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スティーブンの寝室にお邪魔できるようになったあと
*
スティーブンが私を見る。
夜の時間はゆっくり進み、ついさっきシャワーを済ませた私は濡れた髪をしっかり乾かしてから広い空間に戻った。スティーブンはテレビを見ており、緊張などまるでない草食動物のような雰囲気でいる。
私がやって来たと気づくと、彼はそのまま首をめぐらせた。目が合い、指先で招かれたが、本当に自分が呼ばれているのかいつも確かめたくなり振り返る。私に見えるぶんには誰もいなかったので、私が呼ばれているのだろう。こちらの戸惑いをしっかり見透かすイケメンが、『目が合ってるだろ』と言いそうな顔をした。
彼は座り、私は立つ。私はまた何かしてしまったのだろうか。用事がわからず今日の記憶をコマ送りで回想したが、自覚なしに変なことをして迷惑をかけたのかもしれない。
これまでに落とされた記憶は全然ないが、落ちるとも知れない雷に身構えて小さくなった私に、スティーブンは予想だにしなかった台詞を向けた。
「悪戯されるのとお菓子を差し出すのなら、どっちがいい?」
引き結んだ唇を緩める。どっちって、なにが?首を傾げた私の姿は間抜けだった。彼は丁寧に言い直した。
「Trick or Treat. ハロウィンはそっちでも有名だって聞いたけど、興味はなかった?」
私は言語翻訳の機能に助けられなければ英語のスピーキングを理解できない。逆に言えば翻訳機能がある限りすべての英語(……他の外国語も?)が日本語として理解できてしまうのだが、外国語のままで通じる部分は外国語のままで、言葉の間に言語的な意味での齟齬や誤解は生まれない。すごく不思議だ。
トリックオアトリート。ハロウィンナイト。
興味がなくても雑多な文化が入り混じる日本で学生をやっていれば、嫌ではないが、嫌でも触れる。
面白いイベントだと思うから、私も角が立たない程度にテキトーに参加したりしていた。クラスメイトが仮装したりフェイスペイントを施して通学し、生活指導を受けていたのも何度か見かけた。
発祥がどこの地なのかをまるっと忘れる私は、とりあえず手持ちのお菓子を思い浮かべた。手づくりのお菓子は昨日焼いて配ってしまい、太ったら嫌だから市販のスイーツも最近は控えている。今日は冷蔵庫に何もなかった。
「ごめんなさい、お菓子持ってなくて……」
というか、スティーブンってお菓子を欲しがるんだ!?びっくりが後からきた。緩い口がぽろりと正直になってしまい焦るも、彼は気にしなかった。
「それは残念だな。それじゃあ、すまないけど悪戯するしかない」
「ええっ?」
「ないんだろ、菓子」
「ないです」
スティーブンが仕掛ける『悪戯』は想像できない。ザップさんなら靴に画びょうを入れそうだとイメージが湧くのに、ユーモアに溢れるとは言え、こんな子供っぽい話からは縁遠く思える男に突然悪戯を宣言されてもどうしたらいいのかわからない。画びょうよりはずっと怖そうだ。必死に『自分ならどうするか』と思考を重ねようとしてみたが、何も思いつかなかった。まず、悪戯とはどこまでを指すのか。肩に手を置いて振り返った相手の頬に指を当てるのは悪戯だろうか。寝ている間に手にお絵描きをするのは悪戯っぽいかもしれない。もしも手にお絵描きをされたらバイトのときに困りそうだ。消せばいいと言われるだろうけど、スティーブンからもらったものは有形無形を問わず大切にしたい。スティーブンが描く絵にも並々ならぬ興味がある。消すなんてとんでもない。でも包帯を巻いて隠すのはやり過ぎな発想だ。
この大人が考える『悪戯』とは何か。
期待と不安を込めて見つめるうちにイケメンの魅力にあてられ、首の付け根から頬にかけてがポッと熱を持つ。血行が良くなって、スティーブンからは赤みが見えているはずだ。むずむずした心を宥め、両手で口元を隠す。不明瞭に訳のわからない声を洩らしてしまいそうだった。
「め、目をそらして」
「僕は君を見つめていたい」
「ヒイッ!今日もありがとうございます!」
頬から上も赤くなった。シャワーを浴びたあとなのに汗が滲みそうだ。
悪戯宣告をされても、内容の予想がつかなすぎて警戒しづらい。しかし、じり、と後ずさった。見つめ合い続けたいけど照れくさくてときめいてたまらない胸の奥をスティーブンから遠ざける。
「どんな悪戯なの?あ、あの、虫とかはちょっとやだ」
「怖がらせたりはしないよ」
しないだろうなとわかってはいたが、万一偽物の虫をそっと忍ばされたりしたら半狂乱になる。
拙く探る限り、悪質と呼ぶに値する悪戯は行われなさそうだ。私が虫のフォルムを嫌悪して飛び上がっても彼の娯楽にはならない。悪戯はお菓子を用意していなかったことへのお仕置きなようだから、嫌がらせに近くてもおかしくはないが、どうせ嫌がらせをするならもっとうまく面白くやるだろう。1週間目を合わせてくれないだとか、そういうことを。切なくなってきた。悪戯を超えて拷問である。
時計の針はのろのろと、しかし確実に寝る時間を近づけては告げる。スマホを使って『悪戯』『やり方』『例』で検索をかけていた私も、答えを得られない作業に飽きたせいか眠気を強く感じた。
「寝よっかな」
小さなあくびを殺して言う。スティーブンも、のんびりお水を飲み干した。
「僕もそろそろ寝るか」
こんな些細な一致だって嬉しくて、喉の奥のずっと先が甘くなる。こっそり頬を緩めた。
グラスを洗い、拭いて、眠る準備を整える。片付けの途中、何も持たないときにそっと彼に近づいて自分の恋のキモさを再感したりもした。
それから私は「おやすみなさい」と言った。部屋の前まで私を送ってくれたスティーブンは穏やかな顔で私の背に手を当て、きっと早寝を促した。
そう思ったのだ。
ドアノブが不自然にがちゃりと何かに引っかかる前は。
気のせいかとやり直したが、ダメだった。
開かない。
2回試したが、何度も何度も開けて閉じて生活していた(……させていただいていた)部屋のドアは頑なに動かない。まさか私気づかないうちに壊してた!?指先から血がひいた。ヤバい。人の家なのに。
自分の雑さが走馬灯のように一瞬で頭を駆け回り、罪悪感と危機感に弾かれてスティーブンを見上げる。『開かなくてどうしよう』と言おうとして、呼びかけの「スティーブン!あの、ええと」の部分で詰まった。
スティーブンは、小さなポケットから取り出した物を私の目の前で軽く揺らした。ぶら下がるいくつかがこすれ合って可憐な音を立てた。
「あの、なにそれ?」
「鍵」
打てば響く、というのはこんなリズムのことだろうか。私にも、鍵にしか見えない。
3つか4つの鍵が細いキーホルダーに通され、あちらの動きに合わせてゆらゆらする。鍵とドアノブにどのような関係があるのか思い出すのには少々時間がかかった。
(閉められた)
今までは気にもしなかった扉の表面に急いで指を這わせる。敏感な神経が小さな穴を探り当てた。背の低い子供でもなければわからない、私たちにとっての死角にある。ここはかつてお客さん用の部屋だったが、心配性のお客さんが一時荷物を置いて出かけるときなどに防犯を気にするかもしれないからと鍵のある一室を選んでいたのだろうか。自宅で事件が起こった際に最有力容疑者を閉じ込めておくこともできる、と考えたところで私たちの呪われたつながりと笑えないごたごたが蘇って全身で納得した。見方を穿ち過ぎだし、誤解とはわかるのだが、この男ならばやるときはやりそうだ。
「あの、なんで閉めたの?」
答えはひとつ。
「悪戯」
呆然としてもう一度ドアノブをがちりと言わせる。どうやっても開かない仕切りを乗り越えないと、私は眠れない。私は眠りたい。
スティーブンの持つ鍵に伸ばした手が空を切った。身長の差は一目瞭然かつ歴然たるもので、ひょいと手を持ち上げて頭上へ逃げられては届かない。
徹夜が悪戯か。
眠気は意識するとたくさんやってくるもので、私はすごく眠くなっている。ソファででもいつものお昼寝通り爆睡できそうだ。イベントを把握せずお菓子を用意していなかった私の不備への罰としては可愛いものなのだろう。
だが、理解できてもベッドに横たわりたい私は、絶対に無理だとわかっていながらも背伸びした。絶対に無理だとわかっていながらも無駄に足掻く私を見て彼が「あはは」と非情に笑った。
「私ベッドで寝たい!」
スティーブンの家のベッドは寝心地がいい。元の世界の私のものと比較すると格段に快適で疲れがとれる。必要に駆られるほど疲れる日常ではないけど(……近くにヤバい社会人がいるから余計に思う)、リセットするに越したことはない。だから開けてほしい。
強奪を諦めた手で彼の服を力なく掴んだ。普段は照れて恥ずかしくてドキドキしてしまって近寄ることもままならないが、触れ合いたくないわけではなく、それどころかいつだってひっつきたい。
しかし、できてしまうと身体の芯がキュンとして命に関わる。
生存本能に従って離そうとした手があちらの手に包まれた。
「君はもうひとつ、気持ちのいいベッドを知っているだろ?」
「は」
スティーブンは私の隙を突いて鍵をポケットに戻した。完全に奪い取れなくなった。
考えを間違えていなければ、あちらの言う『気持ちのいいベッド』とは、秘密組織だとかお仕事だとかに人生を捧げていそうな男にハイクオリティな睡眠を提供するためのあのベッドだ。彼の寝室にあるアレだ。たまに、たまーに土下座覚悟でもぐり込ませてもらうが、興奮するしテンションが上がるし胸はときめくし全身がぽかぽかするし、頭も心も溶けてポタージュになってしまいそうなくらい嬉しくて緊張してそわそわと落ち着かない。その割にはとてもぐっすり眠れてしまって感動するやらもったいないやら、乙女心は不条理だ。邪魔になりたくなくて(……取り返しようもなく邪魔なのはわかっているけど!)隅っこのほうで目を閉じるようにしても朝起きたら距離が近づいていて、いつも以上に単純でバカな睡眠時の私がご迷惑をおかけしてすみませんと情けなくなりもする。邪魔して本当にごめんなさい。
好きな人の気配を間近で感じる目覚めは、朝から血圧が上がる。眠る前と同じように、幸せで嬉しくてどうしようもなくなるのだ。
そんな限界を振り切るくらいの一大出来事は、3日くらいかけて決心を固めなくては挑めない。
顔が熱くなる。
悪戯?これが悪戯?私の精神はかき乱され舌が回らなくなった。
「それって、いっ、一緒に寝ていいってこと?これが悪戯?ご褒美じゃなくて?ただ私が幸せなだけじゃん!」
おたおたすると、スティーブンが私の手を引いて数歩、歩こうとした。私は咄嗟にその場で足を踏ん張った。
「こんなに焦ってどうしようもなくなって目を回してるんだから、君への『悪戯』としては大成功じゃないか?」
「う……」
こちらを知り尽くす彼の計画通り、効果は抜群だ。
でもこの悪戯だと寝る場所が減ってスティーブンが損するのでは。
彼に気にする様子はない。この男なら他にも茶目っ気あるたくらみをごまんと生み出せそうなのに、あえて身を削るアイディアを遂行しようとするなんて、外国のハロウィンとは過酷なものだ。
私は長い時間をかけて敗北を呑み、飴のひとつも持っていなかった自分に感謝すればいいのか文句を言えばいいのかわからない状態でスティーブンの寝室に連行された。
徹底した悪戯は急な添い寝のみではおさまらず、掛け布団で私をみのむしにして抱き込むことにまで及び、色々な意味で逃げられない私が「あわあわわ」と泣き言を漏らすのを、彼はイケメンだけが音にできる形容しがたいカッコよさで笑ってくださった。
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スティーブンが私を見る。
夜の時間はゆっくり進み、ついさっきシャワーを済ませた私は濡れた髪をしっかり乾かしてから広い空間に戻った。スティーブンはテレビを見ており、緊張などまるでない草食動物のような雰囲気でいる。
私がやって来たと気づくと、彼はそのまま首をめぐらせた。目が合い、指先で招かれたが、本当に自分が呼ばれているのかいつも確かめたくなり振り返る。私に見えるぶんには誰もいなかったので、私が呼ばれているのだろう。こちらの戸惑いをしっかり見透かすイケメンが、『目が合ってるだろ』と言いそうな顔をした。
彼は座り、私は立つ。私はまた何かしてしまったのだろうか。用事がわからず今日の記憶をコマ送りで回想したが、自覚なしに変なことをして迷惑をかけたのかもしれない。
これまでに落とされた記憶は全然ないが、落ちるとも知れない雷に身構えて小さくなった私に、スティーブンは予想だにしなかった台詞を向けた。
「悪戯されるのとお菓子を差し出すのなら、どっちがいい?」
引き結んだ唇を緩める。どっちって、なにが?首を傾げた私の姿は間抜けだった。彼は丁寧に言い直した。
「Trick or Treat. ハロウィンはそっちでも有名だって聞いたけど、興味はなかった?」
私は言語翻訳の機能に助けられなければ英語のスピーキングを理解できない。逆に言えば翻訳機能がある限りすべての英語(……他の外国語も?)が日本語として理解できてしまうのだが、外国語のままで通じる部分は外国語のままで、言葉の間に言語的な意味での齟齬や誤解は生まれない。すごく不思議だ。
トリックオアトリート。ハロウィンナイト。
興味がなくても雑多な文化が入り混じる日本で学生をやっていれば、嫌ではないが、嫌でも触れる。
面白いイベントだと思うから、私も角が立たない程度にテキトーに参加したりしていた。クラスメイトが仮装したりフェイスペイントを施して通学し、生活指導を受けていたのも何度か見かけた。
発祥がどこの地なのかをまるっと忘れる私は、とりあえず手持ちのお菓子を思い浮かべた。手づくりのお菓子は昨日焼いて配ってしまい、太ったら嫌だから市販のスイーツも最近は控えている。今日は冷蔵庫に何もなかった。
「ごめんなさい、お菓子持ってなくて……」
というか、スティーブンってお菓子を欲しがるんだ!?びっくりが後からきた。緩い口がぽろりと正直になってしまい焦るも、彼は気にしなかった。
「それは残念だな。それじゃあ、すまないけど悪戯するしかない」
「ええっ?」
「ないんだろ、菓子」
「ないです」
スティーブンが仕掛ける『悪戯』は想像できない。ザップさんなら靴に画びょうを入れそうだとイメージが湧くのに、ユーモアに溢れるとは言え、こんな子供っぽい話からは縁遠く思える男に突然悪戯を宣言されてもどうしたらいいのかわからない。画びょうよりはずっと怖そうだ。必死に『自分ならどうするか』と思考を重ねようとしてみたが、何も思いつかなかった。まず、悪戯とはどこまでを指すのか。肩に手を置いて振り返った相手の頬に指を当てるのは悪戯だろうか。寝ている間に手にお絵描きをするのは悪戯っぽいかもしれない。もしも手にお絵描きをされたらバイトのときに困りそうだ。消せばいいと言われるだろうけど、スティーブンからもらったものは有形無形を問わず大切にしたい。スティーブンが描く絵にも並々ならぬ興味がある。消すなんてとんでもない。でも包帯を巻いて隠すのはやり過ぎな発想だ。
この大人が考える『悪戯』とは何か。
期待と不安を込めて見つめるうちにイケメンの魅力にあてられ、首の付け根から頬にかけてがポッと熱を持つ。血行が良くなって、スティーブンからは赤みが見えているはずだ。むずむずした心を宥め、両手で口元を隠す。不明瞭に訳のわからない声を洩らしてしまいそうだった。
「め、目をそらして」
「僕は君を見つめていたい」
「ヒイッ!今日もありがとうございます!」
頬から上も赤くなった。シャワーを浴びたあとなのに汗が滲みそうだ。
悪戯宣告をされても、内容の予想がつかなすぎて警戒しづらい。しかし、じり、と後ずさった。見つめ合い続けたいけど照れくさくてときめいてたまらない胸の奥をスティーブンから遠ざける。
「どんな悪戯なの?あ、あの、虫とかはちょっとやだ」
「怖がらせたりはしないよ」
しないだろうなとわかってはいたが、万一偽物の虫をそっと忍ばされたりしたら半狂乱になる。
拙く探る限り、悪質と呼ぶに値する悪戯は行われなさそうだ。私が虫のフォルムを嫌悪して飛び上がっても彼の娯楽にはならない。悪戯はお菓子を用意していなかったことへのお仕置きなようだから、嫌がらせに近くてもおかしくはないが、どうせ嫌がらせをするならもっとうまく面白くやるだろう。1週間目を合わせてくれないだとか、そういうことを。切なくなってきた。悪戯を超えて拷問である。
時計の針はのろのろと、しかし確実に寝る時間を近づけては告げる。スマホを使って『悪戯』『やり方』『例』で検索をかけていた私も、答えを得られない作業に飽きたせいか眠気を強く感じた。
「寝よっかな」
小さなあくびを殺して言う。スティーブンも、のんびりお水を飲み干した。
「僕もそろそろ寝るか」
こんな些細な一致だって嬉しくて、喉の奥のずっと先が甘くなる。こっそり頬を緩めた。
グラスを洗い、拭いて、眠る準備を整える。片付けの途中、何も持たないときにそっと彼に近づいて自分の恋のキモさを再感したりもした。
それから私は「おやすみなさい」と言った。部屋の前まで私を送ってくれたスティーブンは穏やかな顔で私の背に手を当て、きっと早寝を促した。
そう思ったのだ。
ドアノブが不自然にがちゃりと何かに引っかかる前は。
気のせいかとやり直したが、ダメだった。
開かない。
2回試したが、何度も何度も開けて閉じて生活していた(……させていただいていた)部屋のドアは頑なに動かない。まさか私気づかないうちに壊してた!?指先から血がひいた。ヤバい。人の家なのに。
自分の雑さが走馬灯のように一瞬で頭を駆け回り、罪悪感と危機感に弾かれてスティーブンを見上げる。『開かなくてどうしよう』と言おうとして、呼びかけの「スティーブン!あの、ええと」の部分で詰まった。
スティーブンは、小さなポケットから取り出した物を私の目の前で軽く揺らした。ぶら下がるいくつかがこすれ合って可憐な音を立てた。
「あの、なにそれ?」
「鍵」
打てば響く、というのはこんなリズムのことだろうか。私にも、鍵にしか見えない。
3つか4つの鍵が細いキーホルダーに通され、あちらの動きに合わせてゆらゆらする。鍵とドアノブにどのような関係があるのか思い出すのには少々時間がかかった。
(閉められた)
今までは気にもしなかった扉の表面に急いで指を這わせる。敏感な神経が小さな穴を探り当てた。背の低い子供でもなければわからない、私たちにとっての死角にある。ここはかつてお客さん用の部屋だったが、心配性のお客さんが一時荷物を置いて出かけるときなどに防犯を気にするかもしれないからと鍵のある一室を選んでいたのだろうか。自宅で事件が起こった際に最有力容疑者を閉じ込めておくこともできる、と考えたところで私たちの呪われたつながりと笑えないごたごたが蘇って全身で納得した。見方を穿ち過ぎだし、誤解とはわかるのだが、この男ならばやるときはやりそうだ。
「あの、なんで閉めたの?」
答えはひとつ。
「悪戯」
呆然としてもう一度ドアノブをがちりと言わせる。どうやっても開かない仕切りを乗り越えないと、私は眠れない。私は眠りたい。
スティーブンの持つ鍵に伸ばした手が空を切った。身長の差は一目瞭然かつ歴然たるもので、ひょいと手を持ち上げて頭上へ逃げられては届かない。
徹夜が悪戯か。
眠気は意識するとたくさんやってくるもので、私はすごく眠くなっている。ソファででもいつものお昼寝通り爆睡できそうだ。イベントを把握せずお菓子を用意していなかった私の不備への罰としては可愛いものなのだろう。
だが、理解できてもベッドに横たわりたい私は、絶対に無理だとわかっていながらも背伸びした。絶対に無理だとわかっていながらも無駄に足掻く私を見て彼が「あはは」と非情に笑った。
「私ベッドで寝たい!」
スティーブンの家のベッドは寝心地がいい。元の世界の私のものと比較すると格段に快適で疲れがとれる。必要に駆られるほど疲れる日常ではないけど(……近くにヤバい社会人がいるから余計に思う)、リセットするに越したことはない。だから開けてほしい。
強奪を諦めた手で彼の服を力なく掴んだ。普段は照れて恥ずかしくてドキドキしてしまって近寄ることもままならないが、触れ合いたくないわけではなく、それどころかいつだってひっつきたい。
しかし、できてしまうと身体の芯がキュンとして命に関わる。
生存本能に従って離そうとした手があちらの手に包まれた。
「君はもうひとつ、気持ちのいいベッドを知っているだろ?」
「は」
スティーブンは私の隙を突いて鍵をポケットに戻した。完全に奪い取れなくなった。
考えを間違えていなければ、あちらの言う『気持ちのいいベッド』とは、秘密組織だとかお仕事だとかに人生を捧げていそうな男にハイクオリティな睡眠を提供するためのあのベッドだ。彼の寝室にあるアレだ。たまに、たまーに土下座覚悟でもぐり込ませてもらうが、興奮するしテンションが上がるし胸はときめくし全身がぽかぽかするし、頭も心も溶けてポタージュになってしまいそうなくらい嬉しくて緊張してそわそわと落ち着かない。その割にはとてもぐっすり眠れてしまって感動するやらもったいないやら、乙女心は不条理だ。邪魔になりたくなくて(……取り返しようもなく邪魔なのはわかっているけど!)隅っこのほうで目を閉じるようにしても朝起きたら距離が近づいていて、いつも以上に単純でバカな睡眠時の私がご迷惑をおかけしてすみませんと情けなくなりもする。邪魔して本当にごめんなさい。
好きな人の気配を間近で感じる目覚めは、朝から血圧が上がる。眠る前と同じように、幸せで嬉しくてどうしようもなくなるのだ。
そんな限界を振り切るくらいの一大出来事は、3日くらいかけて決心を固めなくては挑めない。
顔が熱くなる。
悪戯?これが悪戯?私の精神はかき乱され舌が回らなくなった。
「それって、いっ、一緒に寝ていいってこと?これが悪戯?ご褒美じゃなくて?ただ私が幸せなだけじゃん!」
おたおたすると、スティーブンが私の手を引いて数歩、歩こうとした。私は咄嗟にその場で足を踏ん張った。
「こんなに焦ってどうしようもなくなって目を回してるんだから、君への『悪戯』としては大成功じゃないか?」
「う……」
こちらを知り尽くす彼の計画通り、効果は抜群だ。
でもこの悪戯だと寝る場所が減ってスティーブンが損するのでは。
彼に気にする様子はない。この男なら他にも茶目っ気あるたくらみをごまんと生み出せそうなのに、あえて身を削るアイディアを遂行しようとするなんて、外国のハロウィンとは過酷なものだ。
私は長い時間をかけて敗北を呑み、飴のひとつも持っていなかった自分に感謝すればいいのか文句を言えばいいのかわからない状態でスティーブンの寝室に連行された。
徹底した悪戯は急な添い寝のみではおさまらず、掛け布団で私をみのむしにして抱き込むことにまで及び、色々な意味で逃げられない私が「あわあわわ」と泣き言を漏らすのを、彼はイケメンだけが音にできる形容しがたいカッコよさで笑ってくださった。
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