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本編後。付き合っている。
*
こう言うのも何だけど、僕の予感はそれなりに当たる。嫌だなと思うことほど正解に近づいてしまうのだから、今回だってそうだろうなと思っていた。今だって、もちろん。
僕の隣でやけ食いした人は、最後まで一滴の涙も流さずひたすらに憤っていた。内容をちょっとだけ聞いた僕は彼女とスティーブンさんの間で起きた酷な齟齬と不運さに嘆き、可哀想になって予定よりも2皿も多くメイン料理を注文するのに合わせ、2人してあくせくしながら食べた。予定外のぶんは彼女が支払うと言って聞かず、僕は押し負けてご馳走になってしまった。男として少し情けないが、助かったのも事実だ。
スティーブンさんとかち合う可能性のある家に帰るつもりは一切ないらしく、彼女は僕の腕を取ると、地域に根付く雑貨屋でいくつか買いものをしたいと言った。この店が選ばれたのは、24時間いつでも営業しているからだ。レストランから出た時間は当然のように22時を過ぎている。
安いホテルに泊まらせるのはかなり不安だ。
この人は若い女性で、ここは正も負も異物も超常現象も争いも平和もごった煮のヘルサレムズ・ロットである。何が起きるかわからない。そりゃあ、安ホテルを拠点として生きる人も多いが、知り合いがその中に名を(……一時であっても)連ねるとなると話は別だ。
「うちに来ませんか。とても狭いですけど、良かったら」
目を真ん丸にした彼女は、身体を傾けて大げさに僕の顔を覗き込んだ。
「いいの?」
「ええ。何かあったら大変ですし、スティーブンさんは数日すれば治りますから」
誘ってから、これこそスティーブンさんには言えない状況かもしれない、と気がついた。22時を回る夜更けまでオトコと食事をする、ってレベルじゃない。その男の家に泊まって数日を過ごすって、客観的に見るとかなりヤバい。
ばれないようにしよう。この人の居場所を訊かれてもすっとぼけるんだ。あの優秀でえっぐい人を騙しおおせるかと自問すると途端に心がくじけそうになるのだが。
ただ、彼女はすごく喜んでくれた。実は心細かったのかもしれない。
スマートフォンの位置情報サービスを切ってから雑貨屋でお泊り道具をいくつか買って、彼女は僕の家にやってきた。狭くてごちゃごちゃで申し訳ない。一応、おかしなものはないはずだ。
「わー、レオの匂いがする。レオの部屋だからかな」
「なんですかそれ。窓開けますね」
「悪い意味じゃないよ!私レオの匂い好きだよ!」
「え、あ、はい。どーも……?」
どういう感想なのかさっぱりわからない。人の部屋に入るとその人の気配を感じられるというが、僕の場合はどんな匂いなんだろう。バイトまみれで家にはあまりいないから、埃っぽかったらどうしようか。
僕は明日は午後出勤のバイトしかなく、彼女はまるまる1日休みが取れていた。だからこんな時間まで飲み食いして遊べたのだ。
2人してベッドの使用権を押しつけ合い、今日は彼女が使うけれど明日は僕が使うというところで話を落ち着ける。簡単なゲームで決めたため、僕たちは楽しくなって声を立てて笑い合った。まあ、その笑いは彼女がシャワーを浴びる間に引きつったのだけど。いくら友人でも、っつうか友人だからこそ、女性が僕の家でシャワーを浴びるってよろしくないことなんじゃないかなと再びの危機感が頭をもたげたのだ。ひとりの人物の顔も思い浮かんでしまう。
絶対にばれないようにしよう。
また心に決めてベッドに突っ伏す。誰が一番つらいだとか、順位をつけるのはアホらしいけど、僕もちょっぴり崖っぷちです。
午後になり、急にバイトのシフトが変わったことでブランクの生まれた僕は、家に取って返すのも何だと思い、事務所に顔を出した。
寝ぼけまなこで僕を見送ってくれた人の話だけは持ち上げるまいと決意していたのだが、スッと横に寄ってきたチェインさんに気配なく話しかけられてびくりと肩が震える。怖くはなくてもビビるもんはビビるのだ。
「ねえ。どうなってる?」
「僕が知りたいですよ……」
「こっちは昨日と変わらず。名前を出すとスーッと会話から離脱するか、反応が薄くなるか、そんなところだね」
「そうですか……」
「ただ、少し良くなってるのは確かかな。気にしてたよ、『家に帰ってない』ってね。知らないかって訊かれたわ」
「……そうですか……」
「レオは知ってる?私が連絡しても渋るんだよね」
その瞳は、『知ってるよね』と決めつけていた。目力が凄くて、口元が引きつる。
こっそり隠れて視線を走らせる。ここにはチェインさんとクラウスさんとギルベルトさんと僕の姿しかない。スティーブンさんは出かけたようだ。
本人が不在なら、と頷いた。
チェインさんは肩をすくめて両手を持ち上げる。レオの所か、と息が混じる。
僕の所だと何か問題があるのだろうか。
眉が不安げに憂いたのだろう。振り払うように親指が立てられた。
「むしろグッジョブ。自宅に帰ってないなら他に行くとこないもん。ホテルかどっかに泊まられるよりずっと楽だしマシよ」
「秘密にしといてもらえますよね」
「え、教えたほうが安心するんじゃない?レオの家なら問題ないでしょ」
問題ないと断言されてしまうのもどうかと思うんだけど、どうなんだ。
「だけど」
「待って」
だけど言っちゃうとスティーブンさんの反応が怖くて、と続けようとした僕の口に手が当てられた。声を中途半端にこもらせてモゴモゴと黙る。
チェインさんは、僕が黙ったのを見て手を離した。
直後、扉が開いて僕たちのすぐそばに渦中の人が現れる。
なぜ気づいたのか。ノブを捻る音か蝶番の軋みか何かか?やっぱりここは超人の集まりだ。
しかしおかげで致命的な部分を言わずに済み、チェインさんに深く感謝した。
「やあ、少年。今日は夜番だっけ?仮眠でも取ったほうが良いんじゃないか?」
「午後番ですよ。でもバイトの予定がつぶれたんです。だから何かお手伝いできることはないかと思って」
「感心なことだ。でも今は何もないな。ゆっくりお茶でもしていて良いよ」
「ありがとうございます」
一見何の変哲もない会話だ。裏側には奇怪な病が貼りついているのに、どこか安心してしまう。
ジュースでももらおうと部屋を横切って隣に向かうと、僕の背中を声が追いかけた。落ち着いた、特段、違和感もない音だ。僕の平凡な耳にはそう届いた。
「彼女の居場所を知ってるかい?」
お、と足を止める。誰のことかなんて訊ね返す必要もないが、一応、「『彼女』?」とオウム返しに問う。名前を言うか言わないか、少し試すような気もあった。
スティーブンさんは、あの人の名前を付け加えて言い直した。
そこには昨日ほどの悪感情はないし、整理のつかない焦りがあるようにも感じられた。
「昨日の夜は帰って来なかったんだ」
この言い方からは、心配そうな響きが読み取れた。
「今日はバイトがない日だし、昼がてら行ってみても店員たちも何も知らないらしくてね。どこにいるのかくらいは把握しておきたいだろ?」
「はあ。なんで把握しておきたいんですか?」
「……なんで、と言われてもなあ。勝手に動き回られると……迷惑なんだよ。……電話をかけても繋がらないし」
「ほほう」
今日で『これ』なのだから、昨日のあの人はよっぽどこっぴどくやられたんだろう。
これはウイルスのせいで、スティーブンさんも被害者だ。とはいえ僕はあの人に同情した。目の前で見ていたから、というのも理由のひとつだ。
「でも別に『もう連絡して来なくていい』んですよね?じゃあ別に気にしなくていいんじゃないですか?」
「それは」
彼は咄嗟に否定しようとした、ように見えた。
「あのときは一緒にいたんだったな。それなら彼女は君の所に泊まったのか?今も君の家に?」
「たぶんいないと思いますよ。確か……、『シチューが食べたい』とか言ってましたから。僕んち、シチューないですもん」
上手く言えたかはわからないが、スティーブンさんは少し考え込んだ。
嘘は言っていない。今、彼女はたぶん僕の家にはいないのだ。朝に『シチューが食べたい』と言って、昼食をどこかの行列必至な店で食べるつもりだとかなんとか予定を立てていた。
チェインさんが即行でスマホを使って近辺の煮込み料理屋を検索した。クラウスさんとギルベルトさんも、どこの店が評判かレビューサイトと過去の記憶を結びつけ始める。なぜかあのあたりだけ和やかで切ない。僕はスティーブンさんからじろじろと見られているというのに。
場所を転々とする彼女も想像しやすくて困り者だ。思い切った家出といい、たまに変な強さを発揮する。
おもっくそ気まずい空気が漂う中で僕は、薬がもっと早く効くよう願いを込めてソニックを撫でた。
その日の夜は気晴らしも兼ねて、僕の持つゲームの中からひときわ爽快感を得られるものを選んでスイッチを入れた。
彼女はこういったゲームにはキョーミがなかったらしくて詳しくなかった。だから操作はマルチプレイでこちらが誘導して手助けできる形にして、とにかくストーリーにのめり込みつつスカッとしてもらえるようつとめる。
「敵来ました!援護するんで射撃お願いします」
「LだっけRだっけ!?」
「Rっす」
「ありがとう!」
「よっしゃ倒した!すごいじゃないですか!」
「やったね!」
初めはたどたどしかった初心者さんも1時間ほどすればだいぶ慣れて楽になる。僕もこのゲームは久々だったから、2人してワイワイ言いながら物語を進めて敵を倒した。
と、それから1日と半分が経ち。
事務所に顔を出すと、ザップさんは僕の襟首をひっつかんでソファに押し倒した。ぐえ、と呻くと、小声で思いっきり叫ばれる。
「今日のスカーフェイスさん見たか!?」
「見てませんよ、今来たばっかりなんですから……」
「じゃあ早く見ろ!すぐ戻って来るから……、あっ!ほら見ろ」
電話を片手に持ったスティーブンさんが隣の部屋からこちらへ出てくる。
起き上がって挨拶すると、彼は少し黙ってから、「君、居場所知ってるよな?」とこの数日間あえてノータッチを貫いていた核心に前置きなく迫った。単刀直入すぎて意味がわからなかった。
僕があのとき問い詰められなかったのは、スティーブンさんの中でせめぎ合う『好き』と『きらい』に関する意地があったためかもしれず、今、訊ねられたということは、それがなくなったという証か。そうだ少年の言うとおり僕は彼女が嫌いだから放っておこう、などという理屈に合わなくて不条理でこの人に似合わない感覚を振り切れたのだ。そう、全快だ。
なるほど。ようやく頭が回る。
なるほどそれでめちゃくちゃ焦ってるってわけですね。
いや、焦っているのかは知らないけど、少なくとも彼は結構落ち込んでいた。
「そういえば、あの人に携帯させてるGPSは……」
スマホの位置情報サービスは切ったとはいえ、別のものもあるんじゃなかったか。思い出してたらりと冷や汗をかいた。それを調べなかったスティーブンさんではあるまい。
「こういうときに限って家に忘れられてるんだ」
「……あー……」
よくある話だった。必要なときに無いんだよな。
「なあ。僕はかなり……『やってちまって』いたよな」
「やっちまってましたね」
話を知らないザップさんは置いてけぼりだが、スティーブンさんの様子から触れてはならないものを感じ取ったようで(……野生の勘だろうか)そそくさと扉に寄って開けて出て行った。
ソファの上で膝に肘をつき、はあ、とまた息が落ちる。
「彼女はどこにいるんだ?」
「僕の家です」
仕事用のケータイからはかけないのだろうか。しかし質問する前に察した。スティーブン・A・スターフェイズの番号は重要すぎるし、あの人は非通知だと基本的に出ない。
「……バイトが終わったらいつもすぐに帰ってる?」
「アレ以来は外食もしてません。今日もなんにもないって言ってました」
そうか、と言って僕の眼の前でソファに埋もれそうに脱力する。気のせいでなければ落ち込んでいそうだ。
でも僕はどっちかっていうとあの人の味方だったので。
「泣いてましたよ」
スティーブンさんに向けて言った。
スティーブンさんは表情をゆがめ、苛立ちと焦燥のやり場がないようにスマートフォンを何度も見た。
レアなバッドステータスを眺めつつ、僕は素知らぬ顔でミルクを飲む。嘘はついてない。
(ボロ泣きでしたよ)
あのゲーム、実はかなり泣けるんだ。
「レオ、やばいねこのゲーム。ゲームってこんなに泣けるんだね。自分で進めてきたから余計……」
「5回殺されたのもつらかったですよね」
「その結果たどり着く結末がこれなんてあんまりだよ、……あれっ?続きがあるの?」
「まあ、進めてみてください。ここからは僕は手助けしませんから」
「なにそれなにそれ。もしかしてさっきのエンディングじゃないの!?」
「じゃ、僕寝るんで。おやすみなさい」
「レオ!?」
昨夜の会話はこんなところで、スティーブンさんが全快した日、僕が帰ると彼女は唸っていた。
昨日は助力なしでクリアしきれなかったようだから、早足で帰宅したあとは夕食も忘れて没頭していたのだろう。ひとえにあの悲劇的結末を覆す為に頑張っているのだ。
彼女は僕にお礼を言った。こんなにすごい話があるなんて知らなかった、教えてくれてありがとう、レオとこれについて話がしたい、……なんて言われたら悪い気にはならない。照れ笑いで応えて、まだ見ぬエンディングの話で盛り上がる。とにかく気持ちよく終わるゲームなので、僕もネタバレしたい衝動を努力して抑え込んだ。
笑顔の彼女を見ると言い出しづらくもなったが、「お腹すきません?」とある種の口火を切る。
「まだ大丈夫だけど……なにか作る?ヘタだけど、レシピ調べよっか?」
「や、今日は買いに行きませんか?」
「いいよ。何にする?」
「どんぶり系とか」
「あっ、じゃあ麻婆丼がいいなー。売ってるかな?」
「どうですかね」
ゲーム画面を切って外に出る。このシーンだけ達成させて、と懇願されて了承したらかなり難しいステージだったようでそれなりに時間を食ってしまった。
今の僕の住居は3階にある。
手すりを走るソニックを目で追いながら階段を降りる途中、僕の後ろからついてくる足音がぴたりと止まったことに気づき後ろを振り返る。ソニックも止まって、僕の手から肩へひょいと登った。
僕はふたつの声に挟まれた。
男性の声と女性の声。どちらも聞き馴染みのあるもので、お互いがお互いの名前を呼んでいた。
そして片方は思いっきり逃げた。
がんっ、とフラットヒールのパンプスが階段の段を蹴る。彼女は服の裾を翻して僕の部屋のほうへ駆け戻ろうとした。
行ったところで入れないだろうから「あ、鍵」と呼び止めかけたが、そんな僕の横を重い足音が大股で走り抜ける。何段か飛ばしたな、と軽い足音の数と比べた。狭い階段だから服と服が擦れそうだったが、ぶつかったとしても謝罪は短かっただろうし、ともすれば後回しにされただろう。
名前は3度呼ばれ、3度目の正直というべきか、逃走者は僕の部屋の前に追い詰められた。扉に背をつけ、自分より背の高い男を睨んでいる。逃げられないように手で押さえられているのが気にくわないのだろう。
ぷいと顔をそらした彼女が無言で抗議すると、ハッとしたように力が緩んだ。
ぎこちないお見合いでもしてんのか、ってレベルの気まずい沈黙がふりしきる。僕は階段の手すりにもたれかかった。見ないほうがいいのだろうけれど、関わった人間としては、少しはリアルな事情に触れても許されるんじゃないか。
スティーブンさんは彼女からゆっくり離れ、たとえば小動物に向かって危害を加えないと約束するかのように距離を置いた。
「逃げないでくれ、……頼むよ」
その言葉に、優位に立つ側が腕を組んだ。あの仕草はよく拒絶の姿勢だのなんだのと言われるが、この場合はただ『下ろしっぱなしにしていたら血が下がって手が疲れる』的な簡単な理由からだったんだろうなと思う。そうであってほしい、とこの場にいる男は感じたはずだ。僕は感じた。
「待ってたの?待ち伏せ?レオもグル?」
責め立て気味の口調を受けても、スティーブンさんはほっとした。口はきいてくれるらしいとわかって安心したのだ。
「レオナルドは悪くない。少し話を聞いただけで、彼に『会わせてくれ』とは言わなかったよ。彼は君を騙そうとはしていない。僕が勝手に、もしかしたらと思ってここにいたんだ」
「ふーん……」
騙すつもりはなかったけど、結果的には騙したことになるんだよな。夕食を買いに行くって口実で連れ出したわけだから。
「すまない。本当に悪かった。君に言ってはいけないことを言ってしまった。僕がいつも君に伝えたいと思っていることはあんなことじゃなくて、……ごめんよ、言い訳だな」
言葉に迷うこの人なんてなかなか見られたモンじゃない。
「……言い訳でも、言いたいことがあるなら、まあ、……聞きますけど」
いじけた子供のようだ。
どう言えばいいのか、スティーブンさんは相手を見つめながら逡巡を繰り返していた。思いついては却下し、思考しては行き詰まる。
どんなレトリカルな口説き文句も明朗な謝罪も、何も浮かばないし、浮かんでも口にできない。言いたいことはそれじゃない。誰にだってわかる。僕にだってわかる。
彼は感情が訴えるままに口を開いた。
「愛してるんだ」
組まれた腕がびっくりしたようにほどける。
それを掴んで、動揺した相手の瞳だけを見つめて言うのだった。
「僕は本当に」
その声は胸の奥からしぼりだしたような必死な響きを帯び、その顔には想いを伝えきれない苦しさが滲み、その手には逃したくないと願う力が込められていた。
「僕は本当に君を愛してるんだ」
それくらい、見なくても感じられる。
言われた彼女は固まった。
こんなスティーブンさんの姿は、彼女だってなかなか見たことがなかったのだ。
「家に帰ってきて欲しい。僕と君の家に。君には面倒だろうけど、また連絡もして欲しい。着信拒否もできれば解除してもらえると嬉しい」
「う……」
彼女にとってスティーブンさんとは、いつだって余裕があって、いつだって自分の先を行く人だった。
まさかですよねー!と内心で笑う。僕はもう笑えるテンションまで復活していた。
スティーブンさんは彼女の名前を大切そうに呼んだ。僕の知らない世界に突入するかと錯覚しそうだけど、それにしては緊張感があるから安心である。
「僕を許してくれないか」
呼ばれたほうは、むずがゆそうに目をそらしてもじもじした。
「……じゃあ、……ハグ、してくれたらゆるすとか、っふあ!」
2人は、というかスティーブンさんはギュウと強く相手を抱きしめ、腕の中から「つよいつよい、ちからが」とくぐもった声が聞こえた。やがて聞こえなくなったが、たぶんいろんな意味で死んだのだろう。
一件落着。
僕はいつも笑っているみたいだと言われる顔を限りなく無に近づけた。
ソニック、この人たちは置いておいてカツ丼を買いに行こうか。
どうやらのちの取り決めにより、スティーブンさんは『言うことを何でも3回聞きます』と誓約させられたそうだが平穏な終わりだ。
早速1回使われたよと話したので、何を頼まれたんですかと問う。
「『肩揉み』」
スティーブンさんはカップケーキに手を出した。僕がちょっとした意地悪で買ってきたものだが、ウイルスによる一連の事件でメンタルをボコボコにされていてもおかしくないこの人は平然と食べている。おっそろしい。
「肩揉みって、また……」
「小規模だよなあ……」
ある意味、すごい価値ですけど。
長いハグを邪魔するのは心苦しいが、そこは僕の部屋の前なのであまりドラマチックな雰囲気を出さないでいただけると助かる。
「あの、私も……ごめんなさい。ウイルス?……のせいだって教えてもらってたのに理不尽なこと言って」
「あんなことを言われたんだ。当然だよ」
「でもよくなかった。ごめんなさい、スティーブン」
身体を離した2人は顔を向け合って、スティーブンさんが「いいんだ」と言ってようやくお互いにゆるゆると笑顔を浮かべた。
それから、より明るく、恥じらいをのせながらスティーブンさんを見上げる人が「ねえ」と軽く躊躇いがちにことわった。
「帰るの明日でもいい?」
「……ん?」
「今日は、レオさえ良ければレオの家に泊まりたいんだけど……。レオー」
「えっ、いや、いいですけど。なんでですか?」
和解したなら帰ればいいのでは、と首を傾げる。
彼女はスティーブンさんから目をそらした。今度は平穏なそらし方だ。
「ちょっと、やりたいことが」
「レオナルドの家に泊まらないとできないことかい?」
「うん」
僕は察した。
「……この流れでレオナルドの家に泊まりたがられる、っていうのもかなり別種のショックがあるよ」
ですよね、と頷く。 だから泊まりたがられる理由は言いません。口は割りませんとも。いかなスティーブンさんでも推理はできない――はず。
何が何でも今晩中に真エンディングまで到達させよう。僕はめらめらと使命感に燃えた。
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こう言うのも何だけど、僕の予感はそれなりに当たる。嫌だなと思うことほど正解に近づいてしまうのだから、今回だってそうだろうなと思っていた。今だって、もちろん。
僕の隣でやけ食いした人は、最後まで一滴の涙も流さずひたすらに憤っていた。内容をちょっとだけ聞いた僕は彼女とスティーブンさんの間で起きた酷な齟齬と不運さに嘆き、可哀想になって予定よりも2皿も多くメイン料理を注文するのに合わせ、2人してあくせくしながら食べた。予定外のぶんは彼女が支払うと言って聞かず、僕は押し負けてご馳走になってしまった。男として少し情けないが、助かったのも事実だ。
スティーブンさんとかち合う可能性のある家に帰るつもりは一切ないらしく、彼女は僕の腕を取ると、地域に根付く雑貨屋でいくつか買いものをしたいと言った。この店が選ばれたのは、24時間いつでも営業しているからだ。レストランから出た時間は当然のように22時を過ぎている。
安いホテルに泊まらせるのはかなり不安だ。
この人は若い女性で、ここは正も負も異物も超常現象も争いも平和もごった煮のヘルサレムズ・ロットである。何が起きるかわからない。そりゃあ、安ホテルを拠点として生きる人も多いが、知り合いがその中に名を(……一時であっても)連ねるとなると話は別だ。
「うちに来ませんか。とても狭いですけど、良かったら」
目を真ん丸にした彼女は、身体を傾けて大げさに僕の顔を覗き込んだ。
「いいの?」
「ええ。何かあったら大変ですし、スティーブンさんは数日すれば治りますから」
誘ってから、これこそスティーブンさんには言えない状況かもしれない、と気がついた。22時を回る夜更けまでオトコと食事をする、ってレベルじゃない。その男の家に泊まって数日を過ごすって、客観的に見るとかなりヤバい。
ばれないようにしよう。この人の居場所を訊かれてもすっとぼけるんだ。あの優秀でえっぐい人を騙しおおせるかと自問すると途端に心がくじけそうになるのだが。
ただ、彼女はすごく喜んでくれた。実は心細かったのかもしれない。
スマートフォンの位置情報サービスを切ってから雑貨屋でお泊り道具をいくつか買って、彼女は僕の家にやってきた。狭くてごちゃごちゃで申し訳ない。一応、おかしなものはないはずだ。
「わー、レオの匂いがする。レオの部屋だからかな」
「なんですかそれ。窓開けますね」
「悪い意味じゃないよ!私レオの匂い好きだよ!」
「え、あ、はい。どーも……?」
どういう感想なのかさっぱりわからない。人の部屋に入るとその人の気配を感じられるというが、僕の場合はどんな匂いなんだろう。バイトまみれで家にはあまりいないから、埃っぽかったらどうしようか。
僕は明日は午後出勤のバイトしかなく、彼女はまるまる1日休みが取れていた。だからこんな時間まで飲み食いして遊べたのだ。
2人してベッドの使用権を押しつけ合い、今日は彼女が使うけれど明日は僕が使うというところで話を落ち着ける。簡単なゲームで決めたため、僕たちは楽しくなって声を立てて笑い合った。まあ、その笑いは彼女がシャワーを浴びる間に引きつったのだけど。いくら友人でも、っつうか友人だからこそ、女性が僕の家でシャワーを浴びるってよろしくないことなんじゃないかなと再びの危機感が頭をもたげたのだ。ひとりの人物の顔も思い浮かんでしまう。
絶対にばれないようにしよう。
また心に決めてベッドに突っ伏す。誰が一番つらいだとか、順位をつけるのはアホらしいけど、僕もちょっぴり崖っぷちです。
午後になり、急にバイトのシフトが変わったことでブランクの生まれた僕は、家に取って返すのも何だと思い、事務所に顔を出した。
寝ぼけまなこで僕を見送ってくれた人の話だけは持ち上げるまいと決意していたのだが、スッと横に寄ってきたチェインさんに気配なく話しかけられてびくりと肩が震える。怖くはなくてもビビるもんはビビるのだ。
「ねえ。どうなってる?」
「僕が知りたいですよ……」
「こっちは昨日と変わらず。名前を出すとスーッと会話から離脱するか、反応が薄くなるか、そんなところだね」
「そうですか……」
「ただ、少し良くなってるのは確かかな。気にしてたよ、『家に帰ってない』ってね。知らないかって訊かれたわ」
「……そうですか……」
「レオは知ってる?私が連絡しても渋るんだよね」
その瞳は、『知ってるよね』と決めつけていた。目力が凄くて、口元が引きつる。
こっそり隠れて視線を走らせる。ここにはチェインさんとクラウスさんとギルベルトさんと僕の姿しかない。スティーブンさんは出かけたようだ。
本人が不在なら、と頷いた。
チェインさんは肩をすくめて両手を持ち上げる。レオの所か、と息が混じる。
僕の所だと何か問題があるのだろうか。
眉が不安げに憂いたのだろう。振り払うように親指が立てられた。
「むしろグッジョブ。自宅に帰ってないなら他に行くとこないもん。ホテルかどっかに泊まられるよりずっと楽だしマシよ」
「秘密にしといてもらえますよね」
「え、教えたほうが安心するんじゃない?レオの家なら問題ないでしょ」
問題ないと断言されてしまうのもどうかと思うんだけど、どうなんだ。
「だけど」
「待って」
だけど言っちゃうとスティーブンさんの反応が怖くて、と続けようとした僕の口に手が当てられた。声を中途半端にこもらせてモゴモゴと黙る。
チェインさんは、僕が黙ったのを見て手を離した。
直後、扉が開いて僕たちのすぐそばに渦中の人が現れる。
なぜ気づいたのか。ノブを捻る音か蝶番の軋みか何かか?やっぱりここは超人の集まりだ。
しかしおかげで致命的な部分を言わずに済み、チェインさんに深く感謝した。
「やあ、少年。今日は夜番だっけ?仮眠でも取ったほうが良いんじゃないか?」
「午後番ですよ。でもバイトの予定がつぶれたんです。だから何かお手伝いできることはないかと思って」
「感心なことだ。でも今は何もないな。ゆっくりお茶でもしていて良いよ」
「ありがとうございます」
一見何の変哲もない会話だ。裏側には奇怪な病が貼りついているのに、どこか安心してしまう。
ジュースでももらおうと部屋を横切って隣に向かうと、僕の背中を声が追いかけた。落ち着いた、特段、違和感もない音だ。僕の平凡な耳にはそう届いた。
「彼女の居場所を知ってるかい?」
お、と足を止める。誰のことかなんて訊ね返す必要もないが、一応、「『彼女』?」とオウム返しに問う。名前を言うか言わないか、少し試すような気もあった。
スティーブンさんは、あの人の名前を付け加えて言い直した。
そこには昨日ほどの悪感情はないし、整理のつかない焦りがあるようにも感じられた。
「昨日の夜は帰って来なかったんだ」
この言い方からは、心配そうな響きが読み取れた。
「今日はバイトがない日だし、昼がてら行ってみても店員たちも何も知らないらしくてね。どこにいるのかくらいは把握しておきたいだろ?」
「はあ。なんで把握しておきたいんですか?」
「……なんで、と言われてもなあ。勝手に動き回られると……迷惑なんだよ。……電話をかけても繋がらないし」
「ほほう」
今日で『これ』なのだから、昨日のあの人はよっぽどこっぴどくやられたんだろう。
これはウイルスのせいで、スティーブンさんも被害者だ。とはいえ僕はあの人に同情した。目の前で見ていたから、というのも理由のひとつだ。
「でも別に『もう連絡して来なくていい』んですよね?じゃあ別に気にしなくていいんじゃないですか?」
「それは」
彼は咄嗟に否定しようとした、ように見えた。
「あのときは一緒にいたんだったな。それなら彼女は君の所に泊まったのか?今も君の家に?」
「たぶんいないと思いますよ。確か……、『シチューが食べたい』とか言ってましたから。僕んち、シチューないですもん」
上手く言えたかはわからないが、スティーブンさんは少し考え込んだ。
嘘は言っていない。今、彼女はたぶん僕の家にはいないのだ。朝に『シチューが食べたい』と言って、昼食をどこかの行列必至な店で食べるつもりだとかなんとか予定を立てていた。
チェインさんが即行でスマホを使って近辺の煮込み料理屋を検索した。クラウスさんとギルベルトさんも、どこの店が評判かレビューサイトと過去の記憶を結びつけ始める。なぜかあのあたりだけ和やかで切ない。僕はスティーブンさんからじろじろと見られているというのに。
場所を転々とする彼女も想像しやすくて困り者だ。思い切った家出といい、たまに変な強さを発揮する。
おもっくそ気まずい空気が漂う中で僕は、薬がもっと早く効くよう願いを込めてソニックを撫でた。
その日の夜は気晴らしも兼ねて、僕の持つゲームの中からひときわ爽快感を得られるものを選んでスイッチを入れた。
彼女はこういったゲームにはキョーミがなかったらしくて詳しくなかった。だから操作はマルチプレイでこちらが誘導して手助けできる形にして、とにかくストーリーにのめり込みつつスカッとしてもらえるようつとめる。
「敵来ました!援護するんで射撃お願いします」
「LだっけRだっけ!?」
「Rっす」
「ありがとう!」
「よっしゃ倒した!すごいじゃないですか!」
「やったね!」
初めはたどたどしかった初心者さんも1時間ほどすればだいぶ慣れて楽になる。僕もこのゲームは久々だったから、2人してワイワイ言いながら物語を進めて敵を倒した。
と、それから1日と半分が経ち。
事務所に顔を出すと、ザップさんは僕の襟首をひっつかんでソファに押し倒した。ぐえ、と呻くと、小声で思いっきり叫ばれる。
「今日のスカーフェイスさん見たか!?」
「見てませんよ、今来たばっかりなんですから……」
「じゃあ早く見ろ!すぐ戻って来るから……、あっ!ほら見ろ」
電話を片手に持ったスティーブンさんが隣の部屋からこちらへ出てくる。
起き上がって挨拶すると、彼は少し黙ってから、「君、居場所知ってるよな?」とこの数日間あえてノータッチを貫いていた核心に前置きなく迫った。単刀直入すぎて意味がわからなかった。
僕があのとき問い詰められなかったのは、スティーブンさんの中でせめぎ合う『好き』と『きらい』に関する意地があったためかもしれず、今、訊ねられたということは、それがなくなったという証か。そうだ少年の言うとおり僕は彼女が嫌いだから放っておこう、などという理屈に合わなくて不条理でこの人に似合わない感覚を振り切れたのだ。そう、全快だ。
なるほど。ようやく頭が回る。
なるほどそれでめちゃくちゃ焦ってるってわけですね。
いや、焦っているのかは知らないけど、少なくとも彼は結構落ち込んでいた。
「そういえば、あの人に携帯させてるGPSは……」
スマホの位置情報サービスは切ったとはいえ、別のものもあるんじゃなかったか。思い出してたらりと冷や汗をかいた。それを調べなかったスティーブンさんではあるまい。
「こういうときに限って家に忘れられてるんだ」
「……あー……」
よくある話だった。必要なときに無いんだよな。
「なあ。僕はかなり……『やってちまって』いたよな」
「やっちまってましたね」
話を知らないザップさんは置いてけぼりだが、スティーブンさんの様子から触れてはならないものを感じ取ったようで(……野生の勘だろうか)そそくさと扉に寄って開けて出て行った。
ソファの上で膝に肘をつき、はあ、とまた息が落ちる。
「彼女はどこにいるんだ?」
「僕の家です」
仕事用のケータイからはかけないのだろうか。しかし質問する前に察した。スティーブン・A・スターフェイズの番号は重要すぎるし、あの人は非通知だと基本的に出ない。
「……バイトが終わったらいつもすぐに帰ってる?」
「アレ以来は外食もしてません。今日もなんにもないって言ってました」
そうか、と言って僕の眼の前でソファに埋もれそうに脱力する。気のせいでなければ落ち込んでいそうだ。
でも僕はどっちかっていうとあの人の味方だったので。
「泣いてましたよ」
スティーブンさんに向けて言った。
スティーブンさんは表情をゆがめ、苛立ちと焦燥のやり場がないようにスマートフォンを何度も見た。
レアなバッドステータスを眺めつつ、僕は素知らぬ顔でミルクを飲む。嘘はついてない。
(ボロ泣きでしたよ)
あのゲーム、実はかなり泣けるんだ。
「レオ、やばいねこのゲーム。ゲームってこんなに泣けるんだね。自分で進めてきたから余計……」
「5回殺されたのもつらかったですよね」
「その結果たどり着く結末がこれなんてあんまりだよ、……あれっ?続きがあるの?」
「まあ、進めてみてください。ここからは僕は手助けしませんから」
「なにそれなにそれ。もしかしてさっきのエンディングじゃないの!?」
「じゃ、僕寝るんで。おやすみなさい」
「レオ!?」
昨夜の会話はこんなところで、スティーブンさんが全快した日、僕が帰ると彼女は唸っていた。
昨日は助力なしでクリアしきれなかったようだから、早足で帰宅したあとは夕食も忘れて没頭していたのだろう。ひとえにあの悲劇的結末を覆す為に頑張っているのだ。
彼女は僕にお礼を言った。こんなにすごい話があるなんて知らなかった、教えてくれてありがとう、レオとこれについて話がしたい、……なんて言われたら悪い気にはならない。照れ笑いで応えて、まだ見ぬエンディングの話で盛り上がる。とにかく気持ちよく終わるゲームなので、僕もネタバレしたい衝動を努力して抑え込んだ。
笑顔の彼女を見ると言い出しづらくもなったが、「お腹すきません?」とある種の口火を切る。
「まだ大丈夫だけど……なにか作る?ヘタだけど、レシピ調べよっか?」
「や、今日は買いに行きませんか?」
「いいよ。何にする?」
「どんぶり系とか」
「あっ、じゃあ麻婆丼がいいなー。売ってるかな?」
「どうですかね」
ゲーム画面を切って外に出る。このシーンだけ達成させて、と懇願されて了承したらかなり難しいステージだったようでそれなりに時間を食ってしまった。
今の僕の住居は3階にある。
手すりを走るソニックを目で追いながら階段を降りる途中、僕の後ろからついてくる足音がぴたりと止まったことに気づき後ろを振り返る。ソニックも止まって、僕の手から肩へひょいと登った。
僕はふたつの声に挟まれた。
男性の声と女性の声。どちらも聞き馴染みのあるもので、お互いがお互いの名前を呼んでいた。
そして片方は思いっきり逃げた。
がんっ、とフラットヒールのパンプスが階段の段を蹴る。彼女は服の裾を翻して僕の部屋のほうへ駆け戻ろうとした。
行ったところで入れないだろうから「あ、鍵」と呼び止めかけたが、そんな僕の横を重い足音が大股で走り抜ける。何段か飛ばしたな、と軽い足音の数と比べた。狭い階段だから服と服が擦れそうだったが、ぶつかったとしても謝罪は短かっただろうし、ともすれば後回しにされただろう。
名前は3度呼ばれ、3度目の正直というべきか、逃走者は僕の部屋の前に追い詰められた。扉に背をつけ、自分より背の高い男を睨んでいる。逃げられないように手で押さえられているのが気にくわないのだろう。
ぷいと顔をそらした彼女が無言で抗議すると、ハッとしたように力が緩んだ。
ぎこちないお見合いでもしてんのか、ってレベルの気まずい沈黙がふりしきる。僕は階段の手すりにもたれかかった。見ないほうがいいのだろうけれど、関わった人間としては、少しはリアルな事情に触れても許されるんじゃないか。
スティーブンさんは彼女からゆっくり離れ、たとえば小動物に向かって危害を加えないと約束するかのように距離を置いた。
「逃げないでくれ、……頼むよ」
その言葉に、優位に立つ側が腕を組んだ。あの仕草はよく拒絶の姿勢だのなんだのと言われるが、この場合はただ『下ろしっぱなしにしていたら血が下がって手が疲れる』的な簡単な理由からだったんだろうなと思う。そうであってほしい、とこの場にいる男は感じたはずだ。僕は感じた。
「待ってたの?待ち伏せ?レオもグル?」
責め立て気味の口調を受けても、スティーブンさんはほっとした。口はきいてくれるらしいとわかって安心したのだ。
「レオナルドは悪くない。少し話を聞いただけで、彼に『会わせてくれ』とは言わなかったよ。彼は君を騙そうとはしていない。僕が勝手に、もしかしたらと思ってここにいたんだ」
「ふーん……」
騙すつもりはなかったけど、結果的には騙したことになるんだよな。夕食を買いに行くって口実で連れ出したわけだから。
「すまない。本当に悪かった。君に言ってはいけないことを言ってしまった。僕がいつも君に伝えたいと思っていることはあんなことじゃなくて、……ごめんよ、言い訳だな」
言葉に迷うこの人なんてなかなか見られたモンじゃない。
「……言い訳でも、言いたいことがあるなら、まあ、……聞きますけど」
いじけた子供のようだ。
どう言えばいいのか、スティーブンさんは相手を見つめながら逡巡を繰り返していた。思いついては却下し、思考しては行き詰まる。
どんなレトリカルな口説き文句も明朗な謝罪も、何も浮かばないし、浮かんでも口にできない。言いたいことはそれじゃない。誰にだってわかる。僕にだってわかる。
彼は感情が訴えるままに口を開いた。
「愛してるんだ」
組まれた腕がびっくりしたようにほどける。
それを掴んで、動揺した相手の瞳だけを見つめて言うのだった。
「僕は本当に」
その声は胸の奥からしぼりだしたような必死な響きを帯び、その顔には想いを伝えきれない苦しさが滲み、その手には逃したくないと願う力が込められていた。
「僕は本当に君を愛してるんだ」
それくらい、見なくても感じられる。
言われた彼女は固まった。
こんなスティーブンさんの姿は、彼女だってなかなか見たことがなかったのだ。
「家に帰ってきて欲しい。僕と君の家に。君には面倒だろうけど、また連絡もして欲しい。着信拒否もできれば解除してもらえると嬉しい」
「う……」
彼女にとってスティーブンさんとは、いつだって余裕があって、いつだって自分の先を行く人だった。
まさかですよねー!と内心で笑う。僕はもう笑えるテンションまで復活していた。
スティーブンさんは彼女の名前を大切そうに呼んだ。僕の知らない世界に突入するかと錯覚しそうだけど、それにしては緊張感があるから安心である。
「僕を許してくれないか」
呼ばれたほうは、むずがゆそうに目をそらしてもじもじした。
「……じゃあ、……ハグ、してくれたらゆるすとか、っふあ!」
2人は、というかスティーブンさんはギュウと強く相手を抱きしめ、腕の中から「つよいつよい、ちからが」とくぐもった声が聞こえた。やがて聞こえなくなったが、たぶんいろんな意味で死んだのだろう。
一件落着。
僕はいつも笑っているみたいだと言われる顔を限りなく無に近づけた。
ソニック、この人たちは置いておいてカツ丼を買いに行こうか。
どうやらのちの取り決めにより、スティーブンさんは『言うことを何でも3回聞きます』と誓約させられたそうだが平穏な終わりだ。
早速1回使われたよと話したので、何を頼まれたんですかと問う。
「『肩揉み』」
スティーブンさんはカップケーキに手を出した。僕がちょっとした意地悪で買ってきたものだが、ウイルスによる一連の事件でメンタルをボコボコにされていてもおかしくないこの人は平然と食べている。おっそろしい。
「肩揉みって、また……」
「小規模だよなあ……」
ある意味、すごい価値ですけど。
長いハグを邪魔するのは心苦しいが、そこは僕の部屋の前なのであまりドラマチックな雰囲気を出さないでいただけると助かる。
「あの、私も……ごめんなさい。ウイルス?……のせいだって教えてもらってたのに理不尽なこと言って」
「あんなことを言われたんだ。当然だよ」
「でもよくなかった。ごめんなさい、スティーブン」
身体を離した2人は顔を向け合って、スティーブンさんが「いいんだ」と言ってようやくお互いにゆるゆると笑顔を浮かべた。
それから、より明るく、恥じらいをのせながらスティーブンさんを見上げる人が「ねえ」と軽く躊躇いがちにことわった。
「帰るの明日でもいい?」
「……ん?」
「今日は、レオさえ良ければレオの家に泊まりたいんだけど……。レオー」
「えっ、いや、いいですけど。なんでですか?」
和解したなら帰ればいいのでは、と首を傾げる。
彼女はスティーブンさんから目をそらした。今度は平穏なそらし方だ。
「ちょっと、やりたいことが」
「レオナルドの家に泊まらないとできないことかい?」
「うん」
僕は察した。
「……この流れでレオナルドの家に泊まりたがられる、っていうのもかなり別種のショックがあるよ」
ですよね、と頷く。 だから泊まりたがられる理由は言いません。口は割りませんとも。いかなスティーブンさんでも推理はできない――はず。
何が何でも今晩中に真エンディングまで到達させよう。僕はめらめらと使命感に燃えた。
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