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本編後。付き合っている。
*
自分と彼の背の高さを比べて、うむ、と小さく首を振る。
無理っぽい。
なにがかというと、ある種の乙女の夢のことだ。振り向きざまに達成できる身長差ではないから、やりたければあちらに屈んでもらう必要がある。だが頼むなんて照れくさい。やってみたくても諦めるしかない、か。
しかも、冷静に(……比較的!)なると初めから頓挫している気もする。たとえ身長差が適当であったとして、はたして私に勇気はあるのか。
スティーブンの唇を奪うだけの愚かな勇気が?
鏡の中の自分が否定する。頭からワンピースをかぶって支度を整え髪を梳かす間、私はずっと自分のそんな苦い顔とにらめっこを続ける羽目になった。
やってみたいけど。やってみたいけれど、形にするには足りないものが多すぎる。蛮勇と度胸と根性とテクニックだ。その場面を想像するだけで恥ずかしくなってごろごろと転げ回りたくなるのだから、どんなに精密で非の打ち所がない作戦を立てたとしても実行できるとは考えづらい。
(『いってらっしゃい』の、キス……!!)
大好きな人と想いを通じ合わせられたらしい女子としては、ちょっぴりやりたくなってしまったって誰にも責められないはずだ。
記憶を辿れば、単純極まりなくてバカの極地でフラフラだった過去、こちらを華麗に手のひらの上で踊らせていたあの色男と交わしたことはある。次の逢瀬を約束するようなそれは夢のようで非常にありがたい体験だったし、愛を感じる錯覚は脳を揺さぶらんばかりだった。
だがそれとこれとは話が違う。事情も関係も精神状態もかなり異なる。……と思いたいし、きっと思える。爛れていない合法的なキスだ。誰に憚ることもない。
いや、あるかもしれないけど。あの頃の私もあの口づけを『誰に憚ることもない』と信じていたのだし、実は今だって問題があるのかもしれないけど。うう、自分で自分を傷つけてしまった。私は考えるのをやめた。
スティーブンは出勤の準備を済ませ、ひと口お水を飲んだらもう玄関にゆく。帰りは早いらしく、できるようならこちらのバイト先まで迎えに来てくれる(……くださる!)そうだ。こういうご褒美をちらつかされると嬉しくなってしまって、バイトに出かけるだけでハッピーになれる。
窓に鍵をかけたスティーブンは、私が彼を見ていると知ると目を合わせ、「可愛いな。似合ってるよ」とさらりとこちらの服装を褒めた。あまりに手慣れているため本心かどうかわからないが、偽りではないと信じ込ませる恐ろしさがあった。
「ありがとう」
テーブルに置きっぱなしのスマートフォンを拾い上げる。時計を見るふりをして、悶々とした気持ちをホームボタンに押しつけた。音声案内が作動しそうになって慌てて離す。
なにも知らないスティーブンは、いつも通りカバンを持つ。彼は私より先に出るのだ。私は早く行ったってすることがないので、ギリギリまで家にいる。
だから、つまり、私は見送る側である。
視線が針だったら今頃スティーブンは背中からお腹へ串刺しになって火傷までしているのではというほど目で追って、ドキドキと激しく強く脈動し始めた耐性の弱い心臓を深呼吸でなだめる。
あちらが振り返った。
「どうかしたか?」
「いえ、なんでもないです」
目をそらす。なんでもありまくりだ。
「じゃあ、行ってくるよ」
「あ……う、うん」
チャンスは毎日ある。
でも、どこかの誰かが言っていた。確かラジオのパーソナリティだ。
今、やれないことは明日もやれない。
全身を焼く訓言だと思う。
「スティーブン!」
「ん?なんだい?」
言葉が続かなくて無駄な空白が生まれる。忙しい男の数秒は貴重だ。
両手を伸ばす。ハグをしようと言うように。
理由のわからない私の行動にまばたきをひとつ落とした彼は、それでもすぐに意図を理解して身を屈めた。ハグをしてくれるつもりだろう。たぶんこの男は人生で何度女から両手を伸ばされたか数え切れないし、その回数に10円を掛ければ大儲けができるに違いない。なにを求められているかなんて簡単に推察できる。
そう思うと、不思議なことに心がやさぐれてきた。
うむ。所詮は私など数あるうちのひとつだ。いや、数えるだけの価値もない。まったく、このプロフェッショナルが経験した中で最も心癒され、嬉しく感じ、今日も頑張るか、などと考えられる『いってらっしゃいのキス』を贈呈できた女は(……男は?)いったいどこの誰なのか。そもそもそんな女は(……男は?)存在したのか。そしてこれからも現れうるのか?教えてくださいと襟元を掴んでお願いしたい。だけどそれを参考にするのも、心の狭い私的にはかなり抵抗がある。ワガママも良いところだ。
近づいた顔に触れる。私のほうからも、かかとを浮かせ、背伸びして距離を詰めた。
唇を押しあてた一瞬、私の感覚では時間が飛んだ。反応が怖くて頭が精神の処理を放棄したような感じだ。
ただ、処理を放棄されたおかげで人間としてはまともに動けた。感情が吹っ飛んでいなければ正気でいられなかった。
視線を結んだまま、かかとを戻す。
「いってらっしゃい!」
パッと手を離した。うんともすんとも反応がなくて、見つめる瞳がなにを考えているかわからなくて、「な、なに?」と言ってしまったがそれはどう考えてもスティーブンの台詞である。
笑みも浮かべられない私に、突然、予想外に強い力がかかった。ぐっと抱き寄せられる。
身体はすぐに離れ、困惑して思わず上げた顔を手で支えられる。
「ふぁ」
えっ、と思う間に、数倍スマートなキスを返された。
離れ、にこりと笑顔をいただく。
「いってきます」
「いっ、てらっしゃい」
手を振られ、手を振り返し、扉がちゃんと閉まる。
私は手を下ろし、指で唇をなぞった。耐えられなくなって近くの壁に突撃して額を押し当てる。
今日、スティーブン、遅く帰ってこないかな。
申し訳ないけど、恥ずかしすぎて顔を見られそうになかった。
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自分と彼の背の高さを比べて、うむ、と小さく首を振る。
無理っぽい。
なにがかというと、ある種の乙女の夢のことだ。振り向きざまに達成できる身長差ではないから、やりたければあちらに屈んでもらう必要がある。だが頼むなんて照れくさい。やってみたくても諦めるしかない、か。
しかも、冷静に(……比較的!)なると初めから頓挫している気もする。たとえ身長差が適当であったとして、はたして私に勇気はあるのか。
スティーブンの唇を奪うだけの愚かな勇気が?
鏡の中の自分が否定する。頭からワンピースをかぶって支度を整え髪を梳かす間、私はずっと自分のそんな苦い顔とにらめっこを続ける羽目になった。
やってみたいけど。やってみたいけれど、形にするには足りないものが多すぎる。蛮勇と度胸と根性とテクニックだ。その場面を想像するだけで恥ずかしくなってごろごろと転げ回りたくなるのだから、どんなに精密で非の打ち所がない作戦を立てたとしても実行できるとは考えづらい。
(『いってらっしゃい』の、キス……!!)
大好きな人と想いを通じ合わせられたらしい女子としては、ちょっぴりやりたくなってしまったって誰にも責められないはずだ。
記憶を辿れば、単純極まりなくてバカの極地でフラフラだった過去、こちらを華麗に手のひらの上で踊らせていたあの色男と交わしたことはある。次の逢瀬を約束するようなそれは夢のようで非常にありがたい体験だったし、愛を感じる錯覚は脳を揺さぶらんばかりだった。
だがそれとこれとは話が違う。事情も関係も精神状態もかなり異なる。……と思いたいし、きっと思える。爛れていない合法的なキスだ。誰に憚ることもない。
いや、あるかもしれないけど。あの頃の私もあの口づけを『誰に憚ることもない』と信じていたのだし、実は今だって問題があるのかもしれないけど。うう、自分で自分を傷つけてしまった。私は考えるのをやめた。
スティーブンは出勤の準備を済ませ、ひと口お水を飲んだらもう玄関にゆく。帰りは早いらしく、できるようならこちらのバイト先まで迎えに来てくれる(……くださる!)そうだ。こういうご褒美をちらつかされると嬉しくなってしまって、バイトに出かけるだけでハッピーになれる。
窓に鍵をかけたスティーブンは、私が彼を見ていると知ると目を合わせ、「可愛いな。似合ってるよ」とさらりとこちらの服装を褒めた。あまりに手慣れているため本心かどうかわからないが、偽りではないと信じ込ませる恐ろしさがあった。
「ありがとう」
テーブルに置きっぱなしのスマートフォンを拾い上げる。時計を見るふりをして、悶々とした気持ちをホームボタンに押しつけた。音声案内が作動しそうになって慌てて離す。
なにも知らないスティーブンは、いつも通りカバンを持つ。彼は私より先に出るのだ。私は早く行ったってすることがないので、ギリギリまで家にいる。
だから、つまり、私は見送る側である。
視線が針だったら今頃スティーブンは背中からお腹へ串刺しになって火傷までしているのではというほど目で追って、ドキドキと激しく強く脈動し始めた耐性の弱い心臓を深呼吸でなだめる。
あちらが振り返った。
「どうかしたか?」
「いえ、なんでもないです」
目をそらす。なんでもありまくりだ。
「じゃあ、行ってくるよ」
「あ……う、うん」
チャンスは毎日ある。
でも、どこかの誰かが言っていた。確かラジオのパーソナリティだ。
今、やれないことは明日もやれない。
全身を焼く訓言だと思う。
「スティーブン!」
「ん?なんだい?」
言葉が続かなくて無駄な空白が生まれる。忙しい男の数秒は貴重だ。
両手を伸ばす。ハグをしようと言うように。
理由のわからない私の行動にまばたきをひとつ落とした彼は、それでもすぐに意図を理解して身を屈めた。ハグをしてくれるつもりだろう。たぶんこの男は人生で何度女から両手を伸ばされたか数え切れないし、その回数に10円を掛ければ大儲けができるに違いない。なにを求められているかなんて簡単に推察できる。
そう思うと、不思議なことに心がやさぐれてきた。
うむ。所詮は私など数あるうちのひとつだ。いや、数えるだけの価値もない。まったく、このプロフェッショナルが経験した中で最も心癒され、嬉しく感じ、今日も頑張るか、などと考えられる『いってらっしゃいのキス』を贈呈できた女は(……男は?)いったいどこの誰なのか。そもそもそんな女は(……男は?)存在したのか。そしてこれからも現れうるのか?教えてくださいと襟元を掴んでお願いしたい。だけどそれを参考にするのも、心の狭い私的にはかなり抵抗がある。ワガママも良いところだ。
近づいた顔に触れる。私のほうからも、かかとを浮かせ、背伸びして距離を詰めた。
唇を押しあてた一瞬、私の感覚では時間が飛んだ。反応が怖くて頭が精神の処理を放棄したような感じだ。
ただ、処理を放棄されたおかげで人間としてはまともに動けた。感情が吹っ飛んでいなければ正気でいられなかった。
視線を結んだまま、かかとを戻す。
「いってらっしゃい!」
パッと手を離した。うんともすんとも反応がなくて、見つめる瞳がなにを考えているかわからなくて、「な、なに?」と言ってしまったがそれはどう考えてもスティーブンの台詞である。
笑みも浮かべられない私に、突然、予想外に強い力がかかった。ぐっと抱き寄せられる。
身体はすぐに離れ、困惑して思わず上げた顔を手で支えられる。
「ふぁ」
えっ、と思う間に、数倍スマートなキスを返された。
離れ、にこりと笑顔をいただく。
「いってきます」
「いっ、てらっしゃい」
手を振られ、手を振り返し、扉がちゃんと閉まる。
私は手を下ろし、指で唇をなぞった。耐えられなくなって近くの壁に突撃して額を押し当てる。
今日、スティーブン、遅く帰ってこないかな。
申し訳ないけど、恥ずかしすぎて顔を見られそうになかった。
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