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こうして反射的に身体が目覚めるのは、生まれてから今日まで同じ感覚を繰り返しているからなのだろうか。それとも私の寝起きが特別に良いとか?体内時計が正確、的な。
……などと戯けたことを考えながら小さく伸びをする。
深くて優しい高級なベッドシーツみたいな笑い声が私の耳元をくすぐった。
「おはよう」
「おはよー……」
八割九分の確率で体内時計を握りしめて産まれたはずのスティーブンは、今日も今日とて私より早起きだった。私の乱れた髪を指で梳いて、ついでにゆるく撫でてくださる。朝イチで感じるぬくもりと手の大きさが嬉しくて唇をむずむずさせると、彼は緩んだ頬も指先でくすぐった。
スキンケアを怠らずに生きようと決意を新たにするのはこういう瞬間だ。
きっと私は、この男の歴代脈々と連なるハイソサエティの雛壇を優雅に飾りしプリンセスには遠く及ばない。けれど、だからって初めから勝負を放棄するのは私のプライドが許さない。私はいつだって全力で恋をする。自分を磨く。相性の良い化粧品をさがしときめく洋服を見つけて着飾って、誇れる自分でいたいと思う。
たとえ歴代のコイビトたちにひとつたりとも勝る部分がないとしても、私が努力を放棄する理由にはならない。
というわけで、次のお給料の使い道はちょっぴし高級なスキンクリームにしようと決めた。
眼をかっぴらいてスティーブンを眺めていると、視線がうるさかったのか、指先でほっぺをやわやわと揉みほぐされた。
「どうかしたか?」
「おきゅーりょーのつかいみち考えてた」
「そうかい」
スティーブンはさらりと相槌を打った。手も離れてしまう。
名残惜しく視線で追いかける。気づいているのかいないのか、焦らし上手なテクニカルラブマジシャンは何事もないようにあくびを噛み殺した。
ふと、そういえば今日は朝から午後までのシフトが組まれているのだったと思い出す。そうだった。今月に入って通算五回も相手の浮気が原因で破局を繰り返した同僚が闇の休暇を取った穴埋めに開店準備をしないといけないんだった。
がばりと起き上がってベッドから降りる。何気なく見たデジタル時計には今日の日付が刻まれていた。
……なんだっけ、何かしようと思ってたんだけど。
スティーブンより早く出る必要があるので、手早く牛乳とシリアルで朝食を済ませる。食べ終わってからハムとチーズと食パンを見つけて落胆した。多少の観察眼と知性があればこれを組み合わせてバランス栄養モーニングと洒落込めただろうに、私というやつは。
ぱたぱたと準備をして、ファンデをはたき、念入りに自然なふうのアイラインを引き、さり気なさを装う計算づくのチークを気をつけて散らす。すべてが矛盾する、それこそがお化粧なのである。
満足いく出来にふんすと笑みを浮かべれば、本日の接客スタイルの完成だ。よしよし、売り上げ倍増間違いなし!なんちゃって、前向きに考えるのが楽しく生きるコツなのだ。
「スティーブン!いってくるね!スティーブンもいってらっしゃい!」
「うん、ありがとう。きみも、今日は堕落王が何かするかもしれないから気をつけて過ごせよ」
堕落王フェムト。
彼がわくわくして何かを巻き起こすかもしれない日とはいったい。
首を傾げて、ようやく思い出した。そうだ、今日の日付は4月1日。
「そういえばスティーブン、私、恋しちゃったんだった!いってきます!」
いよいよ時間が危ないので靴をつっかけ、大慌てで家を出る。
「……ずっと前からしてなかったか?」
扉が閉まる直前、この男にしか許されない台詞が聞こえた気がしたが、さすがに聞き間違いだろう。
床を磨きなおしたり物の補充をしたりしていると、あっという間に開店時間がやってくる。
エイプリルフール限定の催しものとして『一番ありえそうな嘘』をついてみせた人にはボーナスを出すという店長の気まぐれに色めき立ったスタッフたちは円陣を組みそれぞれ考えを言い交わした。
開店直後のカフェにお客さんの気配はない。フロアの中央で堂々と腕を組み立ちはだかる店長の前に進み出ると、一番目の挑戦者たる私に不敵な笑みが向けられた。
私は言った。
「フラれました!」
「はい終わり。むしろ減俸」
「早い!!」
「ありえんやろ。このヒトヅマニアなら百ゼロで理解するけどあんたは完全に嘘」
「店長……」
流れ弾に被弾した同僚は泣いていた。
「フラれなさそうってことですか?」
ありえそうな嘘として破局を翳し即行で却下されたならつまりそれは私がスティーブンにフラれるのは明らかに『ありえなさそう』と判断されたという意味なのでは!?
目を輝かせたせいか、店長はぱんぱんと手をたたいて私を避けると次のスタッフの嘘に取り掛かった。完全に無視する態勢だ。ちなみに次のスタッフは「え?嘘に見せかけた自虐かと思った」と満場一致でボーナスを貰っていた。彼は泣いていた。
ちらほらと顔を見せる常連客をさばく傍ら、呆気なく放り捨てられた自分のウソを考える。
ぶっちゃけリアリティあると思うんだけどなあ、と。
想像はしたくないけど言われてみれば頷ける話な気が(……自分では)するのだが。店長のしらけた顔が財布に刺さる。
まあ、あの発言でボーナスが出ても胸が複雑すぎるから逆にこれで良かったのかもしれない。
どれくらい貰えたのかはわからないけど汚れた手段で心を切り売りして得た感じがしてものすごく罪悪感を刺激されるし、スキンケアグッズを買っても使うたびにお金の出どころと稼いだ経緯が心とお肌を刺激してすっごくかさかさになりそうだもん。
満足いくまでテーブルを磨き上げ、一息つく。
休息の合間を縫うようにドアベルがからりんと音を立てた。
「いらっしゃいま、……スティーブン!」
何度見ても見飽きない姿があった。
ぱっと顔を輝かせた私に、スティーブンはのんびりした変わらない微笑みをよこす。もしも私が犬だったら今ごろしっぽの振りすぎで尾?骨を複雑骨折間違いなしだ。
「どうしたの?」
「君の顔が見たくなってね。今日のおすすめは何?」
「え、え、あの、アボカドグラタンです」
「じゃあそれをひとつ頼むよ。コーヒーも良いかな」
「わかった」
エプロンからメモを引っ張り出す。
決められたとおりの記号を走り書きして厨房へ引き返し、ぺたりとカウンターに貼り付ける。注文票を見た同僚に「コーヒーはブレンドで良いの?」と訊かれて「うん」と勝手に頷いてからハッとした。ブレンドで良いのか!?
「聞いてなかった!聞いてくる!」
何もいれずに飲むところをよく見るから今回も特に必要なかろうと判断してしまったが、当店はカフェメニューも豊富なのである。万が一スティーブンが『シュガー&シュガーメープルクリームカナディアンアイスカフェフロート』をお望みだったら大変だ。そんなスティーブンを想像するのも大変だけど、私は世の中にはありえないなんてことはありえないのだと身をもって理解済みだ。
テーブル席に戻ってちゃんと聞き直した。
「あったかい普通のコーヒーを食後に、でいい?」
「うん」
よかった、合ってた。
厨房に大きく首を振ってみせる。
これが阿吽の呼吸でうんにゃらかんにゃらな話だったらサイコーなのに、ただのど忘れだからひたすらに切なかった。私でも振り分けられたお仕事はこなせているんだぞと見せつける機会でもあるのに、良い格好をするどころかぽんこつっぷりを曝け出している。
「ところで。朝の話なんだけど」
「ふぁ!……朝?」
しょぼくれてたのも忘れてびっくりした。
「君さえよければ、誰に『恋しちゃった』のか教えてくれないか?」
「えっ?」
最近はスティーブンに恋して以来ほかの男にまったく食指が働かない状態が続いているが、そういう答えを求められているのではなさそうだった。
朝ってなんだっけ。
自分の笑顔が曖昧になる。朝。
すごく急ぎ足で家を出た。起き際に日付を見た。4月1日だった。エイプリルフールだから嘘をつかないと損なようで、軽い気持ちですぐにバレる嘘をついてみた。
あ、と思い出して口を開いた瞬間に横から大きな笑い声に失礼された。
「ホァーッ!!アンタがフッとったんかい!!」
「店長!?」
「せやかてアンタ、『アタシ恋しちゃったの』言うて出てってそのままやろ。そら恋人さんも不安になるわな。かわいそ」
「まさにね。なあ、君の心はもちろん自由だよ。僕も君を籠に閉じ込めるなんて無粋な真似はしないさ。でも、せめて誰に恋をしたのかくらいは知る権利があるんじゃないかな。君の恋人として」
スティーブンはふっと自嘲のふちを掠めるように小さなため息を洩らした。
「もう、揺らいだ地位かもしれないけれど」
整った唇が無理やり模った笑みは、その眼差しと相まってひどく胸を締めつける。
もしもこの空間が、いやこの世界が多数決を全てとする仕組みであったなら、異界の奥の奥の深淵よりも昏い場所で永遠に眠り続ける異形の生きものでさえ余さず全員がスティーブンの味方についたはずだ。一方で私は破滅ロードを赤い靴で滑稽にダンシング。そんな喜劇的結末がゴールテープを携えて待ち構える光景が見える。
あのときの私は駆け足で、可愛いアンクルストラップ付きのハイヒールを履く余裕もなくつっかけパンプスで妥協しちゃうぐらいに急いでいたから反応は見なかったけど、まさかスティーブン、信じちゃったり、して、ないよね。
「ち、ちがうよスティーブン。私が一番好きなのはスティーブンだよ」
「ありがとう。……でも『恋』をしたんだろ?自分を偽る必要はないよ。僕に気もつかわなくて良い。言ってくれ、たとえ相手がどんな男でも、女でも、人外でも……覚悟は決めて来た」
「ま、待って、ホントにスティーブンが一番好きで、あの、スティーブン以外にはまったくキョーミはなくて、私がこの世界でいちばん恋をしてるのはスティーブンにだけなの。本当に!朝のあれはちがくて、今日は」
こんなことになるなんて、浅はかだった。
スティーブンにこんな顔でこんな声を出させるなんてつもりはなかったのに。ちょっとした出来心だったのに。スティーブンにエイプリルフールの習慣がない可能性なんて考えもしなかった。だって店長は笑って催しものにすらしていたし、堕落王フェムトも嘘か本当かわかりづらい会見をしてフラッシュを浴びまくる遊びをしていたから、万国共通、当たり前の遊びなのだとばっかり信じ込んでいた。
今ごろ思い至っても時は戻らないしスティーブンは微笑みを浮かべてくれない。違う、浮かべているけど、私が見たいのはもっと優しくてあたたかい笑顔で、こんな悲しそうなものなんかじゃ。
「ほ、ほんとに、私」
場も状況も立場も弁えずに、堪え性のない精神がガタついて自分の声が濡れるのがわかった。
滲む視界をギュッと狭めてわななく手を所在なく彷徨かせる。まずはごめんなさいを言わなくちゃ、と鉄さびっぽい喉を震わせようとして、また失敗した。スティーブンが立ち上がったのだ。
囲うように抱き寄せられ、スティーブンの匂いに包まれる。私が驚いて身を捩っても力強い腕は閉じ込めるように腰を抱いたままびくともしなかった。
彼は私の髪をやさしく撫で、耳元で囁いた。
「ごめん。悪かった。泣かないでくれ。ちょっとからかうつもりだったんだ」
女を骨ごとふにゃふにゃにする声が鼓膜から脳へ直接吹き込まれる。私は例に漏れずふにゃふにゃになった。
「思いつきだとわかっていても、君の嘘がちょっと面白くなかったんだ。だからやり返したくなって悲しがるふりをしただけで、エイプリルフールだっていうのはわかってるよ。仕返しにしても大人げなかったよな」
「ガチで大人げなさすぎて半泣きですけどどないしてくれるんですかね。おにーさん仕事中やろ。引き取れんのにアボカドグラタンとブレンドだけ胃袋に突っ込んで泣かせたまま帰社するんかね」
「申し訳ない。……テイクアウトできる『おすすめのもの』を追加で『幾つか』包んでもらえますか」
「ご注文承りました。おら厨房気合入れろー!テイクアウトでパーティープランだパーティープラン!」
金銭での解決を仄めかす店長と余さず察するスティーブンの会話でかなり心が落ち着いた。
パーティープランなんて月に一度出れば幸運な書き入れコースなのに、さらに割高な持ち帰り仕様で作るとなると今日の売り上げは如何程になるのやら、生き生きした店長の声が先行きを物語っている。
スティーブンの苦笑が髪をくすぐった。
私は罪悪感の名残を呑み込んで顔を上げる。
しょんぼり声で謝った。
「おもしろくない嘘ついてごめんなさい……」
スティーブンは私の額に当たり前のようにキスをして、眦を下げて優しく笑った。
身体は離れたけど、これは仲直りだ、と心でわかった。
どっと安心して肩の力を抜く。
途端に周囲の喧騒が知覚できるようになり、現実の世界に感覚が戻る。どれだけスティーブンに集中して周りが見えなくなっていたのだか、つくづく自分のシングルタスクっぷりが恥ずかしい。
「念のため、齟齬がないように確認するぞ」
「はい」
「ユーモアだのセンスだのが気に食わなかったわけじゃないのは伝わってるか?」
顔を覗き込まれ、記憶を辿る。
……言われてみれば。
「半分くらい伝わってなかった!」
「やっぱりな。この辺りが自動翻訳の限界なのか……?」
異界の術はまだまだ謎でいっぱいだ。
己の肉体か頭か精神に影響する深海以上にミステリアスなおまじないはいつか解明されるのだろうか。つまびらかになった結果、もっと便利になるなら大歓迎だ。
でも今は難しいことはあとにして、肩を竦める様子も絵になるイケメンを目に焼き付けよう。
「来年はちゃんとした嘘をつくね」
「……っていう『嘘』かな?」
「ちがっ、これはホント!全部ホント!」
「さてどうだろう。今日はエイプリルフールだからなあ」
「本当だもん!もうスティーブンにあんな顔させるのはイヤだから……絶対に!変な嘘はつきません!」
勢い込んで宣言する。
スティーブンはからからと笑った。
「悲しそうな顔?」
「それもあるけど、なんか、『やだな』って顔もしてたじゃん」
まるで全力を賭し頂点へ上り詰めた直後、平等を謳う圧力に引きずり下ろされ勲章をもがれた勝者のような。周りに気をつかってお互いの健闘を称え合うけれど、胸の中には裏腹に泥が積もっていくような、納得のいかない感情をないまぜにしたような。
貧相な語彙では説明できず、ただ『やだな』と言いたげだったとしか伝えられない。
さすがのスティーブンもちんぷんかんぷんな様子だった。
私は訳知り顔で誤魔化した。
「これが自動翻訳の悪いとこだね」
すかさずスティーブンが言った。
「うん。そこが君の良いところだよ」
褒められてる気はあんまりしなかった。
スティーブンは熱々のグラタンとコーヒーを楽しんだあと、用意された『テイクアウトできるおすすめのもの』が幾つかの山に分けられるのを見つけると迷わず誰かに電話をかけた。
相手はすぐにわかった。私も知っている、タダ飯と聞けばすっ飛んでくるランブレッタ乗りの男性だ。
宅配代わりに職場まで運ばせるのだろう。スティーブンだからできる無茶振りである。私がやったら車道から長い脚がのびてきて思いっきり転ばされると思う。
支払いを終えた彼は、一包み、スタッフ用にパーティーセットを置いて帰った。
なかなか味わえない品数と味を前に、我々のテンションはうなぎ上りだ。
女の職場で修羅場モドキを巻き起こしてあわや昼ドラと洒落込みかけても風呂敷はたたむしアフターケアも欠かさない、デキるサラリーマンはやっぱりすごい。改めてそう思った。
2020 0331