01


眠気は消えた。心のゆとりは、シャボン玉より早く割れた。
眠る自分の頭が衝撃的で多大なる影響力を持つ記憶によりパンクしかけたはずみで目を覚ます。ここはどこで、私は誰だ。
私の(……として与えていただいている)部屋ではない場所で、私の(……として与えていただいている)ではないベッドで、私はノンキに夢を見ていたようだ。布団を蹴って跳ね起きた。起きた直後だったせいか、隣でメールチェックらしいことをしていた色男の横顔がカッコいいせいか、くらくらする。こちらに気づいた彼の「おはよう」がまた罪深く、昏倒しそうだ。朝から目にドク胸にドクである。
「おはようございます!すいません!たいへんお世話になりました!ありがとうございました!!すいません!この思い出は一生の宝物です!ありがとうございました!すいません!」
「朝っぱらの開口一番が謝罪とはなあ」
謝り倒すことでしか、いっぱいいっぱいで水底に沈みそうな心と折り合いをつけられない。喜びと照れと申し訳なさが、修行不足な心臓をドキドキ言わせた。こんなに働いているのに進歩できないとは、可哀想な心臓だ。ギュッと押さえた。ばくばくいってた。
「本当にありがとう。すっごい幸せで、嬉しかった。泣きそうだった」
「泣きそうだったというか、泣いてたぞ」
「ちょっとだけじゃん!泣いたうちに入んないよ!忘れてください!」
「泣かれることなんかないから忘れづらい」
「わあ」
泣かれること『なんか』ない。驚愕するほどお似合いの発言です。涙腺が指示を無視したせいでまた恥を生み出してしまった。項垂れた。
「じゃあ、あなたの戦績に『感極まって突然泣き始めた異世界人』を加えておいて」
「そうするよ。『僕が好き過ぎて感極まって突然泣き始めた僕の可愛い恋人』が最新のレコードだ」
「ふぁー!あああ勘弁してください!」
顔を手で隠した。想いを遂げた翌朝とはとても思えない。こちらが弱すぎる。いじられるしかない現実が私を指先まで熱くする。しかし嘘はつけず、油断すると、にへらにへらと笑んでしまいそうだった。キモいからやめたい。
ていうか私、生きててよかった。幸福過剰で死んじゃうジレイってあるのかな。オーバーハッピー、みたいな。死んでも死にきれないし、死んだ自分を祟りそうだ。
生命の力強さに感謝を捧げたところで、あ!と奇跡的に、ある可能性に思い至った。
「あの変な呪いみたいなのってもう、本当に大丈夫なの?」
身を乗り出したが、人を安堵させるような笑みのサービスはなく、ありていに言えば構ってくれなかった。黙って左手の甲を見せられる。私も自分のそこに目を走らせる。彼には小さな切り傷があって、私にはなかった。仕事が早い。つけてからしばらく経った証に、血はもう出ていない。やらないはずがない。私が寝ている間に確かめたのか。私の懸念なんか、彼は初めから織り込み済みだった。彼の先回り具合よりも、己の後手っぷりに唖然とした。
「解き方も知ってる」
「そうだった!」
ホッと息をつく。
多くの可能性があって、ひとつひとつ判断したに違いない。彼はお仕事に差し障る危険は犯さない。もしもどうしようもないリスクが目に見えていたら、私が勇気を振り絞る前に、そもそも欲張った期待を持つ前に、きちんと懇切丁寧な説明でもって、ロジックに馴染みのない異世界人を納得させてくれていたことだろう。
表情筋が頭に反抗して、へらっとした。逆らわれてばかりの脳みその先行きが不安だ。
「よかった!」
「うん」
もっと嬉しくなる。
「これでもうなんの問題、も……」
ひとつ達成すると、展望があろうがなかろうが、空約束だとしても、言っておきたくなるものである。私はあまりしなかったが、中学でも高校でも大学でも、クラスメイトたちと遊んだあとやメールをしたあとや電話をしたあとは、『またね』と締めくくられた。実現性は二の次なのだ。言っておくことが重要なのである。……たぶん。私が知ってる女子の間ではそうだった。
スティーブンの目を見つめながら浅ましさ全開な架空の約束を取り付けようとして、はた、と気づいた。無理かもしれない。現実は丸見えで、どんなに重要でも、約束すら許されなさそうだ。約束をしても自分が苦しくなるだけなような気がしてならない。無理『かも』と自分を甘やかす余地もなく無理なのでは。
スティーブンはいつも忙しいし、イケメンだし、私はなにもコウケンできてないし、これが最初で最後になるのでは?
あああ、と聞くに堪えない悲壮な声が出た。
それはかなり悲しい。寂しいような、悔しいような、やっぱり悲しい。私はごうつくばりだ。物わかりよくなれない。『潔さ』は私の辞書になかった。なかったが、わかる。この人は、クラウスさんと秘密組織などのために諸々の方法で身を削ってお仕事に取り組んでいる。削っていただいたひとりとして、胸が痛くなった。
「ごめんなさい、贅沢でした……。もう二度と言いません……。すいませんでした、これが最初で最後です……」
断腸の思いで血を吐くように言い切り、目を閉じて崩れ落ちた。これもある意味、自傷行為だ。現実はカミソリより酒瓶のかけらより鋭い。

「おいおい、自己完結はよせよ……」
スティーブン・A・スターフェイズが面白くなさそうにジトリと視線を送ったが、はそれを拾いそこねた。


時間の流れは平穏で、スティーブンは朝ご飯を食べてお仕事に行ったし、私はヨーグルト(……原材料は知らない)まで味わってバイトに行った。そんなものである。胸の真ん中はあたたかくなるが、パパの目を盗んで重ねた逢瀬のドキドキとは違うものに感じられた。
夜は同僚と食事をしてスティーブンより遅く帰り、クラウスさんからの借りものの本を読む彼を眺める。私は彼に見られていたら集中どころではなくなってしまうが、私が彼に夢中でいたって、彼の周りの風力はゼロ。気持ちがいいほどに無風状態が保たれる。
「テレビつけていい?」
訊かないでつけていいよ、と言われたけども、それは気がひける。答える手間をかけさせてしまっても、できれば訊き続けたい。
朝の名残か、チャンネルはニュース番組に合わさったままだ。ドラマの1本もやってる時間だろうとボタンを押し、ストーリーも知らない短編物語を流す。音量は下げた。
中世の(……何年かはわからない)恋愛が題材のようで、ヘルサレムズ・ロットで放送されるにしては穏健だ。爆発しそうにない、どこかの国でとられた昔の映画。
画面に豪奢なダンスホールが広がる。色とりどりのドレスは、当時の流行か、型があるのか、似たデザインだ。男女が手を取り腰を取り、カメラワークが頻繁に切り替わる。
「スティーブンは踊れる?」
背が高くてすらりとして、身体つきも男性美にあふれている。似合うに決まっている。踊る必要性があらわれたときなどには、踊れなさそうなレオとかに教えてあげられそうな熟練さを感じる。踊れないと決めつけてしまってごめんねレオ。あと、スティーブンはそんな練習は誰かに丸投げしそうでもある。
「種類によるけど、やろうと思えばできるよ」
誰に習ったのだろう。初めは誰もが初心者だが、優秀な生徒としてドミノ倒しのように講師の心を奪っていそうだ。
「そうだよね。仲良くみんなで踊ったりして」
「『みんな』って、クラウスたちか?」
「うん」
そんな機会があるはずもないが、楽しくやりそうだ。秘密組織は仲がいい。なんかすごい仲が良い。チェインさんとザップさんも仲が、……良い。スティーブンとK・Kさんも仲が、……良い……?
「君は?」
「あなたの手のひらの上で踊るのは大得意」
「見事なんだろうな」
グランプリを目指して邁進しよう。
それにしても、拝み倒したくなるような無感動なお返事である。

既にシャワーを済ませたというスティーブンに続き、私もひと風呂いただくことにする。知られれば激しい嫌悪感を抱かれてしまいそうではあるが、私はかなり最初のほうから、スティーブンのあとにバスルームに入ることに胸をときめかせていた。最近はある程度は慣れたが、私の人物像と人間関係にガンガン響くので口が裂けても言えない。だけど、今日もほんのわずか、ドキドキした。ヘルサレムズ・ロットに来てから本性が露わになっていっているような気がする。人は本気の恋で狂う。
降るぬるま湯に打たれ、1日の疲れごと汚れを落とす。そのままのお湯だと熱くてついついぬるくしてしまうため、密室にこもる湯気は比較的(……なにと?)薄い。
きちんとメイクが落ちたか鏡を覗く。ついでに余分な脂肪がつく気配がないか、確かめるために下げた視線が、下がりきらずに止まった。私はたぶん今日で一番可愛い無垢な顔をしていたが、誰も、自分さえ見ていなかった。己の認識能力の低さが思いやられる。処理する脳みその性能は粗悪品に近い。そりゃあ、身体に叛逆だってされるわけだ。
「……ヒイッ!!」
なんとなく指先で触れてみて、ハッとしてバランスを崩して足を滑らせそうになった。慌てて、突起のない壁に爪を立てんばかりにしがみついて体勢を立て直す。
待とう。まず、待とう。
なにをだ。死か?
鏡に映る自分の顔色が、みるみる悪くなる。高速で頭がまわり、さっき脱いだワンピースとバイト先の制服の形を思い出して息を整えた。羞恥とか混乱とかより、強大な恐怖と死を感じる。私は何ひとつ悪くないのに、誰彼構わず謝って裁かれたくなる。私が悪いのかな。
ぶっちゃけると、こういうのは見たことがなく。
額を押さえた。私が悪いのかな。

へたっていた時間は、体感では1分かそこらだったが実際には10分くらい経っていたようで、ちょっぱやで泡を流してお風呂を上がって着替えを終えると、廊下でばったり会ったスティーブンに「長かったな」と言われた。シャワーだけにしては、という意味だろう。体内時計のバッテリーがすっからかんだった私のことは放っておいてほしい。悪戯がバレた子供のような気分で、無駄にビクついてしまう。やっぱり私が悪いのかな。
しかし、まあ、こんなもの。こんなこと。
どうせ、よくある儀礼的なものだろう。なんと罪深い男。驚愕や衝撃を通り越し、一周回ってうらめしい。過去では幾人にやってきて、現在では幾人にやっていて、未来では幾人にやることだろう!そのひとりに加えてくださってありがとうございます!噛んだくちおしい敗北は説明しづらい味だった。
最初で最後である、という極めて有力な可能性を考えてみると、戦慄するくらい最高な話である。手を抜けばいいのに、抜かない徹底ぶりがプロたるユエンか。
自宅でくつろぐオフモードのスティーブンは、立ち止まって私の顔を見下ろした。こちらの頬に手を当てようとしたが、私が身をこわばらせると呆気なく下ろしてしまう。その手を取って縋りつく。
「待って!触って!撫でて!抱きしめて!」
「君、風呂でのぼせたか?」
聞いてくれない。後の祭りだった。
「のぼせてない」
緊張しても手は離さず、疑問に応える。
「シャワーだもん。なんで?長かったから?」
「顔が火照ってるから」
だから体温をみようとしたのか。わかりやすく火照っているのはこの、身も心も手管も隙がなさそうなイケメンのせいだ。
自分で計るといつもより熱い。乳液を塗った肌はもちもちしていて、これなら明日も安泰だ、と関係のないことを考えた。
言い表せない悔しみはあっても素敵な思い出だ。悶々とするのは健康に悪い。それよりも。
「どう答えたら抱きしめてくれる?」
「思いつかないから、今度にしよう」
心情を整理できた私の手から手を引き抜き、彼は一度だけ、ぽん、とこちらの肩をたたいた。学生だったときにたまに話に聞いた、暗なる『リストラ』の通告に似ているなと思った。
昨日から今日にかけて起きたすべてのことに、『今度』はない気がするのだが、どうだろう。



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