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聞き慣れない響きは、書店で見かけた単語に似ていた。
「HTML?」
「ちゃうちゃう。エイチシーエイチエル。『ハイパーコミックマーケット in ヘルサレムズ・ロット』ってわけ」
好みの本を探しがてら通り過ぎた書棚にずらりと並んだ4文字のあては明後日の方向に外れていて、的外れに聞き返してしまったことに羞恥をおぼえたは誤魔化すように髪の毛の先を指で整えた。
彼女の雇い主は、そんな可愛らしい仕草ににんまりとした笑みを浮かべる。
慣れた指先は手元を見もせずに札を繰り、二度ほど数え直してから角を揃えて袋に収めた。封をして、裏の金庫に放り込む。
「サブカルチャーの坩堝みてえな集会よ。知り合いが参加するってんで招待券を貰ったんだが生憎とほら、うちみたいなカフェは土日祝日が書き入れ時だろ?だからって突っ返すのも勿体ない。……ってえわけでここはひとつ、可愛い後輩に人生経験を積ませてあげるべきかなと思った次第でね。良かったら行っといでよ」
に手渡されたのは1枚の、名刺に似た紙っぺらだった。
いまいち気の無い返事になったのは、正直に言って興味がなかったからだった。
厚意で分けてくれた店長には悪いなと思わなくもないが、概要を説明されても首を傾げてしまうくらいぴんとこない。
なんていうか、高校生のころに惰性で付き合った漫画やらゲームやらが大好きなカレシがどうにかこうにか私と趣味を共有しようと一生懸命説明してくれたのを聞き流していたあの気持ちによく似ているのだ。そういえば、薄ぼんやりした記憶によるとあの元カレもコミケとかいうイベントに行くからって言って私を熱心に誘ってきたような?靴底が溶けそうな炎天下の中を歩き回るのはかなり嫌だったので断ったんだっけ。
「ねえスティーブン」
「ん?」
「ハイパーコミックマーケットって知ってる?」
スティーブンは秘密組織の一員だ。そうでなくてもヘルサレムズ・ロットの隅から隅まで知り尽くし蟻の巣の数まで把握していてもおかしくなさそうに見える。
だから当たり前のように頷かれても驚かなかった。
「行くのかい?」
この人って凄いなあと改めて思う。
どうして私がハイパーコミックマーケットについて問いかけたのか、どこでその存在を知ったのか、何について知りたがっているのか、どうしてそれを知りたいのかなどなどぐだぐだエトセトラ、質問の入り口から出口までがどんなに曲がりくねった迷路になっていても無駄な寄り道をせずに待ち構えるたったひとつの端的なゴールに向かってど真ん中を突っ切れちゃうのだ。
そのくせたくさんたーっくさん寄り道をして新しい迷路を組み立てて、最初に質問したはずの私が出口を見失っておろおろするのを楽しんだりもするのだからズルすぎる。慌てる私をおだんごみたいにこねて丸めてお手玉みたいにぽいぽい片手で遊ぶのがそんなに楽しいのか。まあ楽しいんだろうけど!
ちょっぴり悔しいけれど、こっそり悔しがる私に向けられるスティーブンの柔らかい眼差しを食らってしまうとなんにも言えなくなってしまう。うう、私で良ければどうぞ喜んでお手玉にならせていただきます。
「店長が、サーチケ?っていうのをくれたの。あと、おつかい?を頼まれたから行かなきゃいけなくて、もしスティーブンが行ったことあったら雰囲気とか教えて欲しくて」
自分で言ってて何だけど、スティーブンからハイパーコミックマーケットにおける懇切丁寧なマナー指導をされたらどうしようと不安になった。
スティーブンが眉根を寄せる。いつもどおりの完璧な仕草だ。私は彼が自分の顔面の良さを最大限に発揮するための超高性能な計算機を内蔵していても驚かない。
「行ったことはないけど、リストアップされた参加者によっては幾らか人員を回して様子を見るようにはしてるなあ」
「えっ、危なさそうなときもあるの?」
「基本的に創作物なら何でも持ち込めるからね。一昨年はサブカル好きを自称するバ……、国賓がお忍びで入ってドカンとやられかけた。場合によっては火種じゃ収まらない」
「いま馬鹿って言った?」
「まさか。クラウスにつま先へのキスを強いても許されるらしいカーストの相手にそんな不敬は働けないさ」
一昨年の出来事らしいのにいろんな意味で根に持ってて怖かった。
「……えっと……、それクラウスさんは……」
「ああ。あちら様の周りが真っ青になって有耶無耶に、ね」
どうしてか私が胸を撫で下ろした。
「今年のハイパーコミックマーケットは3日間開催されるけど、君は何日目に行くんだい?」
「2日目」
祝日を含めた連休と重なる日程だ。
縁もゆかりもないイベントへの半強制参加は憂鬱だったが、唯一の救いはその日がスティーブンの休日ではなかったところだろう。
念のためカレンダーを確認した。うん、諸用で出かける日になっている。
ふと、スティーブンの様子が気になって声をかけた。
どことなく気まずそうに感じるのは思い過ごしだろうか。
「どしたの?」
「交流展示会館は東西に棟が分かれてるんだが、君が頼まれた『おつかい』はどこのあたりかわかるかい?」
「え、あ、えーっと」
紙っぺらと一緒に渡されたメモを読み上げる。
「東の、θ32bと、Σ08aと、Σ24ab」
「……そうかい」
「な、なんか問題あるの?異界人じゃないと入れないコーナーとか?麻薬取引の疑いとか?」
「いや……どっちのほうが僕の傷が浅いかを考えてるだけだよ」
ただならぬ様子にまんじりともせずスティーブンを見つめ続ける。
やがて低い声が答えを囁いた。
まるで『聞こえなければ良いのに』と言わんばかりの態度はぶっちゃけ軽く感じが悪かったが、それを押して余りある衝撃が私の背筋を貫いた。
「えええええ!!」
私は『Σ24ab』へ辿り着いたとき、果たして正気を保てるのだろうか。
鼓膜を破らんばかりの騒めきと、満員電車もかくやと言った荒波のような人の流れに逆らいながら歩く。
ハイパーコミックマーケットは予想以上に混沌としたイベントだった。
目当てのコーナー(……ジャンルというらしい)を探すだけで一苦労だし、指定されたアルファベットと数字の組み合わせ(……スペ番というらしい)を見つけるのはさらに難しい。
わかりやすく書いてある机と書いていない机(……机はスペースというらしい)があったり、どういう秩序の下で生まれたのかちんぷんかんぷんな行列に通せんぼされたり、隣り合ったスペースの『最後尾』と『列途中』が紛らわしかったりと、超人気アパレルショップの福袋合戦やタイムセールを乗り越え勝利してきた私でさえ挫けてしまいそうな過酷さである。興味がないから余計につらい。
けれど鞄に重みが加わるたび、いろんな人の笑顔を見かけるたび、そんな気持ちは不思議な達成感に変わっていく。空気に酔ったのかもしれないし、すこーしだけ、面白いなって感じちゃったのかもしれない。
そんな中でもただひとつ。
ただひとつだけ、勘違いなんかじゃなく胸を支配するドキドキがある。
私の並ぶ先に待つ『Σ24ab』の机には。
圧倒的に女性の多い行列だから、少し視線を上げればここからだって見つけられる姿があった。
(あれが……スティーブンの……)
どんなメイクを施されたのか、とてもじゃないけど面影はなく、言われてみなければわからないかもしれない。
目立つ頬の傷痕は驚異のコンシーラーによって塗り潰され、髪はウィッグで、眉はカラーブラシで、まつげは色つきのマスカラで丁寧に染められ、ファンタジックな衣装を身にまとう姿を一目で『スティーブン』だと見抜けるのはよっぽど彼と親しい人たちだけだろう。
「ヤッバ!再現度ヤッバい!」
「あのレイヤーさん誰!?ズンドコベロンチョ先生、告知に何にも書いてなかったよね!?」
「変身能力持ちの異界人とか?」
「納得……」
スティーブンがお仕事の都合で止むを得ずコスプレをしてイベントに参加すると聞いたあの夜は耳を疑ったが、何を求められようと120%の成果で返すような男なだけあると頷ける仕上がりだった。直前に軽く画像を調べただけの私でもそう感じるのだから、本物のファンはそりゃあ大感激してしまうだろう。
この中であの人の正体を知るのはきっと私だけだ。そう思うとほわほわした優越感に満たされる。
でも、たくさんのファンから記念の握手をお願いされては温和に応じ、そのキャラクターが言いそうな台詞まで口にする様子には、自然と唇がつんとした。
だってほとんど口説き文句なんだもん。
これ以上なく似合うからこそ、不純で未熟な恋心は分不相応な不満に揺れる。
眺めるうちに本を買う順番が来て、私は頼まれたタイトルをお願いした。代金と一緒に作者に渡してくれと言われたサシイレも無事に届け、これで『おつかい』は完了だ。あとはイベント名物の旗が揺れる串焼きでも食べて帰るとしよう。
(あ……)
ちらりと上げた視線が、知らない色の瞳と合う。カラコンだ。設定どおりの色は似合っていたけど、奇妙で、居心地が悪かった。
素通りするのも、と迷ってから小さく会釈をする。
スティーブンを前にしてのあり得ない消極的な態度に自分でも引いた。
「可愛らしいお嬢さん。今日は来てくれてありがとうございます」
「えっ」
え、向こうから声をかけるとかあるの?応募者全員サービスみたいなやつ?ヤバい、会話するつもりがなかったから返事なんて全然考えてなかった。コスプレをする人と話す普通の内容がわからない。
「え、えーと、……あっ、再現度?がすごい?ですね!びっくりしました!SNSとかやってますか!?」
「SNSはやっていないんです。離れた場所からでもお嬢さんと繋がれたら良かったんですけれど、わたしはどうも不器用なのです」
器用さの権化が何か言った。
「そ、そっかあー!残念です。またイベント?に参加?する予定?とかありますか?」
今日聞きかじった単語を無理やり繋ぎ合わせたせいで全部が曖昧になってしまったが、褒められるべき反射神経だ。
「まだ考えていませんでしたけれど、お嬢さんにまたお会いできるのなら、それも良いですね。……また会う日までお元気で」
「はい!さようなら!!」
スティーブンなのにスティーブンではない笑顔を向けられて、ギャップと違和感で脳がふらついた。全身がカッと燃えるようになり、頬に熱が集まったのがわかる。変な汗まで滲んだので、私は慌てて踵を返した。
(……あの人、ホントはスティーブンじゃなかったんじゃない!?)
実はシフト制で、今はちょうど違う人のタイミングだったとか。
暴れる心臓を宥めながら食べる串焼きは、豚肉なのに水飴がかかっていて吐きそうだった。
身体も心もヘトヘトだ。
自宅のソファでまるまってお昼寝をしてもあのキャラクターが夢に出てきた。
やがて優しく肩をゆすられ、薄眼を開ける。
そこには見慣れたスティーブンがいた。
「おかえりなさい……」
「うん。ただいま」
目をこすって起き上がる。
スティーブンは黒髪だったし、瞳の色も元どおりで、指先でおそるおそるなぞった頬には変わらず傷痕があった。
「……あれってホントにスティーブン?」
「残念ながらね」
「みんなびっくりしてたね」
「おかげさまでこれ以上ないほど褒めちぎられたよ」
彼は、もう勘弁だ、と苦笑した。
大きな手がするりと私の手を包む。
頬に触れっぱなしだった、と今さら気づいて跳ねた指先ごと優しく握られれば、緊張した手は彼の体温にあっけなくほぐされる。
私は急に落ち着かなくなって、誤魔化すように「私も」と口走った。
「私も、もうやらないでほしい、かもしれない……かも……」
お仕事の一環だったと知っているし、感激していたファンの人にも悪いけど、なぜかそんな気持ちを強く抱いていた。
スティーブンは目を丸くして、ぱちりとまばたきをする。
無理なわがままを言う自分が恥ずかしくなった。
「……肌にわるいし!」
聞くに堪えない言い訳を付け加えるともっとみじめったらしくて情けないのだなと久しぶりに実感した。
うう、と項垂れる。
もしもスティーブンが片手を離したら、私はソファの座面に逆戻りしてみのむし時代まで遡ることになるだろう。
スティーブンは手を離さないまま、うん、と深い相槌を打った。その延長線上ですと言わんばかりに彼が何でもないような雰囲気で当然のごとく私の手にキスをしたので、骨という骨が悲鳴をあげる衝撃が私を襲った。
「もっともだ。僕も肌の曲がり角だからね」
「あなたいくつなの?」
「君より上かな」
「……それは知ってる」
私は明日の関節痛を心配しながら頬を赤らめ、まだ解放されない手の指でバレバレにこっそりとスティーブンの肌を撫でてみて、曲がり角はどこにあるんだろう、と無意味な思考を走らせた。
2019 1029