07


キンとした声が響く。拡声器でがなりたてるような音に、なんだなんだと私たちは仕事もそっちのけでガラス扉を開けた。開店前のお店の外は騒めいて、襲い来るなにかへの警戒と興味と野次が飛び交う。
喧騒の中で聞こえた名前は、ヘルサレムズ・ロットで生活する人ならば必ず知る正体不明の人物のものだった。
「やあ、御機嫌よう諸君。今日も良い天気だ。気温もまずまず。だがちょっぴり空気が乾燥しているかもしれない。こんな日は体調に気をつけないと風邪をひいてしまう」
愉快そうな優雅な声。大盛り上がりなのは一部だけで、諦め混じりのブーイングもちらほらと上がる。機嫌を損ねないようにとの配慮はあるようだった。
「ところで今、くしゃみをしたくなった者はいないか?そう、そうそう、それだよ、それ。ランダムに選ばれた記念すべき第1号が君たちだ!盛大にぶちかましたまえ」
これを合図にしたように、ちらほらと堪えがたいくしゃみの音が聞こえた。『あくび』と文字で見るだけであくびが出るような、脈絡のないくしゃみだ。でも、脈絡のあるくしゃみってなんだろう。
甲高い悲鳴と野太い歓喜の雄叫びとが、同時に街をつんざく。くしゃみをしたむくつけき男たちを見たOLの悲鳴だ。そしてくしゃみをした少女を見た男たちの雄叫びだった。
私も、近くで弾けるようなくしゃみが発され、光景を直視してしまう。
「ひっ……」
目が6個ある異界人の頭に、猫の耳によく似た三角形がくっついていた。周囲の音に反応して勝手にぴくぴく動いている耳(……のようなもの……)は残酷なまでに似合わない。髪の毛的な部分に対応した色なのが救いだろうか。これでおかしな差し色だったらヤバい。暴力だ。法に引っかからない暴力だ。
放送で聞く堕落王とかいう人は、とても楽しそうだった。
「安心するといい、簡単に治る上に二度は罹患しない!つまり誰かに移せば自分は安泰だ!信頼関係を容易に破壊するプチ・ネコミミ・バイオハザード!ちなみに生来から猫耳をお持ちのレディースアンドジェントルメンにも生える」
どんな生え方なのか、想像もつかなかった。罹ってしまったらしい周りの人たちは、頭の上のほうに単品だけなら可愛らしいものをくっつけているが、もともとそういう人はどうなるのだろう。
私は辺りの阿鼻叫喚を他人事のように眺めていたが、100回に1回発揮されれば御の字な第六感の訴えによってハッとして店長の背後に逃げた。
6個の目の異界人が、私のいたところにくしゃみを吹きかけた。
ぞっとした。
飛沫をかぶりたくないし、ものすごい勢いで拡がっていく猫耳人間のひとりにもなりたくない。訳のわからない病気に罹りたい人なんているだろうか。堕落王という人物がホントのことを言っている保証がどこにあるのか。同じように不安だから急いでどうにか移したい気持ちは理解できるけど、嫌だ。
「店長、私、今日休みます!」
「よし!店をしまえ!そして全員エアガンかナイフを持ってヘッドショット、いや、猫耳ショットだ!」
猛った店長にゲームをやったことがあるか訊かれたので、正直に『ないです』と答えたら、あんな国民的なゲームをやらないなんてお前は何者だと糾弾された。だって内容が怖そうだったのだ。そもそも、長いゲームは飽きっぽい私に不向きである。
やり込みプレイヤーが揃う店内は鬼気迫る勢いで、私はなにも言わず制服を脱ぎ捨てた。無力な人間(……私だ)の護衛ミッションに意欲を燃やしたバイト仲間を振り切って店を飛び出す。
こんなとき、私が頼ってしまうのはレオだ。
道の端を小走りで通り抜けながら電話をかける。初めは無理で、2回目でつながった。
さん、大丈夫ですか!?」
「レオ!」
彼も忙しいのに、第一声で心配してくれた。
「さっきの、聞きましたよね。なにがあるかわかりませんし、外は危険です。なんとか帰れませんか?スティーブンさんの家なら安全で……、す?よね?」
「わかんないけど、誰もいないからたぶん安全……?」
混乱が一段落するまでぜひとも引きこもりたい。
レオは自宅から秘密組織へ向かって、ちょうど到着したばかりだと教えてくれた。一度めの電話に出られなかったのは移動中だったからだという。彼が無事でよかった。だが情けないことに、我が身可愛さ由来の焦りも生まれる。
さんは今どこですか?家までどうやって?」
「ち、地下鉄は最悪だよね?」
「一番ダメな移動手段ですよ」
私もすごくそう思う。箱状の密室なんて、風邪やウイルスと人間の婚活会場みたいなものだ。
秘密組織の人たちは大丈夫なのかな、と懸念する。原因(……わかりきっているけど)の究明とか対策の考案とか、もしかすると新しい薬を開発したりだとか、一気に動き出すのだろう。感染してもおかしくない。
そっと街を見回してイメージを膨らませてみたが、レオとチェインさんなら受け入れられても、彼ら以外の人に猫耳が生えているというのは、かなりホラーな絵面だった。
電話越しに、レオが提案する。
「気休めかもしれませんけど、ハンカチをマスクの代わりに……」
「……?」
スマホと前方に多くの注意を向けていた、というのもあるが、決して誰もいられるはずのない左側から声をかけられたせいで足がもつれて転びそうになった。
私が歩くのは道の端で、左側には建物の壁があるのみ。
美人さんは、腰を抜かさんばかりの私を避けつつ街路に出た。私が手から落としそうなスマホを指して「落ちるよ」と言う。電波の先ではレオが何度も私の名前を呼んでいた。返事をすると、「驚かさないでください」とささやかに叱られる。つい言い訳がましく『でもチェインさんが』と口走りそうになったが、声は出なかった。
指通りが良さそうでツヤのある、私は詳しくないけれど、みどりの黒髪、と賛美できそうな髪と同じ、品のいい色で形づくられた三角形が、チェインさんのあたまにあった。
後ずさる。
「ね、ねこみみ」
急ぎの様子だったが、彼女は手で頭の生々しい飾りを触った。
は罹ってない?」
「は、はい」
私の目は猫耳に釘付けだった。
可愛い。
とても可愛い。
黒猫の耳がこれ以上なく似合っている。
同じ猫耳でも、本物の猫を見て癒されるのとは違う畏敬の念が湧いた。元カレが秋葉原に連れて行ってくれたことがあるが、街頭でチラシを配る猫耳女子も、看板に描かれる漫画ふうの猫耳女子も、チェインさんとは勝負にならない。興味がなくて元カレの趣味をどうでもいいと思っていたけど、チェインさんの姿は理屈抜きで『可愛い!』と感じてしまって心の中で謝った。
可愛らしいものをくっつけたクールな美人さんは、見惚れる私が留守にし続ける通話を指摘した。胸のドキドキが別種に変わった。
「じゃあ、行くから」
小さな手の動きは別れの挨拶か去る瞬間の偶然か、どちらだったのだろう。錯覚したくて、私も手を振った。
電話を耳に当ててレオに謝る。
「僕が何度もさんに呼びかけたもんだから、何事かと思われてますよ」
「ホントにごめんなさい!今、チェインさんとばったり会ったんだけど、チェインさんに猫耳がついてて、それでびっくりしちゃって、ごめんね、あの、チェインさんは大丈夫なの!?」
「びっくりしただけならいいんです。チェインさんはこっちに戻って検査を受ける予定だそうです」
やっぱり私が引き止めてしまっていたらしい。彼女は一刻も早くお仕事に戻らなければならなかったのに、白状できない理由でクラッときて気が回らなかった。

「ふあい!」
別れたはずのチェインさんが、いつの間にか正面に立っていた。
はどうするの?家に帰るの?」
頷きつつ、唾を飲む。
また、絶対に誰もいなかったのにどうやって。手品のトリックを知りたがる観客と同じ好奇心にくすぐられる。何回か実際に見たような気がしなくもない、秘密組織のヒミツで強い技なのだろう。記憶力がポンコツで漫画のパラ読みの内容がほぼ抜けている私にもわかる。
今度はレオにひと言添えて、チェインさんに答える。
「頑張って帰るつもりです」
「バイト先に籠城は?」
「みんなが開け放ってゲームごっこをしてて、ゲーム知らないし、ついていけなくて……」
チェインさんは私の肩をちょびっと触った。身体つきを確かめたのかもしれない。
「まあ、ゲームを知っててもって弱そ、う、だ、し」
言葉が不自然に途切れ、さらに壊れた機械のようにぶつ切れる。
「チェインさ……」
「っくしゅん!」
「ふあっびっくりした!」
綺麗な人はくしゃみをしても崩れない。
顔を背けて手で押さえ、チェインさんは咳の混じったくしゃみをした。無意識に力が込められ、肩をきゅっと掴まれる。反射的で隠しようのない隙を垣間見たようで、得した気分だ。
チェインさんはポケットから取り出したハンカチを口元に当てた。
「ごめん。会う前もむずっときて、そのときは我慢したんだけど今やっちゃった」
「気にしないでください!」
くしゃみ以外の症状は出ないのか訊いてみようとして、チェインさんの真剣な表情にどきりとする。悪いほうの鼓動だ。
チェインさんは私の腕をがっしりと捕まえた。
「電話、貸してくれる?」
「あ、はい……?」
つながったままの電話を、チェインさんが引き取った。彼女は不穏なことを言う。
「レオ。もう知ってるかもしれないけど、スターフェイズさんに伝えて。人に移す条件がわかった、って」
そう言うチェインさんの頭上からは、黒い猫耳が消えていた。

あれから移動を重ねたが、恐ろしくて口もきけなかった。
チェインさんに連行されてやってきた場所には、知った顔がたくさんいる。数人はこちらを見てどよめいた。
あれからこの部屋までと、極めつけのこの反応。これで自分の状況を呑み込めないのはさすがに狂いすぎだ。逆に考えると、私はまだ『正常』といえる。言わせてほしい。
「『触りながらくしゃみ』か」
「はい。くしゃみがルートだというのは確実ですが、移らない場合もありましたよね。むしろ移らない場合が多い、と。そして『この手の輩』には猛烈な勢いで拡がった」
示されたザップさんとツェッドは既にリカンし、他人に移し済みだから二度と罹らない。
ふたりは猫耳事件が発生したとき、早朝のおつかいをこなしていたそうだ。
くしゃみで風邪(……のようなもの)が拡散されたあと、猫耳を生やした『この手の輩』に腕を掴まれ無理やり憂さ晴らしに付き合わせられかけ、偶然、くしゃみで感染させられたのはツェッドだったが、大笑いしたザップさんと仲良く争ううちにザップさんに移すことに成功。
堕落王とかいう人は正直で、説明通りにツェッドの猫耳は消えるも、もらい泣きならぬもらい風邪ならぬもらい猫耳にブチ切れたザップさんも手近な相手を捕まえてくしゃみを引っかけ猫耳を消し去った。むしゃくしゃが止まらない彼を羽交い絞めにしたツェッドの強力さを改めて感じる。
一連の流れに関わる全員が掴み合いをしていたため、報告されたクラウスさんとスティーブンは感染のきっかけをにらみ、チェインさんからの電話で『やっぱりな』と確認した次第であるとのこと。
だが、そんな解説をされても、私は反応に困る。
こちらは鏡で見るのもおぞましい姿を現在進行形で晒しているのだ。 とりあえず、バイト先を出る前に髪型を戻しておいてよかった。
座らされたソファで小さくなって俯き、忙しそうな室内から目をそらす。
猫耳だ。頭に猫耳がある。恐ろしくて触れない。キラキラな美女なら似合ったかもしれないが私には気持ちも見た目も無理だ。きっとパパ好みの美人だったときも、パパしか嬉しがらなかっただろう。
どうあっても知人には晒したくなかった。好きな人にはもっと晒したくなかった。お仕事中の彼はこちらの外見などどうでもいいとわかってはいても、置物としてだって存在したくない。空気になりたい。レオやチェインさんに猫耳がつくのとは天と地の差があり、比べるのもおこがましい。
もしかして、よく考えたら秘密組織の人たちは全員、実は似合ってしまうのだろうか。 このふたり以外の猫耳姿は恐ろしくて見たくないなーと一瞬でも不気味がった過去の自分も図に乗っていたのか。どうしても違和感を捨てきれない人物も数名残るが、それすらもご愛嬌というやつだったりして。私が元カレの語る内容を真剣に聞いていたら、感じ方も違って、素晴らしい価値に気づけたのかもしれない。チェインさんの猫耳姿は、一目瞭然ですっごい可愛く見えたし……。
さん」
考えに耽っていたら名前を呼ばれて、まさかの声にすぐさま顔を上げた。
ぐるぐる巻きの包帯があっても、思いやりに満ちた眼差しとほんわかした雰囲気を感じ取れる。ほんのり甘くて温かい紅茶をくれたギルベルトさんは、この空間に咲く優しい一輪の花だった。
隣にはツェッドがいて、彼は私に飴を見せた。視線を上下させると、ふたりが軽く頷く。
「甘いものは心を落ち着かせますから、宜しければお召し上がりください」
「これがイチゴ、これがペパーミント、これがオレンジで、こっちが確か……」
「サラミですね」
まったく甘くなさそうだ。
じゃあ、とイチゴ味を受け取る。
その手が掴まれた。モチモチだ。
ギルベルトさんが隠し持った小瓶の蓋をずらす。
動揺した私にかけられたのは、慰めでも労わりでも同情でもない。
つんとした香辛料だった。
「ふあっ、はっ、……はくしゅん!」
むせながら大きくくしゃみする。
私はしばらくくしゃみが止まらなかったが、ひとりで生理的な体液をにじませる女はあっという間に放置され、彼らはツェッドに猫耳が移らない事実のみを確認した。ハンカチを渡してくれたのはギルベルトさんだけだ。ツェッドはハンカチではなくてティッシュを箱ごとくれた。犯人から気遣いを受けるビミョーさは誰にも伝わらなかった。
「ザップとツェッドとチェインは完全に安牌だとして。じゃあ、次はレオナルド」
白羽の矢を立てられたレオは、首を左右に激しく振った。
「い、いや、あの、猫耳。猫耳ですよ。もう結果はわかってるじゃないですか。全員にやる必要はないっていうか、やっていくと最後は必ずひとり余るっていうか、その余りを僕にするつもりですよね?治療法が見つかるまで僕にひとりで猫耳くっつけてろってことですよね!?」
彼は私から少しだけ遠ざかった。確かに私は病原菌だし、私だって避けただろうし、気持ちは痛いほど理解できるが、それなりにショックだった。
「治療はもうできるようになる。俺とクラウスは移る瞬間を直では見ていないから、確認しておきたいんだ」
「スターフェイズさんも見るだけじゃなくて体感したら……」
横で呟かれた言葉が、しん、と場を凍らせた。
伝えるつもりはないのに響いてしまい、ザップさん自身もぎくりとする。
一度は誰もが思ったこと。
ひとりごとでも口にしたのは、ザップさんがザップさんであるからか。
「えー、……猫耳の感覚ってか、こういうのは大事っすよねっていう……、あー……」
失敗に視線を彷徨わせても、徐々に猫耳事案の屈辱を思い出していく。
言ってしまっては仕方がない。ただでは転びたくないこの人は、二度と感染しないのを良いことに、病原菌である私を叩いて鼓舞した。
「こいつが言ったんっすよ」
「痛い!言ってない!ザップさんが勝手に……」
「ダチを売ってんじゃねえ!!薬が出る前に早く行け!!」
「や、やだ!絶対に嫌だ!レオ、はやく!一瞬だから!痛くないから早く終わらせて!スティーブン……さんが指定したなら、レオじゃないとダメとかあるかもだし!」
できるはずがない。色々と怖い。早期解決のための実験は手短かに済ませるべきであり、無駄な言動は仕事に命を捧げているっぽい男の苛立ちを買うだけだ。
もちろん、スティーブンがレオを指定したことには一応の理由がある。なくても構わないものの、近くに検体が突っ立っているから、増やせる母数は増やしておく、みたいな話らしい。あとからチェインさんがぼかしつつ解説してくれた。
「あっ、えっと、ほら!直接見たいって!スティーブンは移るところを見たいんだから、自分がなっちゃダメじゃん!……じゃないですか!」
ザップさんが大音声で吼えた。
!ンなもん、病気もらったスターフェイズさんがすぐレオに移しゃあ良いだけじゃねーかよ!」
「うわっ、銀色の膿を煮詰めてゼリー状にしてるとしか思えない言い方」
男女とも酷い。
あのままレオが拒み続ければ終わったであろう、あってもなくても大きな問題はない簡単な手順が失言によって下手に滞ったせいで、傷痕の横の細められた目もまとう空気も面倒そうで冷ややかだ。
「前から何度か同じことを訊いている気がするんだけどな。その無茶は引きながらやけっぱちに努力してまでやるべきことか?」
「……や、違うような、……違わねえような……」
長身に見下ろされ、ザップさんはぐっと踏ん張った。どうしてこんなときに意味不明な本気を出すのかがわからない。猫耳しょげてる、と聞こえてきたときはバイト先でエアガンに撃たれておくんだったと本当に後悔した。

話題を変える救いの手は、クラウスさんが差し伸べてくれた。
「報せが届いたのだが、この症状を引き起こす物は感染してから約1時間で無害化、排出され、初期に発症したまま誰にも移さずにいた方々は快復したそうだ。また、ザップくんたちに起こったような移動の連鎖によって構造が磨耗して機能を失うことも確認できてね。活性状態のサンプルを取ることは難しいようだが、宿主を変えるたびに活発さはリセットされるらしく……」
ありがたがりながら一言一句を必死で追うと、どうしても解読がみんなから半拍遅れる。猫耳暴力の拡散は留まりそうだと、まず理解した。
それなので、突然注目を浴びて困惑した。
「体内で死滅するのは感染の1時間後……」
「ワンチャンレディ、何分経った?」
「52分。二度と私に話しかけないで」
もっとも手近に存在する感染者。私のような人をなんと呼ぶのだったっけ。
チェインさんの猫耳は、無作為に選ばれた猫耳風邪第1号から移された。それは私に移動しても、まだマモウはしないはずだ。8分以内に誰かに移せば内蔵タイマーは巻き戻り、情報を調べられるかもしれない。
他の人でもできる。輸送や手間の面では他の人に頼んでやらせたほうが早い。
しかし、目の前に猫耳保有者がいるこの人たちが『やらない』理由にはならなかった。
クラウスさん、ギルベルトさん、スティーブン、レオが病歴のない4人である。私はこの中からひとり選んで猫耳を譲渡する。
恥ずかしいだけの猫耳から解放されるのは万々歳なので、先ほどまでの緊張が消えた今は肩の荷が下りそうでホッとした。
レオの顔がまた引きつった。
さん!喜ばないでください!」
「え!なんでわかったの?」
「猫耳がぴんとしました!」
「嘘でしょ!?」
手を頭に当てて隠した。本物の猫のそれではなく、仮装のカチューシャっぽい手触りだ。
「残り5分です」
「……はい……」
力ない様子は、まるで絞首台に上る犯罪者だった。罪悪感で気まずい。
堕落王とかいう人は、この猫耳バイオハザードで信頼関係が崩壊する、と笑っていたが、ハッタリではないのだろう。今まさに、猫耳の形をした傷が生まれかけている。あとで舐め合いたい。
「ごめんね」
「僕こそすみません。さんが嫌なわけじゃなくて、その、猫耳っていうのが」
「わかる。わかってる。ごめんね、レオ……」
「オメーにはがっかりだぜ。俺が犠牲になっただけじゃねーか。あとで俺がどうなると思ってんだ」
ザップさんが吐く不満がBGMだ。レオも私ももう突っ込まない。
彼はギルベルトさんから胡椒の小瓶を受け取り、私とレオめがけて振りまくった。スパイシーな粉塵に顔じゅうをくすぐられる。仕掛けたザップさんも同じで、私たちは全員が揃ってくしゃみをした。近くにいたツェッドも巻き添えをくらって咳き込む。
煙たさを払いのけると、ふわふわなレオの髪の中に異物を見つけられた。
どうしてだかザップさんは手鏡を携帯しており(……身だしなみのため?)、自分の姿を見せつけられたレオの猫耳は間も無くしょげた。胸の痛みは察せるが、いわゆる他人事にできたので、これがしょげた猫耳か、と凝視してしまう。
頼れるしっかり者の男の子は、今日一番の真顔で手を伸ばして私の目を塞いだ。
それをかいくぐって、ぴくぴく動いて気になる猫耳に触れてみる。
「ひぎゃっん!」
薄くて柔らかな猫耳をつまむと、レオが素っ頓狂な声を上げた。高い声にびっくりして手を引っ込める。
「大丈夫!?痛かった!?」
「痛くは……、痛い……、わけじゃなくて……、僕は……、その……」
「ホントは痛いとか……」
「痛くはないんです!痛くはないんスけど触んないでください!」
「えっ」
自分で触ったときは何もなかったけど、力加減を間違えてしまったかもしれない。
室内はいつの間にか、水を打ったように静まり返っていた。しどろもどろにその場をしのぎたいレオの気持ちはすごく伝わるのだが、顔が赤くて何も誤魔化せていない。
「……すいません。なんでもないんで、お願いですから触んないでください」
なんでもないのに?とは言わないでおいた。
停止した空気をスティーブンが動かした。
「少年が愚行に走るとは思えないが、制限時間のギリギリまではその可愛らしい飾りを持っていてもらいたい。事故がないように、ツェッドにも同行を頼むよ」
「どこへでも行きますから、早く終わらせてくださいスティーブンさん……」
くしゅん、と最後にひとつくしゃみをして、レオが力なく部屋を横切る。
延長線上にいる男は少年をスッと避けた。
レオが歩けばスティーブンも同じだけ動き、2人の間隔は埋まらない。
「避けてませんか?」
「制限時間ギリギリまで生やしているようにと言ったろ」
「ただそっちに行こうとしただけなんですけど」
「クラウスとギルベルトさんにも近づかないようにしてくれ」
「わかってますよ!いつの間にかソニックもいなくなってますしね!」
言われてみればいなかった。小動物も猫耳は嫌なのか。孤立無援だ。
「レオナルドくんがそれほどまでに苦痛ならば、私が代わって検査に向かおう」
「猫耳は似合うかもしれないが、リーダーを動かすのはよそう。心配しなくてもこの少年は大丈夫だ。そうだよな、レオナルド?」
「……はいもちろんです……」
精神にひびが入ったに違いない。
ツェッドがたぶん、励ました。
「でも似合ってますよ、レオくん」
チェインさんもたぶん、同意する。
「マニアに喜ばれるよ」
私はこんなことを言われたらたぶん、泣く。


ヘルサレムズ・ロットにマニアックな混沌をもたらした猫耳風邪菌は、尊い犠牲を多数伴い、夜を待たずに沈静化した。
感染の波は食い止められたし、移ってしまった人も1時間経てば勝手に治る。
ニュース番組の街頭インタビューには、1日で治ってしまった猫耳を嘆く声がたくさんあった。私は体験してみて余計に興味と好奇心が失せたけど、秘密組織は『猫耳マニア』という新しい敵を作ってしまったかもしれない。本当に泣いてる人もいたからすごい。『次はしっぽもジッソウしてほしい』とか『頼むからまたたびで酔うようにしてくれ!』とかなんとか叫んでいた。

バイト先はゲームごっこのせいでしっちゃかめっちゃかである。臨時休業の間に備品がいくつか買い替えられ、理不尽なことにそのせいでお給料が少し減った。お仕事帰りのスティーブンに『なんでもするから全部許してください』とお願いもしまくった。1時間未満の出来事なのに、なかったことにしてほしい話が多すぎる。
拝み倒す私には、猫耳チェインさんはどうだったかという質問が振られた。懇願を中断し、あのハマった驚愕の可愛さを彼に伝えるため、自分が何回『すごい』と言ったか憶えていない。 後日、そういえばきちんと忘却の約束を取りつけられていないのでは、と気づいたが、記憶違いだと信じよう。
堕落王はロクなことをしない、というヘルサレムズ・ロットの常識をまたひとつ学べたことが唯一の収穫だ。



0108〜0110