04
この曜日はだいたい、午後のブレイクタイムが終わるとお客さんが少なくなる。カフェは空き、店員は夜の忙しさに向けて対応を考えながら雑事に取り組む。
私もレジのお金と伝票の整理をする。
からりとドアベルが鳴り、顔を上げると、知った人がひらりと私に手を振った。均整のとれたちょっと柄の悪げな細身の体躯は私の案内を待たずに窓際の席に預けられた。私とは別の店員からメニューを渡され、流し読みし、彼はオムライスを注文した。
ひとりになると、私を手招きする。手招きといっても、指をクイと動かして顎で自分のテーブルを示しただけだ。フロアの店員に確認すると、快くオッケーされた。
「ザップさん、こんにちは。今日はどうしたんですか?」
「メシ食いに来る以外にナニがあるんだよ」
それもそうだ。
私は今朝に確かめた自分のお財布の厚みを思い出した。眉尻を下げる。
「あの、すいません。ちょっと今日はお金がないんです」
「珍しいじゃねーか。なんか買ったのか?」
「はい。追いかけてるシリーズの本の新しいやつと、洋服と、靴を買いました」
「服ゥ? またワンピースか?」
「うん」
ザップさんは大きなため息をついた。口角が歪むと表情が悪どく見える。黙って立っていたらイケメンだし、彼の楽しげな笑顔はこちらの気分まで持ち上げてくれるのに、感情豊かに色彩をとっかえひっかえするから印象が定まらない。
「楽だからっつって手抜きなカッコしてると女として廃れるぜ、チャン」
「他の服も持ってますよ! でも、ワンピースは1枚で済むから安くおさまるんです」
元の世界ではあれこれ服を買い込んで(……カレシに買わせて)クローゼットをいっぱいにしていたが、ここではそうもいかない。生活の面倒をまるまる見てくれてるスティーブンにせび、……ねだ、……お願いするなんてできないししたくない。動けなかったときはお世話になってしまったが、もうバイトをして少々でも収入を得ているので自分で買える。そして自分のお金となると、心得がなくとも慣れるにつれてお財布の紐はかたくなるものだ。なくなったら終わりなのだし。
今回は自分の制限ギリギリだった。この出費は痛く、オムライスは今の私にはちょっと高い。
「利口な買いものの仕方を知らんのかオメーは。あのワンワンとたまに行ってんだろ?」
いつもの呼び方的に、チェインさんのことだとわかった。なぜ犬に絡ませるのかは、気になってもなかなか訊けない。
チェインさんとはごく稀に飲みの前などに服屋さんの窓越しに洋服を見るだけで、ショッピングをしたことはない。チェインさんとふたりでお出かけなんて、行きたくたって言い出しづらすぎる。彼女も断るはずだ。オフの日は好きに使いたいだろう。
行ってないです、と否定する。
ザップさんは気のない目を私からそらし、オムライスの到着を歓迎した。
「ま、さっさとお利口さんになれよ。ンで俺にチョコのひとつでも寄越せよ」
食事の邪魔はすまいと引き下がる。
レジに戻って、首を傾げた。
(なんでチョコ?)
季節もイベントもぶっちぎるヘルサレムズ・ロットに、そんな文化はあるのか。
ザップさんにオムライスを運んだ同僚に質問する。彼女も私に似た表情になった。
ふたりで考えていると、レジ下のファイルを取りに店長が現れた。固まってどした、と言われる。ちょうどいいので、知っているかどうか話しかけた。
店長も眉をひそめたが、すぐに私たちの腕をばしばし叩いた。
話によると最近、異界人も人類も、女子の界隈で流行するチョコレート専門店が立ち上がったのだそうだ。小規模な流行りゆえに知るひとは少ないが、おいしいらしい。ザップさんが言ったのはこれのことに違いない。恋人から聞いたか、あるいは秘密組織でそんな雑談が持ち上がったのかもしれない。
味に興味をそそられ、場所を教わった。そう遠くなかった。帰りに行ってみようと決め、レジ周りの整理に戻る。
お腹をくちくしたザップさんは、レジでいつもの通りに奢る会計を出そうとした私の前にお金を置いた。
「私が出すんじゃないんですか?」
目を疑うが、さっさとやれと急かされて、戸惑いいっぱいにおつりとレシートを渡す。彼はお財布にそれを入れた。レシートは突っ返される。受け取った私は、機械的にそれをゴミ箱に落とした。
ザップさんが曲げた人差し指の関節を私の額にごつごつぶつけた。
「どんくらい残ってんのかは知らねえけど、金がないなら無理には奢らせねーよ」
「ええ!?」
「こーいうのは見極めが大事なんだよ、見極めが。俺も別に普段から無節操にやってるわけじゃねえし」
「ええ!?選んでるの!?」
「雌犬と魚類なら魚類。魚類とレオならレオ。お前とレオならお前。姐さんと番頭は論外で除外。旦那は普通に全員ぶん払おうとする。メシとか行かねえけど」
レオと私の場合に私が選ばれるところは、スッと理解できた。
「んじゃ、オメーに金が入るころに来るわ」
「ザップさん……」
信じられない行動のギャップが激しく、帰る彼の背中が紳士のそれに見えてしまう。
自分の飲食代を自分で払うのは至極当たり前のことなのだが、まともな対応がこんなにも眩しいものだとは思わなかった。
バイトを上がり、描いてもらった簡単すぎる地図を参考に、私はくだんのお店を見つけた。短い列ができていたが長くはかからない。5分と経たずに中へ入れた。
カカオとお砂糖とその他の香りがまとわりつく。
整然と鎮座するチョコレートと添えられる説明書きを見比べ、試食もして、6個入りのセットを3つ買って帰る。自分とヴェデッドさんとザップさんに。
この金はあんのか、とザップさんに絞めあげられそうだ。意外とお手ごろ価格だったので手が伸びてしまった。
帰り際のヴェデッドさんに箱を差し出すと、彼女は善なる笑みで私に「ありがとうございます」と言ってくれた。
本当は家政婦の人とこういうことをしてはいけないのかもしれないが、誰もなにも言わない。彼女が初めに贈ってくれた善意が、私はとても嬉しかった。できるだけ、お返しがしたい。ダメなことだったら本当にごめんなさい、ヴェデッドさん、スティーブン。
そのスティーブンにも箱を手渡す。そんなに好きじゃなかったら迷惑になると思って私のぶんとして買ったが、箱の中身は6個ある。『絶対に分けたくない!』とひとりでこっそり食べるほどの執着もない。むしろスティーブンと食べたい。
食後で隙だらけの(……隙……?)彼の気をひけたので、リボンを取り去る。付き合わせてしまって申し訳ない。
ひと口サイズの丸いトリュフチョコレートは、仕切りに整列させられ、食べられるときを待っていた。ココアパウダーがまぶされたものと、ナッツの混ざるものと、ホワイトチョコ(……のようなもの)がある。ナッツは試食した。
「流行ってるんだって。はんぶんこしない?」
「君は3個だけでいいのかい? わざわざ遠回りして買ったんだろ?」
「スティーブンとはんぶんこしたいの。あわよくばひとつ食べさせてほしい」
「じゃあこっちの3個を貰うよ。ありがとう」
「聞いてないね」
わかっていたのでダメージはない。この程度でくじけるわけには。
ひと粒、口に入れる。ナッツの香ばしさとざくざくした食感がおいしい。うむ、試食通りだ。
スティーブンは、箱の横によけた説明の紙を手に取った。異界のナッツの名称が書かれていたような気がする。
「今、私が食べたのってなに?」
「これじゃないかな」
紙を向けられ、印刷された写真に目を凝らす。チョコレートの表面にプリントされた模様がそれっぽい。試食のチョコは切り分けられていたから、拡大写真で見ると細かい部分がわかって面白い。
残りのふたつも照らし合わせた。
ココアパウダーのほうと、ホワイトチョコ(……のようなもの)のほうのどちらを先に食べようか、舌と相談する私とはまったく違い、スティーブンは並び順で手を進めていた。大人だからなのか。もしくは、チョコレートなんぞは火にくべてキャンプファイヤーの火柱を上げられるほどにプレゼントされ、全国津々浦々なバリエーションを味わい済みで興味が失せているのか。
私が塾考に区切りをつけ、ホワイトチョコを摘まんだとき、彼は最後のココアパウダーのものを口に運んだ。私も白色を食べる。
小さな丸いトリュフチョコを口に含んだ彼は、もう一度、ぺらりと説明書きを眺めるうちに甘みを消化したようだった。
そんなスティーブンを何気なく見て、溶けてないチョコレートを早まって誤飲しそうになった。
首をめぐらせ、布巾やティッシュが手の届く範囲にないと気づき。
彼はパウダーがついた指の腹を、非常に上品に舐めた。
この男が。
空気中の元素でさえも籠絡せしめるであろう(……私はどこまで誇張するのだろう)、この色男が。
そういうのアリなんだ!?と驚いた頭の片隅の冷静な部分は、昂った奔流につぶされた。
私は食い入るようにそのワンシーンを見つめ、彼も私からの気色悪い凝視を受けてこちらに目をやった。
「……なんだい?」
「い、いえ」
彼にとっては、なんの他意もない行動だ。あざとさもない。狙ってもいない。だから、こわい。
恋に狂ったフィルターで曇るまなこが勝手に色気を受信し、扇情的であるとまで感じてしまった後ろめたさが、私の胸を苦しめた。色香にあてられたアホな頬が、おそらく染まった。顔を横に向けた。
「なんでもないです。ほんとに」
「いつもの発作か?」
「発作!? ……発作です!」
「僕は君に何かしたかな」
「な、なにもしてないです。すいません!好きです!」
これは救いようも申し開きのしようもない。なるべく彼を見ないように、わたわたと誤魔化した。
幸運にも、彼は窒息の危機を脱した私の煩悩のワケには至らず、私は突如として熱情に冒され顔を赤くした変質者の烙印を押された。しょっちゅう押されていて、もはやスペースがない。
理由を暴露してドン引きされるのとでは、どちらがマシだったのか。
殺傷力の高い記憶をついつい回想しないよう、チョコに意識を集中させた。
0909