03


風邪未満だ。異常は喉にしかみられなくて、薬を飲んで喉を使わず1日安静にしていれば治る。腫れも自分ではわからない。咳はないのに声だけが出にくい。苦い薬を、ヴェデッドさんがつくってくれたスープと一緒にお腹で溶かした。
ベッドでおとなしく眠ろう。
しかし、こういうときに限って電話がかかってくるのである。

着信拒否を試しに解除したため、電波は通じる。
ザップさんの名前が表示される画面を、今だけは無視したい。返事ができないのだから、出てもどうしようもない。通話ボタンの横にある、ワンタッチで『今は出られません』というメールを送信する機能をフル活用した。
彼はかけ直してきた。メールを読んでくれていないようだった。
本当に喋れなかったので、再びメールを送る。返事はなく、よく見ると既読無視されていた。
三度目の電話には出た。
乾いた声は音にならず、挨拶もできなかった。
「お前、今日バイト休んでんだって?」
バイト先で同僚に聞いたようだ。期間限定メニューを食べに行ったそうだが、私がいなくて心配してくれたのだろうか。『お財布』の不在に舌打ちした可能性からは目を背けた。人を信じよう。
相槌は打てなかったが、ザップさんは気を損ねた声音をつくるだけで、怒ったりはしていない。秘密組織の方々全員に思っているが、彼らが本気で怒ることは、イコール、よほどの有事である。
「風邪か?」
だから、返事ができないのに。もどかしくても言えない。
「スターフェイズさんにうつして、しばらく、こう、……しようぜ。了解なら1回、異論がないなら2回、マイクのトコをコツコツやれよ。仕方ねーけどいっちょやるか、ってときは黙っとけ」
「やだあ……」
「返事できんじゃねえかよ。シカトしやがってよぉー。オトモダチに対してその態度。傷つくぜ。傷ついたから今度頼むわ」
ギャンブルのためのお金は用立てたくない。高給取りではないけど、お金は出ているはずなのに、なぜ関係のない私が巻き込まれるのだろう。孤立しないようにという彼なりの気遣いか。レオに対しても、なんだかんだで初めのころから面倒見よく(……かなあ)、くっついて歩かせていたらしいし。ザップさんっていい人なんだねと言った私へは、『感謝を上回る何かが無視できないんですけどね』というレオからのお言葉があった。
用向きを訊きたがる私がわかったのか、ザップさんは声のトーンを明るくした。
「一応、お前に言っとくわ。ブラウンシチューライスセット、ラップサンド2個、ドーナツ3個。ツケといた。あとは任せた」
電話を切った。なぜそんな意地悪を。私、この人にもおちょくられているのか?

薬のためか、ウトウトする。平日の太陽が輝く時間にベッドでお布団にくるまって眠る幸せは格別だ。元気なときにやりたかった。
マナーモードのスマホが枕元で低く唸る。
電話をかけてきたのはチェインさんで、パチッと目が覚めた。
もしもし!と言おうとして、空咳が落ちる。
「喋んなくていいよ。ひとつ質問したいんだけど」
答えられないのだが、大丈夫か。
「イエスなら1回、ノーなら2回、電話を指で叩いてくれる?」
これが正しい選択肢の与え方である。
1回、指で叩いてみる。聞こえたようで、意思疎通ってこうするんだ、と感動した。会話をおぼえたアオムシの気分だ。アオムシのことは知らないのだが、アオムシのほうがうまくコミュニケーションできてたらどうしよう。
「来週、火曜の午前空いてる?」
空けます、と伝えるにはどうしたらいいのだろうか。言葉の大切さをツウカンする。
迷って、1回、音を立てる。
「空いてないけど空けようとしてる?」
ドンピシャで察された。すごい。また1回。
「空きそう?」
たぶん、空けようとすれば空く。
「だったら、私もそこに余裕つくるから、ちょっと付き合ってくれない?」
チェインさんは、私を買いものに誘ってくれた。
1回と1回と1回と1回、と猛烈に無限に叩きたくなったが、否定と取られるのでちゃんとした。
すごく嬉しかった。絶対に空ける。他の日がフルでつぶれてもいい。その日だけは空けよう。
「メール送ってるけど、同じ内容だから捨てていいよ。じゃ、お大事に」
なんともサックリした終わりだった。
私はメールを保護した。

何度も読み返してはニヤニヤする。自分ではほんわりと微笑んでいるつもりだ。
私は一方的にチェインさんを好きで(……こんな空っぽ女が、迷惑かけまくりである)、社会を円滑に回すための一手段であっても、お見舞いの言葉が添えられたそれが嬉しくてたまらない。
スクリーンショットまで撮ると、シャッター音にコオウするようにケータイが震えた。レオの番号だ。いよいよ声が出せなくて、申し訳ないが、『今は出られません』のメールを送る。すぐに既読がついた。返信も早い。
体調が悪いのにすみません、と謝罪で始まった文章には、私を心配する気持ちがたっぷり詰めまくられ、感涙しそうだった。
ちょうど外にいた彼は、私にほしいものがあったら買って、スティーブンに預けようと思ってくれたらしい。電話はそのためだ。メールに気づかず未読ばかりな私に連絡をとるなら、それが一番確実である。重ね重ね、泣ける話だ。ごめんなさい、と打った。
ほしいものは、パッとは出てこなかった。何もないのだろう。
その旨を送信し、『わかりました』と心配ゆえの苦笑すら見えそうな優しさに触れた。
(レオ、ホントにありがとう……)
チェインさん、からのレオ、というコンボで心が癒され、ゆとりが生まれた。やる気が失せて書けていなかったザップさんへのお礼のメールもつくって送る。雑誌の1ページの写真が添付されただけの返信がきた。言わずもがなな写真であった。

K・Kさんからは、病人(……未満)が目を通してもつらくならないよう配慮された、短いのに愛情に満ちて感じられるメールをいただいた。返信は遅れてしまったが、あちらもお仕事があるようで、未読のまま動かなかった。
乾燥しすぎないように気をつけて、冷たいものを飲むのは控えたほうがよくて、それから身体と喉をあたたかくして、熱が出たらすぐにあいつに(……わかりやすい)連絡するのよ、などなど。どんなに苦しくてもスティーブンにだけは連絡できないな、と考えていたので、その部分だけは読み損ねたことにする。私の体調不良ごときで、あの大事な(……大事だ)お仕事の邪魔をするなんてとんでもない。……連絡しても、べつにどうにもならないし……。ちらとでも『面倒だな』と思われたら心が死ぬ。
アドバイスに従って、ぬるくしたカモミールを飲んだ。朝は喉が痛くてスープしか口にできず、お腹がすいていたから、蜂蜜を垂らした。食欲があると、重症化しないと保証された気になる。
胃へ落ちた甘いカモミールでひと息つく。あの方々からの思いやりのあたたかみがヤバい。
戻って布団にくるまりなおすと、ツェッドからもメールがあった。
さんへ。兄弟子がご迷惑をおかけしました、お大事になさってください。ツェッドより。
そのような2行ちょいの文面は、絵文字もなにもない、そっけなく思えるくらい簡潔な言葉選びなのに、感動を呼んだ。
(ツェッドからのメール……!!)
保護した。

夕方にまた震えたスマホを寝ぼけ眼で開く。スマホよりも私が深いスリープモードだ。
画面を見て、メールを見て、差出人の名を読んで、飛び起きた。
(クラウスさん!?)
いや、なぜ。
脳内のシツギオウトウがぐちゃぐちゃでまとまらないが、指先でタップすれば既読マークつきで開封できてしまう。動揺の弾みで押した。ただの文字列であるのに、音声まで聞こえてきそうな厚みを感じてガタガタした。
くんへ。
(『休みの邪魔をして申し訳ない。体調を崩したと聞いたのだが、具合はどうだろうか』……)
誰から聞いたのだろう。スティーブンが私の体調不良を言いふらすとは考えづらい。
(ザップさんかな?)
バイト先で不在を確かめたザップさんがレオやツェッドやチェインさんに話をして伝わったとか。
まさかまた、秘密組織のチョー強くて怖いメンバーの面前で私に電話をかけたのではあるまいな。それならば他の人たちが知っていたのも納得できるが、気まずい。
クラウスさんは、私に心を重ねるような言葉をいくつもくれた。しかしこれは末尾の一文で恐怖のメールと化す。
スティーブンがなるべく早く帰れるよう配慮する、と。
(い、いやいや、いいです、大丈夫!やめてください!)
言えない。返信しづらい。声も出ない。
クラウスさんに心を砕いていただくほどの重病ではないし、もうかなり回復した。夕方の薬も飲んだ。明日の朝までぐっすり眠れば元気になる。
角を立たせたり失敗したりしないよう、頑張って考えた本文は、夏休みの読書感想文に似た。添削してもらったら修正と注意書きで真っ赤になるだろう。もったいないくらいのお気遣いへの感謝と、スティーブンに帰れって言わなくて大丈夫です、という本題だけはどうにかこうにか魂ごとねじ込んだ。帰って来てもらってどうするのだ。お荷物な自分がこわい。好感度が下がって目も当てられないことになったら、なんて考えるだけで胃が割れそうだ。
この大人物からのメールは非常に貴重だが、重すぎて私では抱えられそうになく、保護はしなかった。件名と差出人が目に入るたびに、ヒイ、と喉から掠れた音が出る。削除しないところに、私の決断力不足が表れる。

夜にはヴェデッドさんのお料理を食べられるようになって、スープ雑炊もおかわりした。
「声は出ますか?」
首を横に振る。
心配そうに目を伏せたヴェデッドさんは、手づくりのシロップをお湯で割ってくれた。喉にひっかかり、膜がぺたりと貼りついたような感じがした。元の世界で噂に聞いた、喉にいいやつのヴェデッドさん版かもしれない。即行では効かず、お礼は掠れたままだった。玄関を振り返ったヴェデッドさんが言う「おかえりなさいませ」にも続けない。冷や汗だけが出た。家主が帰ってきてしまった。通常の帰宅でありますように。
「大丈夫かい?」
頷こうとしたが、スティーブンはなぜか張本人ではなくヴェデッドさんに顔を向けた。信用がない。あるいは、迎えの挨拶を言わなかったことで察したのかもしれない。
ヴェデッドさんは思わしそうに、私の状態を説明した。私は視線を送られるたびに首を横に振る人形になった。彼は完無視した。
「そうかい。ありがとう、ヴェデッド。……もう食事は終わったかな。うん、じゃあ、君は寝よう。おやすみ」
流水のごとき『おやすみ』である。穏やかだが、有無を言わせぬ命令に聞こえた。首の動きを縦に切り替え、なにも言わず(……言えず)、私は歯を磨いて部屋へ引っ込んだ。指示がめちゃくちゃ端的だったけど、えっと、これ、あの、好感度がガタ落ちしてたりしないかな。
引っ込む前に廊下で顔を合わせた彼は、私の暗澹たる切実で情けなくてのっぴきならない不安を『なければ最高』な顔面と動きだけの「ごめんなさいすいません!」から読み取ったように、ふと真顔になり、何事かを思案していた。

目を閉じても夢に入れない。直面する、信頼関係(……ある……よね……?)の危機が恐ろしい。お仕事の邪魔をしたのでは。お仕事の。お仕事が命っぽい男のお仕事を。
さっき見た、静かで慎重そうな表情がまざまざと思い出される。明らかに真剣だった。
喉が鳴った。怖い。絶対に怒ったりはしなくて、そうと気づかせないうちにいつの間にかばっさり切りそうだから怖い。
枕を背もたれにして起き上がり、チェインさんからもらったメールで心を休めようとしたが、なかなかうまく落ち着けない。座ったまま、緊張と懸念で湿る手のひらを、毛布を掴んで拭った。こういうのはよい行いではないけど、ついやってしまう。
夜。それも、多少なりとも健康を損ねているときは、弱気が押し寄せる。ドキドキしながら、声を出せるようになったらどう謝れば、と必死に考えた。
扉がノックされ、返事を待たずに開けられたのは、そんなときだ。
声を出せない私の応答を待つのはバカらしい。よくわかる。ノックは外国の礼儀正しさか。叩いてから開けるまでの間はあったが、スティーブンが来るとは思っていなくて、驚きが抜けない。咄嗟に身を縮めた。様子を見に来てくれたのに本当にごめんなさい。
彼はベッドサイドの明かりをわずかに強めた。
「昼に寝すぎて眠れないのかい?」
複雑な心理をつまびらかにはできず、濁して頷く。
どこまでも自然な動きだったので危うく見逃しかけたが、彼はものっすごいナチュラルに、ベッドに腰掛けた。慣れ切った動作なのか、違和感が引きこもった。
距離がとても近い上に、鍛えられた背の高い成人男性の体重を受けたマットレスの沈みを感じて、そのまま手を伸ばして抱きつきたいような、命に関わるので早急に後ずさるべきなような、相反する衝動にかられた。
スティーブンは、間接照明に包まれる部屋の雰囲気にぴったり合わせた微笑みを浮かべた。明らかに狙った笑顔だった。見覚えがたっぷりある。軽率に引っかかって軽率にパパを裏切った私がよくうっとりしたやつとダブる。だって本当に好みで、ストライクゾーンのど真ん中もイイトコロで、カッコよくて魅力的で最高だった。今でも全面降伏して頬が赤らむ。興奮してよだれが出そうだ。しかし、ひるみもした。これ、いつぶりだろう。なぜ、とは思うが、優雅に疑問を挟んでいる余地がない。あざとくてあざとくてあざとい。要するにあざとい。
私は、いきなりすぎて耐えられません、と首を振った。いきなりじゃなければ大丈夫かというと、そんなことはないけど、反射的に己を守った。声は出ない。
スティーブンは、台本があるかのようによどみなかった。表情も声も、隠匿するつもりがなさげな狙い方だ。
「今朝から、君の声が聞けなくて寂しいよ。音がひとつ消えるだけで、こんなにも落ち着かなくなるものなんだな」
とりあえず首を振る。私は音がひとつ増えるだけでこんなにも落ち着かなくなる。下がりまくっていそうな好感度について悶々とする気持ちを忘れた。好感度の上下より、不可解な事態に震えあがるほうが立った。
「つらそうな君の顔が何度も頭を過るんだ。そのたびに胸が締め付けられるようだった」
絶対にそんなことはない。よしんばお仕事に励む彼の頭を私がよぎれたとしても(……よぎらせていただけたとしても?もうなにがなんだか……)、胸を締め付けられはしないだろう。というか、逆にお願いするから締め付けられないでいてほしい。
首を振る。声が出ないって、すごい不便だ。うう、と胸を押さえる。
「少しだけど、元気を取り戻した姿を見てホッとした。だが、声は今もまったく出ないんだよな?」
まったく、ではないが、そこは強調するべきところなのだろうか。嫌な予感をおぼえつつも「ちょっとなら……」と答えようとして途中で切った。掠れた声は自覚以上に可愛くない。脅迫電話の犯人が使う機械声のほうが美声である。
「可哀想にな」
親身に私を案じる表情と声音。とっても嬉しい。キュンとする。なのになぜか素直に喜べない。
やけに優しいのだ。いや、彼はいつも優しい。優しいのだが、これはやりすぎではなかろうか。私が要求したわけでもないのに、メリットのないサービスを彼自ら提供する訳とは?子供に言い聞かせるようなわかりやすい態度で同情する理由って、なに? 朝は違った。フツーだった。お仕事を切り上げ1日を終えようとするプライベートな時間になって、 この男は己の魅力を30%くらい使ってまで、私に何を求める。逆さまにして叩いたって何も出ないのに、わざわざなんでこんなことをするんだろう。なんていうのだったっけ。
(ジカンガイロウドウ……?)
あと、自分の推算ながら、これで30%かと思うと彼岸が見えそうだった。
あたかも『力になれない自分が不甲斐ない』と言わんばかりにかすかに眉根を寄せ、しかし眼差しはいささかやわらげ、困ったように唇でゆるい弧を描き、私の苦しみに同調しようとするカンペキさたるや、写真に撮って心が死にそうなときの頓服にしたいくらい素晴らしい。なぜかはわかりませんが、ここまでやってくださってありがとうございます。しかし、レオの言葉ではないが、感謝を上回る何かが無視できない。
だって、なにも言っていないのに、ぎゅ、と手まで握られた(……握ってくださった)。嬉しい。嬉しすぎる。大好きだ。私も握り返したい。
「僕にできることがあったら、なんでも言ってくれ」
現実問題として、言えない。普段と同じく突っ込もうとしてしまったが、たとえ声が出ていても、私は言葉を飲み込んだだろう。
「たとえば、君が眠くなるまで、君には難しい表現が多くて詰まっていた本を読み聞かせるだとかね。他愛のない、眠くなるくらいくだらない話も、いくつもある。君が望んでくれるなら僕は喜んで君を抱きしめるし、君が眠るまでこうして、ただ、手を握っているだけでも。君の慰めになりたいんだ」
心惹かれた。全部やってほしい。意志が弱い。
スティーブンはひとつ、相槌を打った。初めから今まで、私は沈黙しか発していない。
「急に言われても決めづらいよな。それなら、ひとつずつやっていこう。まずはハグにしようか。すぐそこにいるしな。ほら、こんなふうに手を伸ばせば、簡単に届く」
腰を浮かせたイケメンが私の頬に触れ、その手が身体の輪郭に沿って肩へ滑り、私は衝撃にそなえた。真意はわからないが、このような気遣い(……気遣い?)をしていただけるなんて、破格のことであるし、ありがたくて胸は肋骨が痛いくらいだ。びくつきながらも、このチャンスを逃すな、と心が叫ぶ。まさか抱きしめてくれたその手で背中から刺されるわけでもない。甘受すべきだ。こんなのレアすぎる。裏がガッツリ見えているのに、チラつかされた釣り餌に食いつく愚かものとは私の別称だ。開けてはいけない玉手箱は、7割くらい、開けられちゃうのである。
殺される覚悟で顔を上げ、スティーブンと目が合って、私は「あっ」と言った。言えなかった。
これ。
(これ私、遊ばれてる……)
この男、今さら私ごときに振る舞う必要などないパーペキイケメンスマイルを用い、私がそれにぐらつきまくってパニクってトロトロになると知っていて(……真っ最中だ)、声が出ない風邪っぴきの私をいじってる? 未満とはいえ、一応は風邪をひいてるのに? 『可哀想に』とはどれについてのあわれみだ? 聞きたくない知りたくないなんとなくわかる。ねえあのもしかしてあざとく遊んでる?とも、言えない。
喋れなくてもどかしい。
距離を取った私のパジャマが大きな手にひっつかまれた。引き戻される。想像でしかないが、ザップさんと同格もしくはそれ以下の扱いだった。かつてない暴挙である。
……いや、あるけど。かつてちょっともっと怖いことがあったけど。
近日稀に見る暴挙である。
……いや、感覚的に言えば、それに準ずる行為はあるような……。
「そんな血相変えて逃げるなよ。僕に包丁で刺されるみたいな顔してるぞ」
刺す気満々なイケメンがなにか言った。
「そうだよな、僕じゃ力不足だ。君を嫌がらせるつもりじゃなかった」
こんな、私が苦しくなるような表情をコロッとつくって言ってのける。
待って待って、スティーブンとのハグが嫌なんじゃなくてあなたが私で遊ぼうとしてるからで、とご存知であろう弁解を身振りで示す。そんなの、私だって抱きしめられたいこと山の如しだ。当たり前だ。笑いものにされてもいいからハグしたい。
でも、私は風邪をひいていて喋れない。そんなときに撃つなんてずるい。私の是も否も無視される。
彼は目を伏せて、聞いているやらいないやら、見ているやらいないやら。彼の袖をひいて頑張るも、「無理しなくていい」と拒絶される。私が悪いことをしたみたいだった。
無言で呼びかけ続けること12回目くらい。顔を上げた彼が私を見た一瞬、「お」と呟いた。すぐにひっこめて、予定調和的に私を笑う。
どこかしらかが琴線に触れて一瞬純粋にウケたのだな、と回転の鈍い私でもおぼろげに理解できた。

ひとしきり私を煽った彼は、仕切り直すようにひらひらと手を振った。宥めてはくれなかった。
「ごめんごめん。困ってる君を見てたらちょっとやりたくなったんだ。最近はご無沙汰だったから、たまにはな。あたふたしてて面白かったよ」
そんな、『学食のカレーってしばらく頼んでないなあ、小銭もあるし食べとくか』みたいな感じで言われても、私はどうすればいいの。眉尻をつり上げるべきか、下げるべきか、反応が覚束ない。
「喋れないから静かかなとも思ったが、そんなことはないんだな」
さすがに理不尽だ。失礼だ。
あざとく攻められるのは、それはそれでドキドキするけど、こんなふうに言われると気持ちのやり場がない。いっつもがすごいやかましいと自分でも知ってはいるし直したいとも思うが、ものっすごくモヤモヤする。
たとえばレオが声を出せなくなっていたらこうはしないはずだ。今日はゆっくり休めよ、みたいなことを言ってあげそうだ。私も朝にはそんなふうに心配してもらえた。
この十数時間で彼になにが起きた。声を出せない私の姿が脳裏によぎったというのが本気な話だったとして、そのよぎり方って、遊べるな、って感じなの? どうせ私はチョロい女。手玉にとって、思いのままに遊び倒せることだろう。彼はよくからかってくださる。学食のカレー以下だ。わかってますとも。ほっといてほしい。……やっぱりほっとかないで!でも、この間接照明がゆったり光る一室に似つかわしいやり方で構ってよ。これって私が駄々をこねていることになるのかな。オトナだったらもっとうまくやれる?
どうやら私は気が立っていた。1日中声を出せなくて思うようにいかず、フラストレーションが溜まっていた。お仕事の邪魔をしたかもしれないとびくびくしてもいた。そこにこれだ。こんなことはそうそうしない人が、今日に限って知らん顔でドッキリを仕掛けて病人を哂うとはえげつない。
脱力して、がっくりきて、慰めるどころかトドメを刺されて、ムッとしたけど声がスカスカで「ねえちょっと!」と異議を申し立てて発散もできない。そして私は直情的で短気だった。なおかつアホだった。
無言でぽふりと、反抗的に枕を彼の胸に押しつけた。ふかふかだ。距離を詰めたあとでハッと我に返り、『しまった!相手はザップさんじゃないわ!子供すぎた!』と青ざめたが、朗らかなオトナは防ごうともせずにそれを受けとめた。投げて返したりしないところにザップさんとの違いを感じる。ザップさんごめんなさい。
すんごい稚拙な抗議に呆れられたかもしれないヤバい、とおっかなびっくり窺う。
原因があちらにあるような気もそこはかとなくするけど、癇癪は良くなかった。クラウスさんにまでご心配をおかけし、スティーブンに迷惑をかけた(……よね……)日だから余計にだ。特に、あのクラウスさんに要らない波紋を寄せたのはどう考えてもマズい。その時点で有罪だ。かつ、たぶんそのクラウスさんに勧められ、彼にお仕事を早めに切り上げさせてしまった。極めつけは私の愚行である。原因があちらにあるような気も結構な勢いでするけど、結果がすべてと世間は言う。元の世界の話だが、私のところは代返ばっかりでも試験に通れば単位が取れた。
本日の己の悪行を数えると血の気がひく。内心で『やれやれ』と思われていてもおかしくない。その『やれやれ』は突き詰めると呆れにつながり、もっと考えると、呆れって、評価の低下につながるのでは。
負のスパイラルに陥った。どうして風邪をひいたんだ。とうとう責任を別のところに吹っかけ始めた。ワガママだし、カッとなるし、いっつもは神経がド鈍いくせにこの程度でムッとするし、論理的じゃないし、人としてダメだ。

「近ごろはより増したけど、君は僕に対してあまりに素直で、頑張りすぎだ」
なにも言えず固まる私に、枕を置いたスティーブンが、「あのな」と、そうじゃなくて、と私と自分を順に指さす。
「君はそんな顔をしなくていい。僕は嫌わない。君への好感度も変わらない。信用されてないけどな。そうじゃなくて、僕は風邪を引いて具合の悪い君を、君が声が出せないのを良いことにからかって遊んだんだ。……悪かったよ」
な、なんてきっぱりした自白。
、君は怒って当然で、これは君が僕への好感度を下げるところだ。それで僕が『やりすぎたか、やっちまった、どう謝れば』って顔をするところ」
名前を呼ばれたし、予想しようのない言葉だったし、どんな顔か想像がつかなかったし、してないし、私は面食らって、意味もなく手を彷徨わせた。聞き取った内容は半分くらいすっぽ抜けた。
「……うん、そうだな。名前は呼ばずにもう一度言おう」
お見通しだった。意識しないように頑張るから、呼びつつもう一度言ってほしかった。
スティーブンはなぜ急にこの場面でそんなことを。
訊けない。物理的(……物理的?)に訊けない。訊けなくて、困惑顔で首をのろのろと振る。イライラのメーターはいつの間にかゼロへ帰した。
私は彼が好きだ。完膚なきまでに恋に叩きのめされて心地よく狂っている。どのあたりからヤバかったのか。一目惚れからだとすると初っ端にも程がある。もしかするとスティーブンは恋に狂った私しか見ていないせいで、それが私の真の姿だと思っていたりして。ありえる。どうりで多少の奇行には目を瞑ってくれるわけだ。だってそれが彼の中の私の基本形だもんね。このやり場のない感情に名前をつけたい。
しかしよく考えると、それが違わず私の真の姿であった。本能に従うと、化けの皮はゆで卵の殻よりもつるりとはがれる。
生来ネジが外れた私は、頭がノンキでフワフワなイメージと実態を裏切らず、説明が苦手だ。語彙だって少ない。言動も人生も、本気で大丈夫かなと思うごちゃごちゃさだ。それでも言えるなら言いたい。言葉に迷いまくりの、変な表情になった気がした。
こっちは本気で恋をしているのだ。好きなのだ。このくらいで簡単に好感度を下げられるものなら、苦労なんてしないのである。
伝えようにも、今日のがらくたな喉から音は出ない。どうすべきか迷いジリジリする。
私は頭を動かし、髪だけを揺らした。
スティーブンが言った。
「ありがとう。でも、そうなんだよ。君が、ただでさえギリギリそうな胸を痛めて頑張らなくても、下がらない。だから僕もあんなに困った」
なにも声に出していない私には、彼の同感がどこのなにについてなのかがハッキリしない。ここだったらいいな、と思うところがなくもなくて過剰に高まる自意識と自惚れを一生懸命に抑えつけたが、そもそも私たちのやり取りが成立しているのか定かでない。片方が喋れない以上、もう一方がどんなに頭が良くて他人の考えを推理できても、合っているとは言い切れなかろう。喋れないほうの表情がどんなに雄弁でも、そうだと思う。意思疎通が成り立っていると仮定してみたら脳みそがパンクしそうになったというのもある。さ、下がらないの?なんで下がらないの?嬉しいけどなんで下がらないの!?スティーブンすごくない!?あとひと言追加して!
レオに相談したくてたまらず、頭の中に電話番号を浮かべようと必死になった。テレパシー能力があったなら、レオは頭痛に襲われただろう。レオごめんね。
イエスともノーとも『ねえもっとわかりやすく言って!』とも『困ってたっけ?』とも『もしかしてそれって、わ、私を好きって言ってる?』とも『や、やっぱりハグしてもらっていいですか』とも喋れず、私はムズムズしながら曖昧に口角を上げた。スティーブンも同じようにした。
脈絡のない安心感からか、くらくらする。
今度は平穏に寝かしつけられたような気がしたのだが、どこからどこまでが現実なのかわからないくらいには衝撃的だった。さ、下がらないの?




「ねえねえスティーブン、あの話、あれって、ねえ、あの、私を好きって言ってた? よね? だよね?」
「ん?どの話だい?」
ヴェデッドさんのシロップが効いたか、喋れるようになった私が翌朝に問いかけると、スティーブンは業深く、質問に質問を返した。私は近くの壁によりかかった。ひとつしかなかろう。完全に忘れられている。
「……とりあえず私を好きって言って!」
「好きだよ」
「すごい好き?」
「うん」
「ヴェデッドさんのグラタンより好き?」
「あははは、それはどうだろうな」
「えっ!?調子に乗りすぎた!?」
「カテゴリが違う」
正しく区別してもらえた。決してヴェデッドさんのグラタンに勝利する自信があったわけではなく、むしろ天秤に載せておきながら畏れ多かったけど、少し焦った。
「そ、……そうだよね!ありがとう!!」
「大きな声を出すとまた喉を傷めるぞ」
正しく心配してもくれた。
痕跡が見られず、昨夜の出来事が夢想だったのではと疑ってしまう。ヤバい、もしそうだとしたら私は『おはよう』の直後に謎の話を持ち出した狂人になる。これは弁護できない。
「ご、ごめんなさい。ゆ……、ユメミ?……が悪かったみたいで……」
「今夜は落ち着いて眠れるといいな」
「そ、そうだね!」
通常に輪をかけてエキセントリックだった。病み上がりの幸先が悪い。
しかし、そんな私の髪を不意にくしゃりとかき混ぜた優しい手つきをみるに、嫌われてはいないようだった。ぽつりとでも相手に嫌気がさしていたら、こんなことはしない。
……はず。しようと思えばできそうだが、しないはずだ。しないに違いない。しないと思う。どうしよう、傷の共有が判明した明白に好意がない(……であろう)ときにされた節があるから断言しづらい。
言い出すと笑えるほどに止めどなく続く。ただ、スティーブンの瞳は、眼差しは、見上げる私の顔を綻ばせた。ドキドキした。胸がギュッとなり、ポワッと頬も熱くなった。朝食の匂いが漂い始める朝の、まだ襟にネクタイもひっかけない武装前の姿もカッコいい。破壊力がはかり知れない。惚れた。私は動機息切れをどうにかする薬を買ったほうがいいのではなかろうか。 100人のOLが残らずフラッと倒れそうになるであろう(……私が100人のOLだったら絶対に倒れる)目を細める微笑みを直接食らって、ふへへ、と間抜けな声を漏らしたかもしれない自分の先行きが気がかりだ。

スティーブンは忙しい中、長い間こちらの髪を撫でてくれた。目はテレビとかを見ていたけど全然気にならない。私が意を決してくっついても放置してくれた。たまに、思い出したように手を離し、胸の高鳴りと頬の熱さに苛まれて視線のやり場に困り俯きがちになる私のおとがいに手をかけ、顔を上向かせ、彼を見上げることとなったこちらの表情を見たりした。意味がわからないなりに、最高のシチュエーションだった。
何もかもがまだセーフに違いない。大丈夫みたいだ。よかった。肩の力はとっくに抜けていた。
数分前の見解を修正する。
私の病み上がりの幸先、めちゃくちゃいい。



0912 0924