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本編中
スティーブンからの好意はある
*
ひと息つくかと椅子を引く。
喉の渇きや多少の疲れに気がついたのは、集中が切れかけた証だ。
スティーブンは一旦、仕事のことも今しがたまでの作業のことも追い出して頭を切り替えた。
お茶でも飲んでしばらく気分転換するつもりで、ドアを開けて廊下へ出る。
切り替えた思考は、同居人のほうへふらりと向いた。
夕食は終えており、彼女はシャワーも浴びて、事実上の自室となった客間で本を読むか、のびのびできるらしい席でテレビを見ているはずだ。勉強という線もある。
家の中には自分と彼女しかいないのだから、もう片方が何をしているのか気になるのは当然の流れともいえる。それが自分にとって切り離せない危険物なら尚更だ。
もっとも、それだけが理由だとは言い切らない。
湯を沸かそうとしたスティーブンは、明かりのついたキッチンの近くで立ち止まった。声が聞こえたのだ。聞き間違えようもない、同居人の声である。
一角は煌々と明るいし、彼女はキッチンに居るのだろう。確か、ひとりきりで。
図らずも、ここは明かりの下から死角になる位置だったので、彼はそのまま耳をすませることにした。
隠さないし、隠す方法もおそらくよく知らない軽い足音が時どき移動する。
そこに混じってスティーブンの耳に届くのは、微かな歌声のようだった。
彼女はほんの小さな声で歌を口ずさみながら、夜のちょっとしたリラックスタイムの準備をしているのである。
イメージがなかったため、そうか彼女は歌うのか、とスティーブンは新鮮な気持ちを抱いた。
非常に貴重な機会をさっさとぶち壊してしまうのも勿体ない。
疑問が解けた彼は、キリの良さそうな箇所まで聴き終えてから声をかけることにして、黙って壁に寄りかかった。
旋律を追うと、覚えきれていないのか、歌詞はところどころに虫食いがあって、生身のレコードは針が不規則に飛んだ。そのせいかやけに記憶に食い込んでくる。
人間とはかくも不思議な感覚を持つ生き物であって、原曲のタイトルも歌手の名前も思い出せなかったスティーブンには、そのメロディとうろ憶えの歌詞が彼女の声で定着してしまった。
キッチンで湯が沸き、冷蔵庫から牛乳が取り出される物音が立つ。
牛乳を注ぎすぎた彼女の「あ!」という悲鳴で歌の終わりを覚った彼は、何食わぬ顔で本来の目的を果たしに行った。
「ミルクティーかい?」
急に声をかけられた肩が揺れた。
「うん、そう。あなたは?」
「僕も紅茶を飲もうと思ってね」
「牛乳、出しておく?」
「いや、いいよ。ありがとう」
ふたりは穏やかにやり取りをする。
紅茶の抽出を待つ間、自分を見つめていたに顔を向けて視線を結ぶと、柔らかい頬がほんのり朱に染まる瞬間が見えた。
は誤魔化すように口を開いた。
「あの、どうしたの?」
訊ねられたスティーブンは小首を傾げる。
「何がだい?」
「目が合って胸がキュンとしちゃったんだけど……」
「それはいつも通りじゃないか?」
「そうかなー。スティーブンの今のちょっと笑った顔、すっごい威力だったよ」
精巧な贋作があると知る今も、微笑みひとつで彼女は盛大に転倒する。そして感動と恋とときめきのせいで、スティーブンの前では語彙が多少、減る。
今はただ彼女と目を合わせただけで、楽しげに笑ったつもりも優しく微笑んだつもりもなかったのだが、それは言わなかった。
彼女が幻視能力を身につけたか、自分でも気づかないうちに笑っていたのか、人間とはかくも不思議な感覚を持つ生き物である。
スティーブンからの好意はある
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ひと息つくかと椅子を引く。
喉の渇きや多少の疲れに気がついたのは、集中が切れかけた証だ。
スティーブンは一旦、仕事のことも今しがたまでの作業のことも追い出して頭を切り替えた。
お茶でも飲んでしばらく気分転換するつもりで、ドアを開けて廊下へ出る。
切り替えた思考は、同居人のほうへふらりと向いた。
夕食は終えており、彼女はシャワーも浴びて、事実上の自室となった客間で本を読むか、のびのびできるらしい席でテレビを見ているはずだ。勉強という線もある。
家の中には自分と彼女しかいないのだから、もう片方が何をしているのか気になるのは当然の流れともいえる。それが自分にとって切り離せない危険物なら尚更だ。
もっとも、それだけが理由だとは言い切らない。
湯を沸かそうとしたスティーブンは、明かりのついたキッチンの近くで立ち止まった。声が聞こえたのだ。聞き間違えようもない、同居人の声である。
一角は煌々と明るいし、彼女はキッチンに居るのだろう。確か、ひとりきりで。
図らずも、ここは明かりの下から死角になる位置だったので、彼はそのまま耳をすませることにした。
隠さないし、隠す方法もおそらくよく知らない軽い足音が時どき移動する。
そこに混じってスティーブンの耳に届くのは、微かな歌声のようだった。
彼女はほんの小さな声で歌を口ずさみながら、夜のちょっとしたリラックスタイムの準備をしているのである。
イメージがなかったため、そうか彼女は歌うのか、とスティーブンは新鮮な気持ちを抱いた。
非常に貴重な機会をさっさとぶち壊してしまうのも勿体ない。
疑問が解けた彼は、キリの良さそうな箇所まで聴き終えてから声をかけることにして、黙って壁に寄りかかった。
旋律を追うと、覚えきれていないのか、歌詞はところどころに虫食いがあって、生身のレコードは針が不規則に飛んだ。そのせいかやけに記憶に食い込んでくる。
人間とはかくも不思議な感覚を持つ生き物であって、原曲のタイトルも歌手の名前も思い出せなかったスティーブンには、そのメロディとうろ憶えの歌詞が彼女の声で定着してしまった。
キッチンで湯が沸き、冷蔵庫から牛乳が取り出される物音が立つ。
牛乳を注ぎすぎた彼女の「あ!」という悲鳴で歌の終わりを覚った彼は、何食わぬ顔で本来の目的を果たしに行った。
「ミルクティーかい?」
急に声をかけられた肩が揺れた。
「うん、そう。あなたは?」
「僕も紅茶を飲もうと思ってね」
「牛乳、出しておく?」
「いや、いいよ。ありがとう」
ふたりは穏やかにやり取りをする。
紅茶の抽出を待つ間、自分を見つめていたに顔を向けて視線を結ぶと、柔らかい頬がほんのり朱に染まる瞬間が見えた。
は誤魔化すように口を開いた。
「あの、どうしたの?」
訊ねられたスティーブンは小首を傾げる。
「何がだい?」
「目が合って胸がキュンとしちゃったんだけど……」
「それはいつも通りじゃないか?」
「そうかなー。スティーブンの今のちょっと笑った顔、すっごい威力だったよ」
精巧な贋作があると知る今も、微笑みひとつで彼女は盛大に転倒する。そして感動と恋とときめきのせいで、スティーブンの前では語彙が多少、減る。
今はただ彼女と目を合わせただけで、楽しげに笑ったつもりも優しく微笑んだつもりもなかったのだが、それは言わなかった。
彼女が幻視能力を身につけたか、自分でも気づかないうちに笑っていたのか、人間とはかくも不思議な感覚を持つ生き物である。
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