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本編最終話『フルネーム』に関連


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スティーブンは、暗い家に呑み込まれるように帰宅した。
深夜の帰宅には慣れている。カーテンはミセス・ヴェデッドが閉めており、掃除も洗濯も完璧だ。変わらない。どの場所でも一定に見える、と一部に噂されるスティーブンでも、やはり自宅は気が落ち着く。
この時間になると小腹が空くなと思いながら、今日のスティーブンの足は自然と、自室より先に広い空間に向いた。音のしない場所の明かりをつける。
近寄らなくともわかる。彼は知っている。しかし目をやった。
変わらない。何も変わらないのである。
ソファには誰も寝転んでいなくて、誰に声をかけて起こす必要もない。どんなに寝心地が良かったのか、もう少し詳しく聞いておけば良かったと思う。スティーブンには彼女の感覚がちょっとよくわからなかった。訊ねる機会ももうない。
仕事帰りの偽サラリーマンは飲み物を取りに行くのも億劫になってしまい、テレビもつけず、スーツのジャケットも脱がないままソファに身体を預けた。
客間だった部屋も、使う人間がいないだけで中身は変わらない。消えた同居人について、ミセス・ヴェデッドに事実と異なる説明をしたスティーブンの口調は冗談めいていて、ヴェデッドは了承し、おそらく彼女は、いつか部屋に女が戻ると思っているだろう。スティーブンは、そんなことはあり得ないとわかっていたので、多少の申し訳なさを覚えた。
携帯電話をひらいて、昼食には何を食べたっけな、と関係のないことを僅かに時間をかけて思い出す。
写真を撮った日付は、面倒で、邪魔で、厄介極まりなかった生活と、いつしか気を許したくなっていた、ぬくいなにかへの呆気なさを感じさせた。
(……俺、かなり腹が減ってるんだな)
空腹だから意味もなく感傷的になるのだろう。
彼は凝った身体を動かした。
このまま、寝心地が良いらしいソファでひと眠りしてみたいような気もした。

と、見下ろす先で見事に夜半のうたた寝を披露する異世界人を眺め、スティーブンは自分の可愛らしかった一瞬を回想した。
彼女は小賢しく、ご丁寧にも身体ごと横を向き、腕に顔をうずめるように室内灯対策を打って、つけっぱなしの明かりの下で眠り続ける。
時刻は深夜と呼んで違和感のないころだ。小腹が空いているような、空いていないような。
スティーブンはお行儀を無視して、ソファの肘掛けに軽く腰かけた。
の体型は『スタイルはいい!スタイルは!』と自負するだけある線を描く。全体的に細身であり、スティーブンが服の裾から覗く脚に手を伸ばし、彼女の足首を掴むことは容易かった。御誂え向きに素足だ。男女のつくりや体格の差が明らかなため、良いことなのか悪いことなのか、彼女の足首はスティーブンにとって掴みやすかった。
急に足を掴まれたが驚いて目を覚ます。悪夢かホラーか強盗か、身をすくめて短く声を上げるのとほぼ同時に、彼は掴んだ足をくすぐった。
「ふぁー!!うわっ、あわわうわあ!」
「ただいま」
「え!?お、おかえりなさ、わー!!」
力の差は明白。彼女は襲ってきたくすぐったさから逃げたいあまりに座面から転げ落ちかけた。
「やだー!!」
「あはははは」
「うわっ、うわー!やめて!なんで!?やめてください!すいません!」
スティーブンが解放すると、悲痛な笑い声が荒い呼吸に変わった。彼女は息も絶え絶えといった様子である。
「こんなに笑ってる君は初めて見たなあ」
「違うやり方で笑わせて!!」
半泣きで訴えるを面白く感じる。
くすぐられて笑いすぎて泣きそうな表情だけが面白いのではない。『変わらない』ものが変わり、変わったまま『変わらなく』なることが面白い。
スティーブンがおまじないから解放されてしばらく後、レオナルド・ウォッチは彼に言った。あなたの家には何が無い?
何も変わらない。元に戻っただけだ。彼がそう言わなかったのは、誰に問われても同じだったのか、それともあの少年が相手だったからか。だとするならば、あれは末恐ろしい少年である。
スティーブンはに訊いた。
「なにか軽く食べられるものはあるかな」
「ヴェデッドさんが作ってくれたミネストローネがあるよ。夕ご飯はなんだったの?」
「18時にどんちゃんトリオとエスニック」
「『どんちゃんトリオ』?」
本人たちにとっては不本意な一括りにされがちの3人を彼が挙げると、納得顏が頷いた。
「18時だったらお腹すくよね」
「うん。少しね」
「パンもあっためる?私やろうか?……やらせていただいてもいいですか?」
「ありがとう」

時間外れの食事の匂いがふわりと漂う。
ふたりは何てことのない話をして、スティーブンは、「そうだった」と手を止めた。
「あのソファ、どんな感じで寝心地が良いんだ?」
ソファの常連客は首を傾げる。
スティーブンが彼女の説明に共感する部分は多くはなかった。
そのうち問いかけ直しても、きっとよくはわからないだろう。

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