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私の目はどんぐりのように丸くなって、プラネタリウムがごとくキラキラと輝いていたことだろう。
震える指先をすくってくれた大きな両手は力強くこちらの手のひらを握りしめた。
「君に会えただけでここに来た価値があったよ」
低さと明るさを兼ね備えた美声は役立たずの鼓膜をガタガタと震わせてから、防御力ゼロのおつむを強烈に揺さぶってくる。腰が砕けて膝が笑って、チークなんてまぶさなくてもよかったぐらいに顔が赤くなるのがわかる。
「ずっと、ずっとファンでした……!!」
「ありがとう。可愛らしい僕のお友だちさん、君の名前を呼んでも良いかい?」
「はい!私、です!!」
だね。改めてこんにちは、。僕はアラン。アラン・リフリオ。どうかアランと呼んで欲しいな」
「あ、あ、あわわ」
もはや声が言葉にならない。
今日は人気俳優アラン・リフリオのサイン会。
その中でも特別でスペシャルでマーベラスなチケットを手に入れた私は、憧れの俳優から優しい抱擁を受けるという垂涎の権利を得たのであった。
と言ってもチケットを入手したのは私ではなくて、私の斜め後ろでニコニコと微笑む秘密組織のスゴい人なのだけれども。

すっかり自宅となったスティーブンの家で録画分のドラマをヘビロテしまくっていれば、そりゃあ鋭い観察眼を持たなくたって私がそのドラマを好きだということは露呈する。
スティーブンは更にその一歩先を行き、私の目当てが物語ではなくひとりの俳優にあるとまで見抜ききった。
俳優にうつつを抜かす姿を好きな人に見られるのはちょっぴり恥ずかしかったが、私もそのうち開き直って、酔った勢いでその俳優の名前やら演技やら顔の良さやら美声やら眼差しの甘やかさやらラブシーンのガチさやらアクションの素晴らしさやらへの思いの丈を思いっきりぶちまけた気がする。
私のへたっぴな賛歌に対して、スティーブンはさすがの対応を発揮した。
絶妙なタイミングで相槌を打ち、質問を挟む。
この男がいかにして人々をメロメロに蕩かして情報を抜き取りまくったかよくわかる。私の俳優談義(……って程でもないけど)にはもったいないテクニックだ。
「好きなんだな、そのアランのこと」
「うん……好き……アラぴに抱きしめられて『ふわふわファジーネーブル』のセリフ言われたい……」
ちなみに『アラぴ』は彼のファンが通称するあだ名である。
「『ふわふわファジーネーブル』のどのセリフだい?」
「『オマエはオレだけを見てれば良い!』ってやつ、……きゃー!ヤバい!アランに言われたーい!」
「うんうん。飲ませすぎたな」

というわけで(……どういうわけだろう……)、テーブルの角に頭を打ち付けたくなる程度の気持ち悪いファンマインドを暴露してしまってから5日後に迫ったサイン会の当日。
「貰った」
スティーブンはこのひと言と共に私の背中に手を添えて、私が胸を高鳴らせる暇もなくサイン会会場の奥へ迷いなく進みスタッフに何かを見せ、1枚の扉を開かせたのである。
裏の通路へ誘導された時点で期待を持たなかったといえば嘘になる。
だけど、だけど、本当に。
「あ、あ、……あ……」
憧れの俳優が蜂蜜のような笑顔をこちらに向けた瞬間、私の辞書から理性が消えた。これ以上白紙が増えるとペンのない自由帳になってしまいそうだ。
思わずスティーブンの腕にすがりつく。
「スティーブン、スティーブン、なになになに!?」
「グリーティングのペアチケットを貰ったんだ」
合法だと信じたい。
子鹿のように覚束ない足取りで近づいたアラン・リフリオには、ワイルドかつ甘ったるい、私の周囲にいる男性の誰とも違う魅力があった。
「あ、あの、あの私、『明日の昼に馬車道で』でアランを知って『殺意への愛情』で好きになって『ショーケースに口づけ』でキュンとして、それでこないだの『ふわふわファジーネーブル』で初めてDVDを予約して」
「ワオ、ありがとう!」
「お願いしたいことがあって、あの、もしできたら『ふわファジ』でヒロインに言ったあのセリフを私に言ってくれませんか!!」
アラン・リフリオはきょとんとしてから、「もちろん!」と快活な笑みを浮かべた。
肩を押して後ろを振り返させられると、スティーブンと目が合った。
なぜかものすごく悪いことをしている気分になった。こう、浮気的な。
確かに、冷静に考えるとヘンテコなシチュエーションだ。お膳立てしてもらったとは言え、その、好きな人の前で男の人にはしゃぎまくってラブシーンの一部の再現をお願いしているのだから。

現実に引き戻されかけた心が、がしりと捕まえられる。
一瞬で全部吹っ飛んだ。
力強い腕が後ろから私をかき抱く。嗅いだことのない男性の匂いに包まれ、心臓がクラウチングスタートを切った。
俳優はファンサービスも全力だった。
「お前はオレだけを見てれば良い。……ずっと、ずっと、オレだけを」
私の辞書は灰になった。

興奮さめやらぬ、とはこのことだ。
アラン・リフリオと和かに握手を交わしたスティーブンはもちろん『ふわファジ』の再現などは求めず、サラリと宛名無しのサインを受け取って個室を後にした。余談だが言うまでもなく私が胸に抱きしめる写真集には名前+ハートマーク付きのサインがある。
「ありがとう、スティーブン」
「どういたしまして」
「もっと好きになっちゃった……」
「誰を?」
「アラン……」
「喜ばれたのは良いことだけど複雑だなあ」
「だってさあー!」
笑うスティーブンに食ってかかる。こればかりは譲れない。スティーブンは『ふわふわファジーネーブル』におけるアラン・リフリオの魅力とあのセリフの破壊力を知らないから笑っていられるのだ。そもそも浅からぬ好意を持つ相手からあんな情熱的なセリフを言われたら多少なりともときめくはず。スティーブンも、えーと、誰からかはわからないけど言われたらどきりとするに違いないのだ。
写真集をスティーブンに押しつけて両手を空っぽにする。
小走りで彼の後ろにまわって、振り向こうとした広い背中に思いっきり抱きついた。
引き寄せるようにギュッと腕に力を入れて、背中に額を擦りつける。ファンデーションの存在を思い出したけどデパコスの品質と底力を信じたい。
「スティーブン。スティーブンは私だけを見てれば良い。ずっと、私だけを」
小学校の音読の時間は先生によく褒められた。今でも多少は情感込めて喋れていますように。この男相手に愛の言葉を囁いても所詮はおままごとだろうけどポジティブに考える。私は大根役者でも『ふわファジ』のセリフは無敵なのだ。
「……アランにこんなこと言われたらぐっとくるよね!?」
「アランにこれを言われても僕はぐっとこないな」
ごもっともだ。
スティーブンは離れようとした私の手を握って、にぎにぎと軽く遊びながら、指先で器用に左手をなぞった。
そのあいだ私はスティーブンに密着し続けるわけで、デパコスの踏ん張りを確認するすべもなく、しなやかな背中の温かさと呼吸と香りを全身でテイスティングするだけのおばけになる。
長い指がするすると動いて、包み込むように手を繋がれる。
「でも今はちょっとぐっときた」

なぜ私がときめかされたのかサッパリ不明だが、キュンとしすきると貧血を起こすらしいことがわかった。
アラン・リフリオを起用する映画の脚本家は、スティーブンに協力を仰ぐべきだと強く思う。






2018 0710