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私の知らない、ヒミツではないほうの友人たちと食事をしたスティーブンの帰宅は早くもなく遅くもなかったが意外な時間で、玄関扉の開く音を聞いた私は連絡を受けていたにも関わらず驚いて手を止めた。食べかけのクッキーから降った粉砂糖が雪のようにテーブルに模様をつける。先週あたりに『ちょっとダイエットするね!』と宣言した身としては、夜のおやつを見られると恥ずかしい。朝と昼の節制がこのクッキーでプラマイゼロだ。しかも夜のほうが脂肪がつきやすいとも聞く。スティーブンがそれを知っているかどうかはともかく(……知らないはずがないと思うけど)意志の弱さが容赦なくむき出しになる。
食べながら本を読んでいた点も擁護できない。栞を挟んでこっそり遠ざけた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
じんと胸の奥が痺れる。この、きっと彼からしてみれば何てことのない些細なやりとりが私の中枢部を幸福で包み込むのだ。『おかえりなさい』と言って『ただいま』が返ってくる日常のなんと貴重なことか。幸福にカロリーがあったなら、毎日のようにそれを吸収して心に取り込む私は今ごろ象が100頭集まったって敵わないくらいの超重量級だ。
冷静に考えてもサービスかなと察せられる微笑みを食らったこちらが死ぬうちに、ハートキラーは読みさしの本を見た。もうあとがきと解説のみと言っても過言ではなく、小説は残すところ数ページだ。読み終わったら初めに戻る。一度で把握しきれなかった場面を読み直してフクセンを見つけるのも楽しみのひとつである。
しかし、それも終われば未読の本とはしばらく縁が途切れる。書店で新刊を買うには少しお財布に余裕がなかった。新作は新作でも着用するほうを選んだためだ。可愛らしいカーディガンと色を合わせたスカートには、一目で気に入って衝動買いしそうになるも必死に物欲を抑えつけて3時間悩んでから購入した、という私にしては理性的な逸話がくっつく。後悔はないのだが、この家にお邪魔していたときも忘れていたときも、そしてまた暮らすようになってからもずっと読書に勤しんできたせいで、読むものがないと物足りない気がした。
「貸そうか?」
「何を?」
「本。君の趣味に合うかはわからないけど、構わないなら」
頭の中でパッと花が咲いた。難しいガクジュツ的な本を持っていそうな男の蔵書は何の専門書にも手を出したことがない私でも理解可能な内容だろうか。このお方は私の頭脳がちっぽけだととっくにご存知だろうから心配無用? そんなつらい信頼は寄せたくないが事実は事実だ。
「趣味に合わなくても読んでみたい!合うようになるかもしれないし!」
スティーブンは「じゃあ場所を教えるよ」と目を自分の部屋のほうへやった。好きなタイミングでおいで、と続けられたが、頭脳戦も駆け引きもできない私にとって好きなタイミングはいつだって今だ。顔を見たまま立ち上がる。
彼はなぜかまた小さく笑った(……笑ってくださった!)。
スティーブンの背中を追いかけて、彼の気配と空気でいっぱいの部屋にお邪魔する。ほのかな香りに胸が音を立て始めた。
大きめの本棚は、ゆとりある室内の壁際にそびえる。
荷物を置いた部屋の主人は、入り口付近に突っ立ったまま感動と興奮で喉を詰まらせる私を手招きして分類の仕方を説明した。
整頓された棚を眺める。本たちはそこに並べられることを誇りに思い、いつでも手に取ってくれと胸を張っているように見える。私は自分の棚を思い出してみた。横積みにしてごめんなさい。
背表紙を指差す大きな手がすーっと宙を滑って、私の目線より少し上の段を示した。
「ここから……」
また動く。
「……ここまでが娯楽小説かな」
指先の描く軌跡を追いながら、意外と多い冊数に驚く。毎日毎晩忙くても、時間の使い方が上手な人は合間合間に並行して色んな作業を進められるのだろう。
だいたい把握できたため、スティーブンにお礼を言った。ついでに手のひとつでも握ってすり寄れるやり手であれば良かったのに、対極で恋の海に溺れる私にそんな度胸はなく、浮かせた手は行き場を失った。心底から感謝を伝える健気な女の子のように自分の服の胸元を握りしめて誤魔化しておく。不自然に芝居がかってしまったかもしれないが、ありがたく思っているのは本当だ。
スティーブンは仕事を片づけるつもりか、本棚の前でもたつく異物を気にせず離れた机に向かってパソコンの電源を入れた。迂闊に近寄って万が一にも恐ろしい情報を入手したくはない私は、さらに2歩、距離をとった。
教わった『娯楽小説』を確認する。ファンタジー、歴史モノ、現代文学、推理小説などは題名で見分けがつく。
中でも、頭の高さが揃ったかたまりに手を伸ばしてしまったのは、そのタイトルに覚えがあったからだった。
引き出した1冊はずしりと重い。ざっと文章を読み、確信した。
これは私がヴェデッドさんに貰ったものと同じ作品だ。
英語の読解がたどたどしい異世界人が何度も挑戦した物語だと知って興味を持ったのだろうか。面白く感じたか、どこか気に入った場面があったか、登場人物の誰が好きか、語り合いたさに駆り立てられる。
何を思ってこれを買ったのか、もともと持っていたのか。微塵も推理できなかったが、好きな作品が好きな人の本棚にある感動は果てしない。必死になって理解を深め、空想の喜怒哀楽に夢中になれた初めての小説だから感慨もひとしおだ。
「ねえ、スティーブン。あなたもこれを読んだの?」
「ん?どれだい?」
表紙で踊る題名を読み上げる。
肯定してこちらを振り返ったので私もあちらへ身体を向け、目を合わせて、そして、息が止まるかと思った。心臓の働かせ方を忘れてしまう。
たった今までパソコンの画面を注視していた彼の瞳を中心にぐるぐると世界が回りそうだ。命の危機を知らせるシンバルが耳元で鳴らされ脳が揺れる。
「……スティーブンって、眼鏡かけるの……?」
びっくりした。
すっごくびっくりした。
吸い寄せられて足元がふらつく。
眼鏡の仕組みには詳しくないが、光を歪めるレンズ越しに世界を見ているのは彼なのに、なぜか私の視界が眩むおかしさはわかる。
スティーブンは自分の目元に手をやった。いちいち普段と違った印象を受けてしまい、一所懸命に平静を手繰り寄せる。
「目わるいの?」
「普通だよ。度は入ってない。パソコンなんかをやってて『疲れそうだな』と思ったときにかけるだけ」
この社会人が自室でどんな仕事をしているのか、部屋まで押しかける用事もなく、今まで扉を叩いた回数も両手両足で足りる私が知るはずもない。ましてや作業中の恰好など。それも、こんな、実はたまーに眼鏡をかけていたのだなんて、想像に想像を重ねて逆立ちしたって辿り着けない事実だ。目の当たりにした今も信じきれていない。
慣れた仕草で眼鏡が外される。スティーブンはそれを部屋の明かりに透かすようにしたあと、凝視する私に差し出した。
本棚と机の間には距離があったが、そろりそろりと近づいていく。壊れものを扱うような、というか本当に繊細な壊れものだから慎重に受け取った。無意識のうちに胸に抱きしめていた本は引き換えに求められたのでスティーブンに渡す。もしかして、ふたつのものを同時に扱えなさそうだと思われたのだろうか。
「作るだけでもどうだろうか、ってクラウスに勧められてね。試しにやってみたんだ」
「変わる?」
「かけてみるかい?」
「え!?いいの?」
「いいよ」
彼は何かの操作をして、たぶん大事な画面を消した。見ても殺されなくて済みそうだ。
お膳立てされ、好奇心に負けかけた。
ごくりとつばを飲む。
でも、壊してしまったら大変だ。私は眼鏡をかけた経験がない。
「や、やっぱり壊しちゃいそうだからやめる。ありがとう」
「簡単には壊れないよ」
かがむように言われてドキリとする。その指示のあとに何が続くのかは子供にだって察せる。
緊張してこわばった指を丁寧に解かれる。
かがみながら、血圧計が異様な数字を叩き出しそうな走り方をする胸を落ち着かせたくて密かな深呼吸を試みたが失敗した。ゲンキンな自分と羞恥に狂いそうな自分がせめぎ合い、誰彼構わず許しを請いたくなって俯きがちに目をそらす。私が驚いて話を長引かせたから対応してくれるだけで、ドキドキさせようだとか恋で殺そうだとかいじって遊ぼうだとかそんな意図は皆無だと心に言い聞かせても鼓動は止まらない。……止まられても困るけど。
俯いた拍子に髪がひとふさ、頬の横に垂れる。色気の詰まる男の手はそれをすくうようにして私の耳にかけ、触れられた感覚にこちらがあからさまに反応しても構わず、ひょいと軽く眼鏡のつるを挿し込んだ。視界にうっすらと色の補正がかかる。意味がわからない上に思いついた私も困惑したから誰にも言わなかったのだが、恋のフィルターはこんな色だったのかも、と一瞬だけ狂った思考が迸った。
半ば呆然と、ずれた眼鏡をちょうどいい位置に直して押さえる。パソコンの画面やブルーライトの遮断率などはどうでもよかった。私がトンボだったら目を回しまくって地面に落ちるか虫カゴに放り投げられているところだ。完全に無防備である。
「見えやすい、のかも?」
視力矯正用ではないと言ったとおり、透明を通しても見える景色や倍率は同じだった。
曖昧な感想を伝えてようやく精神が現実に追いつき、時間を何倍にも引き伸ばされて無限回廊を全力疾走したような疲労感が覆い被さってきた。ひとり相撲の負担は大きい。
それにしても、伊達男に伊達眼鏡(……度なしだし)とは実にあざとく殺人的だ。目を合わせるだけで人を瞬殺できるに違いなく、笑顔が加われば同時に3人はかたい。
画面に集中したくても、視線はスティーブンを目指して進路を変えた。彼も恋の熱でふらふらになった私の扱いには慣れており、手際よく眼鏡を取り戻した。かけずにキーボードの横に置く。
「それで、この本だっけ?」
「え……、あ、うん。そう、それ。スティーブンも読んでたんだね」
話がいきなり戻った。ぽかんとして空白を挟んだが、なんとか頑張って話の時計を逆回しにする。
スティーブンは目を伏せ、本の表紙を撫でた。記憶をなぞるような仕草に色気を感じて、まるで鍵穴を覗き込んでいけない光景を見た気分になる。
「私もそれ、ヴェデッドさんに貰って持ってたんだよ。知ってた?よね?」
「知ってたよ」
「だよね。それより前から持ってたの?」
「いや。その後に買った」
「言ってくれたら貸したのに」
「だろうなとは思ったけど、ちょっとバタバタしてタイミングが合わなかったんだ。買ったほうが早いくらいにね」
買ったほうが早いから買うという発想は社会の常識なのか彼特有のものなのか。『貸して』のひと言を口にするよりも書店に行って(……あるいはインターネットで?)棚から選んでお金を出して購入するほうがよっぽど手間がかかって思える。お互いの時間が合わなくても、口頭かメールで頼んでおけば回収できたはずだ。
だって、同じ家にいたのだから。
家に帰れないほど忙しいときにフッと読みたくなったのかもしれないが、そんな繁忙時に買ったって読めるだろうか。とりあえず手元に置いておきたくなったとか? そう考えるとこの本はすごい。感心した。
「もう全部読んだ?」
「うん」
「どうだった!?」
「君はこれを読んでいたんだな、と思った」
「そうだね……?」
不思議な感想だった。
スティーブンは本を開いて目次に目を通した。
「ああ、4章の盛り上がりは面白かったな」
「わかる!皇帝の命令ではらはらするんだよね!」
声のトーンが跳ね上がりそうになり、慌てて口に手を当てて封じる。ちらりと窺うと「気にしなくていいよ」と言っていただいてしまって申し訳なかった。
「私も4章が好きだから嬉しくて、つい」
買っただけでなく最後まで読んで憶えていて、話にも付き合ってくれたおかげでひとりでご機嫌になってしまった。
スティーブンは仕事中なのに。
「……仕事中だった!!ごめんなさい!」
「もうすぐ終わるから大丈夫。君は? 読みたい本はあったかな」
「これに気を取られて、まだ他のをちゃんと見てなくて……、もう少し探しててもいいですか? できるだけ邪魔にならないように静かにしてるから!すぐ終わらせるから!」
「いいよ。わからないことがあったら訊いてくれ」
「うん。ありがとう」
なんて心が広いんだ。
ファンタジー小説を本棚に戻す一方で、眼鏡をかけ直したスティーブンを横目で確認する。
彼の自室に合法的に長く居座っていられるなんて。こんな、こんな、最高で、一生ぶんの恋心を傾けて注いで燃やし尽くしたって足りないくらい大好きなスーパー色男と出会った瞬間の自分に教えてあげたい一大事だ。
……やっぱしやめよう。あの頃の私は今以上にバカだった。若干でも過去を振り返る知能を身につけてからじゃないと。バカはどうしたって調子こいて人格が海底を突き抜ける。
内容を確かめながら候補を絞り込み、この1冊にしようと決めて棚から抜く。持ち運びに便利なサイズの短編集は、パラ読みした限りでは私にも読めそうだった。
「これにする。借りるね」
「どうぞ」
用事は終わったが、『好きな人の自室にいる』喜びが強烈でどうしようもない。お仕事の邪魔になるから本を選んだらすぐに退室しないといけない、と理解はしている。でも動けない。動きたくない。
理解と納得は近くて遠くて、進退窮まった。
「すごく静かにするから、もうちょっとここにいてもいいですか」
本棚の陰に隠れるようにして伺いを立てる。何分か前に聞き覚えのある要求だ。
スティーブンの態度はまったく変わらず、彼は前を見たまま「いいよ」と言った。自分を熱烈に見つめる邪魔者がいても気が逸れないのか。やはり集中力が半端じゃない。私が不意を突いて抱きついても(……不意を突けるかはともかく)華麗に無視するほうに明日のおやつを賭けよう。まあ、まず、いきなり抱きつけないせいで成り立たない話だ。
彼しか使わない部屋には余分な椅子が見当たらず、私は本を試し読みするテイで突っ立って幸せをかみしめる予定だったが、どうやら荷物置き代わりに使っていた1脚があるらしい。言われてみればカバンを抱いたそれは椅子だった。長居したかったから遠慮なく座らせていただいたが、スティーブンのカバンをどけてまで腰を下ろす価値を私が持つのかはあえて議論するまい。
高揚を隠して本を読むふりをする。部屋の雰囲気を肌で感じては心が弾み、にやにやしないよう幾たびも唇に命令した。顔がとろとろに溶けて落っこちそうだ。視力だけと言わず煩悩も矯正できる眼鏡の開発が切に待たれる。
すごく静かにすると宣言したので、息も殺して呼吸も乱さず必死で椅子の一部に成り切って(……自信はない)、あたかも読書の真っ最中であるかのように文字を追った。隅々まで味わい尽くせる喜びが打ち寄せて、アルファベットはガンペキに叩きつけられる波しぶきがごとく目の奥でばらばらに砕けた。
覚られませんようにと祈りつつスティーブンを視界に入れる。邪魔になりたくないため微動にも慎重を期した。なにせこのウルトラ高性能でめちゃめちゃカッコよくて超強いイケメンには、10メートル先でため息をついた誰かを『大丈夫か?』と心配できると言われても『だと思ってた』とすんなり受け入れてしまえる恐ろしさがある。
スティーブンは機械から手を離して眼鏡を外した。私の挙動をうるさがったわけではなく、区切りをつけたのだ。パソコンの画面から光が消えた。
お疲れさま、の語尾はふらりと弱くなった。
机の奥に見慣れないものがある。もちろん私はこの部屋の何もかもを見慣れていないのだけど、そうではなくて、似合わないものだと言い表すほうが適切だろうか。
手の届く範囲に必要なアレソレが揃った、仕事のデキる趣味のいい色男の機能性に優れた部屋を構成する綺麗な机に、鮮やかな色が冴えていた。
なんとなく近づいてみる。スティーブンと物理的に距離を縮めてあわよくば、なんて欲望は小指程度だ。
ガラスに閉じ込められたそれは花だった。
「これ可愛いね。薔薇?」
「うん」
赤い薔薇が2輪、背比べをするように咲いている。造花にしてはみずみずしい。
「本物の花?」
「元はね。これはもう長期保存できるように加工済みだけど、ちゃんとした花だったよ」
「プリザーブドフラワーってやつ?」
「うん。異界の溶液だからかなり長持ちするらしい」
容れ物ごと渡される。花びらはふっくらと整って綺麗で、触れれば柔らかそうだ。どんなやり方かは知らないが、人のカガク的な手が加わっているとは見抜けそうにない。
「綺麗な薔薇だった」
付け足され、「へー」と相槌を打つ。
やっぱり、花に詳しいクラウスさんのそばにいるから影響を受けて好きになったりしたのだろうか。
素敵な薔薇を見つけて購入し、散ることを惜しんで加工する。スティーブンがやるとすごくドラマチックだ。よく見える場所に置いて、疲れたときに眺め癒されたりするのかと思うと薔薇が羨ましくてたまらない。植物と張り合う(……そして負ける)自分の余裕のなさったら酷い。
「薔薇ってどこで買ったの?」
「買ったんじゃなくて、貰ったんだよ」
「そうなんだ? クラウスさんとかに?」
「違うよ」
「じゃあ友だち?」
「ではないかなあ」
「まさかとは思うけど、あなたの歴代の恋人のうちの誰かとの思い出の品だったら触っちゃってごめんなさい」
「僕が渡したんだよ」
「う、うん」
でもそれが真実だったら果てしなく持っていたくない。爆弾を扱う手つきでパソコンの前に置いた。
早めに否定して欲しかったのだが、フォローが入らなくて唇をとがらせる。
スティーブンは様々な意味で顔が広いから、何かにつけて贈りものと縁がありそうだ。マナーとしてかテクニックとしてか、贈り主と会うときにはさりげなく相手を喜ばせたりするのだろう。自宅の中にも、お酒だとか、貰いものの影がある。
だけど、自室に。
一体全体、どんな女が(……あるいは男が?)彼の自室の、しかもよく使う机に薔薇を載っけさせたのか。
寄せてしまいそうになった眉根を理性で説き伏せる。
スティーブンはガラスのふちを指先で大切そうに撫でてみせた。
「恋人に貰ったんだ」
努力むなしく露骨にむくれた顔になったようで、私は彼に笑われた。それも比較的、盛大に。
「かなりひどくない!?」
「うん、ごめん。でも本当に忘れてるんだな。思ってもみないって言ったほうが正しいかい?」
「何が!?」
「これのこと」
「薔薇?」
「君に貰ったんだよ」
「なにを?」
「薔薇を」
「え?」
今度こそ眉間にしわを寄せる。
わかりやすく言い直された。
「これは君が僕にくれた薔薇。いつつのうちのふたつ」
改めて差し出され、思わず手のひらで受けてしまう。
私が彼にあげた赤い薔薇。5本のうちの2本。
そうだ。花言葉を知って買って押しつけた。
錆びた歯車じみたぎこちなさで手の中を見下ろす。
死ぬほど恥ずかしい過去を突きつけられた気がした。
過去だけではない。ついさっきから今まで、私は。私というポンコツは。
一気に冷や汗が噴き出た。
「あ、あわ、うわー!!すいません!」
「はははは。落として割らないでくれよ」
「だっ、だってこれ、だって」
手が震え始めた。盛大なドッキリか?
「なんで」
なんでこんな手の込んだことを。
ぶわっと何かが溢れた。意識しないうちに言っていた。
「えっ、ねえ、あなたって私のこと、好き、なの!?お願い、好きだよって言って!」
「好きだよ」
「ふあっ!!言ってくれてありがとう!」
言葉の稲妻に打たれて感電した。
自分から渡したのに、スティーブンは私にプリザーブドフラワーをさっさと離させ、あいた手をゆるく握った。
軽く振られ、少々、平静に戻る。
それを確認してから言われた。
「最後にひと言付け加えなくてもいい」
「ひと言って?」
「『お願い』の部分」
「うっ、すいません。お願いしたら言ってくれるかなって」
「お願いされたから言う、って形になってもお互いに得はなくないか?」
確かに、ゼロカロリー飲料で生き延びようとしている感じだ。ニセモノの糖分で活動できるのは一瞬だけである。
赤色を主張する薔薇を見る。
つまりどういうことだろう。
物言わぬ花が最も雄弁だった。
私が押しつけた5本のうち、スティーブンに引き取られた2本がここにあって、手間のかかりそうな加工まで施されて保存されていて、もしかすると、たまに、稀に、ちょっとだけでも眺めてくれていたかもしれなくて。
私は誰に嫉妬したのか。過去の自分とのシャドーボクシングではないか。
だが言い訳をさせてほしい。
だって本当に、彼が言ったとおり思ってもみなかったのだ。
「こっ、こ、恋人にもらった記念、的な?」
「とても嬉しかったからね。まあ、悲しいことにその恋人は僕との思い出を綺麗さっぱり忘れてくれていたわけだけど」
「忘れてないよ!」
「そうかい?」
「枯れて捨てたと思ってただけです」
ヘタで拙くボロボロなやり方で贈った薔薇をスティーブンがここまで大切にしてくれて(……くださって!)いる。そんなひらめきはどうやったって訪れない。
「スティーブンは優しいね」
「相手によるよ」
「あ!またイケメンな発言!」
人生で一度は言われたい台詞だ。
あと、『忘れる』ことに関しての言い方が際どくて、理不尽な呪いのせいで何もかもまっさらに忘却した私としては結構笑えなかった。無意識かジョークかわかりづらい。
それから10回はお礼を言って、借りた本を自分の部屋に持って帰って開いてみる。1ページ目にしおりの薄い紐が挟まれており、どうしてやら、そんなところに生活感を見出してしまってキュンとする。
すべてはおやつを食べる途中で眠りこけた私の夢想ではないかと疑うレベルの怒涛っぷりだった。現実の証は膝の上の本だ。
早く読んで、また彼の部屋に入れてもらいたい。だけどせっかく彼から借りたものをせかせか消費するのももったいない。ちゃんと感想を言えるように全力で取りかかろう、と逸る感情を落ち着ける。
そんなわけでその晩、私は眠気とおさらばし、いつの間にか陽が昇り朝がくるまでまんじりともせず読書にふけっていた。
目を閉じると眼鏡をかけるスティーブンと赤い薔薇の映像がまぶたの裏に流れて死にそうだったというのもある。
はしゃいだ理由の徹夜は、幸いにもバレなかった。
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