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ザップさんが歩道を滑っていた。
目を丸くして見送った私はバイトを早上がりしたばかりの格好で、ハンドバッグを持ったままぽかんと口を開けてその見覚えある細身を見送るしかない。
しばらく遠ざかった後ろ姿は、不意にくるりと向きを変えてこちらを振り返る。靴のかかとがなぜかやけにスムーズな動きで地面の小石を巻き上げたのが気になったが、それよりももっと驚くべきはザップさんがコンクリートをガツリと一歩蹴っただけで歩くこともなくこちらへ向かってきている現実である。思わず道とザップさんを二度見した。
「どうなってるんで、ウワ!!」
やってきた彼に襟首を掴まれ引っ張られる。
可愛い丸襟とブローチの台無し具合を心配するより先に足でバランスを取ろうとして思いっきりすっ転んだ。したたかに膝を打ちつけてしまい痛みにうめく。手も襟から離されて、支えのなくなった身体が前のめりに倒れかけた。
恨めしさよ伝われと念じながらザップさんを見上げると、彼は雑にしゃがみ込んで「ナニしてんだお前」とわけのわからないことを言った。どうも何もザップさんに引っ張られて転んだのである。
「軽く引っ張っただけだろーが。転んでんじゃねえよ。なんか俺が転ばしたみたいだろ」
「ホントにザップさんが転ばせたんですけど……」
「つーか冷たくねーの?」
言われてみれば膝が冷たい。
立ち上がろうとして、今度は自分でバランスを崩した。わああ、と間抜けな声を上げて手を伸ばしザップさんにしがみつく。
そして気がついた。
どうやら路面が薄く凍っているらしい。店内で働く間に雨でも降ったのだろうか。
私のパンプスの底にはスニーカーのような溝がないから余計に滑りやすそうだ。いつもよりしっかりと足を踏ん張ることにしよう。
「そういえば、さっきのって何だったんですか?スーッて滑ったスケートみたいなやつ。そういう靴ですか?」
薄氷の上を滑るように移動する様は、どこかアイススケートに似ていた。でも彼の靴は普段履いているものと同じに見える。付け外しができる付属品があったりするのだろうか。
「応用だよ応用」
「なんのですか?」
ザップさんは、あたかも私が究極的なバカで、1と1を足した数は2だよと教えた直後に1と1を足した数は5だと答えた瞬間を目撃したような顔をした。
「接地面を小さくして摩擦が少なくなるように整えてんだよ。よーするに血法をブレードの代わりに使ってるってワケだ」
「はあ」
「俺だからできる超級的に高度な技術ってことだけ覚えときゃあいい」
「わかりました」
秘密の能力に関わるスゴい仕組みなのだろう。深入りするのはやめておくが吉だ。初めっから聞こうとしたってザップさんは説明してくれなさそうだし、私も絶対わかんないし、わかっちゃってもヒミツホジ的な意味で身の危険を感じるし。
「そういやお前、グラーナムでスケートリンクが解放されてるって知ってっか?」
「グラーナムってどこですか?」
ザップさんはまるで顔のまわりに羽虫が近寄ってきたような表情を浮かべた。説明がめんどくさいんだな、とわかった。
「2番ストリートのグラーナムだよ。グレートラウンドの隣の広場」
「あっ、確かにそんなのあったかも!グレートラウンドってあれですよね、フラットジュエルが入ってるデパート」
「ピンポイントで言われてもデパートの中身なんかいちいち把握してねえよ。しかもジュエリー。スターフェイズさんじゃあるめーし」
「す、すいません」
思い出してみれば先週末に冷やかした店舗だったのでつい熱が入ってしまった。季節限定のバッグチャームがめちゃめちゃ可愛かったのだ。一緒に行ったアルバイト仲間と女の子の妄想を繰り広げながらするウインドウショッピングはとても楽しかった。ちなみに彼女は同ブランドで恋人にネックレスを買ってもらったことがあるそうで店員さんも交えて話に花が咲き散らかった。
2番ストリートのグラーナムとは、おそらくそのデパートの斜向かいに広がる静かな公園の名前だ。緑は少ないけれどそれなりの頻度でフリーマーケットだとか大道芸だとかが場を賑わせていると聞いたような聞かなかったような、そんな気がする。
本題に戻ると、ザップさん曰くグラーナムはこの冬、期間限定でスケートリンクをつくって遊び場として提供中なのだそうだ。
利用料は必須。
スケート靴は持参してもいいし有料でレンタルしてもいい。
手袋や帽子などの安全対策は任意だが現地で購入可能。なおデザインはデザイナーの感性を疑う出来。
こんなことにキョーミのなさそうなザップさんがどうして私に『知っているか』なんて問いかけたのかといえば。
「『うち』が協力してんだよ」
「秘密組織がってことですか?」
「非常ンときに場所を借りたってんで、破損個所の修理と公園利用者の増加と軽い収益を要求されたんだとよ。んで、最近のさみーのを利用してスターフェイズさんがリアルに心血注いだ」
「リアルに!?」
寒いのを利用してスティーブンが心血を注いだ結果スケートリンクが誕生する流れがまったく理解できないのは私がアホだからか。リアルに心血を注ぐってなんだろう。
混乱するうちに話は進んでいた。
「氷の調子やら客入りやらの様子見てこいって言われてっから、代わりに行ってくんね?」
「え!?」
「久々にピアノ喫いたくなったんだよ。見っけたら向かうからチクんなよ」
「ピアノ!?え!?何言ってるか全部わかんないんですけど!!ザップさん!ザップさん!?」
伸ばした手が空をかき、ザップさんは残像も残さぬ優雅な足取りで歩道(……に張る薄氷)を滑って行った。
「ピアノって……なんですか……」
煙草の略語か何かなのかな、とは、薄ぼんやりと推測できた。

スマホの地図アプリに案内を頼みつつ、なるべく転ばないように慎重に歩く。へんなところが筋肉痛になりそうだ。今日の半身浴はいつもよりぬるめのお湯にしてしっかりマッサージしよう。
辿りついた広場からは楽しそうな声がいくつも聞こえてきた。
混みすぎもせずすかすかでもなく、商売についてはドシロウト極まりないが良き塩梅というヤツなのではなかろうか。
(あれ?)
近づいてみると、スケートリンクを囲う壁は即席とは思えないくらい頑丈だった。コンクリートをギチギチに流し込んだようで、取り壊すときにはさぞかし苦労することだろう。
秘密組織の人たちがわざと効率の悪い設計をするとは考えづらく首を傾げた瞬間、後ろから思い切り服の襟を掴まれた。
「っわ」
引きずり倒すようにされて背中から地面に落ちかける。これを命の危機と判断した脳みそは、ありがたいくらい愚か者な私を構成する主要な機関のひとつであるだけあって、助かる方法ではなくこれまでの人生における思い出を脳裏に羅列し始めた。平和ボケした結果死に急ぐとは情けない。やはり日常にはちょっぴりのスパイスが必要なのか。この世界では私の『ちょっぴり』が『激辛』に相当すると思うのだけど我慢したほうがいいのかな。
ぽすり、と何かに受け止められる。
ほぼ同じタイミング、奇跡的な流れで、さっきまで私が凭れかかっていた囲いにヘビー級待った無しな異界人がノーブレーキで突っ込んでいた。私は異様に頑丈な囲いの存在意義を心で理解した。
死なずに済んだ私は、どくどくと脈打つ慌てん坊な胸元を押さえつけて息を整える。
背中に感じるあたたかさと深く深く吸い込んだ香りは、私が何よりも好きなものだった。
パチンと弾かれるように飛びのいて振り返る。
「スティーブン!」
「やあ。バイトは終わりかい?」
「え、あ、うん、終わり。帰ろうと思ったんだけど」
「ん?」
去り際のザップさんがチクるなと釘を刺してきたのを思い出す。誰にかというとそりゃあスティーブンやレオやチェインさんやツェッドたちだろう。
怯えるまではいかないものの、少し迷って、言うのはやめた。面倒くさくなりそうだなあと思ったのは否定しない。私がザップさんの名前を出しさえしなければ、ザップさんは口八丁手八丁ありとあらゆるモノを踏み台にしてでもひとりで頑張って誤魔化そうとするに違いない。ていうか元々本人の都合だし……。
「えーと。スケートリンクがあるって聞いて遊びに来たの。スティーブンは?」
「休憩がてら仕事にね」
「ごめんなさい、何語?」
ヘルサレムズ・ロットのジョーク?
「グラーナムのスケートリンクには『うち』も関わっているから様子を見にきたんだ。本当はザップに頼んだんだが、まあ、僕が来たほうが早いしね」
スティーブンは私の手をやわらかく握った。だらりと垂らしていただけの冷えた指先が一気に燃え上がるような気がして反射的に逃げそうになる。でも彼は離さなかった。
「せっかくだから、遊ぼうか」
「え」
流した視線は氷の舞台へ。
否定も肯定もしないうちに、彼と私はリンクに足を踏み入れていた。

スティーブンは私にジャストサイズのスケート靴を選びレンタルしてくれた。新しいのを買おうかと訊かれたけどさすがの私もそのワガママは守備範囲外だ。素直に「いい」と首を振った。
氷の上で止まったまま軽く靴を慣らしていると、スティーブンが意外そうな声を上げた。
「あれ?君、滑れるのか」
「あっちの世界で遊んでたの。ちゃんと可愛く転ぶ練習もしたんだよ!」
「可愛く転んでどうするんだい」
「立つのに苦労してるフリしてイケメンに助けてもらう」
「なるほどなあ。勝率は?」
「あんまし。スキーとかのがいい」
特設のスケートリンクで遊ぶ人たちは大体がカップルと親子連れだ。
「でもさあ」
かたい手のひらと自分の手のひらをそっと擦り合わせて、掠めるように手を離す。
後ろに誰もいないのはもちろんわかっていた。
だから重心をわずかにずらして、すい、と前を見たまま遠ざかる。
グラーナムのスケートリンクは笑い声や滑る音で満ちているのに、スティーブンは自然体で佇んだまま私だけを見つめていて、私はそれがすごくすごく嬉しかった。
自分の顔がゆるく溶けたとわかる。
「今はスティーブンがいるから勝率100パーだね!」
スティーブン以上のイケメンはこの世に存在しないし(……個人的に!)、スティーブンはたぶん私が可愛く転んだら助けてくれるだろう。賭けてもいい。あ、でも何を賭けようかな……。夕ご飯とかかな。ヴェデッドさんの夕ご飯は相当な価値がある。500億円よりも価値がある。
それで今、私は500億円よりも価値があるヴェデッドさんの手料理を賭け金にして出してもいいくらいには気分が盛り上がって浮かれきって自惚れ屋になっている。
「100パーセントにしてくれるよね?」
スティーブンの唇が描く綺麗な弧を見たら誰だってこうなっちゃうだろう。
彼はつま先を氷に滑らせた。
世界から摩擦という概念が消え去ったかのような錯覚に陥りそうになる私を現実に引き戻したのは、氷面に残る線の痕だ。すらりとした体躯は慣れた仕草で背を傾けて速度を殺し、私の目の前までやってくると踵を返すように足を動かしてスケートリンクの表面に少々のかき氷をつくった。
そつもよどみも迷いもない行動にぱちりとひとつ瞬きをする。
見上げた先には一等素晴らしいイケメンフェイスがあって、いつの間にやら乱れていたらしい私の髪をアイ・トゥ・アイで見つめ合いながら指先で優しく整えてくれた。自分の頬がポッと熱くなったのを感じる。チョーシこいた発言をしたって所詮私は私のままというわけか。
「す、スケートリンクの様子を見にきたんだよね?」
当初の目的は確か『休憩がてらの仕事』だったはずだ。改めて考えてみても何を言っているかサッパリわからない社畜発言である。
スティーブンは軽く頷いて辺りを見回した。
「囲いの破損がないかとか、余計な商売が始まってないかとか、そんなところだよ。囲いは少し見て回ろうかな。せっかくだ、一緒にどうだい?」
「お仕事なのに私がいてもいいの?」
「ああ。囲いはただのコンクリだ、機密事項からは程遠い。正確に言うと、どんな情報であっても利用しようと考えれば様々な方面からのアプローチが可能ではあるがグラーナムのスケートリンクが悪徳の舞台として選ばれる理由は殆どない。ヘルサレムズ・ロットにおける異界人界問わないテロリズムに、公園の特設リンクで利用者たちの安全を守る塀がどう利用されるのかは利用されてみないとわからないからね。凝り固まった考えで警戒し続けるよりも気楽にしていたほうがいいのさ」
「へえー……、っヒイ!」
冷たいコンクリートに触った手は、繊細なのに骨ばってごつごつした大きな手にギュッと包み込まれた。供給過多で死にそうだ。ダイイングメッセージとかいうやつは爪で氷に彫り込めばいいのだろうか。
「怖い?」
「大丈夫」
滑るのはね!
「ぐるっと1周まわるだけだ。転けそうになったら僕にしがみついたらいいよ。もちろん可愛く倒れるのでも」
耳元で悪戯っぽく囁かれ、フツーに何の意図もなく腰が抜けそうだった。

ガードレールに問題はないようで、スティーブンは特段何も言わずに氷の上を進み続けた。
片手は常に私と繋がれて、スケーティングにメリハリをつけてやろうという謎の気づかいなのか時おりぐっと引き寄せられて速度が上がるので私はひとりでヒヤヒヤしていた。
素人に毛が生えたぐらいのレベルでしかなくたって私はひとりで滑ることができる。だからスピード自体にはあまり恐怖を感じない。
しかし踏ん張りが利かなくてスティーブンにぶつかってしまうかと思うと焦る気持ちが湧き上がるのだ。勢いのついた状態で好きな人に体当たりしたい乙女がどこにいようか。
ありえないとわかってはいる、わかってはいるが、スティーブンが私の重み(……勢いがついて!)に耐えきれず尻もちをついてしまう可能性だって宇宙中に散らばる塵の中のひとかけらくらいには存在しているのではないか。
好きな人に体当たりして全身で温もりを感じたい欲望はいつだってある。だがそれとこれとは話が別だ。理屈ではない。別なのだ。
周遊を終えて出入り口付近まで戻ってきた私の手のひらはべちょべちょだった。大した運動でもないのによくぞここまでと感心できる量の手汗だ。泣きたい。
「えーと、休憩がてらのお仕事っていうのはこれで終わり?」
ザップさんは他にも何か言っていたような気がする。
彼の名前は出せないため、スティーブンの顔を覗き込んでちゃんと質問した。
明るくて暗い、光の加減で印象を劇的に変える魅力的な瞳が、真っ白にくすんだ氷上を一瞥する。
膜が張るような1枚の氷を乾いた指の腹が撫でる。いやに艶っぽい仕草に見えて息をのんだ。
。良ければ少し滑ってくれないか?」
「え?」
「問題がないか聞きたいんだ」
「はあ。……私でよければ……」
氷になんて全然詳しくないから良し悪しの判断にチョー困る。
プロに頼んだほうが確実なのではと戸惑う心をよしよしと宥め、私はスティーブンを置き去りにして氷上にブレードで円を描いた。
周囲には楽しそうなカップルや友人同士の笑顔がある。
慣れない恋人を支えてあげるシチュエーションはロマンチックで大好きだった。実際に元カレがアイススケートを教えてくれたときには『こっちが必死こいて倒れないように頑張ってんのにヘラヘラ笑ってる場合!?』とキレ気味で詰め寄ってしまったが彼のおかげで人並みには滑れるようになった。今では悪いことをしたと反省している。
(……に、しても)
足元に意識を持ってゆくとよくわかる。
あつらえたかのように滑りやすいリンクだ。
いや、もちろんあつらえたんだけど。特別企画のアイススケート会場として質のいい氷で場を整えたに違いないんだけど。
人のかたまりをツツツーッと避けてスティーブンのところへ戻ると、彼は悠々とした態度で私を待っていた。スラックスのポケットでまったりさせていた左手でこちらの頬を包むようにして耳たぶの冷えまで癒してくれる。
「どうだった?」
「すごい滑りやすかったよ!」
悪ノリした若者がわざと氷をえぐりまくった一角すらも『転倒しにくい』というプラス要素に変換されて誰も不幸になっていなかったし宇宙と交信でもしてるのかと疑りたくなるスピンを延々と続けるハゲたおじさんもすっごく回りやすそうだった。わかんないけど実際に回りやすかったんじゃないかなと思う。楽しそうだったし。
「そうか。だったら最終日までは放っておいても良さそうだな」
「わかるの?」
「なんとなくだよ。ああ、念の為に言うと僕は氷と喋れるわけじゃない」
「念の為に言わなくていいよ。でもありがとうございます」


あの乗り物はランブレッタと呼ばれているのをよく耳にする。
ぼけっと煙草の煙を吐き出すたびに停滞する苦い匂いを細くした吐息で吹き飛ばしていたザップさんは、私に気づくよりも先にスティーブンの姿を目にしたようだった。ギョッと目を見開いたあと殺人鬼のような眼差しでガンをつけられ気が重くなる。ザップさんの話はしてませんってテレパシーで伝えられたらいいのになあとしょんぼりしてしまう。
「スターフェイズさん、来てたんスか」
「直接見たほうが早いだろ?呼び戻さなくて悪かったな」
「や、べつに……、あー、……元は俺の仕事ッスからね!」
「見上げた発言だ、ザップ。お前の手元からピアノの匂いがしなければ更に良かったんだが」
「あー……」
「わざわざゲットー・ヘイツまで行ったのか?」
「あそこじゃねーと売ってねーんスよ」
「半分流通規制がかかってるようなもんだからなあ。何箱買った?」
「ダース」
「お前、また支給金空っぽにしたのか……」
私にはちんぷんかんぷんな会話だ。
かろうじて、ザップさんが仕事を放り出して買いに行った煙草が激レアな逸品なのは理解した。
ザップさんが仕事をサボって中抜けしたとわかっているスティーブンはザップさんを無言で見下ろし、バレてしまったザップさんは口元を曲げて居心地悪そうに肩をすくめた。
スティーブンがザップさんに手を差し出した。
「説教、小言、フルーカ女史へのおつかいかピアノ1箱。どっちか選んでくれ」
褐色の手はソッコーでスティーブンの手に新しい煙草の箱をのっけた。そんなに嫌なんだ。特にどれが嫌なんだろう。
悪戯が見つかって不本意に叱られた少年のような表情で唇を突き出して、ザップさんはモゴモゴと言う。
「喫うんスか」
そういえばそうだ。煙草を欲しがるのは喫うからか。
喫煙するスティーブンを想像すると、日常からかけ離れたブレイク・ザ・ロウな雰囲気があまりにも強く匂い立つ色気と罪の集合体が出来上がってくらくらした。私ごときには刺激が強すぎる。
興味と胸のドキドキに従って彼の答えを犬のように待つ。
スティーブンの答えはあっさりドレッシングよりもあっさりだった。
「旨くて珍しい煙草は報酬になる」
これはこれで、私の知らないオトナの世界だ。

そのあとはなんとなしに3人仲良く(……仲良く?)公園のベンチで話をしていたのだが、スティーブンの休憩時間が終わるころ、私は「あ!」と立ち上がって、去りそうな背中を呼び止めた。彼が肩越しにこちらを見る。
「私、楽しかった!ありがとう!」
少し黙ったあと、向けられたのは笑顔だった。
「僕もだ」
「うん、……それだけ!ありがとう。お仕事頑張ってね。あ、頑張ってるのは知ってるんだけど、今の『頑張って』はもっと頑張れって意味じゃなくて」
「わかってるから大丈夫だよ」
「だ、だよね」
「ああ。、気をつけて帰ってくれよ」
「うん」
どこが琴線に触れたのか、私の胸はぽかぽかと陽だまりのようだった。ひらひらと手を振るとスティーブンも片手を揺らしてくれる。
落ち葉、砂利、道端を飾る足音が遠ざかってゆく。
私はベンチに腰を下ろした。
もったいながりながら細い煙草をすぱすぱするザップさんが片眉を上げる。
「甘ったりーな。ジュニアスクールでシンデレラに選ばれたような顔しやがって」
「え!?どんな顔!?」
「鏡見りゃ良いだろ」
たなびく煙を鼻先に吹きかけられゲホゲホ咽せるうちに、ザップさんまでベンチから立ち上がってしまった。
「行っちゃうんですか?」
「仕事中だ、シゴトチュウ。TPOに追いかけ回されるアワレな社会人ってヤツぁ自由気ままなガキンチョフリーターとはご身分がちげーんだわ」
こうも堂々とされるとすべて私が間違えている気がしてくるから不可思議だ。
今日も今日とて碌な反論も思いつかず、バカのひとつ覚えみたいに首を縦に振って日常茶飯事な煽りを受け入れると、ザップさんは満足げなしてやったり顔を残して車の海に突っ込んで行った。意外に丁寧な運転なので、六法全書に認められる文言の中であの人を唯一従えられるのは道交法だけではないだろうかと地味に思う。
残された私も、ひとりきりで公園にとどまる理由がない。
混み始めたスケートリンクを一度だけ振り返って、帰り道を歩き出した。





2018 0205