18



黒髪の隙間から見える額に傷のようなものを見つけた。
「ねえ」
声をかけると、スティーブンはスマートフォンの画面から顔を上げてこちらに視線を向けた。さっきまでは『またこの人は100万人いる恋人に一斉メールでも送っているのかな』と思いながらじっとりした気持ちでクロスワードアプリに打ち込んでいたのだが、それどころではない。個人的な色男番付でぶっちぎりの頂点を刻み他のどんな人物をもってしても揺らがない地位を確立した至上最高の顔面に痛そうな傷があるのだ。平静なんて足を生やしてとっくに逃げ出した。
「やっぱり!!スティーブンの顔に傷ができてる!」
「傷なら元々あるぞ」
ごもっともだ。冷静に考えると痛そうな傷跡は普通にこう、あるんだけど。めちゃめちゃ目立つ場所にあるんだけど、そうじゃなくて。
「生傷!おでこに!」
バリ強な秘密組織の一員が目に見える場所に傷を負うイメージがなかったこともある。傷を共有していた時期だって、服に隠れる場所ばかりだった。
レオやチェインさんから得られるお仕事事情の小話を聞くに、スティーブンは取引先と顔を合わせてやり手のサラリーマンになってみたり秘密組織がどんな実力を持っているかをアピったりすることが多いらしいから、見た目に新しい傷がいっぱいあるとよくないのだろう。なので私もありがたいことにパッと見はフツーの女子である。
だからこそ、隠れる場所とはいえど珍しさに変わりはない。
動揺しまくった指先でおでこを指差すと、スティーブンはきょとんとしてから軽く自分の前髪をつまみ上げた。
「ああ、これ」
スティーブンは納得したふうに呟いた。
不意にその手がこちらへ伸びて、私の前髪をそっと撫ぜた。手は仔猫を可愛がるように動き、唐突な出来事にフリーズした私の額をさりげなく確かめてから離れていった。緊張のあまり心臓の鼓動が聴覚を侵食したのか、しばらく耳鳴りがヤバかった。
「おでこ、ぶつけたの?」
「うん。ニュースは見たかい?護送車が奪われて10km近く警察と峠を競ったあげく横転したことになってるやつ」
事実ではないみたいな言い方は不穏だからやめてほしい。
「みた」
「うちも関わっててね。追いかけてたらガードレールの破片が飛んできて掠った」
「怖っ!!大丈夫なの!?まだ痛い?絆創膏とか貼らなくて平気?」
「これくらいすぐに治る。ほら、かすり傷だろ?場所が場所だから心配になるだけだ」
と、スティーブンは大きな手でザッと前髪をかき上げた。
ぶつけたようにも切ったようにも見える傷はまだ赤みがあって痛々しいが、言われたとおり、焦るほど深刻ではなさそうだった。
ひとまず安心した私はよこしまな気持ちも含めて「早く治るといいね」とありきたりな台詞を送る。スティーブンも「どうも」と形式的に受け取った。
スティーブンの手が前髪から離れる。
乱れた髪筋に手櫛が差し込まれるようとするのを一コマ一コマ目で追いかけた私はとっさに「待って」と口走っていた。制止が先走りすぎて、自分が喋ったと気づくのにちょっぴし時間がかかった。
「スティーブン」
時間がようやく私に追いつく。
スゥー、と息を吸い込んでから、赤面するのも忘れてスティーブンのほうへ身を乗り出した。
「いまのもっかいやって」
今週のザ・ベスト・オブ・真剣な表情でにじり寄る。
「どれの話?」
「髪の毛ザッてやるやつ」
すべてを理解したスティーブンは、乱れたままの前髪をもう一度ざっくりかき上げた。私は死んだ。
「きゃー!!」
もんどりうって胸を両手で押さえつける。こうでもしないと心臓が肋骨ごと内側から爆発しそうだった。頬にとどまらず全身がぽっかぽかになって喉がきゅうとしぼられて、唇がむずむずした。
額があらわだと男性らしい骨格がより明らかになる。言葉もなくただ興奮と感動で瞳を潤ませる愚かな私に追い討ちをかけたのは致死量の流し目だ。さながら『自殺したいなら手伝おうか』とでも言わんばかりのご丁寧な所業に感謝の念しか抱けない。
「か、かっ、かっこいい……」
か弱い乙女みたいな声になった。お礼はもちろんだが感想のひとつすらまともに言えない恩知らずで申し訳ない。
「スティーブン、パーティーとか出ないの?ヘアスタイル変えてる?絶っ対に入れ食いだよ!いつも入れ食いかもだけどさ、オールバックの色気、半端じゃないよ……見てるだけで腰砕けだよ……やば……」
冬場にカチコチになった蜂蜜もこの姿のスティーブンを見たら秒速でとろとろになるはずだ。
手が疲れたのか、スティーブンは前髪を下ろして軽く慣らした。
完全に頭がぽわぽわでお花畑に一直線な私が最低限の気づかいも忘れて思いきり残念そうにしてしまったのを見て面白そうに笑う。先ほどの天変地異が発生しそうな凄絶な色気は抑えられ、穏やかで、少し可愛さすらあった。この男は攻撃範囲が多岐にわたりすぎではないだろうか。
「もうちょっと見たいかい?」
「み、見たい」
「じゃあヘアワックスを取ってくるよ。手でやってると疲れる」
スティーブンは沈黙したままのスマートフォンを放置して、のんびりと立ち上がった。
欲望のままに見送りかけて、あ、と気づく。
「スティーブン!嬉しいんだけど、そんなことしたらまたシャワー浴びなきゃいけなくなっちゃう」
彼は帰ってきてすぐにシャワーを浴びていた。
私も同じく、もう寝るだけのだらだらタイムを満喫していたところだ。
スティーブンの善意につけ込んで幸福エナジーを補充する私が言うのもなんだが、二度手間で迷惑をかけたくはない。
こちらを振り返った彼は慌てる私の頬を優しくくすぐった。甘ったるい仕草がたちの悪い悪戯みたいに乙女心を弄ぶ。
爛れた乙女が視線をうろつかせてキョドっていると、トップオブトップな色男は流れるように私の額へキスをした。
「もう一回浴びればいいだけさ」
優しさの権化なのだろうか。私は彼の心の広さに常々非常な尊敬を寄せている。


ちなみに、私はこのあと泣きそうなくらい最高な展開を迎えた。最高すぎてリアルに涙が出た。





2018 1023