇気があったら今すぐその首に抱きついて唇を奪っているところである。酔って反応が遅ければ成功率も上がりそうだし。
身を起こした彼にお水のグラスを渡し、空にして返されたものをローテーブルに置く。
ちょっと好奇心が疼いて手を伸ばした。
中腰になって、上着の肩を掴む。
「上着」
煩悩がバレると気まずいので言葉少なに目的を伝える。スティーブンはもぞもぞと袖から腕を抜いた。私はひとりで感動した。ここまでなら触っていいらしい。
じゃあどこまでいけるのか、試してみたくなる。
とはいえネクタイはないし、ボタンも開いている。こちらの乙女心をはち切れんばかりに刺激してくる素肌からは目をそらしつつ、できることはないか素早くチェックする。
脱がせた上着はあとでハンガーにかけるとして。
しっかりばっちり検分したが何もなかった。
かなりガッカリする。弱々しいスティーブンの(……言葉の矛盾を感じる)隙に付け込めるいい機会だと思ったのだが、悪いことはできないか。スティーブンにも申し訳ない。苦しむ人を相手にヨコシマな想いを募らせるなんてひどい話だ。
スティーブンが、上着を抱えて立ったままの私を訝ってこちらを見上げた。ソファの上で溶ける彼は立つ私より目線が低い。
誤魔化すように笑みを浮かべ邪念を切り上げようとした私は、目に入ったそれにピンときて、自分の手が動くのを感じた。
理由はあまり深くない。山に登る人が同じようなことを言っていた気がする。
猛獣のオリに閉じ込められたら、『話せばわかる』と一度は信じたくなるだろう。私もスティーブンにスゴいことをしようとしているが、『話せばわかる』と願いながら全身の力を総動員して手の震えを抑えた。私はされると嬉しくて死にそうで心臓が痛くなるけれど、この人は別にそうでもないしむしろ嫌がりそうなこの行為。好感度がガタ落ちしたら私は私をひゃっぺん殴ろう。そしてごめんなさいをいっぱい言おう。
黒髪の、乱れたところをそろりと指先で梳く。スティーブンは身構えていなかったところに意味不明な行動をぶつけられ面食らっていたが、払いのけたりめちゃくちゃ避けたりはしなかった。いい人だ。やっぱりすごいいい人だ。それともやられ慣れているとか?誰にだろう。
人の頭を撫でた経験などそうそうないため、どうしても動きはたどたどしくなる。自分がされて嬉しかったように、と思っても正直そういうときは涙が出そうなくらい猛烈にキュンとしていて細かい記憶が曖昧だ。
あちらは無言で、こちらも出す言葉が見つからず黙りこくっている。髪を梳き、流れをたどり、撫でる。
なんだこれ、と冷静な自分が帰還する。なんだろうこれ。私にもわからない。沈黙が怖い。
「あの、ひどい目に遭ったね。お疲れさまでした。今日はもうゆっくり寝て、明日のお休み楽しんでね!」
一方的に気まずく見つめ合ううちにいいまとめが浮かんだ。言って、髪をかき混ぜていた手を離す。
スティーブンは、破廉恥な女に無許可で撫で回された髪をサッとかき上げて具合を直した。ウッと申し訳なさが押し寄せる。
「君の言うとおり、今日の俺はひどい目に遭った」
「うん」
「悪夢にうなされないか心配だ」
「そう、だね?」
「うなされたときには起こされたい」
「はあ」
「起こされたくないか?」
「起こされたいかも」
「起こしてくれ」
「……はい?」
「君が俺を起こしてくれ」
スティーブンは真顔だった。やはり相当酔ってるのかなと思った。
奇妙な招き方をされた私は首を振った。こういうときは傍に誰もいないほうが自由になれていいのではないかと思うのだ。
「あなた酔ってるんだよ。誰もいないほうがいいよ」
上着を抱きしめて後ずさる。
そんな私の服が、大きな手にむんずと掴まれた。
「ひいっ」
「君がいたほうがいい」
「え、う」
「俺はもう寝る。君も寝よう」
「私はまだ見たいドラマが21時半から」
「録画予約してるだろ」
「リアルタイムで見るのも楽しいの!録画は、好きな場面をあとで再生したりして……。好きな俳優がいるからカッコいい場面をリピッたりとか!」
「好きな俳優?出てたか?」
「最近好きになったの」
「誰だい?」
急に普通の会話になった。手の力は緩まず、私の服にもしわが寄ってしまいそうだが。
スティーブンが意外そうにして記憶を辿ったのは、たまに私が映画を借りてきてテレビを占領するせいで、彼が私のお気に入りな俳優を把握しているからだ。私のことだから、いま私が追いかけるドラマの話も何かの拍子にしたのだろう。そのときにキャストの情報を流し見たのかもしれない。
このドラマをきっかけに好きになった俳優の名前を言うと、スティーブンはその俳優を思い出そうとしたのか、私の顔をじっと見た。顔を突き抜けてこちらのダメダメな記憶領域を直に探られる気分だ。何か違うことを考えているようにも感じられるがよくわからない。
「その俳優が好き?」
「うん」
彼はふっと笑った。
「DVDを買ってあげるよ」
「私はリアルタイムで……」
「動いて喋る画面の向こうのその何とかって俳優と、動いて喋って触れる君の隣の俺だったら君はどっちを取る?」
「スティーブンを取ります」
「よし」
「よくない……」
誰にとってもよくない気がする。
でも一緒に寝られるのはとても嬉しい。ドキドキするタイミングを与えないお誘いだったけど、そのおかげで精神への負荷は軽かった。

スティーブンは荷物を放り出したまま(……大したものは入っていないらしい)私を引き連れて寝室の明かりをつけた。着替える気がない。どうせ全部クリーニングに出せるからとそのまま寝るつもりだ。
私は着替えたかったしシャワーも浴びたかったのだが、抵抗の兆しを見せるとお腹に腕を回して抱きかかえてベッドに優しく放り投げられた。荷物と同じ扱いだ。しかし、いつどんな状況でもスティーブンのベッドに乗ると胸がうるさくなるから、これはとにかく不公平である。
リラックスした様子で横たわった彼に求められ、今日はどんなことがあったか、お昼に何を食べたかなど簡単な話をしていると、やがて暗い部屋にふさわしい静けさが訪れて口を閉ざす。
これ幸いと眠ったスティーブンの横からそーっと抜け出し、申し訳ないけどしばらく留守にしてシャワーを浴びてパジャマに着替えた。さすがにドラマは見ない。これは1日中外にいた格好のまま好きな人の隣にもぐり込めないという乙女の事情からしたやむを得ないことであって、私はそこまで非情ではない。
戻ってみても、スティーブンは反応しなかった。一気に熟睡したのだろう。私もたくさん飲んだあとは埋もれて沈んで浮き上がってこられないような眠りにつく。
なんとか落ち着いたようだと見て、ほっと胸をなでおろす。泥酔したスティーブンを見つけたときはどうなることかと思ったが、ちゃんと部屋で眠ってくれてよかった。『ちゃんと』かはわからないが、いいことにする。

彼はアルコールの悪夢にうなされなかった。むしろ私よりしっかり寝て早く起きた。
そしてそれこそ『ちゃんと』した姿で朝食をつくって、アラームがなくて目覚めを知らなかった私を優しく起こしてくれた。頬にキスのオマケまでついたそれは実に上手なやり方で、私の血圧は朝からぶっちぎりで上昇し爽快を通り越して目眩に倒れそうな数値を刻んだはずだ。笑われた。昨日はあんなにぐだぐだだったくせに急に優位に立ってくるからずるい。
顔を赤くしてむくれつつ感心したが、朝食はひとりぶんだった。
「……二日酔い?」
「少しね」
「そっか」
つらさはあまり知らないけど、できるだけ静かにしておこう。 私もこのイケメンの頭を撫でるなどという無謀な行為に及んだ記憶を刺激して印象に残させたくない。そっと、無かったことにしてもらいたかった。
無理かもしれないと悟ったのは朝食を片づけたあとである。
昨日録画したドラマを見る私の頭にぽんと手が置かれた。意識がドラマから現実に引き戻される。
大きな手はこちらの髪をハートごと優しくかき乱した。盛大に動揺してしまい、テレビの中で好きな俳優がヒロインを口説いても台詞が耳に入らない。
撫でられる範囲が大きくなり、今度は髪型を整えるように指が動く。くすぐったいのと恥ずかしいのとでたまらなくなり身をよじると、取り消すように追いかけてわしゃわしゃと強く撫でまわされる。勘弁してもらえない。
振り返って見上げたスティーブンはちょっと笑っていた。
「スティーブンさん……」
「例の俳優の場面、巻き戻さないのかい?見せ場だよ」
「それどころじゃないです……」
ソファの背もたれに縋りついて額を押し当てる。これがオレイマイリというやつか。昨日はあんなにぐったりしてたのに。昨日はあんなにぐったりしてたのに!
幸せな仕返しだけど、胸が痛くてしょうがなかった。




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