14


誰かの話し声が頭の中でぐるぐると回る。巻貝に耳を当てるとさざ波の音が聞こえるだなんて言うけれど、イメージはそんなふうだった。
ゆっくりと目を開けてようやく自分が起きたのだと知る。感覚が肉体に置いてけぼりにされてしまった。
ベッドシーツに染み込んだ体温を逃したくなくて、上掛けを肩まで引っぱってみっともなく丸まる。
霞む視界で隣を見るが、そこには誰もいないだろう。同じベッドで眠った夜も、私は彼より遅起きだ。
しかし現実は私の予想を裏切った。裏切りに裏切りを重ねた結果むしろこれが正しい形なんじゃないかって不安になるくらい盛大に裏切った。
「そこまで言うならありがたく休ませてもらうよ。悪いな、クラウス」
声につられて上げた視線の先には、私がいた。
薄っぺらな夜着のキャミソールとショーツだけを身につけ、背もたれにした枕に気だるく体重を預けながらむき出しの片膝を立てて座る、『私』。
電話の暇つぶしかなんなのか、透明のマニキュアでつやつやにコーティングしたばかりの爪先を撫でてみたり梳かしてもいないはずの髪を手の指に巻きつけて遊んでみたりと細かい動きも繰り返す。
やがて石化した私に気づいた『私』は、電話の相手(……クラウスさんかな)を安心させようとした軽口を取りやめて「が起きた」と告げ通話を切って、スマートフォンを枕の横にぽんと置く。その仕草はどことなく『私』に似つかわしくなかった。
「だ、……だれですか……」
硬直したまま寝起き以上のマヌケ面を晒すのは不本意だったものの今の私にまともな思考ができるはずもない。
出した声が自分のものでなかったことも混乱の走りに拍車をかけた。
なんだ、これ。
低い声だった。
本来ならば落ち着いた音で、ひと言喋るだけで聞く人をうっとりさせるのだろうとわかる音色だ。この声で名前を呼ばれれば野うさぎだってフラフラと駆け寄ってくるに違いない。警戒心などカケラも呼び起こさせない。
百戦錬磨の女すらメロメロになりそうなパーフェクトボイス。
どこかで聞き覚えがある気がした。
目の前の『私』は口角をゆっくりと上げた。唇が弧を描く。私だったらこんな顔、絶対に無理だ。自分の顔なのにドキッとした。あと、やっぱし私って顔可愛いなと思った。
軋まないベッドの上で足を崩した彼女は、シーツに手をついて私の顔に顔を寄せた。
思わず逃げようと枕を盾に引っつかんだとき、違和感に気づく。
手が私のものではない。
己のもののように動かし、己のもののように動いた手は私のそれよりずっと大きく、骨ばって、恐る恐る手のひらを握り締めると厚く硬かった。
下着以外の何も身につけていないらしい自分の肌を視線で辿る。
皮膚は日本人の女性がうたう美白なんぞの種類とはまったく異なる、人種特有とすぐにわかる硬質な白さ。
細身の中にギュッと絞り込まれた鋼のような筋肉が、手を握り締めているせいでよくわかる。
その表面を鮮烈に彩るのは、目を奪う不可思議な紋様だった。
意味のわからない狂った予想を否定したくて、引っ張り上げたばっかりの上掛けをそっと持ち上げて中を覗く。
鍛えられた胸、腹、ついでに男物の下着と来て更に伸びる長い脚にくまなく張り巡らされるのは見慣れない、けれどよく見るカタギではなさそうな銭湯お断りの刺青で、それで、つまり、そして私は。
彫像になった私の顔を手で持ち上げた『私』は、お互いの鼻先が触れ合うほどの距離までこちらに顔を寄せた。
キスされるかと誤解するほど甘い眼差しの奥の瞳の中には、超似合わない情けなさ全開のスティーブンの顔があった。
「おはよう、
そう言って、『私』は私に口づける。
押しつけただけですぐに離し、失礼なことに顔をしかめた。
「自分の顔にするのは具合が悪いな」
だよね、と私の冷静な部分が同意した。

慣れない身体にもじもじする私に「ちょっと見ていてつらい」と言われること15回。
私ってこんな真剣な表情ができるんだあ、と感心すること20……何回かな。いっぱいだ。
最後の最後に要約してくれたところによると、私たちは目が覚めるとお互いの身体が入れ替わってしまっていたらしい。
らしい、なんて現実逃避したってリアルにスティーブンの身体を動かしているんだから認めるしかない。ジョークにしてはたちが悪いし。仕事人間のこの男が有給(……あるのか?)を自主的に消化しにトンチキな手段を取るはずがないのだ。
「なんで入れ替わっちゃったの?」
「報告によると、堕落王のお遊びだ」
堕落王フェムト。
ヘルサレムズ・ロットで彼の名前と性格を知らない者は初心者かモグリと言われるスゴい迷惑な人だ。
堕落王の仕業なら仕方ない、のか?
「えーと、じゃあ……、あの、なんで入れ替わっちゃったの?」
同じ言葉しか出せない私の情けなさが極まる。
頭の回転が朝からハイクオリティな男(……女の身体)は質問の意味を完璧に読み取って答えた。過ぎたる賢さはバカをダメにする。
「深夜1時に『そういうコト』をしていた人物は翌朝に行為の相手と入れ替わる仕掛けだとさ」
「『そういうコト』?」
「セックス」
「うわっ!!」
直接的だ。
「性別問わず」
「性別!!」
「ちなみに複数人の場合はランダム」
「複数人!?」
ランダムは怖い。いや、ランダムじゃなくても怖いけど。
1日経てば治ると明言された完全なるジョークイベントだそうで、スティーブンは良い機会だと自宅待機、すなわち休養を命じられた。戦いの使いものにならないからだろうか。頭脳労働ならできそうなのに。
まあお休みが生まれるのは素敵な話だ。泳ぎ続けないと死ぬ魚でもあるまいし、たまには働かない日だって必要である。
身を起こして真剣に話を聞くうちに、不意に下腹のあたりがぞわっとする。人間として生まれついてこのかた、何度も感じたむず痒いようなぞわぞわ感だ。
人はそれを尿意と呼ぶ。
(う、あー……そっ、か、トイレ……!)
落ち着きが消え失せた。
トイレに行きたい。
でも、私はいま、『私』ではない。
女の身体じゃないのだ。
スティーブンだ。
男だ。
オトコなのだ。
「ああ……、トイレ?やり方はわかるかい?」
「やり方!?作法があるの!?」
「ないはずだよ」
よかった。
「ひとりでできるかい?」
頷いても頷かなくても待つのは地獄だと思う。
私は頷いてベッドを降りた。
身体の大きさが違うせいで重心がうまく取れず一度だけ膝が折れたが、バランスを崩したのはそのときくらいで、あとはゆっくりと歩いて進むことができた。すごい。手足のリーチの異なりが認識できてなくて色んなものにぶつかったのはノーカンとする。
トイレに入って、便器の前に立つ。オーケー、と呼吸をする。
オーケーオーケー、大丈夫大丈夫、よく考えたら私はパンイチだったしこの肉体はスティーブンのものでどこもかしこも匂い立つような色香を放っているし今日の下着はゴムの部分に赤ラインの入った黒いやつだし明らかに、圧迫感があるけど、大丈夫大丈夫、大丈夫だ。
大丈夫にしてさっさと事を進めないと、このままだとスティーブンの名誉が傷つくことになる。結構限界だ。
でも、私、どうしたらいいんだろ。
パンツを脱いで座ればいいのか?男の人は便座を上げるイメージだけれどもスティーブンはどっち派だろう。
「言い忘れたけどその下着、ポケットが……」
「ひぎゃー!!」
とりあえずパンツのゴムに手をかけたところで背後のドアが無遠慮に開いて『私』が顔を出し、『スティーブン』の絹を裂くような悲鳴が響いた。

できるだけ飲みものを飲まないようにしようと決めた朝。
結局はスティーブンの介助を受けて羞恥と若い人間性の崩壊と幻滅への恐怖と戦った私は、「スティーブンは?」と問いかけて後悔した。ヤツはケロッとした顔で「もう済ませた」と言い放ったのである。
もはや相槌しか打てない。なんの動揺も躊躇もなく本能のままに正常な生理現象をいなしたのだろうなと想像できたからだ。私のダメージは倍増したのに。
ため息を隠して紅茶にミルクと蜂蜜を混ぜ、お行儀悪くキッチンで立ったまま啜る。隣では同じように、私の姿をしたスティーブンがブラックコーヒーをひと口飲んだ。
「ん?」
「あれ?」
なんかヘンだ。
いつもどおりの分量だから(……テキトーだけど)大きな間違いはないはずなのに味が違う。蜂蜜はこんなにべったりした甘さだったっけ?なんか、『疲れてたらすっごくおいしいって感じるかもしれないけど今は疲れてないからたくさんはいらないなあ』って味なんだけど。
スティーブンも首を傾げる。頬にかかった髪は邪魔そうに耳にかけていた。少し慣れていなく見えるのは、髪を耳にかけた経験はあっても、それが相手の女と向き合ってだか並びあってだかしながらの色っぽーいやり取りの一環だったからだろう。自分の身に降りかかると長めの髪は邪魔なのだ。暑いと汗で張り付くしさ。
「ちょっと君も飲んでみてくれないか?やけに苦いんだ」
「えー?……そう?」
「ああ。君の紅茶もひと口もらっていいかな」
「いいよ」
スティーブンは私の1000倍お淑やかに紅茶で唇を湿らせた。
「美味い」
「ホント?このコーヒーもすごいおいしいよ!」
コーヒーのブラックってまさに大人の味覚がなければおいしく感じられないんじゃないかと思っていたけど、これはかなり飲みやすいし、まるで長年愛飲してきたかのようにスッと馴染む。
もちろん苦味はあるけど香ばしさのほうが強く感じられて、スティーブンってコーヒー淹れるの上手なんだなあって感心した。
スティーブンは『私』の顔に似合わない表情で顎に手を寄せる。
「味覚は身体に準じるのかもしれないな」
「ってことは私の紅茶は『スティーブン』からすると甘すぎるのかな?」
飲む?って訊いて飲ませた記憶の中では『おいしいよ』って微笑んでいた気がするけど無理をさせていた可能性が出てきた。ごめんなさい、かなり甘いです。
「あ、じゃあ今日は『スティーブン』についての勉強ができるね?」
「というと?」
「何が好きなのかとか?普段おいしいって言ってくれてても実は……みたいなのがないかなとか」
スティーブンはぱちりと目を瞬かせて、それからちょっとだけくしゃりと笑った。
「ないんだけどなあ」

知らない感覚にいちいち驚く。
味覚だけでなく、スティーブンは耳も良かった。物音に敏感だ。くしゃみをするときは近くに彼がいなくても可愛くやるように心がけよう。はっくしょん!は以ての外だ。
でもスティーブンの身体で「くしゅん!」ってくしゃみをしたらスティーブンに「居た堪れない。頼むから普通にくしゃみをしてくれ」と嫌そうに言われてしまったから今は心置きなくくしゃみをする。
スティーブンが『自分の身体の可愛いくしゃみ』に居た堪れなさを感じるというのなら、私も彼の行動にハラハラするところがある。
できるだけトイレに行かなくて済むように飲みものを控えめにする私とは違い、スティーブンは日常と変わらず喉を潤すのだ。
しかも、『私』の味覚にぴったり合って満足できる味を探すかのようにいろんな種類を。
案の定、スティーブンは朝食から間も無いうちにソファから腰を浮かせた。
「待って!」
「うん?」
待ってくれた。まだ待てるみたいだ。ちっとも救いではない。
「あの、えっと、あなたは……どこに行くの?」
「トイレ」
「……私の身体で?」
「うん」
「だよね」
彼に抵抗はないのだろうか。順応力が高すぎる。
「僕は既に朝に一度行っているし、君にとってはこのまま行かないほうが悪夢だと思うけど?」
イメージして心が死んだ。
掴んでいた服の裾から指を離す。『私』は何事もなかったかのように廊下の向こうへ消え、しばらくしてから戻ってきた。私はソファの上で長い脚を折りたたみ、膝に顔を埋めてむせび泣いた。
「もうお嫁に行けない」
「必要あるかい?」
鼻で笑うような言い方に反射的にムッとする。
オトメのユメに対してのあんまりな扱い。この男は選り取り見取りつかみ取りだから仕方はないが全世界の女子を敵に回すセリフだぞ。
全世界は言い過ぎたかも。
「早めに慣れたほうがいいよ。あと、僕の身体で……」
「はい、膝抱えません」
慣れろとか言うくせに自分はワガママか!!

自分の身体を上の視点から眺める余裕ができて、むうと口を尖らせながら手を伸ばし『私』の肩に触れる。
スティーブンは『私』の顔でこちらに振り向いた。
眼差しがとても深く落ち着いていて、垂れ落ちた髪を耳にかける仕草ひとつすら私には真似できない。
「どうした?」
声音は『私』。
言葉は、スティーブン。
「ううん、何でもない」
声音はスティーブン。
言葉は、私。
あっと閃いてしまった。
ローテーブルに置いてあるスマホを手に取ってロックを解除する。
焦る指先で操作をミスりながらカメラアプリを起動した。すぐに『写真はNGかも』と気づいて録音アプリに切り替える。
この色男が絶対にしないようなギラついた視線を生んでいる自信がある。
「スティーブン!……いや、待って!やり直し!」
「遊びでも思いついたのかい?」
「うん!ね、演技指導して。これから私、『私』に愛を囁くから」
「……えーと、何だって?」
私はいまスティーブンだ。スティーブンの声を出せる。だったらスティーブンが普段言わないような愛の囁きをスマホに録音して、もだもだ疲れたときの起爆剤にしたい。
かつてなく勢い良い説明に、スティーブンは片眉を上げた。
「じゃあとりあえず、好きに言ってごらん」
大きく頷く。
口を開いた。
「愛してる」
空白がひとつ。
「きゃー!!恥ずかしい!スティーブンが私に『愛してる』って言った!」
「企画倒れだ。やめよう」
「こっち見て!」
「じゃあもう少し『僕っぽく』してくれ」
「だって恥ずかしい……愛してるって……アイシテルって言ったあ」
「君がな」
ごもっともだ。
スティーブンの気持ちはよくわかる。もじもじしている自分を見るのは想像を絶する苦痛を伴う。だけどこっちも脳みそが溶けてるからマトモな精神でいられない。
きっと頬は真っ赤だ。私の顔が嫌そうにしてるもん。
クールダウン、クールダウン。
大きな手で自分の手をギュッと包んでみる。ヘンな感じだ。絵面的にはサイコーだからテンションを上げていこう。
。大好きだ」
「声が硬いな。目の前に座ってるのは人間じゃなくてベーコンだと思ってごらん」
「あなた私のことベーコンだと思いながら口説いてたの?ホントに何?」
「たとえばだよ」
堂に入った指導だったが。
相手はベーコン、相手はベーコン。
私はベーコンエッグを脳裏に描いた。じゅうじゅうと焼き音を立てて少しだけ端っこが焦げたベーコン。ナイフで切り分けるのがちょっぴし難しい朝のベーコン。おいしいベーコン。私はベーコンが好きだ。
、大好きだ」
「……そこまで食べものに寄せなくて良いかなあ。人間対ベーコンが2対8くらいだっただろ、今」
「わ、わかんないです。気をつけます」
限りなくベーコンじゃん。
悩むこちらの、左頬をなぞるように細い指が滑る。「え」と薄くあけた唇に、淀みのない動きで柔らかな唇が重なった。
ついばむようにして何度も角度を変えた口づけは突然始まり突然終わる。
「あのねスティーブン、あいしてる」
喋った。『私』が喋った。
吐息混じりの囁きは艶っぽく、熟れた果実のようだった。
逆立ちしたって私はこんな声を出せない。
スティーブンはこちらの頬に手を当てたまま、微かに目を細めたように見えた。
じゃないな」
「はい?」
「何でもないよ。僕は君になれないなあと思っただけだ」
「たぶんスティーブンが私になれないんじゃなくて、私にあなたになる素質がないんだよ」
「でも合コンではモテた?」
「モテたよ。あなたと同じくらいね!」
生意気に誇張した。
「さて、僕は自分の顔にキスをするという最悪の苦行に耐えてまで君にお手本を見せたワケだ。もちろん一発でオーケーを出させてくれるんだよな?」
「えっ」
さっきのお手本だったの。

リテイクを食らうこと数十回。途中で不貞腐れてたら鬼教官が『私』の声でクラウスさんに電話をかけようとしたので慌てて持ち直して謝った。
ギリギリ合格をもぎ取れたのは、恥ずかしすぎて照れすぎて目を潤ませすらしながらうずくまって絞り出したひと言だった。
「っ……、大好きだよ」
心臓が止まって床に転がってしまいそうな殺傷力。
スティーブンはしばらく考えたあと、録音アプリを停止させた。
10秒に満たないその波形部分を切り取って保存する。他の部分は捨てられた。数時間の苦労はタップひとつで消えてしまう。
泣きそうな私の耳元に端末が寄せられ、無感動な指が再生ボタンを押した。
たったいま私が吹き込んだスティーブンの声が鼓膜を震わせる。
「きゃーっ!!スティーブン!スティーブンが!!私に!!そんな私の声もスティーブン!何が何だかわかんない!」
頭の回路がゴッチャゴチャである。
ソファの座面に突っ伏していると、スティーブンは私に「満足したかい?」と問いかけた。
大満足だ。これで、元気の起爆剤どころか毎朝のアラームに設定して幸せな目覚めを迎えられる。嬉しくて仕方がない。スティーブンの声が私の名前を呼びまっすぐに好意を伝えてくるなんて死んでしまってもおかしくない。
そのようなことを子供みたいにまくし立てると、女の顔は良かったなと言うように淡々と微笑んだ。
手が動き、眼前にスマホの画面を突きつけられる。
「お疲れさま」
首を傾げた私の目の前で、悪魔の手は奇跡のファイルを消した。
「……ふあ?」
「申し訳ないとは思ったんだけど、ちょっと気に食わなかった」
「出来がですか?」
「そんなところ。僕は君じゃないし、君は僕じゃないなとよくわかったよ」
「当たり前じゃん!?わかっててやってるんだよ私は!欲しいの!スティーブンに名前を呼ばれたいしスティーブンに大好きって言われたいしあのボイスをアラームにして起きたかったの!」
「さっき聞いたよ」
「スティーブンだって恋人に毎朝起こされたいなーって思ったことあるでしょ?好きな人の声はいつだって聞きたいでしょ!?元気が出ないときとか、無性に聞きたくならない?私は聞きたくなるの。スティーブンの!声が!聞きたく!なるの!」
っていうのをスティーブンの声で主張するのもどうなのかって話だけど。
あまりにも必死な自分の姿が情けなくなったのか、スティーブンはこっちの頬をぐにりとつまんだ。
「わかるよ、僕だって恋人の声は聞きたくなる。何となく元気が出るんだよな。気のせいでも」
「最後に付け加える必要ある?」
ぐにぐにされて、ああスティーブンってほっぺをぐにぐにされたらこんなふうに感じるんだなあって考えるうちにエネルギーの風船からぷしゅうと空気が抜けていく。気疲れした。ものすごい。
頭が落ち着いて現実に戻ると、ぞわぞわしたむず痒さが急に背骨を走った。
(うわ、トイレだ)
逃れようのないリアル。
我慢したって誰も得をしない。
「……トイレ行ってくる」
「手助けは必要かい?」
「い、いいいいです」
動揺した拍子にまた脚の長さを間違えてソファにぶつかった。
頑張れと呟いてトイレのドアを開ける。自分で言ったのにスティーブンのバリトンボイスが私の名前を呼んだことに胸が高鳴った。試練を前にして顔は青ざめていたけれど。

ひとり残されたスティーブンは、慣れない足を組んで腰の力を抜いた。
クッションにもたれて中空を眺める。つつつ、と視線を動かして廊下の奥を確認して唇を舐める。
「……スティーブン」
の声が小さく響く。
スティーブンが『』の喉を震わせる。
「起きて、スティーブン。おはよう、大好きだよ」
それからくつくつと肩を揺らして笑った。
「君は僕より早く起きないだろ」
言われてみたくもあるが、まあ、そういうことだ。
僅かに瞳が優しい光を帯びる。
「しかし、似ないなあ」
スティーブンが愛しているのは、彼がどう頑張ったって演じられないなのだ。


今日のシャワーは免除としてもらい、私はスティーブンのパジャマを着てスティーブンの枕に倒れ込んだ。
「疲れた」
「明日になれば元どおりだ。待ち遠しいよ」
同感だけど言い方が気に入らない。
じろりと見上げた先で座る『私』が穏やかに口角を上げていた。
「筋肉がなさすぎて動きが重いんだ」
「……触り心地重視なんですー」
これでもダイエットを兼ねた筋トレに励んでいるつもりなのにショック極まる。
苦し紛れの呻きはスティーブンの笑いしか誘わなかった。
ムスッとしたまま今日の出来事を思い出し、辿りついた先に朝の驚愕がある。
あのときはびっくりした。自分がスティーブンになっていたのだから悲鳴をあげたって当然だ。スティーブンだって、起きて『私』になったとわかったときには狼狽えたに決まっている。ビビらなかったのならどんだけ心臓に毛が生えているのだと訊きたい。
どうして入れ替わってしまったのだっけ。
「……ねー、スティーブン」
間抜けすぎる呼びかけ方だ。天地がひっくり返ったり紐育がヘルサレムズ・ロットになったりしたってスティーブンはこんな話し方はしないだろう。
指先で指先を撫ぜる。
指と指を絡め合う。
「夜に……したから入れ替わっちゃったんだよね」
「そうだよ」
「前もあの、異世界人としたから、……ヤバいことになっちゃったじゃん?」
「そうだなあ」
どっちも眠れない夜が発端だ。
「……もう私と……その、……ダメかな!?あのさ!ほとんど全部呪われてるからイヤになっちゃう?」
この女としっぽり行くと悪い事態に見舞われるから二度とやりたくないって言われてもおかしくないし頷ける。
スティーブンは優しいから否定してくれるとは思う。
だけどどうしよう。彼の内心はあんまりわからない。隠そうとされればきっと決して読み取れない。
何もかも見透かすような眼差しは『私』に似合わない。
見つめ合うと、脈絡なくシーツの波が私にぶっかかった。
あわを食って布をかき分ける。
外れた目隠しの向こうには『私』がいて、女体は思いっきりこちらの骨の硬い肩を押した。ベッドシーツに身体を縫いとめられる。
スティーブンは白い(……私の)太ももが露わになるのも構わず膝立ちでこちらの腹を跨いだ。
両手を使って豪快にパジャマワンピを脱ぎ捨てる。
唖然とするしかない。それ、私の身体なんですけど。
「自分をどうこうするのは気味が悪いけど、中身は君だから面白い結果になるかもしれない」
「ごめんなさい、何の話?わかるけどわかりたくない」
「だって君は口で言ったって不安がるだろ?」
「だからって、もしかして、スティーブン」
ぷちぷちとボタンを外される。
襲われる。
私、襲われてる。
スティーブンがに襲われてる。
「きゃー!!」
「おいおい、勘弁してくれよ。具合が悪くなる」
「じゃあやめてください!わかった!わかったから!イヤにならないのはわかったから!」
「うわ、押さえつけるだけの力が出ないな」
素直に不便そうだ。
それでもズボンに手をかけられそうになったので、私は両手で『私』の手首をすっぽり掴んで痕になるくらい強く握りしめた。
「入れ替わりが戻ってからのほうが良い!」
動きが止まった隙を見て腰を引く。
ずりずりと後ろに下がって逃げきった。
「良かった。僕も自分を弄りたくはなかったんだ」
止められることはわかっていたのか。
白い手首には赤い手形がついていた。
スティーブンは男物のパジャマの前ボタンをきちんと留め、襟をきちんと折ってポンポンと肩をたたいた。
自分も放り投げたパジャマを取りに行ってかぶる。
袖に腕を通して、ベッドに戻って寝心地が良いように羽毛枕をぽすぽす殴った。それは私の枕だ。
「おやすみ、
包容力のある私。こんな事件がなかったら永遠に知れなかった自分の表情である。
「おやすみなさい、スティーブン」
おつむが綿菓子でできていそうなスティーブン。こんな事件がなかったら永遠に見られなかった彼の姿である。
スティーブンが手を繋いでくれる。
目を閉じると、瞼の裏で星がちかちかと瞬いた。
彼は毎晩こんな景色に包まれながら眠っているのかな。
(堕落王さん堕落王さん。どうか、どーか!明日の朝にはちゃんと戻ってますよーに!)
強く祈って、それから気がつくと、奔流に飲み込まれるような衝撃を受けて瞼を開けていた。

カーテンの隙間から朝陽が射し込む。
ぴくりと動かした手の感覚は小さく、昨日のそれよりずっと弱々しい。
真っ白で夢見心地だった意識が徐々に浮上する。
私は誰かと手を繋いだまま眠り、目覚めたようだ。
指の先、腕の先。
目の前にはこちらを向いて静かな寝息を立てるスティーブンがいる。
枕に横顔をうずめて、睫毛の1本も動かさずぐっすり眠って動かない。
身体は元どおり、入れ替わりは解けた。私は私でスティーブンはスティーブンだ。
枕元の時計に目をやると、アラームが鳴る少し前だった。あと1分もすれば無機質でつまらない音が鳴るだろう。
彼は忙しくって、睡眠は大切な休息だ。
1分だってすっごく貴重。
でも、今日の私は彼の1分を奪うことにした。
身を乗り出し、彼の耳に顔を近づける。
「ねー、スティーブン。朝だよ。入れ替わり、治ったよ。ホントのあなたの声が聞きたい。寂しいから早く起きて」
まだ頭のえらい部分が吹っ飛んでいたのかもしれない。
囁きへの返事は「ん……」と死ぬほど色っぽい爆弾じみた吐息だった。ヤバい。スティーブンの吐息で世界が狂う。人類すべてがスティーブンに籠絡されてお腹を見せると思う。
うっすら覗いた紅茶色の瞳に無理やり自分の顔を映して、精いっぱい可愛く微笑んだ。昨日スティーブンが作った私の表情には遠く及ばないけれど、これでも合コンでは大好評だった。
「おはようスティーブン。ねー、スティーブン、大好きだからベーコン焼いて!」
「…………」
ピピピピ。ピピピピ。面白みのない電子音が聞こえる。私より先にスティーブンが長い腕を伸ばして時計を軽くビンタした。
「おはよう、。……僕は愛してる」
「ふあっ!!ありがとうございます!ベーコン!?」
「ベーコンだと思うかい?」
「……おもわない、かも」
求められるまま頬と頬をすり合わせ、うっとりと目を閉じる。ちょっぴしチクリとしたところがまたたまらない。朝から心臓に過負荷がかかる。
「今日は早く帰ってくるよ。何もなければ昨日の後処理がメインだろうから」
「あ、そうなの?じゃあ私も早く帰るね!夕ごはん食べられるかな?」
ワクワクして一気に顔が輝く。
「待ってるね」
「うん。待っていてくれ」
2人してニコリと微笑みを交わした。
ちなみに、昨夜の話は完全に忘れていた。
記憶力がペラペラなのにも限界がある。もはや罪悪に近かろう。




2017 0923