**
本編後
*
ドアが開いた。
テレビを見ていた私はぎょっとして立ち上がり、帰宅したスティーブンを出迎える。
「おかえりなさい」
「ただいま」
普段と変わらない挨拶には、ちょっと気を抜いたような、帰宅直後独特の緩さがある。この特別な姿を見られることが幸せで、今日も心が勝手に嬉しがった。
覗き見はしていないが、彼が自室に荷物を置いて、スーツの上着をハンガーに掛けるのがわかる。
私は先にひらけた部屋に戻って、見ていたドラマのエンディングテーマとスタッフロールに目をやった。
時刻は22時を少し過ぎたころだ。
やり手なビジネスマン風の武装をやや解いたスティーブンは、ドラマのあとのニュースが始まってからやって来た。手にはお水の入ったグラスがある。
上着とネクタイを取り去った姿から放たれる色気にあてられてうっとりするのはいつものことで、スティーブンも全無視してくれる。愚か者はこの優しさに甘えてつけ上がり、行動をエスカレートさせてしまうのである。
しかしテーブルに肘をつき、両手で頬を押さえてイケメンのイケメン具合を楽しみながら、私は悲しい気持ちにもなっていった。
彼はきっと疲れているだろう。事務仕事か身体仕事か、どちらであっても1日じゅう仕事をして疲れないはずがない。
「大変だね」
このヘルサレムズ・ロットにも、もちろん行事はある。口さがない一部からは『旧文化』だと言われている、とかいう話もバイト仲間から聞いたことがあるけど、そうじゃない人たちからすると大切なものだ。
「大変って、僕がかい?」
「うん」
「仕事では特に何もなかったけど、……なにかおかしいか?」
「ううん、そうじゃなくて。また出かけるんでしょ?」
なにせ今日は12月25日。クリスマスは、宗教だとか信心だとかどんなキョウギなのだかも曖昧で縁がなくても、生まれたときから接しているものすごく大規模なイベントだ。
「僕が?今日、これから?」
きょとんとした彼に遅れて、私もまばたきした。
もしかするとクリスマスは彼の宗教には関係がない記念日なのかもしれない。その可能性に思い至れたのは質問したあとだ。遅い。
「だって、クリスマスじゃん。お仕事とか、お付き合いとかしてる人に……、なんだっけ、……テコ入れ?とかするんじゃないの?」
私も『好きな人と過ごすクリスマスの夜』なる奇跡的なまでに気持ちのいい響きを堪能したすぎて恋心を胸で炎上させているのだが、悲しいことに世の中には優劣の概念があり、この忙しき色男にも揺らがず刻まれるそれのうちでは私の位置は控えめに言っても高くない。だから1週間ほど前から荒波のように襲い来る面倒な女子っぽい悔しさと当たり前の落胆をレジ打ちにぶつけて心の準備を整えてきた。自分でも健気だと思う。ものっすごく健気だと思う。人生でこんなにも己を律したことがあるかと褒め称えたいくらい頑張った。
だって、憧れだ。私は彼といつだって一緒にいたいし、できるなら私がずっと慣れ親しんできた『クリスマス』を感じたい。プレゼントが嬉しいだけじゃ、全然たりない。
だが、無理なわけで。
努力しても、残念さは声に出てしまった。大人ぶる真似事だって出来が悪くて情けない。
脱力した私に、スティーブンが言った。
「いや、しないよ」
顔を上げる。
「え、なんでしないの?」
「緊急性を感じない」
「クリスマスだよ?」
「そうだな、クリスマスだ」
遅くなると言っていたから、もう少し夜更けに帰宅するのだとばかり考えていた。予想に反してこの時間に戻って来たのも、ただの小休憩だろうと思ったのに。
「出かけないの?」
「そう」
「このまま家にいる?」
「いるよ。ちょっと休んで、シャワーを浴びて、できれば君の話を聞きながら好きな酒でも飲んで、それから眠ろうかなと思ってた」
「クリスマスなのに?」
「クリスマスなのに」
他にやるべきことがあるのではと心配してしまうような、からりとした返答だった。
「誰かとご飯食べたりしてたんじゃないの?」
スティーブンが夕食を外で食べることは知らされていた。
ヴェデッドさんも家族と過ごすためにクリスマスはお休みで、私は2人がいないなら家でひとり寂しく涙を咀嚼するしかない。
そんなのは嫌だったので、バイト先の人たちと、店を使って(……ここの文化なのか、今日は絶対に営業しようとしなかった!)小規模なクリスマス会を開いた。メンバーは当然のごとく、身内と絶縁したり熱愛夫婦の旅行に置いて行かれたり直前に恋人からビンタを食らったりした『おひとりさま』軍団だ。狼の群れに紛れ込んだ私はスティーブンの存在を示唆した彼らに裏切り者とそしられたが、おいしかったし楽しかった。最終的には、『一緒に過ごしたい人がいるのにこんな集まりに来るなんて』と同情もされた。
「食べたよ。クラウスと18時から」
「今までずっとクラウスさんと一緒にいたの?」
「いや、食べた後は仕事に戻った。1時間くらい職場にいたかな」
「クリスマスなのに!?」
「うん、クリスマスなのに。やらなきゃいけないことができてね」
「……クリスマスなのに!?」
「クリスマスなのに」
記念日も行事も慣例も関係のない街ではあるし、私が思い描いていた彼の『テコ入れ(……で、合ってるのかな)』もお仕事のひとつと数えられるが、職場で机に向かってする仕事はおいしくもなく誰とも会話しない機械的な作業に近そうだ。気を遣って人を持ち上げねばならないトクベツなお付き合いよりは気楽なのだろうか。社会の仕事とはいまだ無縁の私には、それはとても寂しいことに感じられた。
「じゃあ、今日はもうお仕事はしない?という?」
「何もなければね」
「このまま家で私といっ、……い、いる?いてくれる?いてくださいますか?」
「いるよ」
聞き間違いではない。
両目と口が丸く開いた。
やがて、胸がくすぐったくて笑ってしまいそうになって、下を向いて頑張って表情を引き締める。今ならお箸が転がっても喜べるだろう。
「ふてくされて寝ちゃわなくてよかった……!」
ふへ、とダメダメな声が出た。
私とは反対に、スティーブンは複雑そうだ。
「心配になるほど予想外の誤解だった。だが、そうだよな」
「だって、クリスマスじゃん」
「……クリスマスだからなあ……」
こうして12月25日の夜は、お互いに想定外の形でのんびりと平穏に始まった。
楽しさは言葉では表せないくらいのもので、日記には『すっごくすっごく楽しかった』とだけしか書けず間抜けだったけど、何より鮮明に思い出せる記録だ。
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ドアが開いた。
テレビを見ていた私はぎょっとして立ち上がり、帰宅したスティーブンを出迎える。
「おかえりなさい」
「ただいま」
普段と変わらない挨拶には、ちょっと気を抜いたような、帰宅直後独特の緩さがある。この特別な姿を見られることが幸せで、今日も心が勝手に嬉しがった。
覗き見はしていないが、彼が自室に荷物を置いて、スーツの上着をハンガーに掛けるのがわかる。
私は先にひらけた部屋に戻って、見ていたドラマのエンディングテーマとスタッフロールに目をやった。
時刻は22時を少し過ぎたころだ。
やり手なビジネスマン風の武装をやや解いたスティーブンは、ドラマのあとのニュースが始まってからやって来た。手にはお水の入ったグラスがある。
上着とネクタイを取り去った姿から放たれる色気にあてられてうっとりするのはいつものことで、スティーブンも全無視してくれる。愚か者はこの優しさに甘えてつけ上がり、行動をエスカレートさせてしまうのである。
しかしテーブルに肘をつき、両手で頬を押さえてイケメンのイケメン具合を楽しみながら、私は悲しい気持ちにもなっていった。
彼はきっと疲れているだろう。事務仕事か身体仕事か、どちらであっても1日じゅう仕事をして疲れないはずがない。
「大変だね」
このヘルサレムズ・ロットにも、もちろん行事はある。口さがない一部からは『旧文化』だと言われている、とかいう話もバイト仲間から聞いたことがあるけど、そうじゃない人たちからすると大切なものだ。
「大変って、僕がかい?」
「うん」
「仕事では特に何もなかったけど、……なにかおかしいか?」
「ううん、そうじゃなくて。また出かけるんでしょ?」
なにせ今日は12月25日。クリスマスは、宗教だとか信心だとかどんなキョウギなのだかも曖昧で縁がなくても、生まれたときから接しているものすごく大規模なイベントだ。
「僕が?今日、これから?」
きょとんとした彼に遅れて、私もまばたきした。
もしかするとクリスマスは彼の宗教には関係がない記念日なのかもしれない。その可能性に思い至れたのは質問したあとだ。遅い。
「だって、クリスマスじゃん。お仕事とか、お付き合いとかしてる人に……、なんだっけ、……テコ入れ?とかするんじゃないの?」
私も『好きな人と過ごすクリスマスの夜』なる奇跡的なまでに気持ちのいい響きを堪能したすぎて恋心を胸で炎上させているのだが、悲しいことに世の中には優劣の概念があり、この忙しき色男にも揺らがず刻まれるそれのうちでは私の位置は控えめに言っても高くない。だから1週間ほど前から荒波のように襲い来る面倒な女子っぽい悔しさと当たり前の落胆をレジ打ちにぶつけて心の準備を整えてきた。自分でも健気だと思う。ものっすごく健気だと思う。人生でこんなにも己を律したことがあるかと褒め称えたいくらい頑張った。
だって、憧れだ。私は彼といつだって一緒にいたいし、できるなら私がずっと慣れ親しんできた『クリスマス』を感じたい。プレゼントが嬉しいだけじゃ、全然たりない。
だが、無理なわけで。
努力しても、残念さは声に出てしまった。大人ぶる真似事だって出来が悪くて情けない。
脱力した私に、スティーブンが言った。
「いや、しないよ」
顔を上げる。
「え、なんでしないの?」
「緊急性を感じない」
「クリスマスだよ?」
「そうだな、クリスマスだ」
遅くなると言っていたから、もう少し夜更けに帰宅するのだとばかり考えていた。予想に反してこの時間に戻って来たのも、ただの小休憩だろうと思ったのに。
「出かけないの?」
「そう」
「このまま家にいる?」
「いるよ。ちょっと休んで、シャワーを浴びて、できれば君の話を聞きながら好きな酒でも飲んで、それから眠ろうかなと思ってた」
「クリスマスなのに?」
「クリスマスなのに」
他にやるべきことがあるのではと心配してしまうような、からりとした返答だった。
「誰かとご飯食べたりしてたんじゃないの?」
スティーブンが夕食を外で食べることは知らされていた。
ヴェデッドさんも家族と過ごすためにクリスマスはお休みで、私は2人がいないなら家でひとり寂しく涙を咀嚼するしかない。
そんなのは嫌だったので、バイト先の人たちと、店を使って(……ここの文化なのか、今日は絶対に営業しようとしなかった!)小規模なクリスマス会を開いた。メンバーは当然のごとく、身内と絶縁したり熱愛夫婦の旅行に置いて行かれたり直前に恋人からビンタを食らったりした『おひとりさま』軍団だ。狼の群れに紛れ込んだ私はスティーブンの存在を示唆した彼らに裏切り者とそしられたが、おいしかったし楽しかった。最終的には、『一緒に過ごしたい人がいるのにこんな集まりに来るなんて』と同情もされた。
「食べたよ。クラウスと18時から」
「今までずっとクラウスさんと一緒にいたの?」
「いや、食べた後は仕事に戻った。1時間くらい職場にいたかな」
「クリスマスなのに!?」
「うん、クリスマスなのに。やらなきゃいけないことができてね」
「……クリスマスなのに!?」
「クリスマスなのに」
記念日も行事も慣例も関係のない街ではあるし、私が思い描いていた彼の『テコ入れ(……で、合ってるのかな)』もお仕事のひとつと数えられるが、職場で机に向かってする仕事はおいしくもなく誰とも会話しない機械的な作業に近そうだ。気を遣って人を持ち上げねばならないトクベツなお付き合いよりは気楽なのだろうか。社会の仕事とはいまだ無縁の私には、それはとても寂しいことに感じられた。
「じゃあ、今日はもうお仕事はしない?という?」
「何もなければね」
「このまま家で私といっ、……い、いる?いてくれる?いてくださいますか?」
「いるよ」
聞き間違いではない。
両目と口が丸く開いた。
やがて、胸がくすぐったくて笑ってしまいそうになって、下を向いて頑張って表情を引き締める。今ならお箸が転がっても喜べるだろう。
「ふてくされて寝ちゃわなくてよかった……!」
ふへ、とダメダメな声が出た。
私とは反対に、スティーブンは複雑そうだ。
「心配になるほど予想外の誤解だった。だが、そうだよな」
「だって、クリスマスじゃん」
「……クリスマスだからなあ……」
こうして12月25日の夜は、お互いに想定外の形でのんびりと平穏に始まった。
楽しさは言葉では表せないくらいのもので、日記には『すっごくすっごく楽しかった』とだけしか書けず間抜けだったけど、何より鮮明に思い出せる記録だ。
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