13


これはやきもちを焼くちょっと前。本当にちょっとだけ前の話だ。
あまりにもちょっとだけなので、サンドイッチの味さえ思い出せる。

こぼれそうな具をおさえる。
さんって、スティーブンさんと喧嘩しないんですか?」
「喧嘩?」
「ほら、こう、シラフで。異界の薬とか酒とか関係なしに」
唐突な質問だ。そして内容が穏やかではない。
レオにはもう私のアホなところや軽率な部分や神経の死んだおつむの出来をたっぷり把握されている。私が短気だということももちろん知られている。だから何かにつけてイライラすると思われていたのだろうか。そんなこと、レオの前でしてたっけ。
記憶をたどったら覚えがあるかもしれなくて気まずかったので思考を打ち切った。絶対にある。レオにはバイトの愚痴を吐いたりして甘えているから間違いない。
だが『喧嘩』という響きにはちょっと馴染みがない、気がする。
私の中の『喧嘩』のイメージは、数人が集まってそれぞれへの怒りをぶちまけたりぶちまけられたり不満が飛び交ったりする罵詈雑言とヒステリーのサーカスだ。かしましくて見苦しいと目を背けたくなるやつである。
喧嘩をしないのか、と訊かれてもぴんとこないのは、私がそんなはちゃめちゃなサーカスの成立する条件が『同レベル』か『対等』であることだと考えているからだった。極端な例だが、大人と乳児は喧嘩をしない。というかまともな喧嘩にならない。
スティーブンは大人で、私は乳児ではないものの彼よりもずっと精神が格下だ。きゃんきゃんとこちらが喚いて不快にさせることはあってもスルーされるだろうから、意見がぶつかり合って険悪な空気を胸に取り込むことにはならないだろう。
そもそも私はスティーブンになんの不満も抱いていない。喧嘩の種になるような事象が存在しないのだ。スティーブンにはあるかもしれないけど、彼はきっと自分の中で消化してくれている。ぶつけないように気をつかう余裕を持ち、いつだって優しくしてくれる。
「しないかなー」
「仲いいんですねー」
私とレオはのんびり言って、ハムたっぷりなサンドイッチにかじりついた。

平和なハムサンドの翌日のことである。
私は震える手でレオに電話をかけた。
かなりの早朝だ。彼の声は少し寝ぼけてぽわんとしていたが気にする余裕はない。
電話をかけたくせに何も言えずにいる私を訝ったレオに何度も名前を呼ばれる。「大丈夫ですか?」と言われて、ようやく声を搾り出せた。
「スティーブンと、喧嘩、した」
たぶん、ここにレオがいたら、私は彼の口が大きく開かれるところを見られたに違いない。
お互いに言葉が出てこなくて沈黙が流れる。
「しないって言ってたじゃないすか」
私だってそう思っていた。
だが、現実として、やりとりがぎこちなかったのは事実だ。
「何があったんですか?」
どう説明すればいいものか、電話口で「えーと」だとか「うーん」だとか切り口に迷ってからゆっくりと言う。
「スティーブンに『好き』って言ってほしくてね、『好きって言って』っていつもお願いするんだけど」
昨夜もリビングルームでそんなふうに話しかけた。
前振りのない頼み方だったのは確かだ。彼も少しは面食らったのか、いつもとはどこか様子が違ってわずかに眉根を寄せたのがわかった。私は彼のあまり見ない表情に意外さを感じ、ああどんな顔でもカッコいいんだなあ、なんて呑気なことを考える。
スティーブンは私をじっと見つめた。なぜか責められている気がして不安がこみ上げる。どうしたの、と問いかけ、考えごとの邪魔をしてしまったのかと思い謝ろうとすると、あちらはそれを遮って言い放った。
「言わない」
「……えっ?」
「『好きだと言って』と頼まれても、今日は言わない」
あまりにも恐ろしい台詞だった。見捨てられたような気がしないほうがおかしい。
私はひどく取り乱し、どうにか理由を教えてもらおうと「なんで」を繰り返した。あとから思うとめちゃくちゃ狂った追いすがり方だがリアルに絶望が近かった。
「な、なんで?もうダメなの?愛の言葉を求めるなんてつまらない女に成り下がったなって嫌いになった?」
「違うよ。ドラマの見過ぎだ」
「じゃあなんでダメなの!?」
「自分で考えてくれ」
スティーブンはそう言って立ち上がった。追いかけるように椅子を蹴倒す勢いで腰を浮かせる。
すると、横を通り過ぎざまに手がのびてきて、彼はこちらの頭を撫でた。死にそうな顔をしていたから情けをかけてくれたのだろう。
「おやすみ」
そう言い残して、スティーブンは廊下の向こうへ消えていった。
私は椅子にへたり込むしかなく、よくわからないけれど、自分のバカな発言が原因でこうなってしまったのだとだけは理解できて、泣いてしまいそうで、しばらく呆然としていた。
部屋に戻った記憶は薄ぼんやりしている。気づいたら自室のベッドに横になっていて、朝早くに出かけてしまったスティーブンとは顔をあわせることもできず、とにかく助けを求めてレオに電話をかけたというわけだ。
「なるほど……」
あらかたの事情を把握したレオは私と同じようににぶく長くうなった。
「いつもお願いしてるんですっけ」
「うん」
「いつもですね?」
「う、うん。いつも……」
「言われないとやっぱ不安になります?」
考え込んでしまう。
お願いをして、聞いてくれて、しかも恋心を刺激するワードで殴りつけていただけるのが嬉しいだけだと認識していたが、私は不安がっていたのだろうか。レオに訊ねても困惑させるだけなので口にはしないが、むしろこの質問で心がざわざわしてきた。
たぶん私はまったく何も考えていない。ただ、スティーブンの口からそういった言葉を聞きたかっただけだ。
そのはずだ。
「不安……、不安かあ……。でも嫌いだったら……叩き出されてるよね?」
「まあ切ってるでしょうね」
結構容赦ない。
プライベートなスペースに入る許可を得ているということは、多少は好意があるわけだ。
「うん。ちょっとは好きだと思ってもらえてるのはわかってるから、不安とかじゃないと」
レオがぱちんと指を鳴らした。聞こえるくらい大きな音だった。
「わかりました。これさんの問題ですね」
「えっ!?わかったの?」
「わかりました。たぶんですけど、スティーブンさんが言いたいのはこれです。でもさんが自分で考えないとダメなやつなので僕は何も言いません」
「え」
「いつもなんですよね?スティーブンさんってさんを大切にしてるんですねー」
「は、い?なに?なんの話?」
「や、でもスゴいっす。いつもなんですよね。ははあ……」
「ねー!レオ!なんでそんな感心してるの?」
当事者が一番置いてけぼりにされている。頭の回転がユルいせいか。レオだから辿り着けた答えなのか、誰しもがパッと理解できる理由なのか、私はどこに向かって歩けばいいのか、何もかもが暗闇の中だ。
途方にくれる。
レオの声が脱力するように揺れた。ベッドに横になり直したのだ。せっかくゆっくり眠っているところを起こして悪かったな、と気がとがめる。
「大丈夫ですよ。スティーブンさんも虫の居所が悪かっただけで、怒ってんじゃないと思います。でも、いつかはこのときがきたんですよ。で、それが今だった。そんだけの話です」
すべてわかったような言い方をするレオに、なぜか少し安心した。
「スティーブンに嫌われたわけじゃないんだよね」
「むしろ逆で、えー、うーん、なんか僕が言うのも照れるんですけど。好きだから反発したくなったんじゃないかなと」
レオは言いながら恥ずかしがって、誤魔化すように早口になった。男子と恋バナをする機会がなかったから、気づいてしまうとこちらもつられて照れが浮かぶ。私たちは示し合わせたように笑った。
「考えてみる。ありがとう。ごめんね、朝なのに」
「もう起きる時間だったんで。あんまし難しく考えないでいいですよ」
「うん」
「じゃあ……」
「うん、じゃあね。ありがとう」
ぽちり。タップひとつで電話が切れる。
天井を見上げて細くうめいた。
好意があるからムッとして、でも、大切だからこれまで黙っていてくれたこと。
私の心を横殴りにするときめきワードは一旦よそへ置いておくとしよう。
バイトがないのをいいことに、時間を気にせず回らない頭を手押しする。
問題になっている『好きと言って』というお願いごとのポイントはふたつある。
まず、相手にワガママを突きつけているところだ。これが嫌なのだろうか。他の、もっと面倒なワガママ(……ケーキ買ってきて、とか)にも同じように辟易したものを感じているのか。
もうひとつは『好き』の部分だ。別にそんな気分でもないのに好意を囁かされるのがかったるかったりして。
落ち着かない気持ちで髪の毛をいじる。
昨夜、彼は寝る間際に頭を撫でてくれた。嫌われてはいない。面倒だと感じたらザックリ切りそうな男が切るつもりの相手に未練を抱かせるような情けをかけるはずがないからこれはセーフだ。
視線を窓に向ける。
今日はこの近辺の生存率が低いらしい。朝のニュースで言っていた。スティーブンが帰ってくるころには幾分か平和になっているといい。すんごく強い人でも、楽に帰れるに越したことはない。
ぼんやり、その人の姿を思い出して目を伏せた。
自信がなくなってきた。帰ってくるまでにちゃんと答えを導き出せるのかな。私にできるのか。できなかったら嫌われてしまうのか。
困る。とても困る。
落ち着こう。
自分の身に置き換えて考えるのだ。
(スティーブンに『僕を好きだと言ってくれ』ってお願いされるってことだよね)
頭の中で声を再生してしまってつい胸をどきりと言わせてしまったが、同時にある感想も抱いた。
(何回も何回も、おんなじように……)
そして私はそれが答えなのではないかと思った。
うぬぼれではないとして。
頭をかかえる。
「そうだよね……」
前にも何度か指摘されたことがある。『頼まれたから言う』かたちで囁いたって、誰の得にもならないだろうと。甘ったるいけどゼロキロカロリーの告白だ。
信じきれていないわけではなく。
実感がないと感じるときもあるけれど。
どちらかというとただ甘いものがほしくて手を出すような感覚だったのだけれども。
スティーブンからしてみると、感情を否定されて疑われているようで苦痛だったに、違いない。……たぶん。正解ならば。自信を持ちたい。
ついさっき過ぎったように『嫌われてしまうかも』と簡単に懸念することだって、失礼な話だ。
信じているようでいないのか?
いや、信じているのだが、いまいち、なんていうか、たまに、その、ペット感がハンパないっていうか、いいんだけど、全然ありがたいんだけど現実味が揺らぐっていうか。
幸福な麻薬をスナック感覚で催促するからいけないのだな、と顎をひく。
どうしようか悩んだ末にメールを送った。お昼前だからまあ読まれないだろうが、気持ちだけでも伝えたい。


ぽん、と肩を叩かれて目を開けた。
あれから外出もしないでソファに寝転び、だらだらと漫画を読んで過ごすうちに眠くなって昼寝と洒落込んでしまったのだ。
私を起こしたのはスティーブンだった。
帰宅したばかりなのか、まだネクタイも取っていない。
「おかえりなさい。早い、……っていうかいま何時?」
「ただいま。18時だよ。ずっと寝てたのか?」
「ずっと寝てた」
「いつから?」
「お昼前?」
「そろそろ君が本当に健康なのか心配になってくるな」
張本人も心配だ。8時間弱も眠りこけるってどう考えてもおかしくないか。異世界人だからなの?私が睡眠に貪欲なの?体内時計が狂っているとしか思えない。
にしてもスティーブンが直接起こしてくるなんて珍しい。夕食をとるか訊くためでも、シャワーを浴びるか訊くためでも、もう夜だから部屋で寝ればと助言するためでもなく、帰宅早々、おそらく一直線にこちらへ来るなんてどうしたのだろう。
彼は私の疑問をすくい取った。少し肩を竦める。声は笑っていた。
「不穏なメールが来て、電話をかけても繋がらないから死んだかと思った」
「え、フツーのメールしか送ってないよ」
「『ごめんなさい。今までありがとうございました』は普通のメールじゃないだろ」
言われてみれば。
読むのに時間をとらせずにお詫びと感謝だけ伝えたくて組んだ文章だったが、逆に手間をかけさせたようだ。
ソファに座る私の前に、スティーブンがしゃがみ込んだ。
「昨日は八つ当たりしてごめんよ」
「八つ当たりされてたの?」
本気でびっくりした。
「……うん。ごめんよ」
スティーブンの沈黙は、呆れとは違った感じがした。言葉では表現しづらく、一番の形容詞はこちらの手を握る彼の体温なのではないかと思われた。
「あ、それでね、直接言うね。ホントにごめんなさい。ワガママに付き合ってくれててありがとう。あの、疑ってるとかじゃなくて、ただ言葉で聞きたいなーってときに何も考えずにお願いしちゃってて、頼んだら言ってくれるのが嬉しくて癖になっちゃったっていうか、だからその、不安とかではないの!」
「うん」
「もう言わないようにするね」
「無理に徹底しなくていいよ」
「じゃあ、あんまり言わないようにする」
ほっと息を吐く。
これでひとつ前に進めたような、不思議な実感があった。なぜかはわからない。
スティーブンは小さく「言葉」と呟いた。
「言葉か。そうなんだよな」
「なになに?」
「いや、なんでもない」
仲直りとも言えない和睦を果たした瞬間、この男は私の恋心を刺した。
「好きだよ、
「……は、……えっ?……へ?」
視界にノイズが走った。桃色のノイズだ。目が眩んで喉が詰まる。
唇をひらいたままなにも言えなくなった私を見ても、スティーブンは実に冷静だった。
「いや、やっぱり僕から言わないほうがいいな……」
「ね、あの、……な、なに?いまの、……いまの……」
「悪いんだけど、しばらくの間はまた言葉が欲しくなったら教えてくれるかい?あと、ちゃんと息できてるか?」
「でき、できてる、息……、いまの……」
「夕飯にしようか」
「スティーブン!?いまの!なに!?」
よいしょと膝を伸ばす男のスーツに縋りつく。そやつは「おっと」と言って中腰で優しく指を外させた。細やかな紳士さはありがたくも憎らしく、私は片手でネクタイを外す最高の動きを目に焼き付けつつ胸を焦がした。
言葉が欲しいとちゃんとねだったからか。無性に聞きたくなるのだと、理由もきちんと伝えたからか。そして私が死んだから、なかったことになったのか。悔しい。しかし救われた。
背中を追いかけて小走りになる。
「私もあなたがすごい好きだよ!」
「うん、ありがとう。ずっと知ってるよ」


「めちゃくちゃえぐいセリフですね」
「だよね」
レオは眠そうだったが、手短に報告するとまずこう言った。同感だ。実は喧嘩を売られていたのではないか?と短気な自分の思い込みの激しい一角が議論を開始したほどだ。
「解決して、僕も安心しました」
「うん、ありがとうレオ。いつもごめんね」
「気にしないでください」
ドキドキしていた全身が安らいでいく。レオはアロマか何かなのかもしれない。電波に乗ったレオの欠片に癒される。
流れでスティーブンとのエピソードに10数分ほど付き合わせてから、レオは眠いんだった、と思い出して話を打ち切る。
「ども。じゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい」


レオナルド・ウォッチは天井を眺めながら考えた。
さん、それ、喧嘩じゃないっすよ……)
神経がど鈍い異世界人の友人と、彼女から『余裕のあるパーフェクトな男』と認識されている切れ者でチョイ怖な上司。
異界の薬も酒もウワキも、イレギュラーな要素が込み入らない彼らに、大喧嘩はいささか難題か。





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