09
概念を覆す味だった。
外国人の面々は至極当然な顔をして器を手に持つ。染みついたマナーが抵抗感を産みそうだけど、郷に入れば郷に従う、とか、そちらが優先されているのだろうか。自分の中の常識を超えるとは並大抵ではないが、接待(……かなあ)やお付き合いの場では国籍さまざまな料理を食べることも多くて慣れなければいけなかったのかもしれない。
絶妙な色つやを見極めて取り分けてくれるのはギルベルトさんだ。穏やかで手際の良すぎる早業は、私たちに遠慮の隙を与えない。
「くん、チェインくん、スティーブン。足りなければ言ってくれたまえ」
「ええ、どうぞご遠慮なく。さん、お肉はいかがですか?ちょうどいい塩梅ですよ」
伸ばされた手に、思わず器をのせてしまう。薄い肉が鉄鍋からサッと上げられ、新しい湯気が立った。ついでに白滝としいたけもくれる。どれもが『わたしは食べごろです!』と叫んでいた。
クラウスさんからメールが来たのは先週のことだ。時を同じくしてチェインさんとスティーブンからも短い着信があり、返信に窮していた私はかなり救われた気持ちになったと思い出せる。
受信したときは心臓がゴトンと嫌な音を立てた。よく言う『お祈りメール』を受け取るときの気持ちに似ているのだろうか。
相手はあのすごい人だ。読み進めるのが怖くて仕方がない。だが開封しなくてはいけない。目を逸らせない現実はいつだって立ちはだかるのだ。
既読マークをつけて、息を詰める。あのすごい人は私を食事に誘ってくれていた(……誘ってくださっていた)。やめてくださいと懇願したくなるような丁重なメールだ。
どう断るべきか考えた私は普通だろう。スクロールして文面を見ていくとその思いは強まった。
同席者は、毎日がとても忙しいクラウスさんのスケジュールに都合がついたときに予定が空いている人で、全員とも私が親しみを感じる人物だった。食事の内容も、誰を一番に考えてくれたのかがわかるものだ。
でも、ちょっとこれは。
ぺらぺらな敬語を絞り出して、なるべく失礼にならないように感謝を伝えようとして唸る。
するとスマホの画面がぴかぴか光り、手の中で小刻みに震え始めた。表示されたのは『チェインさん』の数文字で、食らいつくように受話ボタンを押してから困ってしまった。どうしよう、話しづらい。
「もしもし。チェインだけど、今、平気?」
「はい、大丈夫です」
「ミスター・クラウスからメールがなかった?」
「ありました」
「行けそう?」
「予定は平気なんですけど……」
暫定の参加者は、主催者を含めて4人。
クラウスさん、ギルベルトさん、スティーブン、チェインさん。
そして私が誘われている。
「すごくないですか」
「ここまでピンポイントでくる?って感じ」
なんてメンバーで食卓を囲むんだろう。この顔ぶれは自信を持ってヤバイと言える。クラウスさんにもギルベルトさんにもスティーブンにもまったく知るところがないというのがまた気まずい。
チェインさんは単純に取り合わせのおかしさと偶然を話したかっただけのようで、声音にはそよ風も感じられなかった。
「来ないの?がいないと予定が流れると思うし、決行されてもメンバーはミスター・クラウス、ギルベルトさん、スターフェイズさんと私でしょ?」
いいじゃないですか、と言えなくて複雑だ。
クラウスさんとギルベルトさんとスティーブンにとってはなんら関係のない話だろうが、チェインさんと私には説明しづらい感覚がある。
しかし、チェインさんの観点はそこではないらしかった。
「どうせスターフェイズさんたちも私もの話しかしないよ?ミスター・クラウスの関心ごとはが元気かどうかなんだからさ、話題にのあれこれが出るのは間違いない。私、ストップかけるつもりないから、あの人たちの口から何回の名前が出るかわかんないけど、それでも気にならないなら『彼女は都合が悪かったみたいです』って私からミスター・クラウスに言おうか?」
「なんでストップかけてくれないんですか!?」
「なんでストップかけなきゃいけないの?」
「そうですよね」
私の勝手な照れと焦りを減らすために上司ふたり(……だっけ?)の話を止めさせて雰囲気を宙ぶらりんにさせるようには見えない。
「すき焼きだし。来たら?」
そう。
誘われた食事の内容は、元の世界では滅多に食べられず、ヘルサレムズ・ロットでも口にする機会がなかった高級な(……個人的に!)もの。パパのところでも食べなかった。馴染みがなくて、『食べたいもの』の候補にも挙がらなかったのだ。
クラウスさんが整える晩餐の様子と、グツグツと煮立つお鍋を想像する。
おいしそうだったけど、人生最後の晩餐になってもおかしくない絵面だ。
数日後、チェインさんの後押しを受けて、私はとっておきの洋服で戦場へ向かった。Xデーと呼ぶのだったか、私はその日が近づくにつれて緊張が高まって久々に宵っ張りになった可愛い神経の持ち主だ。心が弱いと卑下したくはないが、いつまで経ってもこんな調子だとこれから先の長い人生が思いやられる。
当日は、何が何でも絶対に這ってでもシフト通りに済ませる気概で挑んだバイトを終えると一旦、家に戻った。そのとっておきの洋服に着替えるためだ。連絡を待つ意味もあった。
同僚たちにはデートかと冷やかされたけど、ご飯に誘ってもらったと真実で応えた笑顔が引きつっていないことを願う。誰に誘われたのかについては追及がなかったから、『恋人に』と脳内補完されたかなにかを察されたかだ。
今日の気温は日々と大差ない。室温ならなおさらで、ということは顔の火照りと滲む汗は緊張由来のものに違いない。耳までぽかぽかしている。
夕食どきにちょうど合うニュースが流れ始めると、スティーブンから電話があった。どこにいるのかと訊かれたので「家」と答え、少し離れた大きな通りで待つよう指示される。これからお仕事場を出るすごい人たち4名はそこで私を拾ってくれるそうだ。
しかしよく聞くとスティーブンは別行動でお店に向かうらしく、私は言葉に詰まってしまった。ひとつの車に私とあの3人だけで乗るの?
返答はわかりきっているので口には出さない。
ギルベルトさんの運転テクにはなぜだか絶対の安心を抱けるが、滅多にないすき焼きへの憧れと喜びとワクワクを楽しむ余裕はいよいよ風前の灯火だ。なにも考えられず、うつむいてひたすら膝に視線を固定する自分が見える。
奇怪極まる人間関係の五芒星の誕生が先延ばしになったことも、良いのか悪いのか。心臓がゴトンゴトンとうるさくて健康に影響がありそうだ。
私の様子を電話越しに察したのだろう。スティーブンはかすかに笑って慰めの言葉を言った。吐息交じりな彼の笑い声が鼓膜から全身に拡散される。物理的な距離と電話というクッションがなければ死んでいるところだった。
心を落ち着けるために深く息を吸う。
ビビったまま停止していた頭が解され、彼らはあんなに素晴らしい人たちなのに、勝手に敬遠して怖がってしまって申し訳ないな、と気を取り直せた。
あの人たちはスティーブンが信頼する仲間でもある。私のこれは、誰に対しても失礼な畏敬だ。
「ごめんなさい」
「急にどうしたんだい?」
「いっぱい優しくしてくれる人たちにびくびくしてるのってすごい失礼だよね。あなたも自分の大事な人たちを変な目で見られて気分良くないよなって思って」
「変なところで律儀だなあ。僕は何も気にしていないし、君のそれもただクラウスに慣れていないだけだよ。君が対応に困り果てる相手は彼とK・Kくらいだろ?彼らには普段、全然会わない。K・Kとはたまに連絡を取っているみたいだけど、クラウスとは機会も用事もないからさっぱりだ」
「そうかな」
「そうだと思うよ。君の中では同じ分類のはずだけど、チェインやツェッドとは問題なく付き合ってる。一番、非常に頻繁に接するレオナルドとも仲が良い」
スティーブンは苦笑して続けた。
「……とてもね」
穏和に紡がれたこのひと言は、声は、口調は、なぜか絶大な威力で私の意識を揺らした。
「仲、良いだろ?」
「ふぁ、はい、良いです」
なにかすごいことを聞いたような、錯覚なような、上下左右が反転した気分だ。
ただ強調して付け加えただけなのに、響きが低くて柔らかな囁きに似ていたからというしょうがない理由で無闇にときめかれるスティーブンの身になって考えてみるべきである。
なぜか熱くなった頬を手で扇ぐ。たぶん、色っぽさを感じてしまってあてられたのだ。
こちらを慮ってか、興奮を抑えながらいくら待っても、『親しみリスト』にザップさんの名前は出なかった。
あの人にも慣れたのだろうか。
相手に慣れるための順序を辿ることなく飛び込まれてなし崩しにこうなった気がするが、あれはザップさんの手法のひとつだったのかもしれない。
だけど、助けてくれたり気遣ってくれたり(……結果はどうあれ……)、知らないことを教えてくれたり(……知らないままでいたかった)、ご飯代を自分で払ってくれたり(……当たり前すぎてもう何がなんだかわからない)、いろんな記憶が走馬灯のように映し出されてありがたくて涙が出そうだった。考えるのはよそう。
「そうだといいな」
どこまでも自然体な感じと押しつけがましくない言葉は人の中にすうっと浸透する。もしも彼がカウンセラーだったら、私は彼に心も身体も委ねてしまうまな板の上の鯉だ。
もっとも、私の知る『カウンセラー』は中学と高校にいた白衣の先生だけである。それも噂を耳にする程度のものだったから、私の想像する『カウンセリング』という仕事(……行為?)が実際のところと一致しているのかはわからない。だが何も考えずにイメージで言うならそんな感じだった。
優しさが嬉しくて微笑みが浮かぶ。私に自覚はなかったが、私の声からは気が抜けていた。
こちらが多少、楽になったのを感じたスティーブンは、柔らかな沈黙を一拍ぶん落とした。
言いようのない恋が胸から喉の奥へせり上がった。繋がる無音があたたかくて、心がキュッと切なくなる。気づけばいつの間にか、緊張感による胃の張りはなりを潜めていた。これはもはやカウンセリングでは収まらない。こんなカウンセラーがいたら学校の相談室は満員御礼、長蛇の列で刃傷沙汰が発生する。
電話を耳に当て、ずっと喋らずに、伝わらない体温と息づかいを共有することが今この場でできる最高の抱きしめ合いなように思えた。
しかし勝手に抱きついているわけにはいかないため、あちらからブツッと切られる前に少しだけ話を長引かせる。
「すき焼き、おいしそう」
「がっかりはしないと思うよ。クラウスとギルベルトさんが好む料亭だ」
「行ったことある?」
「前に一度ね」
「ふーん……」
連れて行ってもらったランチも食べさせてもらったお菓子もおいしかったが、これも彼らにかかれば優雅に楽しめる類なのだろう。
料亭。
なんだか胃痛が復活しそうな響きだ。
ひとつでも失敗を減らしたい。粗相の可能性を潰すため、ヘイシンテイトウ、服装の助言をお願いした。今の自分のコーディネートが正しいと自信を持てなくなってきたのだ。
彼はこれまでの姿から私のクローゼットの中身を見透かし、提案してくれた。
「それじゃあ、また後で」
「あっ、うん。また後で。ありがとう、スティーブン」
「どういたしまして」
電話を切る。声の名残はあたたかい。
すき焼き。すき焼きだ。チェインさんとおいしいすき焼きを食べる。クラウスさんは優しくて頼れて強くて気遣いいっぱいないい人。ギルベルトさんは異質な恰好だけど威圧感の『い』の字も感じられず、肩書きがなければ全然怖くなくてのんびりだ。スティーブンも私たちを(……クラウスさんたちを?)楽しませようと心を砕き、絶対に悪いようにはしないし、ならない。
鏡の前でブラウスのボタンとスカートのホックをとめる。顔を上げればいつも通りの私がいる。軽く髪型もいじった。うむ、我ながら今日もそれなりに上出来だ。
遅れたら一大事だから、紅茶を飲んだマグカップを洗うとすぐにハンドバッグをひっつかんで家を出た。ただし、鍵をかけるときは慎重になる。やり忘れたらこちらも一大事だ。設備が整っているから酷い問題にはならないとわかってはいるものの、だからと言って胡座はかけない。『機械は騙される』と、なにかで見た気もするし。なにで見たんだっけ。本だったか映画だったか。ヘルサレムズ・ロットは普通の街より情報源が多い。街中で耳にした雑談の中でだったかもしれない。 スパッと思い出せしたいのに、頑張っても無関係な記憶ばかりが目立つ。やけに回転が鈍いけど、もしかすると私はこの後に及んで現実逃避をしているのか。スパッと思い出そうとする行為自体が現実逃避だったりして。なんと往生際の悪い精神なのだ。
信号を渡ると、地図アプリの案内に従って歩く私を追い抜くように1台の車が車道をなめらかに走行して現れた。あまりにも優雅な運転だった。中に偉い人が乗っている、VIPな黒塗りガラスのそれっぽく見えるほど丁寧である。びっくりして思わず足を止め、凝視する。
迫力の割に、黒みがかった映画のようなキケンな空気は皆無で、車から降りて私に挨拶したのはギルベルトさんだった。デンジャラスな中でも信頼できる人物の登場に、始まりを予感する。
優しく促され、びくびくしながら車のドアに近づく。短く挨拶をし合った穏やかな瞳で常識を取り戻せたのか、スカートの裾が乱れないように乗り込むべきだと気がついた。
正しいやり方がなんなのか忘れた焦りで頭が痺れるが、なんとかなってよかった。
「こんばんは、クラウスさん、チェインさん。迎えに来てくださってありがとうございます」
クラウスさんは、比類なき泰然とした態度できっちりと挨拶を返した。いつもながら、表情、声音、口調、服装など、全身から統一された気品を感じる。
「いつも急な誘いで戸惑わせてしまってすまないね。今回も親しい仲のみの集まりなので、どうか気軽な気持ちで楽しんでくれたまえ」
お礼を言って頭を下げた。気軽に楽しめる人選じゃなくて困ってます、とは言えない。優しさと気遣いが私を追い詰める。私が本音を冗談めかして誤魔化せるのは、同年代かそれ以下の、叩くと軽い音がする付き合いの中だけなのである。秘密組織のリーダー(……だよね?)として仕事をし、至るところに跋扈する真っ黒商売のチミモーリョーと戦う人(……だよね?)の上手を取れるだなんて、思い上がりも甚だしい。
彼に面と向かって真顔で隠し事をやり遂げられる人物の候補として思いつくのは、他人の心をスキャンできそうな某イケメンだけだ。
ぶら下げられた甘いエサに飛びつき躓き崖から転落したせいであわや死にかけた私とクラウスさんを比べるのはたいそう失礼でかなり畏れ多いものの、あの男には『ヤバい』『強い』『怖い』の三拍子が揃っている。四方八方を相手取る秘策を持つ可能性が高い。ことわざや四字熟語で表現するとき、彼のような人をなんというのだったっけ。また記憶がしっちゃかめっちゃかになる。緊張でかいた冷や汗に水分を奪い取られて頭脳はカラカラだ。帰ったらスマホで辞書検索をすることにした。
しかし、それでもクラウスさんはみんなを凌駕するのか。確かめられない想像で自爆して、近寄りがたさが増した。
同じ車で行くチェインさんが、こちらの瞳を覗き込む。
「生きてる?」
「半分くらい……」
「あ、意外と生きてる。お腹はすかせて来た?」
「お昼は控えめにしたんですけど、今はすいてる感じがしなくて焦ってます」
「なに食べたの?」
「かぼちゃパイとコーヒーです」
「少なっ。すいてるわ。食欲なくても一応、フォローするからゆっくり食べたら?すき焼きは逃げないし」
すき焼きか私か、どちらが先に逃げるのか窺い合う冷戦にもつれ込みかけだ。
「ありがとうございます」
ひそひそ話は感じ悪いなと、私たちはこのあたりで顔を離した。
スティーブンはすでにお店の前で待っていた。
車から降り、謎の気まずさにのしかかられるまま小さく会釈する。
拳ひとつぶんあけて私の横に立つチェインさんは、仕事終わりのイケメンの意識がクラウスさんに向いた隙に、綺麗な深い瞳に私を映した。首の動きが無感動に見えて、つい両手で壁をつくってしまう。
美人さんはぱちくりとまばたきした。
「この手、なに?」
「なんでもないです」
そっと背中に隠した。
ハラハラしていたくせに、チョロい私はお肉を1枚食べるだけで陥落した。
「やばっ、おいしい!」
噛むと甘い脂がじゅわりと広がって、濃いめの味を卵の黄身がまろやかにする。永遠に噛んでいたい。
お肉自体もしっかりした本来の味とトロトロな柔らかさからして、『THE 高級』な逸品なのだろう。
「おいしいかね?」
「おいしいです!」
クラウスさんに答えてから、ハッと口に手を当てる。ずっと抑え気味を心がけてきたが、驚きのおいしさで声の音量が上がってしまった。しかもクラウスさんに対して馴れ馴れしい。
「それは良かった。卵のおかわりも好きなときに言ってくれたまえ」
「ありがとうございます」
彼は気にせず、ちょっと口角を上げた。
「ああ、くん。忘れていた。写真を撮るかね?」
「え、すき焼きの?……ですか?」
「うむ。たまに料理の写真が送られてくる、とレオナルドくんが言っていた」
「は私にもたまに送ってきます」
「ではスティーブンにも?」
「いや、僕はもらわないな。僕が彼女に送っていないからだと思うんだけど」
「えっ」
「なるほど、トレードということか。くん、今度、私も君に写真を送っても構わないだろうか?……ありがとう、交換が楽しみだ」
全然トレードじゃないのだが、どうやら私は頷いたらしい。
この人が撮る写真ってどんな感じなんだろう、などの興味は他人事ではなくなった。そのうち実際に写メがくるのだから。
秘密組織の人たちが交わす世間話の陰に隠れてしみじみと牛肉の力に感心していたことがバレバレとも知らず、私はしばし黙々とすき焼きを食べた。時おり耳に『が』と『彼女は』とよそで交わされる私の話題が飛び込んでくるのは聞こえなかったふりをする。恥ずかしい話でなければいいのだが、怖かったため聞き耳は立てなかった。
こちらの背に近づくギルベルトさんは気配が薄く、ちょうど「おいしい」と独りごちたところで新しいグラスに入ったお水をくれたおかげで心臓が大きく跳ねた。
輪から外れてひとりで食べてひとりで呟く。それ自体はいいのだが、聞かれてしまってニコニコと微笑みを向けられると急に恥ずかしくなる。
「お、おいしくて、つい」
笑って誤魔化すと、彼はイエスかノーか、ことさら優しい口調でお鍋の煮え具合からオススメの具材を教えてくれた。異界の春菊(……のようなもの)が食べごろか。取り分けて口に運ぶ。箸でつついてもいないし時間を計ってもいないのに、ドンピシャな味と柔らかさだ。ギルベルトさんはどれだけ万能なのだろうか。あと、私まさか今、子供扱いされた?
「気が早いようですが、シメにはおうどんを予定しております。お腹の隙間は少々、空けて置いてくださいませ」
「はい、わかりました」
「食後のデザートもございますよ」
お腹たりるかな……。
ペースを落とし、ゆっくりとしいたけをかじる。今後のネタばらしをした口はお腹の隙間を空けて置かせず、抜群の読みでお肉を勧めた。果たしてこれを拒めようか。
「おいしいです」
「それは良うございました」
ギルベルトさんは口元を綻ばせた。
久しぶりすぎるすき焼きはすごい。頬が落ちそうだ。お肉1枚にしても私のお財布には耐えられない数字が叩き出されるんだろうなあと思うと、遠慮と同じ量の背徳的なドキドキも生まれる。
チェインさんとスティーブンも、話をやめて新しいお肉を食べた。
美食をかみしめる。
「すごいおいしいですクラウスさん……」
「とてもおいしいです、ミスター・クラウス」
「美味いよクラウス……」
声がかぶった。
全員が食への感動と肉への敬意とクラウスさんへの感謝を表すると、喜ぶ顔が見たかった、と言うように、クラウスさんはお肉の追加を促した。
食事が一段落すると話にも区切りがつき、私は一旦、席を立った。
チェインさんにくっついて個室を出ると、緊張が解けた証か、廊下に小さくBGMが流れていることに気がついた。入ったときは心臓の早鐘にかき消されていたのだ。
化粧室までの短い旅路と静かな時間は、私があと少し頑張れるよう息継ぎさせる意味にも感じられた。
「ありがとうございます」
「なに?」
「……なんとなく」
チェインさんはなんでもない顔をして扉を開ける。ヒールが固い床を叩き、涼しげな音を立てた。
「ミスター・クラウスとこのメンツで、大丈夫だった?」
「ヤバいってテンパってたんですけど、気を遣ってもらっ、……いただけて。楽しくおいしく過ごせてます」
「じゃあ、ミスター・クラウスもスターフェイズさんも安心するよ。食事を通すとチョ、……距離が近づきやすくなるんじゃないかって計画立ててたから」
弱めのアルコールで乾燥したうえ満腹の胃袋に血が集中して現在お留守な頭でも、チェインさんが『チョロい』と言おうとしたことはわかった。煩悩とイケメンに弱いだけで食い気は主張していないはずなのに(……むしろダイエット中は敵でもあるのに)、なぜかチェインさんの中の私は常に食欲旺盛だ。突っ込みたいけど突っ込めない。違うの?と真顔で訊き返されるのがオチだ。違うかと言われれば、それもまた違う。おいしいものは好きだ。今日のように贅沢にいくのも自堕落につまむのもお手ごろに楽しむのもいいと思う。だが旺盛かと問われるとそれもどうなのか。
結局、漠然とした相槌を打っておいた。
身だしなみを整え直す。
「ドキドキした?」
「はい?」
「とスターフェイズさんと私がミスター・クラウスによって小規模に集められるクローズドサークル」
どうなっちゃってどうされちゃう組み合わせなのかと慌てたことは事実だ。
しかし、どうとも怖いことにはならなかった。楽しくすき焼きを食べて頬を落としたくらいだ。
私が自分勝手に振舞ってしまって、チェインさんは厭な気持ちだっただろうか。
問いかけると、チェインさんは鏡越しに私を見た。
「ねえ、凄くが怖がること言っていい?」
「い、いやです」
「ここでが急死しても、誰も私を疑わないかもね」
「嫌だって言ったのに!」
「距離取らないでくれる?」
冗談だと知ってはいる。わかってもいる。ただシャレにならない強さを感じるだけだ。
彼女はぱちんとポーチを閉じた。
「すき焼きなんて滅多に食べないから、来られて良かった」
「めちゃくちゃおいしかったですよね」
「静かに食べられたしね」
裏側には、来られなかった人の名前が隠されている。たったひとりの名前だ。肯定も否定も難しい不思議な人である。
右手が左手になる平面に映ったチェインさんが私と目を合わせた。何かに背中を突き飛ばされたような気にさせられる。『何か』というのは、たぶん私の軽率でアホな思考だ。
あちらも呆れの境地にあるだろうが、私はチェインさんとの距離をかなり掴みあぐねている。どんなふうなのか俯瞰できずにずるずると相手からの接触に頼ってばかりで、自分から呼びかけたためしは恐らくゼロだ。初めの初めが最も濃密な記憶だった。
だとすると、チェインさんはここでこちらに求めているのではないだろうか。
お世話になりっぱなしの私は、この食事会の成果として明確な動きを差し出すべきでは。
何かしなくては、何か言わなくてはチェインさんを失望させてしまいそうで、身体の奥がじんじん痺れて頬がいやに熱くなる。
私はチェインさんが好きである。……変な意味ではなくて。
チェインさんがどう考えているかはわからないけれど。……変な意味ではなくて!
と、ここまできて、引き結んだ唇の線を緩めた。
狂った判断能力はいつだって誤りを生むが、彼女が私をどう考えているかがはっきりわからなくても、チェインさんを単体で考えると、彼女は嫌だったら切るタイプだと思う。クールにさっくりと関係を絶つ。根性なしの元ハタチが紙のような理性しか持たぬへぼいやつだと判明しきっているのに、わざわざ連絡を取ってくれたりたまに会って構ってくれたり、自分の時間を与え続けはしないのではないか。
どう言えばいい?私の気持ちってなに?
ここは名だたる料亭のひとつに看板を連ねるお店に展開されたクローズドサークル。推理小説で読んだから意味はわかる。
心と肉体に従おう、と正気にしがみつく。
「……戻るとき、ちょっとだけゆっくり歩いてもらってもいいですか?」
「具合が悪いの?」
近づいたチェインさんの瞳は宵闇まじりの木洩れ日のようで、見つめていると、本来の目的地はがむしゃらに迸って千切れた。逃げたいわけでは決してないのに、どうしてダメなのだ。
熱を計る感じで、白くて長い指が私に触れる。
また大慌てで混沌とした。
「チェインさんともう少しふたりきりでいたくて」
「ごめん、先に戻るから」
手はすすすと離れた。
「変な意味ではなく!変な意味ではなく!!チェインさんが好きだから傍にいていただけると安心するというか!ごめんなさい!ひと頑張りするためにお情けをかけていただきたいというか!どうしても好きで……」
「それが『変な意味』」
とても同感だ。
休む必要はまったくないので化粧室からは出る。クラウスさんたちを長く待たせるのは悪い。
チェインさんは私がとぼとぼ歩くのに付き合って、スカートの裾をあまり揺らさずに歩いてくれた。
「ありがとうございます」
「いいけど、さっきのは何?」
「なんでもないです」
数歩、先回りした彼女がこちらを覗き込んだ。
「無理がない?」
「無理まみれです……」
デザートもお茶もすべて終わり話も盛り上がり切ってやっと収束すると、最後まで面倒を見て参加者を家へ送るつもりだったクラウスさんとギルベルトさんの善意で、私たちは初めに待ち合わせた交差点の近くまで戻ることになった。途中でスティーブンが「買い物をして帰るから」と言い出さなければ、そろそろアパートメントの前についていたはずだ。
チェインさんはあといくらか近くまで乗って行くらしく、窓を開けて一度、手をゆるく動かした。私は今せねばと強く感じ、「チェインさん!」とその手を握って言った。
「ごめんなさい!私はチェインさんが好きなんです。どんどん好きになっていっちゃうんです」
「……。言う相手間違えてるし、謝るともっと変な意味に聞こえるからやめない?」
「や、やめます」
急いで後ずさって歩道の段差に躓きかける。どこをやめたらいいのか、一瞬だけ迷ってしまった。謝罪の部分ではないだろう。
やめた私への返事は窓を閉める行動で示される。分不相応にも切なくなってしまったが、1時間後に自室でメールの受信に気づいて復活した。チェインさんからのおやすみメッセージとクラウスさんからの写メである。感動すればいいのか恐怖すればいいのか笑えばいいのか決めかねてどちらにも保護機能を使用した。
買い物をすると言ったとおり、スティーブンは帰り道にある気軽なお店でアイスクリームをカゴに入れた。どれが好きか訊かれ真剣に悩んでしまうのは、食に貪欲なわけではなくて普通のことだ。
おいしそうなやつがカロリー控えめかどうかも一瞥に見せかけてよくよく見極め(……これは自信がある)、カップアイスをお願いした。
「他に欲しいものはあるかい?」
「ううん。ありがとう」
ここは私もよく立ち寄るお店だが、スティーブンがレジを済ませる後ろ姿は珍しくてついつい目が行く。
「じゃあ、溶けないうちに帰ろうか」
短い距離でも、クラウスさんに手間をかけさせたくなかったのかもしれない。
「こっちに来ると、クラウスさんたちは遠回りになるの?」
「ん?」
「だから買い物をしたのかなって」
「ああ、うん。そんな感じだよ」
「そうかな……」
違うっぽかった。
「すき焼き、おいしかったね。色々助けてくれてありがとう」
「いや、大活躍したのはチェインさ。彼女は君に関する引き出しをたくさん持っていて、クッション役に留まらず巧みな報告でクラウスを君の即席専門博士にした」
「引き出しって?」
「好きな食べ物から好きなドラマから、貸したCDと観たがっている映画のタイトル。このあたりは僕も知っていたが、クラウスには貴重な情報だ」
そんなものを手に入れてどうするのか。知りたいが、『知るとき」はイコール『やるとき』か。
「口を閉ざすところもあったけどね。君とチェインはいくつも秘密を共有しているようだし、今回で更に一層仲良くなっていただろ?」
最近の出来事を引き合いに出すと、主な項目は私の誕生日だ。日付はチェインさんしか知らない。有言実行で、スティーブンにもクラウスさんにも秘密にしているようだ。
「クラウスとも交流が増えるかもしれない。K・Kも君に構いたがるだろう。ザップもツェッドも接点が多いし……、レオナルドもだな」
「レオが何?」
「君と接する時間が僕とヴェデッドの次に長そうだ」
鍵を開けて家へ入る。持ち込んだ外気の埃っぽさは、荷物を片付ける間に短い換気で外へ放り出された。
アイスクリームを冷凍庫に収め、スティーブンはこちらへ足を運んで私の頭を撫でた。
私は油断の塊でしかなかった。疲れてしまってやる気が起きず、とりあえず郵便受けで家主の帰りを待ちわびていたダイレクトメールを読んでいた女に警戒を要求するほうが無理というものだ。
突然の触れ合いに顔を上げる。背の高いイケメンは、壊れものに触れるようなことさら丁寧で柔らかな手つきで頭蓋の曲線をなぞった。つむじ付近から髪を撫で下ろした指先が一瞬、耳を掠め、心の奥のトキメキ中枢を直で撫でられたと錯覚した神経が多幸感をもたらす物質を全身に行き渡らせ始めた。
「複雑だなあ」
「ふぁ、はい?なにが?」
「いや、なぜかたまにチェインとレオナルドから『正妻の余裕』を感じるんだよ」
「スティーブン、ホントになんの話?」
突拍子もなく言われても、セイサイのヨユーがなんなのか認識し遅れる。
「クラウスにも慣れたようだし、僕も頑張らないとなあ」
言葉に合わないのんびりした空気と滑らされた手は胸を高鳴らせたが、彼はじっとこちらを見つめて期待を高めさせた挙句、硬直する私の頬を親指でくすぐっただけで空振りさせた。私ごときはどうにだって転がせるのだというセンセンフコクか。
「……途中までは本気なのに急にリアクションが見たくなるときがあるんだよ」
「ひどくない?」
肩透かしをくらった様子がどんなに面白いのかは教えてくれなかった。相変わらずビミョーな扱いだ。『途中までは本気だった』という嬉しいとも悲しいとも明言しえないひと言が添えられているから尚つらい。
ご飯の写真のついでにちょっぴりのいじけを添えてレオに報告をしよう。
すき焼きの感想とお礼を兼ねた返信も同時にしたためたので、宛先を間違えてクラウスさんに泣き言相談メールを送ってしまわないよう(……そんなメールは他の人にもそう送らないけど)、アドレス帳への登録とフォルダ分けを新たにやり直した。
0120〜0314