08
ツェッドが珍しくメールで私に頼みごとをしてきた。
街中で大道芸のようなアルバイトをする彼は、小さなファンから手紙を受け取ったらしい。内容は教わらなかったが、彼がわかりづらいながらも本当に喜んでいると理解できる語り口だ。
返事をするべきだ。できればお返しもしたい。
贔屓のようで良くないかもしれないと思いつつも、ツェッドは感謝の気持ちに歯止めをかけたくなさそうだった。
妹さんがいるらしいレオに相談するほうが確実に為になるのに、どうして私に連絡をしたのか。短い文面の即レスが届いた。本当はそうするつもりだったらしい。
そういえば今週、レオはバイトの掛け持ちで忙しいと聞いた。話をしたかったのに残念だなーと落胆したおぼえがある。
違うのだが、自分がキープだったと知ってしまった男子の気分がわかったようでちょっと切なかった。
暖かい日のお昼前に、小ぢんまりしたビルの前で待ち合わせる。終わったら一緒にご飯を食べるつもりだ。
雑貨屋はゆるっとした雰囲気で、商品は可愛いものが多かった(……変なのもあった)。
小さなファンは男の子か女の子かは見分けがつかなかったが、こういった小物が好きそうだから、似た系統で攻めれば間違いないのではと考えたらしい。
方向が同じだとダブってしまう危険がある。自分では買わなさそうなものはどうかと話し合ってから、価格は控えめで少し背伸びしたデザインの小物を探して二手に分かれた。
決まらなかったら無難にお菓子を勧めることにしよう、と考えながらヘアピンを手に取る。鏡の前で自分に当ててみる。似合ってしまった。これはダメだ。
どんな顔立ちなのか、ツェッドの観察眼と説明で作り上げた想像をくっつけて店内を睨みつける。ぐるりと一周し、感覚に任せてボールペンを掴んで、パスケースとストラップの棚に挟まれておろおろするツェッドのもとへ向かった。彼も私に気づき、こちらへやってくる。
「これ、どう?」
「綺麗なデザインですね。ですが、『また手紙を書いてほしい』と要求されているように感じさせてはしまわないでしょうか」
「じゃあ栞は?」
「本を読むかどうか」
「読書しない子でも、教科書に挟んだりとかできるじゃん」
ツェッドが「なるほど」と頷いてくれたので、『やったことないけど』と付け加えるのはやめた。私は栞を挟むなんて発想もなく、ノートの端っこにページをメモしておくだけで付箋も使わなかった学生である。
しかし、素敵な技をみせる人にファンレターを書くような子ならきっと真面目で真っ直ぐな性格に違いない。栞の使い道を見つけるのは難しくないだろうし、何より憧れの人から手紙の返事とプレゼントを送られるだけですごくすごく嬉しいはずだ。
はたからはバカバカしく見えるかもしれないが、人を好きになるだとか憧れるだとかって、それくらい単純でとても楽しくてキラキラする気持ちだと思う。
「そうですね。さんを見ていると、よくわかります」
「……バカバカしくってところ?」
「違います」
間髪入れず否定してくれた。
ツェッドはペンとノートの隣にあるカゴから数枚の栞を取って、トランプのように扇状に広げた。
栞はどれもが一筆書きの、線の継ぎ目がないデザインだ。本当に一筆書きであるわけがないから、うすーい金属(……なのかな?)を型で抜いたと言うほうが正しいかもしれない。
「これは?」
「少し自己主張が強くありませんか?」
「ツェッドのワザが好きなんだから、ひと目で思い出せるやつがよくない?」
私は安直だからぴったりだと感じてしまうが、これはツェッドの買い物だ。口出ししてじっと注目するのも急かすような感じがする。私は日記用のノートを探すことにしてツェッドから離れた。
立っていては見づらい。でもしゃがんでしまうとスカートの裾が気になる。床にずると悲しいため、中腰の姿勢で膝に手を当てる。
目に入った可愛い表紙の1冊は、思春期の女子が憧れる鍵付きノートだった。チープな鍵を指でいじって遊ぶ。
その下には、ページ数が多くなくてかさばらず、書きやすそうな冊子が数冊。色を並べて見比べる。
洋服などの『似合う』と『似合わない』が関係ないものの選択では、ついつい人の顔を思い浮かべてしまうから面白い。たとえば、『この色はスティーブンっぽいかも!』とか、『レオとソニックの組み合わせみたい!』だとか。
ノートはレオっぽい色とザップさんっぽい色とスティーブンっぽい色が1冊ずつあって、私は逡巡したのちにレオっぽい色をレジに持って行った。スティーブンっぽい色を買うには勇気が足りなかった。バレたら気まずいどころの話じゃない。あの男は自分が他者からどんなイメージを持たれているか知り尽くしているだろうし、たとえこれが自覚していない色だったとしても、『好きな人を想像して買った』という恋の範囲の中でもドギツめな行動の後ろめたさからくる私の挙動不審さですべてを察され、言い訳ができない気持ち悪さが寒々しい空気を漂わせてしまうに違いない。それはいやだ。かなりいやだ。スティーブンもいやだと思う。これまでの私もとんでも過ぎるキモさだったが、これ以上、線を越えるのは避けたい。
ザップさんっぽい色の場合も本人にバレたら(……日記帳として使う限りありえないけど)危険だし、やっぱり私の平和な癒しはレオなのである。
棚に残る2色を横目に、ぼんやりしながらレシートをたたむ。ツェッドも店員さんが暇つぶしを始めないうちにお会計を済ませた。
「お待たせしました」
「ううん。どれにしたの?」
「勧めていただいたものの色違いです。あの男の子、いや、女の子……、には銀が似合うような気がしたので」
「あとは手紙を書くんだよね?」
「はい。レターセットは10枚入りなので、余ったら引き取っていただけませんか」
「えー?嬉しいけど、使い切っちゃえばいいのに。ザップさんとかレオとか、渡せる人いるじゃん。……クラウスさんとか!すごい喜びそう」
返事もきちんとくれて、ツェッドもそれに返信をして、いつの間にか文通が始まる予感がする。
ツェッドは角が立たない断り方を探した。
「さんが皆さんに手紙を書いたほうが喜ばれますよ」
「なんか一部に呆れられそう。あと笑われそう」
「僕も同じことを考えました」
淡々とした同意だ。
余りの便箋と封筒は半分だけ貰うことで合意する。ツェッドは戸惑っていたけど、そのファンの子とやりとりが続かないとは言えない。
レターセットを確認して、久しぶりにアナログを意識する。
ヘルサレムズ・ロット、そしてこの世界に知り合いは多くない。その中でも誰になら心穏やかに送れるかなと脳内で指を折ってみた。ザップさんは無しとする。
レオには気恥ずかしい。
ツェッドとチェインさんも、この会話を知らなければ引かれてしまう。
K・Kさんは優しくて心から受け止めてくれるとわかるから穴を掘りたくなる。
クラウスさんとギルベルトさんには別世界の畏れ多さがあって、スティーブンにも、その、これ以上の迷惑はちょっと。
手紙って難しい。
書きたいことも書けることもきっとあるのに、私は頑張っても頭が悪いみたいでうまく説明できなくて、正しい言葉がわからない。辞書で調べても、感情や、伝えたいと願う強い衝動の名前を見つけられないのだ。だから勢いばかりで奇妙な本能をぶつけるだけになる。そして手紙が遺書っぽくなる。
もっと大人にならないといけないのに、お手本となる人がどれだけ周りにいても成長するかは本人次第な人生のつらさを痛感する今日この頃である。
案内板を見上げていたツェッドが、私に目をやって言った。
「何を食べますか?」
情けない思考がだだ漏れだったかと焦ったが違った。
ここは建物の3階で、いくつか小さなカフェレストランがあるのは5階だ。
私も案内板に視線をやって、お店の名前を参考に、ジャケ買いで鍛えられた審美眼を信じて目星をつける。
「名前カッコいい」
「ギリシア語でしょうか」
筆記体でスラスラッと書いてあるとなんでもカッコよくて良さそうに見える。
と、首をめぐらせエレベーターホールを探したツェッドと私に声がかけられた。
私たちは振り向いて、ひとりのおばあさんに顔を向けた。
おばあさんは困った笑顔を浮かべている。
「お買い物の途中なのにごめんなさいね。落とし物を見かけなかったかお訊ねしたいの」
「落とし物?」
「ええ。これくらいの……」
しわの刻まれた手が大きさを示した。
「これくらいの、うさぎのぬいぐるみがついたキーホルダーなの。うさぎは孫が好きな絵本の主人公で、とても大切にしていたからどうしても見つけてやりたくてずっと探しているのだけど、ご存じないかしら?」
「このビルで失くされたんですか?」
「ええ、きっとそうだと思っているわ」
「従業員に話はしましたか?」
「したつもりよ。でも最近のことではないの。とっくに探すのをやめてしまったのでしょうね。見つからないとわかっていても来てしまうけど、私も老人だからもう動けなくなる。お嬢さん、お坊ちゃん、本当に見かけなかった?」
私たちは顔を見合わせた。
「ごめんなさい、私は見なかった、と思います」
「僕もです。その……、お力になれず、申し訳ありません」
何日か何週間か、もしかしたら何ヶ月か、腰が曲がりかけたおばあさんがずっと探し続ける孫のキーホルダーについて詮索したい下世話な自分が顔を出したが、口は挟めない。
大切な人が大事にするものは、その人を好きな誰かにとっても代え難い重要なものだ。失くしてしまったなら見つけてあげて、喜ぶ顔が見たい。その人の役に立てたら何より嬉しい。
しかしおばあさんも言う通り、時間が経ってしまった今、落とし物が見つかる可能性は絶望的だ。
「遠くで暮らす孫もね、もう探さなくていいよと言うの。諦められないのは私ひとりだわ」
「その……」
「いいのよ、ありがとう。今日は少し休んだら家に帰るわ」
わかっていると言わんばかりにおばあさんが微笑む。
「ふふ、懐かしい。私もね、昔は夫と一緒に出かけたのよ」
「えっ」
「はいっ?」
ふたつの意味でついていけなくて、素っ頓狂な声が出た。
「あら……お友達?ダメね、私ったら。若い男女を見かけるとすぐにくっつけてしまうのよ。ごめんなさいね、忘れてちょうだいな」
邪推の悪癖はわからないでもない。
おばあさんはストールを羽織り直して私たちに背を向けた。ゆっくりと立ち去る後ろ姿が物悲しい。
エレベーターホールに向かいながら、ツェッドを見上げて同意を求める。
「見つかるといいね」
「はい」
「うさぎが主人公の絵本って何個かあるよね。どれだと思う?」
「どれ、でしょうね」
ぬいぐるみにできそうなうさぎキャラはたくさんいる。
あれかなこれかなとタイトルを挙げつつ角を曲がる。
上へ行くらしい突き当たりのエレベーターの扉はちょうど閉まりかけていた。
あっと声をあげたが、50m走で5秒を切れるであろう秘密組織の人たちなら間に合っても(……速すぎ?)私は無理そうだ。
ツェッドも私を気遣って足を止め、「次を待ちましょう」と言おうとした。
だが、待つ必要はなかった。誰かが中でボタンを押してくれたらしく、すんでのところで扉が元に戻ったのだ。
「すいません!ありがとうございま……」
「ありがとうござい、ま……」
急いで乗り込み、当たり前に発したお礼が途中で痩せ細る。
振り返った私たちを丸呑みするように、瞬いたふたりの目の前で音もなく両扉が合わさった。
素早い手がボタンを連打しても効かない。何をしても動かない。
「私、誰かが中から開けてくれたのかと思ったんだけど」
正しくは、あの状況ではボタンを押さないと扉を止められないと信じていたし、外には誰もいなかったから中の人が善意でやってくれたのだと思っていた。
ツェッドがぽつりと呟いた。
「僕たちだけですね」
ここには私とツェッドだけ。
「自動とかかな?センサーとかで感知とかして待ってたりとかしてくれてたとか?」
「さんの混乱だけは伝わってきました」
「なんでツェッドは落ち着いてるの?」
「僕のぶんも焦っていただけていますので。とりあえず、乗れたんですから上へ向かいましょう」
なんてポジティブなんだ。
冷静な指先が『5』を押した。
エレベーターが動き出す。
足元から身体に圧力がかかる。
「……はっ?」
今度はツェッドも硬直した。
表示される数字は現在の『3』からひとつずつ増えていくはずが、なぜか『2』に減った。
「え、え、え?」
「ちょっと待ってください、なんですこれは……!?」
どんどん地上階を抜け、ボタンにも案内板にも書かれていない地下へもぐって、ようやく停止した。
出ろと言わんばかりに開いた扉の向こうは真っ暗だ。エレベーターの明かりでかろうじて、出口付近の雑然さがわかる。
上へ戻ろうとしても、非常連絡をしても、機械はそっぽを向いたままだ。
「な、なにこれなに、ツェッド……」
短気とイライラは恐怖と混乱に負けた。ひとりだったら間違いなく怖くて泣いている。
ツェッドが私の前に出た。エレベーターから顔を出し、外の様子を窺っている。進むつもりか。確かに、ここにいたってどうにもならない。
逞しい腕を掴んだ。
「お願い!置いていかないで!」
「当たり前です。どこかの誰かならいざ知らず」
普段の3割増しでカッコよくて、元の世界でふらふらしていた私だったら恋の吊り橋から真っ逆さまだったかもしれない。
私たちは同時に提案した。
「ねえ、電話!出る前に電話は?」
「さん。出る前に、ビルに電話をかけましょう」
声が重なって、場違いだけど嬉しくなる。
「私たち気が合うね」
「いえ」
「え!?」
「これは『当然の流れだと思います』と続ける意味の否定です」
「そ、そうだよね」
淡々とした声だから拒絶されたかと勘違いした。ツェッドはそんなことをしないのに、疑ってしまって申し訳ない。
そうと知らず、彼は自分の端末を取り出した。公式サイトの隅っこに小さく書かれた番号に電話をかける。秘密組織のケータイ電話は電波に敏感なのだそうだ。こんな地下なんてお茶の子さいさい、世界中、どこででも使えたりするのだろう。電波がないところでもかな?電波ってそもそもなんだっけ。どこかで読んだ憶えがあるが、キョーミがなかったのか難しかったのか、詳しい記憶は飛んでいる。
事情を語るツェッドの声音は冷静で、『かぼちゃが安売りされていますが買いますか?』なんて連絡みたいだった。
反対にビル側は慌てふためいた。だよねと共感する。封鎖された(……されてるよね)地下になぜか客が入ってしまったのだ。私が責任者だったら真っ青である。
ツェッドが電話を切った。
「階段が西側にあるそうです。じきに助けが来ますから、待ちましょうか」
「西ってどっち?」
「あっちです」
「見えないや。早く電気つくといいね」
「はい」
エレベーターの中は明るい。だけど店内は暗い。
ツェッドの腕を握りしめた。
「ツェッドがいなかったらパニクってたかも」
「僕がいてもパニクってます」
「これよりもっと!ひとりきりなんて無理……」
「さんのケータイ電話もよく通じますから、充電さえあれば誰かに連絡を取れます。普段、使用頻度は高いですか?」
低いほうだと思うのだが、お昼の時点で50を切ったらヘビーユーザーだろうか。スマホを辞書代わりにしているだけで使ってるわけじゃ、と要らない自己弁護をしようとしたが、それが『使っている』ということなのだなと喋る前に気づけたのは幸いだった。危ない危ない。また意味不明な発言で自分の浅さとバカさを見せつけてしまうところだった。頭脳でものを考えなくては。
「私、警察とかビルの人じゃなくて、ツェッドかレオかチェインさんに電話しちゃいそう」
「確かにあの人は対応が早いで、……スターフェイズさんじゃないんですか!?」
「あ、えっと、じゃあスティーブンにも……」
「その優先順位は理解に苦しみます」
ツェッドは首を振った。
「後々に人づてで聞いて驚くスターフェイズさんは見たくないですね」
「驚くかな?」
「エレベーターが壊れて暗闇の地下に放り出される体験は驚愕に値すると思いますよ」
あの冷静沈着な人物はもっとスゴい事件に接しまくっているから、こんなのは気温がちょっぴり上がったのと変わらなそうだが。
せっかく滅多になさげで奇妙なことになったのだし(……全然嬉しくない)、見つめるたびに胸が破裂しそうになる隙のないイケメンからびっくり顔を引き出せる可能性があるなら、怖がる甲斐も、まあ、小さじ1杯ぶんは認めよう。
筋肉質な腕の動きを感じて手を離す。ツェッドは両手で、首元近くのなにかの位置を調節した。
視線を注ぐ。あれはなんだろう。漫画に出ているものだったか。もはや『秘密組織がヤバくて強い』としか焼きついていない私には思い出せない。
好奇心を抑えず、問いかける。
「ねえ、それなに?」
「これですか?」
「あっ、必殺技とかヒミツが関係するなら言わなくていいよ!いつもつけてるから違和感なかったけど、今、急に気になってつい訊いちゃったの。ごめん!」
もしかすると話したくないか話せない事柄かもしれないし、私も聞いて後悔する種類のヒミツかもしれないのに軽率だった。何度も首を横に振る。
髪の毛が乱れ、手櫛で直す間にツェッドが答えた。
「呼吸器です」
「呼吸」
「はい。僕は水の中で呼吸をしますから、これを装着しないと外に出られません」
「水の中で呼吸するの?」
「はい」
「それがないと息できないの?」
「不可能とは言いませんが……」
ツェッドはすべては言わないものの、はぐらかさなかった。
知り合い(……友人と言いたい!)の未知の領域に踏み込んでしまって、私は久しぶりに、否、ともすれば初めてツェッドに対して冷や汗をかいた。
「そんな大事なこと、私に話しちゃダメだよ!!」
「『なにか』と訊かれて『ヘッドホンです』と嘘は言いたくないので」
「正直だよね……!」
彼は悪くない。直感と気遣いが死滅した私が至らなかったのだ。こんな軽々しい女に真摯に答えてくれてありがとう。
知りたくなかったかも、と悪い予想通りに後悔する。
そんなとき、ふっと視界が黒く塗りつぶされた。真っ暗闇が押し寄せ、横から力強く引っ張られる。
「ひっ」
身がすくんだ。
感嘆すべき速さでこちらを確保した腕は、ツェッドのものだ。守っていただけるのだとは回転不足の頭でも理解できたが、反射的な怯えは許してもらいたい。
「さん、大丈夫ですか?」
声を聞いて、こっそり安堵のため息をつく。
「うん、ありがとう。ツェッドは?」
「問題ありません。……停電でしょうか」
地下の明かりはつかず、ビルの人もまだ来ない。
懐中電灯代わりのアプリを立ち上げる。この機能って要るのかな、と削除できないアイコンを邪魔物扱いした過去の自分に説教したい。
ツェッドはもう一度、店に電話をかけた。
不測の事態が起きてエレベーターに閉じ込められないよう、外に出る。ちなみに言うまでもなく、私たちはすでに不測でドロドロだ。
光を店内に向ける。ホラー映画のお約束が頭をよぎった。
「明かりが落ちたのはここだけで、鍵を探すのに手間取っているそうです。『崩落』の際の混乱が原因で封鎖された階ですから、どこにしまったか見つからないとか」
不穏なイメージを急いで振り払う。どんな『混乱』が地下を封鎖に追い込んだのか、考えると暗闇がもっと怖くなりそうだ。
しかし、放置しても心が疲れる。
「混乱ってなに?」
「沈んだんです」
「ここが?」
短い肯定があった。
ヘルサレムズ・ロットの成り立ちは、聞きかじりと本で知っている。
もっと意識が遠のきかけた。
エレベーター、本当に故障かな。
信心深くなくたって、怯む。
「ツェッドは平気なの?」
「人並みに動揺しているつもりです」
だとすると私は人並み以下だ。
ツェッドは私の数百倍は上手に周囲を照らした。
「階段で待ちませんか」
「う、動くの?」
ツェッドの身体を強めに掴む。
「近くですし、鍵が見つからなければ、そのまま破って出られます」
エレベーターの明かりが消えた以上、ここにいるめぼしい理由はないのだから、迎えに近い場所で待つほうが早く済む。だったら怖いから今すぐ破って出ようよ、と懇願したかったが深呼吸で落ち着かせる。
ここは他人の建物である。急ぎの用もなく人命も懸かっていなくて待てば助けが来るとわかっているツェッドは、これっぽっちのトラブルで無用な破壊行為をしたりしないのだった。
私がすごく強かったらどうだっただろう。鍵を引き裂いてシャバの空気(……っていうの?)で肺をいっぱいにしただろうか。
それともキブツソンカイやらバイショウやらの責任を負う度胸がなく、平凡で無力で頭脳と決断力に欠ける元女子大生としてひたすら誰かに電話をかけ続けただろうか。
うむ。充電が尽きるまで繋がっていようとしがみつく自分しか見えない。 停電した地下でひとりきり、という考えたくもないシチュエーションを乗り切るためには、気を紛らわせる長話と上げたテンションが必須だ。ため込んだ話題の種は惜しまず大放出しよう。
長細い光で足元と前方を確認し、天井から吊り下がる案内板を見ると、ツェッドは私をくっつけて迷いのない足取りで矢印の方向へ向かった。
「これでエレベーターキョーフショーになったら嫌だなー」
「断言はしかねますが、さんはおそらく変わりません」
「そっかな。なんで?」
「あの呪いで怪我を共有してもスターフェイズさん恐怖症に陥ったり精神不安定にならなかったんですよね。かなり強靭な心の持ち主である証拠です」
「呪われたスティーブンと故障したエレベーターが同格の扱いになってない?」
「そもそもまず、異世界からヘルサレムズ・ロットに拉致されても自分を保っている」
来て早々にパパの庇護下に置かれ、外界と切り離されたおかげだ。真綿に包まれる太もも風味の愛情を受けたハタチの女は調子をこきまくって他人の金で夢のような遊びに興じ、異世界で孤独を感じる繊細さと客観性を放り捨てていた。強靭な心の持ち主ではなく、ただの空っぽすっからかんな馬鹿者である。
言うと、ツェッドの中の『私』がザップさんの位置に近づきそうだった。無言を貫く。
俗な快楽に浸る私の姿はスティーブンだけが知るため、彼が暴露しなければ誰にもわからない。死んでも死んだあとも来世でも口を割らないタイプの怖い人に思えるが、億万にひとつも酒の肴にされないことを願おう。
「ここが沈んだ、ってどういう意味?」
「言葉通りです。地盤ごと沈下した建物の下部を、埋め立てず建て直さず立ち入り禁止にして放置したと」
「法律で?」
「……記念で……」
「記念!?」
おどろおどろしい記念だ。
「その、沈んだときに人は」
とうとう切り込んだ。
ツェッドは「それは」と言いかけた口を閉ざし、立ち止まって光の線を不自然にずらした。
彼はその場に膝をつく。彼を追い越すまいとする私に、そーっと拾い上げたものが差し出された。
「踏んでしまいました」
不格好なうさぎのぬいぐるみに見えた。
「なに?」
「キーホルダー、に見えます」
「うさぎのキーホルダー」
目測した大きさを、手が勝手に再現した。
全身が冷える。
薄情な成人女はツェッドから距離を取った。
「違うよね!?違うよね!!」
「き、訊かれても困ります!」
「拾っちゃったよ!?踏んだって言った!?」
「言いました……」
「踏んだの?」
「……踏みましたね」
「どうしよう」
「さん、下がりすぎると棚にぶつっ……」
よろけて背中を打った。
「大丈夫ですか!?」
ダメですと言えたらどんなにいいか。
有名なうさぎのキャラクターは薄汚れていた。時間の経過が感じられ、不吉な妄想に取りつかれそうだ。
持ち歩きたくないアイテムだが、床に戻して置き去りにもしづらい。
おばあさんとの会話も、エレベーターのことも、このキーホルダーのためにあったような錯覚に襲われた。タイミングがおかしいではないか。昨日の今日ならぬさっきの今だ。
事実だったらしばらく夜道を歩けないし、成人したくせに何をと呆れられても部屋の電気を消して眠れなくなる。土下座とへぼい弁舌をふるって同情をひいてでもスティーブンのお布団に入れていただくしか安眠の方法はない。心が弱い。
「……どうする?」
「……落し物として扱ってもらいます」
正体を突き止めたりおばあさんに届けたりしようと提案されたら逃げようかと思った。ツェッドたち以外が相手だったら良心を疑われようが見捨ててる。
「夢に出そう……」
「やめてください、水の中でも夢は見るんです」
「ツェッドも怖い?」
「さんほど取り乱してはいません」
怖いと言ってほしかった。
救出は見計らったようにやってきた。
お詫びとお礼の応酬に続いてソッコーでキーホルダーを渡すつもりが「担当が違いまして」と断られ、せめて地下階の曰くだけでも確かめようと神妙に問いかけた私たちは、荒波に揉まれる大混乱にも拘らず平穏無事に非常口が活躍したという拍子抜けな過去を教わった。記念に残しておくつもりだったが、小さな子供が探検して入り込むことがあって大変だったので厳重に封鎖したとのことだ。外国にも迷子っているんだなあと面白い気分になった。いて当たり前だけど、自分のものさしで測ってばかりな私にはいつでも新鮮だ。要するに、学ばない。
うさぎのぬいぐるみはツェッドが持って、総合案内のスタッフを探して歩く。
私は目を瞑って頭を振った。目がしょぼしょぼする。伸ばした手の指先も見えないような暗闇から抜け出した目に、店内の照明はきつすぎるのだ。
あらゆる輪郭と色がくっきり見えるせいだろうか。普段なら見逃す姿に視線が釘付けになった。
「ツェッド!あの人!おばあさんがいる」
「冗談でしょう?2時間は経っていますよ」
「買いものしてるみたい。ねえ、ないとは思うけど訊いてみない?」
違いますようにと願わなくもないけど。
ツェッドは悩んでから、そうですね、と小走りでその人に追いつき、そっと声をかけた。
私たちを憶えていたおばあさんは、ことりとお淑やかに首を傾げた。
「私たち、いまさっきこれを拾ったんです。心当たり……あ、えっと、お心当たりありますか?」
ツェッドがキーホルダーを差し出した。
おばあさんは荷物を腕にかけ、しわの入った白い手にそれを取った。
「ああ!これだわ、懐かしい……。このうさぎの耳。他のぬいぐるみの半分の長さなの」
かなりの問題品だった。返品が許されるやつだ。
「若い人はすごいわ。ずっと探して見つからなかったのに、どこにあったの?ああ、待って、言わないでちょうだいな。きっと巡り合わせなのね。なんて素敵な縁かしら」
おばあさんは嬉しそうに目を細めた。
「孫も喜ぶわ。早速、届けてあげなくちゃ」
それは、怖さと寒気を吹き飛ばす満面の笑顔だった。
彼女はキーホルダーごとツェッドの手を握りしめ、ハグをする。私にも頬を合わせた。
最後に「ありがとう」と微笑んだおばあさんは、しきりに私たちの縁結びと絆を口ずさんで手を振った。感謝のしるしにヘルサレムズ・ロット銘菓の今季人気ナンバー3の詰め合わせまでもらって、どこからどう拒めばいいのか困った隙にウインクを残して立ち去ってしまう。
肩から色々な力が抜けた。
この世界で知り合いと『友人』以上の関係だと誤解されるのは3度目だ。スティーブン、チェインさん、そしてツェッドである。私は何をしているのだろう。
受け取ってしまったお菓子はどうにもできず、もらってしまうことにして、空腹を思い出す。だいぶ楽観を取り戻せたようだ。
外に出て違う店を探すか、上階でちょっとした店舗に入るか相談する。
話しながらなんとなく足を向けると、エレベーターは故障の原因究明のために止められていた。動いていたって乗らなかっただろうけど、改めて異様さを突きつけられる。
いくらでも繰り返して伝えよう。ツェッドがいてくれて本当に本当によかった。
「キーホルダーは、脱出時か探検時にお孫さんが落としたんですよね。あのご婦人はお孫さんが大切にしていたそれを探して、遠くで暮らすお孫さんに届けると言っていたので一件落着として」
そんな彼が呟いた。目を背けたいことを。
「エレベーターはなんだったんでしょう」
「ツェッドやだ」
拳ひとつぶん、離れた。
「階段で行きますか?」
「今もし階段が崩れたら泣き喚いちゃうから外に出たい」
「その状況は今じゃなくても誰だって怖いですよ、さん」
とか言って、秘密組織の人たちはへっちゃらなくせに。
拗ねてみたら、ツェッドが困った顔をした。偏見ですよと言いたかったのか、角を立てず否定できなかったのかはわからずじまいだ。
昼間の体験は消化不良を起こしていたが、フツーに眠れそうな気がしたその夜、スティーブンが私に薄い包みを手渡した。ぽいぽい投げて渡す人も多いのに(……慣れなくて落としそうになるのだ)、彼は穏便にやってくれる。
「ツェッドから君に。渡すのを忘れたって言ってたよ」
午後は秘密組織に行ったのか。
プレゼント用の包装を開く。
透明な袋に入った栞があった。雑貨屋さんで選んだものだ。
「わー!ツェッドすごい!」
私にも買ってくれていたなんて、どんな優しさだ。女子力、いや、彼氏力なるパラメーターが振り切れている。
意味不明な体験をして疲れていたのもあって、感動で唸りそうになった。
純粋なファンの子は、誠実で真剣なサプライズを受けて、さらにツェッドを好きになるに違いない。
クールで強くて気が回る。淡々たる態度が取っつきづらく思えても、カッコよさに気づかずにいられない。無自覚に恋と憧れを引き寄せるタイプか。
ふかーく息を吐き出す。
私には時たま、付属の紐栞がない本を開いたまま裏返しに伏せてしまう最低な雑さが見え隠れしていたが、今夜を限りにそれも終わりになるだろう。
「届けてくれてありがとう、スティーブン」
「いや。やりがいのある仕事だよ」
「やりがいって?」
「ツェッドと君と、両方の反応が見られる」
なるほど、特権だ。さらりと言うとからかいにも嫌味にも聞こえなくてすごい。
ツェッドにメールを打ってから、スティーブンの近くに座る。
昼間もそうだけど、眠れない夜に本を読むのがまたひとつ楽しみになった。
この栞はね、と話し始める。
私は栞とツェッドが絡む部分でずっとニコニコしていたらしいから、うまく説明できていなくても嬉しがる気持ちだけはたっぷり伝えられたことだろう。
風化させたかったので、怪奇現象の話はしなかった。
0129〜0201