10
私を大衆酒場に引きずり込んだザップさんは、これからお前を財布にするぞ、と言われずともわかる空気を漂わせた。煙と一緒に換気されてしまえばこちらの胸もスッとして笑顔のひとつも浮かべられると思うのだが、丸めた紙の棒が詰まる箱の中身が半分になる間、私は椅子の上で銅製ではない銅像と化して相槌を打つに専念する。どうせ奢らされるのならこちらも好きにさせてもらおう。
料理の味すら霞ませる煙たさに焼かれる感覚を覚えながら、ザップさんの好きなものとは正反対の、甘ったるくてお子ちゃまでとろりとしたお酒を舐めるようにして飲む。
「もっと飲めよ」
「こういうのが好きなんです」
それに、間違ってもザップさんの前で酔っ払って醜態を晒すのはごめんだ。人は学習して賢くなれる生き物であって、私も異世界から来たとはいえど人間なので、思い出そうとするとなぜか頭に鍵がかかったようになる牛肉とあぶらとお酒の記憶がなけなしの理性を強固なものにする。ザップさんは無感動に喉を震わせて気のない返事をした。箱から新しい煙草を1本浮かせ、取り出そうとしてから思い出したように吸い口を私に向けた。喫煙を勧められたことよりもザップさんが他人に施しを与えたことが驚きだ。
「私、煙草はちょっと」
「だろーな」
わかっているならくれようとしなくていいのでは。
ふはあと吐き出される煙は匂いを嗅ぐだけで嗅覚が麻痺してしまう。今日は金曜日ではないが、多種類の匂いが混じり合って混沌とした店内は『金曜の夜』の型に当てはまる賑わいだ。長い時間引き止められている私はぐったり気味だが、ここが出入口に近い席で、お客の出入りがあるたびに新鮮な空気を取り込めるという点が唯一の救いか。
だからこの席にしてくれたのだろうか。
バイト終わりの私を捕まえて店に直行したザップさんは、空席の多い中から意図的にこのテーブルを選んでお酒を頼んだ。
四方八方から押し寄せる雑多な音は大きく、差し向かいでも少し声を張らないと会話が困難になってしまうほどだ。全員が同じ思いでいるから熱量はどんどん上がっていく。しかしザップさんはもちろんのこと、私もこういったお店には慣れているため(……過去のコンパにありがとうと言おう)、特段不自由ではなかった。
「ザップさんってメールの返信がすごい早いときとすごい遅いときがあるじゃないですか?あれって、やっぱり忙しいときとそうじゃないときの差ですか?」
「フツーだよ、フツー」
送って5秒と送って1週間は全然違う。しかも、返信が1週間後のほうのメールが火急の用事だったりする。
「優先順位ってモンは誰にだってある。俺の場合はお前が二の次、三の次、四の次、十の次だってだけだ」
言いたいことはわかるのだが、1週間はかかり過ぎではなかろうか。ザップさんから返信がなくて困っていると愚痴っぽく打ち明けたらレオが伝言役になってくれたこともある。自分で聞きに行けばいいだけだし、私もレオに迷惑をかけるのは心苦しいため可能ならそうしたいのだが、ザップさんが私からの呼びかけに応えてくれることは稀だ。あちらからは連絡があるのに。もしくはバイト先にやって来て食事をしていくのに。
お行儀悪く、テーブルに両肘を立てて頬杖をつく。
この人の優先順位にどうにか存在を組み込んでもらえているだけで満足するべきなのだろう。1週間で返事をいただけるなんて、閉店セールも尻尾を巻いて逃げ出す破格の対応だ。
ここで酔いつぶれるか別の店に移動するか悩むザップさんは、私に意見を求めるふりもせず、並ぶ酒瓶をじっくりと吟味し始めた。試飲のサービスで端から端まで味わってから考えますと言わんばかりに睨みつけたところで、不意に集中を切ってポケットに手を突っ込む。つい視線を向けてしまいそうになって慌てて顔を背けた。覗き見はよくない。興味を持つまいとグラスを持ち上げる。
ザップさんは差出人の名前を自分から告白した。
「スターフェイズさんだよ」
「スティーブン?」
「明日はやらなきゃならねーことがあるから何時にどこどこに来い、っつうメール」
「お仕事の話ですか……」
知り合い(……『知り合い』でいいのかなあ)がジカンガイロウドウに勤しむさなかに楽しい時間を過ごしている罪悪感がちくりと胸を刺した。
素早く指を動かしたザップさんは、画面を一度タップする簡単な動作でメール作成に幕を下ろした。またポケットにしまい直す。ものすごく迅速な対応だ。
「スティーブン……、さん、には早いんですね」
「返信が遅れたらやべえだろ」
「怒られるとか?」
「既読無視してあの人から追撃で『返事』とだけ送られてくんのが怖くねえやつがいるかよ」
確かにそれはとても怖い。がみがみ怒られたほうが楽そうだ。
「間違えたりしないんですか?来たのはスティーブン、……さんからのメールじゃないって思い込んで後回しにする、みたいな」
「優先順位ごとに着音変えてっから、ビビらされたのは今までで3回だけだ」
「3回も!?」
「マナーモードにしてて気づかなかったってのと、音変えたの忘れててスルーしたってのと、あの人の違うケータイからかかってきたんで無視しちまったってので3回。あー、くそ、3回目はヤバかったな。借金取りと間違えて俺もガチャ切りしちまったし、あの人もちょうど虫の居所が悪かったんで……」
ザップさんは遠くを見る目でぶるりと身震いした。
そんな細かい設定をするなら諦めて全部の着信に返事をしたらいいのに。
「今ンとこ、パン齧る前に即レスすんのは番頭と姐さんだな。オメーは下の下」
「クラウスさんは?いつも言ってる『旦那』ってクラウスさんのことですよね?一番……偉い?人?……っぽいのに、なんですぐ返事しないんですか?」
「多少遅れても気にしねえんだよあの人は。パン齧ってから返信する」
善意と優しさが都合よく使われている。急ぎの用はスティーブンが伝えれば済むから大丈夫なのかもしれないけど、それってどうなんだろう。
「それよりお前、『スティーブン』呼びと『スティーブンさん』呼びがたまにごっちゃになってねえ?紛らわしいんだよ」
「なってます……」
「どういう基準で言ってんだ?」
「お仕事が一緒の人の前で『スティーブン』って呼び捨てにするのはどうなのかなと思う気持ちと、いつも『スティーブン』って呼んでるせいでつい言っちゃう癖があるんです」
あとは後ろめたいお願いをするときに気が引けて自然とひれ伏しかけてしまう場合もあるのだが、それは解説しなかった。
ザップさんはお酒の瓶を指さしてグラス1杯ぶんを注文した。私は初めに頼んだものをまだ持っている。体調不良やつまらないという理由で進まないのではなく、単にザップさんと一緒にたくさんのお酒を飲んで潰れたくないだけなので、それをわかっている彼は私が自由なペースを保っても機嫌を損ねたりはしなかった。盛り下がらない雰囲気はとても楽だ。
「いっそ全然関係ねえ呼び方で統一しちまおうぜ。オメーが呼びゃあ普通に返事すんだろ」
「ええー?たとえば?」
「『スティーブン教授』とか」
「ホントに全然関係ない!」
あの人と私の間には無関係過ぎる呼び方だ。呼びかけた瞬間ドン引きされること間違いナシである。
「んじゃあ『ブンにゃん』か?……こっちは聞いた俺らのダメージのがデカいから却下だな。返事されてもコエエよ」
ザップさんの本音が見えた。どこかしらにダメージを与えたいだけだ。
差し出されたお酒を呷ると、腕組みして考え始める。
「『スターフェイズさん』じゃ面白みがねーし……。やっぱここは『スティーブン』に引っ掛けてえな……」
ごちゃごちゃにしないで使い分けられるように頑張りますからそんな真剣に考えなくても、と言っても私の言葉は聞こえていないようだった。
「ス、ス、あー、スティーブン、あー、スター、スティ、ああー」
俯きながら「スティーブン、スティーブン」と呟くザップさんはちょっと異様な気配を醸し出している。
「お前も考えろよ。スティーブンさんー、あー、ス、ス、スティーブン……、ん?」
と、ザップさんがポケットに手を入れた。
バイブレーションのパターンから相手を知った彼は、考え事で消費したエネルギーを補給するようにお酒で喉を潤して電話を耳に当てた。
「ザップです。……あ、はい、そっちも了解してます。今?今はフリーっすけどなんかありました?」
心なしか丁寧な言葉遣いで話すのを見るに、相手は『優先順位の高い3人』のうちの誰かだ。
話の流れは掴めないものの、ザップさんがちらりと時計と私に目をやったので終わりの近さを察知する。お仕事が入ったのかもしれない。
完全にグラスを置いた手は伝票を取って開き、話しながら数字だけ確認すると元通りに閉じてテーブルに戻した。思わせぶりだ。伝票だけここにあって支払い自体は終わらせてくれてるのかも、と期待を抱きお店を出ようとしたら未払いで引き止められるやつに違いない。
話は終わったらしく、ザップさんは椅子を引いて私に片手を上げてみせ、通話相手に一旦別れを告げた。
「すぐ行きます。スティーブンさんは現地に直接っすよね。……うぃっす」
スティーブンが相手だったのかあ、と暢気に思い、ふと首を傾げる。彼は急ぎのようだったが、荷物をまとめる間に訊いた。
「ザップさんってスティーブンのこと、名前で呼んでましたっけ?」
「はあ?ナニ言ってんだお前?」
「えっ?だって今、『スティーブンさんは現地に直接』……って」
電話の内容はわからずとも、ザップさんの言葉は聞き取れる。
気になった箇所を挙げて指摘すると、思い切り怪訝そうに歪められた表情が見る間に硬直し、彼はひと言、「あっ」と洩らした。
電話を下ろした手も浮かせた腰もそのままで固まって、だらだらと冷や汗をかいている。ぎこちない沈黙がおりた。
あっ、てなに?
重ねて問いかける前にそそくさと荷物をまとめて出て行ってしまう。
結局無銭飲食で、出際のデコピンごと私に何もかもを押しつけたザップさんは、仕事終わり(……たぶん)にメールをくれた。
すべてが私のせいであると何かの責任をなすりつけてくる文章の最後に、『スルーが一番きつい』と書いてあった。
そんなことがあったんだよとレオに話すと、彼はすごく苦笑した。
「スティーブンさんも本気でスルーですからね。ザップさんは蹴って叱られでもしたほうがずっとマシって顔してました」
いつもはスティーブンを『スターフェイズさん』と呼ぶザップさんが、私に使わせる呼び方を考えすぎたせいで名前で呼び間違えてしまった件についてである。
「たぶん本人が気づいてないだけで今までも普通に呼んでたと思いますよ」
デコピンされ損だ。秘密組織は仲がいい。
でも、私が秘密組織の人たちの前でスティーブンを『スティーブンさん』と呼ぼうとするように、ザップさんも他人の前では名前で呼ぶまいと意識はしていたのかもしれない。それが予定外に崩れてしまって気まずくなったのだ。だからデコピンを食らわせてきた。そう考えてどうにか心の涙を落ち着かせた。
「酔っ払ってアレコレと変なあだ名つけててもおかしくない人ですし」
ザップさんは相手に対して色々な呼び方をする。優先順位が高い3人にもレオにもチェインさんにもツェッドにも豊富なレパートリーであだ名をつけて、名前で呼ぶことは少ないかもしれない。
そんなザップさんを含めても、レオはものすごくまともにみんなから名前を呼ばれるほうだ。
「そうですかね?K・Kさんからは『レオっち』ですし、スティーブンさんからはそもそもあんまり名前を呼ばれなかったりしますよ」
「えっ、レオも名前を呼ばれないの?」
「名前というか、『少年』ってやつです」
「そんなに頻繁なんだ?」
「たぶん『レオナルド』より短くて楽なんだと思います」
なんという手間の省き方だ。
本人も推奨する『レオ』呼びは採用されないのだろうかと突っ込んで訊いてみる。レオはアイスコーヒーに垂らしたガムシロップの残りを舐めようとするソニックと格闘しながら答えた。
「採用されてもビクッとしちゃいそうです。なんかやっちゃったかな、的な」
「わかる!普段呼ばれないから、今日死ぬかもってドキドキするよね」
「僕のとは違うかもしれないです」
「私もちょっと違うかもって思った」
無事に戦いに勝利したレオはシロップの汚れを綺麗に拭き取って、空のゴミもペーパーに包んで隅にやった。
「そういえばさん。最近ライブラで思考パズルが流行ってて、僕とツェッドさんとチェインさんと、ザップさん……が使いものにならなかったのはともかく、みんなでやってたんですよ。そしたら一斉送信のときに間違えてスティーブンさんにも送っちゃって、正解の返信があったのはなんかちょっと安心したんですけど……」
レオは自分のスマホを操作してメールアプリを呼び起こした。
一通のメールを見つけた指が止まり、文面を開いて渡される。勝手に見ていいということだろう。
「スティーブンから?」
「はい。答えと一緒に知らない文章問題が送られてきて困ってるんです。どういう意味かわかりますか?」
あの方の出す問題に私が答えられるわけがないと思う。
文面はアルファベットの組み合わせだし、簡単な単語が所々に見受けられなくもないが、今までした勉強の中にこんな構文はあっただろうか。私の頭脳はからきしダメだ。ふたりして同時に唸ってしまった。
ピンとも来ないけど、解けないなりに好奇心が疼く。メールは転送してもらうことにして、『先に答えがわかったほうが勝ち』と子供じみたルールでしばらく画面とにらめっこする。
「あれ?」
「わかりました?」
「あっ、ううん、ごめん、わかってないんだけど、ちゃんとレオって呼ばれてるじゃんって思って」
「はい?」
「ここ、『レオへ』って書いてある」
「あっ」
画面の上に打ち込まれる、個人へ向けたメールである証を指さす。
レオが急に、悪事が露見した子供のような態度でスマホをひったくった。速い動きに置いて行かれて呆然とする。
あっ、てなに。
すぐに緊張がほどけて機体はテーブルの上に戻ったが、メールの画面は暗転させられていた。
「な、なに?どうしたの?『あっ』てなに?」
「すみません、つい……。やっちゃいけないことをやっちゃった気がして……」
「メールの宛名がレオだっただけじゃん」
「そうなんですけど!なんか今さっき『スティーブンさんからあんまり名前呼ばれないですよ』とか言っておきながらこれかよって自分で思っちゃって……!!」
「気にしなくていいよ!っていうか気にされるほうが悲しくなってくるよ!」
気遣いが逆に作用してすごくつらい。
休憩時間の終わりが近づいたこともあって私たちは解散したが、レオの気まずそうな表情が記憶の中で私を刺した。
謎解きで私が勝ったら私の名前をたくさん呼んでもらえるように協力してね、と約束を取りつけることで一段落させたけど、こうなるとレオは答えがわかっても私が勝つまで勝負を待ってくれるのではないかと不安になる。
家のソファで転送メールを眺めて答えを考えていると、出題者が帰宅してクッキーをくれた。
「ギルベルトさんの手作り」
「わ!食べていいの?」
「うん。君のぶん」
「嬉しい!直接言えないから、代わりにありがとうって言ってもらってもいい?」
「伝えておくよ」
可愛らしくラッピングされた小さな袋には円形のクッキーが5枚入っていて、透明な部分から覗く色からすると味は3種類あるようだ。ギルベルトさんの手作りならどれもすごくおいしいと決まっているから、今すぐにでも食べたくなる。でも食べてしまうのももったいない。元気が出ないときや眠い朝の特効薬にするべきか悩み、ひとまず置いて考えようと決めつつも足が勝手にキッチンへ向かう。お湯を沸かすつもりの身体は笑えるほど正直だ。
1枚だけ。5枚あるうちの1枚なら許される。
5枚のうちの1枚を本当に食べたかったときに過去の自分を恨みがましく振り返ることになるのだろうけど、今、食べたいのだからしょうがない。
紅茶を入れて、悩んだ末に牛乳も注ぐ。
割ってしまわないよう慎重に封を切り、柔らかいバター色のクッキーをつまんで口に運ぶ。さくっとした軽い歯ごたえだ。上品な香りと舌先から伝わる甘さは飢える女子の脳を大きく揺さぶって痺れさせる。ひと口だけでこの恍惚感。やはりギルベルトさんは恐ろしい。紅茶を飲み飲みちまちま食べ進めた。元からなんの枯渇も感じていなかったが、何らかの力が補充された。
エネルギーの満ち足りた頭で、謎について考える。ゆっくり黙読して頭の中で発音を確認すると、突如ひらめいた。
「わかった……!」
何度読み返しても間違いは見当たらない。もはやこれが正解としか思えず、惜しみなく自分を褒めた。ご褒美にもう1枚食べよう。
嬉しがって声をあげたので、スティーブンが私を見た。
「何がわかったんだい?」
「クイズの答え」
「へえ、凄いな。どんなクイズ?」
流れるように肯定的な相槌を打たれ、思わず問題内容を喋りそうになってしまったが、ハッと気づいて口を閉ざす。
これはスティーブンとレオの勝負だから、遊びにこっそり混ぜてもらった私が割り込むのは無作法ではないか。まずはレオ。それで、レオから私、と繋がるのがスタンダードだ。
そんなことはないと信じているが、万が一にもレオの八百長が疑われても困る。
彼はもう答えに辿り着いただろうか。自分がわかってしまうと誰かに教えたくてたまらなくなる。
しかしスティーブンにはダメである。
上手な誤魔化し方が思いつかず、私は玉虫色に「あ、あなたはすぐ解けると思う……」と目をそらした。この男が出題したのだ。解けるに決まっている。
「私には難しかったんだけど、ギルベルトさんのクッキーが効いたのかな」
話を別の方向に持って行く。絶対に言うまい。
……が、スティーブンに視線を戻してばっちり目が合うと罪悪感の嵐が吹き荒れ、20年生きていても成長しなくてわがままで大人にならない心が見苦しく騒ぎ始めたのでウッと胸を押さえた。嘘をついたようで後ろめたい。こんなくだらないことがバレてもしも嫌われたらひどく後悔する。
せめてものクッションになるよう、付け加える。
「も、問題の中身は今度説明します」
「それはいいけど、顔色悪いぞ」
「大丈夫です、すいません」
顔色ってどうすれば制御できるんだろう。
上目で窺う私を当然のごとく見下ろし(……そりゃあそうだ)、スティーブンが言う。
「僕の周りもクイズにハマってるみたいなんだけど、君も一味に加わったのか?」
「ううん。まだハマる前の、面白いなーって思ってるところ」
首を振ってから、否定の前に『スティーブンの周りでクイズにハマっている人たち』が誰なのかトボけておく必要があったと思い至って焦ったが、時すでに遅し。あちらに変化は見られず、私の抜かりに気づいたかどうかは読み取れないが、このスゴイ男が私程度のハリボテ極まった隠し事に気づかぬわけがない。マグカップの取っ手を握る自分の手がじんわり湿るのがわかった。突っ込みどころがあるならいっそひと思いに突っ込んでほしい。何度となく言われてきたように、隠し事が下手すぎて隠されるほうが目を覆うような惨状が出来上がっているのは疑いようがない。せめてもの自己弁護として、私の技術が粗末なことももちろんあるだろうがそれだけでなく相手に取るあなたたちのレベルが相当に高くてヤバいせいでもあると言わせていただきたい。
「無理に隠さなくても、ツェッドから話は聞いてるよ」
「あれ?なんでツェッドが出てくるの?」
「じゃあツェッドは無関係なのか?」
「『じゃあ』!?」
穴が開くほどスティーブンを凝視した。
彼は簡単な遊びを途中でやめ、表現しづらい優しさを含めた眼差しをこちらに寄越して私という人間をひとり殺すと、シャワーを浴びるのか着替えるのか、背を向けて薄暗い廊下に踏み入った。
数歩行ってから「ああそうだ」と独りごち、落ち込む私を振り返る。
「、言い忘れてたんだが……」
「ふぁえっ」
私は弾かれるように顔を上げる。
「……あー……」
あー、ってなに。
抜群の威力を誇る不意打ちに唖然とした私を不思議そうに見たのも束の間、自分の発言を辿ったスティーブンは短くそう呟いて言葉を切った。
「スティーブン、今あなた私の名前呼ばなかった?」
呼びたくなかった感じの『あー』だったけどあの『あー』もなに?
彼は実に様になるやり方で肩をすくめた。
「呼んだよ。うっかりしてた」
「ずっとうっかりしててくれたらいいのに」
「呼ばれたときの君を見るとなあ」
「どんな感じなの?き、気持ち悪い?とか?」
「感極まって泣かないか心配になるんだよ」
「泣かない!泣かないから呼んで!っていうかそれだけの理由で呼んでくれてなかったの!?死んでも泣かないように頑張るから呼んでください!」
どれくらい幸せそうな顔をしているのかは自分ではわからないが、単発でいきなり呼ばれるから衝撃が大きいというのもあると思う。日ごろから少しずつ慣らしていく作戦はどうだろうか。実行されていないということは、息を吸うように立案されて息を吐くように却下されたということだろう。
期待を込めて見つめる。スティーブンは注がれる視線の先で私の名前を紡ごうとした。いつもはそもそもその『間』と空気感に脳内のお花畑を荒らされて花びらがひらひらに舞い散ってドキドキが止まらない私の心を読んで言いやめるのだが、今回はそうではなかった。
私のほうへ歩みながら、まず一度。
「それなら、」
「はいっ」
それから側に立ち、日常会話に交えて二度名前を口にする。
「言い忘れていたことがあるんだ。まだ予定なんだが、明日は事務処理だけならもしかするとより早くに仕事を終えられるかもしれない」
「そ、れは早いね」
「うん。で、僕が早かったら、さえ良ければ時間を合わせて一緒に食事をしないか?」
「し、します。したいです」
恥ずかしくて嬉しくてやっていられなくなった私を視線でやっつける側に回ったスティーブンが言った。
「鏡を持って来るよ」
「ひどい表情なのは見なくてもわかってるから大丈夫です……」
手で覆うとゆるゆるな顔がよくわかる。こんなものを大好きな人の前に晒け出したあとに自分でも直視しないといけないなんて、恋する乙女にとっては断食も裸足で逃げ出す苦行だ。
しかし心の中にポワポワした幸せな灯りがともって胸があたたかい。キュンとする。3回でこれか。スティーブンの言うとおり、行き過ぎると泣いてしまうかもしれないし、日常生活に取り込むと命に危険がありそうだ。
ぽん、と軽く肩に触れられた。
「『あー』の理由、わかっただろ?」
「はい」
自分がダメダメなことも同時にわかった。
「食事の話は本当だから、考えておいてくれるかい?」
「何が食べたいかとか?」
「そう」
「スティーブンの手料理、って言ったらダメかな?」
「僕は良いけど、ヴェデッドのような大したものは作れないよ」
「そんなことないよ!」
彼がヴェデッドさんと連携して素敵な食卓を整える姿を私は何度も見かけている。ゴショウバンにも預かった。
それに、たとえ小ぢんまりした料理だとしても構わない。冷ややっこだって、スティーブンがお豆腐を切って器に入れて薬味とお醤油をかけてくれたらもうそれは彼の一品である。
私はスティーブンの作ったものが食べたい。スティーブンの手がかけられたものがいい。そしてすごくすごくめちゃめちゃわがままを言って身の程知らずな贅沢を要求すれば、スティーブンが『私に食べさせることを想定して』作ったものだったら最高に幸せだ。
本心をぶつけてから一拍おいて、慌てて後ずさった。
「変態とかではなくて!あと、全部任せきりにしたりしないよ!邪魔になるかもだけど、できることがあったら手伝う、……手伝わせていただけると嬉しいです」
「そうかい。それならメニューを考えておく」
「やったー!」
彼は大人な態度でかすかに笑った。
「君は素晴らしく素直だなあ」
「どういう意味?」
「腕によりをかけるよって意味」
「そっか……?」
私の中では合致しなかったんだけど、翻訳狂ったかな。
スティーブンとの話を終え、何か忘れてるなと寝る支度の間じゅうずっと考えていて思い出した。勝敗だ。
クイズの答えがわかったかどうかレオに問い合わせると、彼はまだわかっていなかった。電話口で勝ち誇る。口にチャックをつけて閉め、コツや勝利の理由をべらべらとばらしてしまわないよう気をつけて応援したが、ヘルサレムズ・ロットに来てからこのかた様々な分野(……主に恋)で敗北を舐め続けた私は久々に人に何かで勝てた喜びで浮かれており、冷静になってみると勝負相手だったレオがくれた『おめでとうございます』と『凄いですね』はどことなく生ぬるかった。でも勝ちは勝ちだ。
あちらも負けを認め、スティーブンが私の名前をよく呼ぶような方法や案を生む約束を守ろうとしたが、これは私が止めた。その栄光と権利と幸福に安易な気持ちで手を出すと大変なことになると学んだからだ。
レオは私の支離滅裂な説明で納得した。「別のものを思いついたら言ってください」と新しいチャンスまでくれる。正直に言うと、こうして勝ってみると勝っただけで満足できてしまい、勝者の権利は捨て去っても構わなかったのだが、それもまた善意を無下にするようで申し訳なかったため、次に会うときにお菓子の味見をしてほしいと頼んだ。ギルベルトさんの手作りホニャララで鍛え上げられた味覚に少しでも響くようなものをヴェデッドさんの補助なしで作れたら、それは誰か(……たとえば好きな人とか)に胸を張ってプレゼントしても許されるのではないだろうか。私もレンジで爆発黒焦げまみれ、とは流石にならないが味のレベルは一般を超えない。格段に上達するには何回かお願いすることになるかもしれないけど、レオには尊い犠牲になってもらおう。
この『賭けの結果』はのちにK・Kさんを大笑いさせるちょっとした一幕に通じるのだが、このときの私たちがそれを知るはずもなく、純粋に健闘を称えあって電話を切った。
静かな部屋でひとり、 、と私を呼んだ彼の姿を瞼の裏に蘇らせる。枕に頭を激突させて死んだっておかしくない破壊力だった。
でも誰に対しても、『あっ』というひと言にはちょっと疎外感がある。約一名、額に痛みもくらったし。
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